蝉
悟の落籍話は、驚くほど速やかにまとまった。そもそも悟は前借金に縛られている身ではない。ツケで買った衣類や食事の代金を精算し、ちょっと色を付けた金額を瀬戸が蝉に支払えば話は済んでしまう。
「もう今日連れて帰ってもいいか?」
瀬戸が蝉に問う。悟は蝉が頷くだろうと思っていた。どうでもよさそうに、構わないからとっとと連れてけ、と。
それは瀬戸も同じだったのだろう、彼の問いは問いというよりはただの確認作業にすぎなかった。
しかし、予想に反して蝉は首を横に振った。
「今日このまますぐに引き渡しっていうのはできないな。明日でも明後日でも、こいつに上等の着物を用意してこいよ。女郎の落籍は白無垢って決まってるだろ。こいつに白無垢着せるわけにもいかないから、そこはなんでもいいけどな。」
蝉が飄々と言うと、瀬戸は思わずといった様子で苦笑した。
「たしかにそうだな。着の身着のまま連れてこうとした俺が悪かった。明日、着物を用意して迎えに来る。」
「はいはいそうして頂戴。」
目の前で行われている交渉が自分の落籍話だとはどうしても実感できず、悟はぼんやりと蝉と瀬戸とを見比べていた。
そんな悟の肩をぽんと叩き、瀬戸は座布団から立ち上がる。
「悟、見送り。」
投げ出すように蝉が言い、ぼうっと座り込んでいた悟は慌てて瀬戸の後を追った。
「じゃあ、明日迎えに来るから。」
長屋の入り口で、瀬戸はそう言って悟の頬を撫でた。悟はまだ雲の上にでもいるような気分のまま、一度小さく頷いた。
瀬戸の背中が見えなくなるまで見送った後、長屋の自室に戻ろうとした悟の肩をひょいと抱いたのは、長い髪を軽く束ねたサチだった。
「いい話みたいね。」
いい話。
ぎこちなく悟が頷くと、サチは細い眉を寄せるようにして少しだけ笑った。
「心を凍らせるのも、今日でおしまいね。」
また、悟はぎこちなく頷く。何もかもにまるで実感がなく、サチが口にした言葉の内容は、ほとんど頭に入っていなかった。
そんな悟の肩を掴み、サチはそれを軽く揺さぶった。
「しっかりしなさい。あんた、明日からは瀬戸さんのもんになるのよ。」
明日からは瀬戸さんのもんになる。
サチの言葉をかろうじて受け取った後、何度か反芻し、悟はようやく意味をつかんだ。
明日から悟は、この長屋にはいないのだ。蝉に会うことだって、もうないのだ。
悟は肩の上のサチの手をぎゅっと握った。
「俺、」
そこから先の言葉が続かない。
サチは笑ったままの目で悟の両肩を掴み、蝉の部屋の方へと押しやった。悟は一つ頷くと、蝉の部屋の襖を開けた。
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