第2話依頼

晴翔が所属する黒岡軍の本拠地〈黒岡くろおか〉は丘陵地が広がり農産物が豊富だ。


北には海が広がり、衣料や食料その他様々な物をのせて船がひっきりなしに航行している。


海沿いに大きな街が広がり、いくつもある通りは人の往来が多く賑やかだ。


律が言ったように颯真は毎晩悪夢に悩まされ、その整った顔には苦悩が現れていた。


颯真を巣くう悪夢は昼も夜も彼の心を蝕んでいった。

本来の彼は明るく朗らかで、少し怖がりなところもあるが、誰の目にも英才な人物だ。


その彼が今や何かに怯え落ち着きを失い、蒼白な顔に目を血走らせて明らかに乱心している。


その様子に、颯真の命が危ぶまれていると悟った晴翔は、律が言っていた『紬』を探そうと〈白木綿〉までやってきた。

1軒の小さな宿屋に辿り着くと、命拾いしたと思った。


それもそのはず〈白木綿〉は花街だ。ここに辿り着くまで散々な目に合った。

晴翔のような地位のある人間が足を踏み入れれば、途端に客引きにつかまる。

きっと大金を持っているはずだ、こんな立派な男を逃してなるものかと、我先にと客引きが群がってきた。


「お兄さん、寄ってかないかい、うちで温まっていくといい、綺麗な女も愛らしいのもいるよ、どっちがお好みですか?」

「私は紬という人を探しています。ご存じないですか?」

「さぁ、さぁ、こちらへどうぞ、外は寒い中で話を伺いましょう」

客引きの1人に腕を引っ張られて、妓楼ぎろうに連れ込まれそうになると手を振りほどいた。

「急ぎの用があるので、申し訳ない」


立ち去ろうとすると、妓楼から遊女が出てきてすり寄ってきた。

「あら、いい男!軍人さんあたしと遊んでいかない?まぁすっごくいい体!」胸をベタベタと触る女の腕を、晴翔は引っ張って引きはがした。

「あの、紬という人を知りませんか」

「紬?知らないねぇ、そんなことより、その逞しい体であたしを抱いてちょうだい」

体に寄りかかってきた女の肩を思わず抱いてしまった晴翔は、慌てて女を押しやった。


今度は薄衣うすぎぬ姿の若い女が妓楼から出てきた。

ゆい姐さん何その色男は!姐さんだけずるいわ、私もまぜてちょうだい」

「あの、私は人を探していまして……そ、そこは触らないでもらえますか」

若い女に尻を撫でられ晴翔の体に震えが走り顔を赤らめた。


女に言い寄られるのは嬉しいが、流石に人の往来がある道端でこれは勘弁してくれと晴翔は泣きたくなった。人々の視線が痛い——


また妓楼から女が出てきて、晴翔はほとほと困り果ててしまった。

「結姐さん、あん、軍人さんじゃないの!私軍人さんってだーい好き、しかもすっごくいい男、私みおっていうの、ねぇ軍人さん私と遊ばない?ものすごく気持ちよくしてあげられるわよ」

「あッ!………」束の間息をすることができなかった、澪が晴翔の股間を握ったからだ。


女性に対して乱暴なことをするわけにもいかず、もみくちゃにされていた晴翔に救世主が現れた。


「あんたたち、あさましいよ!店先で何やってんのさ、軍人さんが困ってるじゃないか、澪のその手は慎みってものを知らないのかね、その手をすぐに離して、3人とも店に戻りなさい!」

