一瞬の躊躇いの後、サチは悟の頭を自分の胸に抱き込んだ。

 「蝉のことは好きになっちゃだめ。……あんたも可哀想だね。こんなところに来たくて来たわけじゃないんだろう。」

 サチの両方の乳房が、やわらかく悟の頬を包んだ。甘い石鹸の匂いが微かに漂う。

 母を知らず、叔母に抱かれた記憶もない悟にとって、彼女の体温は想像上の母のそれによく似た温度をしていた。

 「……来たくて来たんです。」

 「行く所が他になかったんでしょ?」

 「はい。」

 「それは、来たくて来たとは言わないよ。」

 来たくて来た。

 嘘ではなかった、蝉は悟にここに留まれと命じたわけではなかった。ただ、悟には行く所がなかっただけで。

 行く所がないから女郎屋にいる。

 それは来たくて来たわけではないよ、とそんな単純なことが悟には分からない。

 憐れむように、サチは悟を抱く手に力を込めた。

 「いい? あんたは来たくてここに来たわけじゃない。仕方がなかっただけだよ。だから、金が貯まるまで心を凍らせてやり過ごすしかない。」

 仕方がなかっただけ。

 悟は呆然とサチの言葉を聞いていた。

 仕方がなかった。

 それだけで、蝉についてきた自分の気持ちを片付けたくはなくて。

 蝉に惚れたらだめ。

 サチは悟に言い聞かせるようにそう繰り返した。

 そのとき、するりと音もなく部屋の襖が開けられた。

 「サチさん、お客さんです。」

 そこに立っていたのはマリと呼ばれていた鋭利な顔立ちの女郎だった。

 「わかった。」

 サチはすぐさま立ち上がると、最後に悟の肩をぽんぽんと宥めるように叩いて部屋を出て行った。

 残された悟は呆然としたまま座り込んでいたのだが、その顔をひょいとマリが覗きこんだ。

 「無理だよね。惚れるななんて言われたって。」

 顔立ちは鋭利だが、彼女の語り口はそれに反して驚くほどやわらかに落ち着いていた。

 「誰か、忘れられない人が……?」

 あなたにも忘れられない思い人がいるのかと、半ば縋るように悟が問うと、彼女は自嘲気味に笑った。

 「人殺しの女衒だよ。」

 短い会話。それだけ交わすとマリはするりと身を翻して悟の部屋を出て行った。

 人殺しの女衒。

 信じられないような単語の組み合わせだったけれど、嘘ではないと悟は肌で感じていた。

 女たちは皆、もう外に客を引きに行った。  悟もそろそろ体内を洗浄して街灯の脇に立たなくてはならない。

 悟は立ち上がり、風呂場に行こうと廊下へ出た。

 するとちょうど向こうから蝉がやって来て、ちょうどよかった、と悟の前で立ち止まった。

 「お前、今日も借りきり。瀬戸さんは随分お前を気に入ったんだな。」

 心を凍らせなくては。

 悟はただ小さく頷くと、蝉の傍らを通り抜けて風呂場のドアを開けた。





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