悟を腕の中に抱いたまま、瀬戸はぽつりぽつりと語り始める。

 「薫がここにいたのは、もう10年以上前の話だよ。……正確には、12年前にここに来て、その二年後に脚抜けしたのかな。前借金残して、ちょっと銭湯行ってくるって洗面器に石鹸入れて持ったまま消えたって聞いたよ。」

 瀬戸の長い指が、悟の髪をするすると撫でる。

 悟はされるがままになりながら、瀬戸の言葉を一言残らず聞き逃さないように耳を澄ませた。

 「脚抜けするなら蝉も一緒だろうと思ってたから驚いたな。しかも、その当時の遣り手に、薫が逃げたって密告したのは蝉だったって言うからなおさら驚いた。その密告の功労賞で、蝉は男娼からここの遣り手に出世したわけだけど。」

 「どうして、蝉さんも一緒に脚抜けすると思ったんですか?」

 問いかける声は、自分でも驚くほど心細げに響いた。

 瀬戸の手が、しっかりと身体を抱いていてくれているのに。

 「薫を男娼に仕込んだのは蝉だって言っただろう。蝉は14からここにいる古顔の男娼だったから、仕込んだ男娼だって薫一人じゃない。ただ、蝉が抱いた男娼は薫一人だ。狭い長屋だからね、二人の関係はすぐに噂になっていたよ。」

 「なんで……、」

 なんで、蝉は薫を抱いたのか。

 問おうとして言葉にならない悟を見て瀬戸は静かに目を眇めた。

 「それは、蝉に訊かなくちゃわからない。」

 ただね、と瀬戸が言葉を継ぐ。

 「あの頃の薫は眩しいくらいにきれいだったよ。好きな男に抱かれていると、ああもきれいになるものなのかな。」

 わからない、と、悟は半ば無意識に呟いていた。

 わからない。好いた男に抱かれたことなどないから。

 そうか、と、瀬戸は悟の前髪を手のひらで戯れにかきあげた。

 「そうか。きみは好きな男に抱かれたことがないんだね。」

 まさかついさっきまで情を交わしていた相手に、はいそうですと頷けるはずもない。

 おたおたと慌てる悟を、瀬戸はぎゅっと強く抱きしめ、声を立てて笑った。

 「構わないよ、素直に頷いたって。」

 「……そんな、こと……俺、瀬戸さんのことは、好きです。」

 切れ切れになる悟の言葉。

 瀬戸は頬を笑わせながらそれを聞いた後、完全に独り言のトーンで呟いた。

 「蝉は遣り手に出世するために薫を売ったんだって随分噂になったけど、俺はそうは思わなかったな。単純に、薫を取り戻したかっただけに見えたよ。」

 「取り戻す?」

 悟が問い返すと、瀬戸は少し驚いたような顔をした。

 多分、先程の独白はほとんど無意識だったのだろう。

 「取り戻す?……ああ、そう。俺も事情を知ってるわけじゃないけどね。ただなんとなく、蝉は置いていかれたんじゃないのかなって思っただけ。だから遣り手に密告なんかして、薫を探させたんじゃないかってさ。ただの想像だけどね。」


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