年配の女が3人の遊女をたしなめると、彼女たちは渋々妓楼に戻っていった。


「うちのが騒いで申し訳なかったね、いい男を見るとすぐ色めき立つんだから困った女たちだ」

「大丈夫です、助かりました。紬という人を探しているのですが、ご存じありませんか」晴翔は乱れた軍服を整えた。

「紬なら、ここをまっすぐ行って4っつ目の角を左に曲がった3軒先の宿屋にいると思うよ」

「ありがとうございます。助かりました」ようやく得られた情報に、晴翔は心から感謝した。

まるでこの老女を神と崇め奉りたい気分だ。花街で人を探すことがこんなにも身を削られるものだとは思いも及ばなかった。


それからも老若男女ありとあらゆる人から呼び止められて、腕を引っ張られ、ベタベタと触られ、もみくちゃにされながらやっとのことで目的の宿に辿り着いたのだ。


それなのに、紬を目の前にして晴翔は落胆した。想像していた以上に歳若く、まだ10歳くらいにしか見えなかったからだ。


てっきり紬を祈祷師か何かだと思っていた晴翔は、人違いかもしれないと疑った。

「お嬢さん、とある妖術使いに以前除霊をしてもらった事があるのですが、その際に困った事態になったら『紬』という人物を訪ねるよう言われました」


そこまで言うと少女はおもむろに立ち上がり、無言で手招きすると宿屋の中に入っていった。


晴翔が不審に思いつつも後ろからついていくと、宿屋の店主だろう男は、顔を上げただけで何も言わなかった。


紬は部屋の扉を指さすと、元いた場所へ戻っていった。

ここに助けになってくれる人物がいるのだろうと思い晴翔は戸を叩いた。


すると中から、男の気だるい声が返ってきた。

引き戸を開けて出てきたのは〈相木〉で助けてくれた『律』とだけ名乗った男だった。


彼は帯を締めておらず、下穿きの上に着物を羽織っただけの姿で立っていた。

背後で乱れた布団がもぞもぞと動き、寝転がっている全裸の男が布団から這い出てきて律を後ろから抱きしめると、いきり立った物を彼の腰に押し付けた。


「律?誰か来たのか?」力仕事をしているのか、とんでもなく逞しい腕の男の唇に律は唇を軽く触れ合わせた。

「ちょっと外で話してくるから待ってて」帯を拾い上げると、着物の前を適当に合わせて、帯を締めた。


鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている晴翔に、愉快そうに瞳を輝かせた。

「ごめん、ごめん、案内する前に人が来たことを知らせろって、紬には言っといたんだけどな、別の部屋に行こうか」2つ隣の部屋の引き戸を開けると、律は晴翔を先に中へ通した。


部屋はさほど広くない――窓際に座布団が2枚敷かれていて、部屋の中央には布団が1組敷いてあった。


(なるほどこの宿屋はそういう男女の行為に使われる宿屋ということなのか)


先ほどの店主に、律を訪ねた目的を誤解されているのではないかと気が気でなかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない――晴翔は律に事のあらましを伝えた。


「そろそろ来るころだと思ってたよ、心配いらないあの少年の心は元に戻せるから安心して」

律の口角は上向いているが、心からの笑顔ではない気がして何故か晴翔を落ち着かない気分にさせた。

「どのようにすれば戻せるのですか?」


「時間は少しばかりかかるただろうね、1日2時間4日間ほど彼の精神を安定させるための儀式を行う、そうすれば彼は元の状態に戻れるよ」


「報酬は律殿の言い値で構いません。部下をどうか助けて下さい」頭を下げて頼み込んだ。


「そうだなぁ、1日5として、4日で20銀貨それと……あなたの体を差し出してもらおうかな、毎晩俺の相手をしてもらえる?」律は誘うように艶めかしく笑った。


その言葉に一瞬律が何を言っているのか分からずに困惑したが、言葉の意味を理解すると途端に、顔を真っ赤にした。

「な、何を、相手と言われましても……私にはその……男色の知識が……あまりなく、到底満足させられないかと……」慌てふためいた晴翔は口籠ってしまった。


律がまるで毒にでもあたったかのような軽快な笑い声をあげた。

「ごめんね、そんなに真面目に答えてくれるとは思わなかったよ、普通は怒るか気色悪がるかのどっちかだからさ、今のは冗談、20銀貨と3食飯付きあとは美味い酒さえあればそれでいいよ」

晴翔はそれを聞いてほっと息をつくと、20銀貨を渡した。


差しだされた銀貨を見て律はまた笑った。

「俺がこの20銀貨を持ってとんずらしちゃったらどうすんだ?こういう取引はまず、半額支払って問題を片付けてから残りの金を払うもんだよ、お兄さん世間ってものを知らないね」


「逃げるつもりなのですか?」

真面目に聞く晴翔に律は呆気にとられ、とうとう腹を抱えて笑った。

「お兄さん面白い奴だな、まあ、心配しないでよ。逃げるつもりはないし、お兄さんの身なりからすると、金には困ってなさそうだ。それなら美味い食い物がいっぱいあるだろうし、願ったり叶ったりだ。美味い飯と酒をご馳走になりに行くよ」


律が先ほどの全裸男に出かけてくると告げるのを、晴翔は宿屋の入り口に立ち聞いていた。


それにしてもとんでもなくでかい男だった。

あれほど立派だと、恥ずかしげもなく他人に見せられるものなのかと思った。

晴翔は自分の下半身を見下ろした、そんなに負けてはいないんじゃないか、俺だっていきり立てばもう少しは……ハタと気づいた。


(俺はなんで競争しているんだ?馬鹿馬鹿しい)


