無名3

@tinnpeti_etti

第1話

        ⚪︎ ⚫︎ ⚪︎


 世界が眩むなんてことが、本当にあるんだと思った。

 頭が真っ白になる、なんてよく言うけれど、頭のいい人が考えた上手な比喩ではなかったらしい。時計が、先生の声が、教室の喧騒が、自分の心臓までもが、一瞬前までそこにあった全てのものがどこか遠いところにあるかのような感覚。見えているし聞こえているのに、まるで意識が体から抜けてしまったように実感がともわない。時空の外に放り出されたかのような妙な浮遊感を感じながら、私はもう一度、ゆっくりと首を曲げ目を動かす。一枚の紙を支えている手に感覚はなかった。両手で広げられたそれに、大きく示された、Eの文字。

 「E判定」その意味をきちんと理解するより先に、ほぼ反射的にその部分を指で隠した。視界に入れてはいけないとでもいうように手が震えている。大学受験の第一志望だ。高三の、夏の模試で。脳がその意味を理解し始めるのと同時に背筋にいやな汗が伝うのを感じる。氏名欄に印字された黒川円香という自分の名前さえすべて夢のように思えた。遠くで何かが鳴いている。ジーーッという掠れた複数の音。体の中を音だけが通り過ぎていくようなぼんやりとした意識のさなか、その内側からだんだんと聞こえ始める人の声で、ハッと我に帰り辺りを見渡した。

 本当にそれだけだった。

 「どしたの、まどかちゃん?」

なんの他意もない、いつも通りのピュアな声。それが自分の前に座る少女の発したものだと分かったから顔を上げた。本当に、見るつもりじゃなかった。

 きょとんとした顔でこちらを見つめるその手に広げられた、自分のものと同じつくりのシンプルな用紙。ただ決定的に違うのは最も目立つそのアルファベット。

 ――桜田綾乃 A判定

見えてしまったその衝撃的な文字の羅列に背筋が凍りつき、筋肉が一瞬で縮まったような感覚に陥る。きっと顔にも出てしまっていた。

 「まどかちゃん?だ、大丈夫……?」

 まっしろだよ、という彼女の驚きと心配の入り混じった声に、口が勝手に

 「大丈夫。気にしないで」

と動いた。自身で発した声をどこか他人ごとのように感じつつも、震えていなかったかと心配になる。と同時に、キーン コーン カーン コーンと無機質な音が教室に鳴り響く。夢ではないぞと言っているようだった。


        ⚪︎ ⚫︎ ⚪︎


 世の中には天才がいる。そして綾乃はそのひとりだ。

 成績優秀スポーツ万能、器用で積極性があり、彼女が書いた作文が県の大会で最優秀に選ばれたことがあるほどの文才の持ち主。その上彼女の父親がかなりの資産家であり、大きなお屋敷を家に持つお嬢様ということで、幼少から身についた作法は美しくいつも背をぴんと張っている。幼い頃から習っていたというピアノも何度もコンクールで表彰されているなどとまさに才色兼備を体現したような彼女だが、それではどんな大変な努力を積んできたのかと問えば、彼女はこう答えるだろう。

 「んー、べつに、普通にやっただけなんだけどな」

 そう言ってころころと笑う。純粋無垢な、澱みのないすっきりしたピュアな声。彼女の中に「特別なことをした」という意識など全くなく、物事に対し極めて真剣に取り組んでいるということもない。ただ自然と、子どもが目の前のおもちゃを手に取るように、軽い気持ちでやってのけるのだ。

 そんな先天的な感覚のもとで生きている彼女に対し、何も思わないということもない。

 円香の方はといえば、綾乃のそれとは対照的に、たゆまぬ努力と継続で結果を出してきた。才能と呼べるほど光るものを持ちあわせていないことは誰に言われるでもなく自覚していたし、だからこそ将来に不安を抱くのも他の人より早かった。小学生のころから必死で勉強し、それなりに有名な私立の中学校を受験するとトップに近い成績で合格。エスカレーター式に高校へ進級しても成績が落ちることはなく、やはりそれも漠然とした将来への不安からくる焦燥で勉学に励んできたからだった。

