2
瀬戸の腕は、悟の肩を離れはしなかった。
長い沈黙があった。瀬戸の右手が悟の頬の涙を拭った。
「そんなに蝉が好きか。」
瀬戸の声はあくまで低かった。悟は両方の目をうるませたまま、こくりと頷いた。
男娼としてならば、頷いてならない場面だと分かっていた。それでも、どうしても嘘がつけなくて。
「蝉のなにそんなに惚れているんだ。」
問われた悟は、黙って首を左右に振った。
答えたくないわけではない。ただ、答えようとすると、母の顔を知らない生まれから、観音通りの街灯下で蝉に拾われるまでの、長い長い話が必要になる。
「話が、長くなりすぎます。多分、この夜を越えてしまう。」
ため息のような悟の言葉に、瀬戸は顎を引くように頷いた。
「構わないよ。きみの話なら、俺はいくらでも聞きたい。」
なぜ、と思った。
なぜ瀬戸はここまでの情を与えてくれるのか。
溶けてしまいそうだ、と思う。凍らせた心が溶けてしまいそうだ。
悟は着物の上から自分の胸をぎゅっと掴んだ。
瀬戸はその頑ななこぶしに自分の手のひらを重ねた。
この人が本当に好きなのは、落籍したいのは、自分ではない、薫だと、悟は必死で自分の胸を凍らせる。
固く握ったこぶしはいつの間にか瀬戸の手の中で解かれ、そっと握り込まれている。
戸惑うしかない悟が瀬戸を見上げると、唇が瀬戸のそれで塞がれる。
長い口吻だった。
「きみの話ならいくらでも聞きたい。」
繰り返された台詞。
悟は必死で首を左右に振った。
そしてようやく理解する。
自分は人間不信だと。誰のことも信じられない人種なのだと。
だって、こんなにも優しく情を寄せてくれる瀬戸のことさえ、悟は信じられない。
「話すのが、怖いの?」
瀬戸の問いに、今度は素直に頷く。
すると瀬戸は、ほろ苦そうに唇を歪めて少しだけ笑った。
「きみは本当に、薫に似ている。薫も最後まで生まれも育ちも一言も教えてくれなかったよ。」
「……ひとことも……?」
「そう。一言も。」
もちろんきみより誤魔化し方は数段上だったけれど、と、瀬戸が冗談めかして悟の身体を抱き寄せる。
小柄な悟の身体は瀬戸の胸にすっぽりと収まった。
「こうしていると、薫を抱いてるみたいだ。」
求められているのは自分ではないと、本来だったら悲しんでもいいもの言いだったかもしれない。
けれど悟は悲しまなかった。悲しむどころか自分を求められていないのだと分かると妙に安堵して、素直に瀬戸の首に両腕を回した。
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