外に出ると1匹の燕が律の肩に止まった。

「紹介するこいつは俺の相棒の燕だ、あやかしだよ」

晴翔は妖を見るのは初めてだったが、妖とはもっとおどろおどろしいと思っていたので、どう見ても普通の燕にしか見えないことに驚きを隠せなかった。


「燕の妖か……言葉は分かるのですか?」


「分かるよ。さっき人間の姿に化けていた時に会ってる、紬だよ」


普通の女の子にしか見えなった紬が妖だったと知って、驚いた晴翔は目を丸くした。「紬ちゃんは妖だったのですか、てっきり人間の可愛い女の子かと思いました」


燕がチュピチュピと鳴いた。


「『可愛い』って言われて喜んでる」


「そうですか、あなたはとても愛らしいですよ」燕の頭を撫でてやると、晴翔の肩に止まった。


「大佐を気に入ったらしい」


「ありがとうございます、それにしても本当に人間に見えました、今も燕にしか見えない、人間と妖の区別はどうやってつけるのですか?」


「正直区別のしようがないな、例えばあそこに座っている太った男、あれはカエルの妖だよ」


「どう見たって普通の男にしか見えません。〈白木綿〉にはこんな身近に妖がいるんですね」


「〈白木綿〉だけじゃなくてどこにでもいるんだけど、人間と見分けがつかないから気づかないだけだよ、妖は死んだ動物の怨霊で、物質的には存在していないから変化へんげができるんだけど、変化するときに人間を模倣するから一見しただけじゃ気がつかないんだ。人間に傷つけられて恨みを抱いていることが多いから、むやみに近づかないほうがいいよ、人間を簡単に殺せるやつもいるからね」


「では紬ちゃんも人間に?」


「こいつは巣を壊されて、子供たちを殺された、往昔おうせき燕は害虫を食べることで重宝されて来たけど、人家に巣を作るせいか最近はあまり好かれない」


「気の毒に、辛い思いをしましたね」


チュピチュピジーと力なく鳴いた。


その声はまるで本当に泣いているかのようだった。


来たときと違い帰りは誰も声をかけてこなかった。晴翔がそれを不思議に思っていると、男が律に声をかけてきた。

「なんだ?律、お前軍人さんのところに嫁にいくのか?」


「そうだよ、俺は買われたんだ」あちこちから『俺の律が人様のものになってしまった』などといった嘆く声が聞こえてきた。


「律、ここを出ていくのかい?寂しくなるね、言ってくれれば盛大に送り出してやったのに」煙管きせるをふかしながら2階の窓から美しい遊女が声をかけてきた。


「ありがとう桜子さくらこ、俺幸せになるよ」


「一歩遅かったか、今度水揚げする予定の遊女に指南して欲しかったんだけどな、とにかく幸せになれよ」


「ありがとう啓介けいすけ、俺はお前に抱かれてみたかったよ」

祝福の声が上がると、律は手を振って答えた。


焦った晴翔は律に小声で言った。「私は律殿を買ったわけではありません」


「ちゃんと分かってるよ、みんなも冗談を言ってるだけ、嫌がる大佐をとって食べたりしないからそんな思いつめた顔しないでよ」

律がいつまでもクスクス笑っているので、晴翔は顔を赤くした。


そこでふと思った。そういえば以前遊女の身請けについて聞いたことがあった。


最低でも500銀貨が必要だと言ってなかったか?律ほどの容姿ならもっと必要なのではないだろうか、もし黙って逃亡したと思われて、彼に迷惑がかかっては申し訳ない。


「もしかして、律殿は『買われた』と知られたら困ったことになりますか?身請け金が必要ですか?」


これには参ったと言わんばかりに律が笑い転げた。「俺は年季がとっくにあけてもう男娼じゃないから気にしなくていいよ。だいたい29にもなる俺を雇ってくれる娼館なんてないよ。花街にいるのは居心地がいいから、好きでここにいるんだ、たまに大佐みたいに美味しそうな男に出会えるからね」


律にいたずらっぽい目を向けられ、晴翔の心臓は何故か激しく波打った。


港に停泊している船に乗り込むと晴翔は〈白木綿〉の街を見下ろした。

これも颯真の為だ。先ほど大勢の知らない人からベタベタと、あらゆるところを触られたことは忘れることにしよう。


晴翔は顔を手で覆った――あそこをつかまれたときは本当に魂が抜け出てしまいそうだった。


「大佐?大丈夫?」


「はい、大丈夫です、ちょっと部下のことが心配で」


「大佐は部下思いなんだね」


「家族ですから、あの子は私の甥っ子で、赤ん坊のころから知っているので、つい過保護になってしまうんです」


「ふーん、じゃあ大佐の大事な家族を俺が全力で守ってあげるよ、俺こう見えて妖術の力は強いから大船に乗った気でいていいよ」


「すみません、あなたを恋人から4日間も奪ってしまって、彼は怒っていませんでしたか」


「恋人?ああ総司そうじのことか、あいつは別に恋人じゃないよ、時々遊んでいるだけだから気を使わないで、もう1発やりたかったみたいでちょっと拗ねてたけど問題ない」


晴翔は赤面した。「なるほど、ならば安心しました」

バツが悪そうにしている晴翔を律が笑った。

「大佐って本当面白い、俺気に入っちゃったよ」

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