 特筆できることなどなくても、学歴さえあれば社会に出てもそれなりにやっていけるだろうというのが彼女の考えで、かなり早い段階から世間でも著名な一流大学合格への道をひたすらに突き進んでいた。シェアハウスに越してきたのも、大学に受かったとき通いやすい位置にあり経費削減にも繋がるからである。子どもとしての期間が短く、遊びとは縁の遠い場所で必死に勉強を続けてきた円香にとって、なんの努力も経験しないまま成功をおさめている綾乃は憧れの対象である以上に自分の凡庸さを突きつけてくる存在であり、自分と彼女を比べるたびにもやっとした劣等感に襲われていた。

 そうはいっても綾乃が円香にとって数少ない友達であることに変わりはないし、望んだわけでもないもって生まれたポテンシャルの差だ。彼女を憎む理由にはならない。だから今円香が学校へ行っていないことに関して、綾乃には責任が全くない。というのをきちんと話せばよかったのだが、いかんせん勉強漬けの毎日で、通常備わるコミュニケーション能力だったり、あるいはこういった繊細な気遣いというものを円香はもっていなかった。


        ⚪︎ ⚫︎ ⚪︎


 ピピピピ、ピピピピ、と、タイマーのかん高い音が部屋の静寂に鋭く響く。

 八十分の時が経ったことを理解すると素早くスイッチを切り、机上のノートに目を落とした。分厚い参考書をバラララッと一気にめくり、解答を見つけると赤ペンを走らせる。閉め切った暗い部屋のすみで、デスクライトの青白い光だけが机に散らばった消しカスや参考書の山をぼんやりと照らしていた。

 インクをを引く掠れた音とともにすべての問題を採点し、丁寧に解説を読み込む。前よりも格段に上がった点数に安堵はするものの焦燥が収まることはない。もっと早く、もっと正確に解かなければと焦る気持ちを鎮めるため、深く息を吸い一度ぐっと身体を伸ばす。昨日の夕方から座りっぱなしで勉強していたせいでバキバキと関節が悲鳴をあげた。時折り下の階から聞こえるザクザクと何かを刻む音やコンロの火をつける音に、今は朝なんだということに気づかされる。

 ハウスに引っ越してきた時、住人の一人である男が

 「朝ごはんは住人全員で食べるのはどうだろう」

 と言い出し、その場の誰も反対しなかったため可決した。面倒だなとは思ったけれど、それがルールならと円香自身も最初のうちは出席していた。行かなくなったのはあの夏の日からだ。

 あの夏。あの模試。

 思い起こすたびに頭痛と吐き気が込み上げてくる、圧倒的なトラウマ。あれから四ヶ月ほど経った今でも鮮明に蘇ってくる言いようのない恐怖や絶望をかき消そうという思いで、寝る間を惜しんで勉強してきた。

 勝手だと分かっていながらも綾乃を見るのはつらく、他の生徒も、先生も、教室の全てが敵のように思えた。だから学校へ行くのもやめた。行けなくなったと言った方が正しいかもしれない。

 「あいつE判らしいよ。あんなガリ勉なのに、無駄じゃんね」

そんなことを言われていたらどうしようと考えると本当に怖かった。もともとクラスの人によく思われていないのも感じていたし、綾乃と初めて話した時もそうだった。

 「黒川さんってほんとに真面目だよね。そんなにやる意味ある?っていうか、頭いいんだし心配しすぎじゃない?」

 三年生になってすぐの時だ。悪気のある言い方ではない、ただ思ったことを述べただけの言葉。いつも机にお菓子を広げて騒いでいる女の子たちの一瞬の会話で、円香だって聞く気があったわけではないのに聞こえてしまっただけだった。進学校で想像もしなかった言葉にショックを受けていたら、

 「そうかな。そんなに頑張れるのってすごいと思うけどなぁ。黒川さんを見てると、私も見習わなきゃなって思う」

 と、その中の一人が言い放ち、驚いてそちらを見ると目があった。その子は私を見るととててて、と近づいてきて

 「勝手な話してごめんね。わたし、黒川さんのことほんとにすごいと思ってるの。お詫びにはならないけどこれあげるね」

 と囁いて、円香の机にころんといちごの飴玉を置いた。

 あまりに一瞬の出来事でどうしたものかと慌てたが、出席番号で前の席の子だと気づいてから話すようになり、後日きちんと飴の感想を伝えたら笑ってくれた。彼女がテストの首席常連だと知ったのは、彼女を名前で呼ぶようになった後のことだ。

 ふいに、ガチャリとそれぞれの住人がドアを開き始めた音がした。朝食の時間なのだろう。階段を降りていく音がして、おはようと挨拶を交わす声がまばらに聞こえる。再び参考書を開こうとしたとき、誰かが上へ戻ってきて、その足音がこちらに向くのを感じた。

 コンコン、と軽いノックの音が響く。

 「…はい」

 ガチャ、という音とともにドアが内向きに開かれ、固く締めきって澱んだ部屋にすっと冷たい空気が入ってくる。ドアの角度に比例して差し込む光が眩しい。その奥には、綺麗な艶のある髪をおろしたひとりの女性が立っている。

 「おはよう。今日も下りてこないつもりなの?」

 はつらつとした生気をたたえつつも、どこか穏やかさを含んだ声だ。廊下に広がる新鮮な明るさの中に手首まである黒の深いワンピースをまとい、頬に手を当てこちらを覗きこむ。私が不登校になってからほとんど毎日訪れる世話焼きの同居人だ。どことなく不思議な雰囲気を漂わせるこの人を、私は下の名前で沙織さんと呼んでいる。

 「お、はようございます。…えと、模試が近いので」

 「こんな暗い部屋にこもってたら脳も疲れちゃうわよ。みんな心配してるんだから、たまには下りてらっしゃい。休憩も大事よ。」

スタスタと部屋の中に入って勝手に窓を開け始めた彼女の足元に、からっぽの栄養ドリンクの容器が転がる。開け放たれた窓の向こうから朝の光が部屋を急激に明るく照らし、暗闇に慣れた目が痛い。

 「こんなに晴れてるんだから、窓くらい開けなさい。また来るわ」

そう言い残して颯爽と部屋を出て行くと、何事もなかったかのようにドアを閉めた。一人残された私はよろよろと立ち上がり、カーテンを締めようとして秋の澄んだ冷たい空気が顔にあたる。外には子どもの手を引いて歩くお母さんと思わしき人や、犬の散歩をしている人がのんきに歩いていた。風が入らないよう窓を閉め、床に転がっていたカーディガンを適当に羽織ると、机にたまった消しカスを集めてゴミ箱に捨てた。ついでに転がっていた栄養ドリンクの容器も突っこむ。デスクライトの明かりを消し、椅子に座り直すと沙織さんが持ってきてくれたホットの紅茶を一口飲んだ。参考書を開きシャーペンを握る。

受験まであと3ヶ月だ。

 

        ⚪︎ ⚫︎ ⚪︎


 模試の結果が届く日だったからポストを確認しに行った。そうしたらそこでひとりの少女が門の周りをうろうろと歩き回っていた。ふわふわした柔らかそうな髪を耳元でふたつにくくり、制服の上に大きめの灰色のカーディガンを羽織っている彼女を見て、心臓がどくんと脈打つ。

 「まどか…ちゃん?」

 玄関で固まっていた私に気づき、驚いたように目を見開く。久しぶりに聞く、見た目通りのかわいらしい声。

 「え……綾乃…?」

 「よかった…まどかちゃん、元気だった?ずっとね、心配してたんだよ」

 私の反応に安心するかのようにほっと胸を撫でおろした彼女とは反対に、私は今自分が置かれた状況を飲み込めず激しく動揺していた。

 「どうしたの、何か、用事とかあったの?」

 ううん、と彼女は首を横にふる。

 「まどかちゃんに会いにきたんだよ」



 かなり前の話になるけれど、雑談で家庭の話になったとき、円香は自身がシェアハウスに住んでいることを綾乃に話していた。彼女のピアノの話を聞いたのもその時だ。綾乃の家は目を引くような大豪邸で高級住宅街の中心に位置するため、学校帰りにこのハウスまで寄るのはかなりの遠回りだ。行こうという意思がなければ本来来るはずのない場所だろう。だからそうまでして彼女がここにいる理由が自分に会いに来るためとは思わなかったし、「何かの用事で来ていて近くを調べたらシェアハウスがあったから覗いてみた」程度の軽いものであってほしいというのが円香の隠れた願いだった。わざわざ会いにきてまで綾乃がしたいことはなんだろうと思うと恐ろしく、いざ目の前にすると何も言わずに学校に行くのをやめたことがとても悪いことに思えて申し訳なかった。

 そんな気持ちを抱え、辺りの道を2人で歩く。夕暮れの秋は風が冷たく、汚れた部屋でじっと机に向かっている日々など無いように澄んだ空気が頭を冷やしてくれるような気がしていた。

 「ね、まどかちゃん、元気だった?」

 さっきと全く同じ問いを綾乃がぽつりと呟く。

 「うん。全然病気とかにはなってないし、元気だったよ」

 よかった、と彼女が相槌を打つ。こんなに心配してくれている彼女に対して、自分の身勝手さが恥ずかしかった。

 「…まどかちゃんがいない間ね、私、クラスの女の子達と一緒にいたの。初めてまどかちゃんとちゃんと話した時、飴あげたでしょ。その時いた子達なんだけどね、……まどかちゃんのこと、すごい心配してた。あの時のことで傷つけちゃってたらどうしようって、すぐ謝ればよかったって言ってたよ。私もね、寂しかった。急にいなくなっちゃったんだもん。このまま卒業して会えなくなっちゃったら嫌だったから…突然押しかけてごめんね。…言いたくなかったらそれでもいいの。でも、まどかちゃんの考えが知りたい」

 何拍かおいて、意を決したように息を吸う。綾乃からこんな人間味を感じたのは初めてだった。

 「なんで、そんなに必死に勉強してるの?」

 道なりに歩いて、歩道橋の上で彼女は止まった。夕焼けが綺麗で、遠くの空から夜の色が滲み出している。商店街を歩く人も少なくなってきて、一瞬住人の誰かが路地へ抜けて行った気がした。

 彼女が答えを待っている。てっきり学校へ行かなくなった理由を聞かれるのだろうと思って、あの日全力を出した模試の結果がE判定だったこと、たまたま綾乃の結果が見えてしまったこと、そのまま一緒にいて傷つけてしまうのが怖かったこと、結果的にさらに傷つけてしまって謝りきれないということを素直に伝えようと頭の中でまとめ始めていたために、不自然な間があいてしまった。

 必死に勉強している理由。

 そんなの、ひとつに決まっている。

 「名のある良い大学に行って、それなりの学歴をもって、社会にでても苦労しないようにするため、かな」

 それ以外にあるだろうか。結局のところ何をやったって学歴だ。有名ピアニストになろうと、一流の画家になろうと、必ず学歴はついて回る。どれほど他に才能があったところで学歴のためにチャンスを失うことなんて山ほどあるだろう。成功を収めたとしても、「勉強もできるピアニスト」と「ピアノしか弾けないピアニスト」ではその後の人生がまるで違う。才能があるものですらそうなのだから、ただの凡人である自分に学歴がなければ社会で食い潰される以外の未来は無いに等しい。

 もちろん自分はあくまで努力を積んできただけの凡人で、勉学でもその才能を発揮する綾乃のようになれないことはとっくにわかっている。それでも将来を憂いたままのうのうと楽な道を選ぶより、少しでも勉強をして名のある大学に入り天才と同じ肩書きを手に入れた方が安定した生活が送れるのは明白なのだ。きっとその先に幸せがある。学歴も安寧も手に入らないのなら、勉強をする意味なんてどこにもないだろう。

 「やっぱり、そうなんだ」

 「…え?」

 「私ね、気づいてたんだ。夏に模試が返ってきた時、多分まどかちゃんの結果はあんまりいいものじゃなくて、きっとわたしの結果が見えちゃったりして落ちこんじゃったんだろうなって。それで学校こなくなっちゃったのかなって」

 見抜かれていた。言うまでもなく、気づかれていた。

 歩道橋を降りると大学が見えてくる。あの場所をめざして努力し、そのために引っ越してきたのだ。

 「あれが、まどかちゃんが全力で頑張って目指してるゴールだよね」

 「綾乃だってそうでしょ」

 「ううん」

 彼女はまた首を振る。さっき門の前で見たときとは少し違う、ただの動作以上の深みを帯びていた。

 「わたしは違うよ。全然頑張ってない。今のわたしの力で行けるところを志望校欄に書いただけだし、まどかちゃんみたいに本気で目指してるわけじゃないと思う。

 わたしね、思うの。受験てそんなに大事かなぁって。みんな志望校に受かることが第一で、そのために何年も勉強してすごいなぁって。嫌味じゃなくてね、本当に尊敬してるんだよ。わたしは勉強のゴールって、自分をぴかぴかにすることだと思うの。勉強そのものじゃなくて、そこから得られる知識だったり、考え方だったり興味だったりが重要で、勉強を通してとっておきの自分になれたらそれが一番だなって思うの。

 受験はその通過点っていうか、目的地まで行くのに通るひとつの駅みたいなイメージでね、だから大学のために勉強頑張ろうってできるみんなが不思議だし、模試の結果で一喜一憂したりして一筋に頑張れるのが羨ましいなって思うの」

 いつもと同じ、混ざりけのない落ち着いたピュアな声。道のブロックの上でバランスをとりながら飛び移る彼女を見つめ、そっか、と呟く。

 大学を通り過ぎ、二人で無言のまま一周して戻ってくる。夜の帳が下り始めた静かな空は、街灯で照らされ星が見えない。

 「またね、まどかちゃん。学校で待ってるね」

 「うん。何も言わずに行かなくなってごめん。またね」

 お嬢様がこんな暗い時間に出歩いていていいのか心配になったが、迎えが来ると言うので別れることになった。それだけ交わし、彼女は駅の方へ歩いて行く。

 できるだけ静かに玄関の扉を開け、誰もいないのを確認して手を洗うとすぐに自分の部屋へ走った。過去問や参考書が積み上がった机を横目にベッドへ飛びこむ。徹夜で勉強したときとは違う疲れで体が重たかった。布団に顔をうずめ、暗闇の中で目を閉じる。歩道橋に立つ自分の姿を思い出し、もう眠ってしまおうと思った。


        ⚪︎ ⚫︎ ⚪︎


 ――勉強を通してとっておきの自分になれたらそれが一番だなって思うの。

 彼女の言葉が頭から離れない。そんな考えは綺麗事だと言い返したいのに踏みきれない。彼女の価値観が自分の中に深く刺さり、今まで必死に努力してきた原動力がふにゃふにゃと形を保てなくなっていた。きっと本当に疑問だったのだろう。彼女にとっての学びと受験生活が結びつかないのもわかる。

 ジューッという何かを焼く音とともに、住人たちが一階へ降りていくのがわかる。いつもと同じこの音をベッドに寝そべって聞いていることが不思議だった。

 コンコン、といつものノックの音がする。

 「はい」

 ガチャリと遠慮なく開かれた扉の奥から世話焼きのお姉さんが現れ、部屋に入りかけた瞬間

 「え!?」

 と感嘆の声を漏らす。

 「ど、どうしたの、今日は。体調でも悪いのかしら…いいのよ寝てて。何かほしいモノがあるなら持ってくるけど…」

 心底驚いたような顔でこちらを覗きこむ沙織さんの艶のある髪を見て、ろくに風呂も入らずにベトベトに絡まった自分の髪がなんだかおかしかった。

 「大丈夫です。ちょっと不思議な夢を見まして」

 昨日雨戸を閉めなかったおかげで窓から光がさし、部屋が清々しい明るさで満ちている。ベッドから起き上がると、空になったペットボトルや栄養補給ゼリーのパックが居場所をなくしたように転がっていたから捨てておいた。

 側で見ていた沙織さんが何か言おうとしていたが

 「今日はみなさんと朝ごはん食べたいです。大丈夫ですか?」

 と尋ねたら快い返事をもらえたため二人で階段を下りた。



 久しぶりに食べたお米はおいしかった。食卓のメンバーも変わらず、私の席が取っておかれていることが素直に嬉しい。

 「なんだか痩せたんじゃないか?」

 などという探偵おじさんにはセクハラですよと注意をし、みんなに勉強する意味について問いかける。

 「そうねぇ、難しいけれど、ワタシは知識に触れた時の好奇心とか、自力で解けた時の達成感が大切だと思うの。そんな小さなトキメキが継続を生んで、また新しいことに挑戦できる。こういうサイクルを学ぶきっかけが勉強なんじゃない?もちろん、いろんな考えがあっていいと思うわ。」

 と沙織さん。

 「ま、言っちゃあ悪いけど学歴だね。別になくたって生きていけるよ。まぁ、僕みたいにならないようにするには必要かもしれないけどね」

 と切戸さん。

 「知識は力。身を守る盾にも、他者に打ち勝つ矛にもなる。勉強する理由なんて人れぞれだけれどね」

 と杉原さん。

 「私は…学生時代は勉強が義務だったので、考えたこともありませんでした…。でも、社会に出てから能力がないと人として扱ってもらえないって気づいて…人付き合いを円滑に進める基盤なのかなって、思います。すみません。参考にならないかもしれませんが…」

 と優子さん。

 みんなの意見を聞き、自分はどうだろうともう一度考える。

 昨日まではずっと、勉強は学歴を手に入れるための道具だった。その点では切土さんと同じだけれど、なくても生きていけると思えるほど吹っ切れたものではない。もっと自分の全てを注ぎ込んで手に入れる、未来への不安をなくすものだと思っていた。けれど綾乃に会い、話を聞いて、それだけではないんだと気づかされた。自分を磨くための手段。それを通して何を得られるかという自分の意識を澄ますもの。

 要するに、道具であり手段である以上いろんな側面が存在するのだ。人によって考え方は違うし、そのどれも間違っていない。そしてよく切れるナイフが怪我をしやすいのと同じように、勉強で周りを蔑ろにしてしまうことだって十分あり得る。今までの私がいい例だ。

 学校に行こう、と思った。学校に行って、綾乃ともう一度話したかった。

 今までの考え方が変わったわけじゃない。綾乃の価値観に感化されはしたが、受験を通り過ぎる駅というほど簡単にも思えない。だけど絶対に、昨日綾乃に会って話をしなかったら私はずっと部屋に閉じこもって狭い世界で勉強していた。綾乃に、直接お礼が言いたい。きちんと謝りたい。

 「ごちそうさまでした」

 シャワーを浴びて制服に着替え、次の電車の時間を調べた。遅刻にはなるが行かないよりはずっといい。

 「行ってきます」

 何ヶ月かぶりに言う挨拶に何か言われるかと思ったが、住人のみんなが行ってらっしゃいと返してくれた。あんなに迷惑をかけたのだから、帰ってきたらきちんと謝ろう。

 門をくぐったとき、ふと、昨日届いた模試の結果を見ていないことに気づきポストを覗く。入っていた封筒を開いて、あの夏と同じ形をしたそれを広げる。判定を見て――そのまま視線をずらし氏名欄を確認した。

 ――黒川円香

 間違いない、私のものだ。

 元の形に丁寧に折りたたんで封筒に入れ、リュックにしまおうと思ったが、ふと思い直してポストに入れた。

 予定の電車まで時間がない。ローファーのつま先を地面で合わせ、円香は駅への道を走り出した。

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