サチ

「なにかあたしに訊きたいことがあるんだって?」

 サチが悟の居室にやってきたのは、薄らと小雨の降る昼下がりのことだった。

 部屋に入って来るなりの突然の問いすぎて、悟は言葉に詰まった。

 サチはそれを気にする様子もなく、鏡台の前あたりに膝を崩した。

 湯を使ってきたばかりなのだろう、ほんのりと湿った髪からは石鹸の甘い香りがした。

 その香りに触れるとなぜだか悟は落ち着いて、いささかぎこちなくだが頷くことができた。

 するとサチは長い髪をかき上げながらにっと歯を見せて笑った。

 「なんでも言ってごらん。答えられることなら答えるからさ。」

 ふわりと漂うせっけんの香りに押されるように、悟は口を開く。

 「蝉さんの、ことなんですけど。」

 「蝉?」

 意外そうに声を高くしたサチは、すぐに自分の失態を恥じるように肩を竦め、悟に手真似で先を促した。

 「蝉さんが脚抜けをしたって聞いたんですけど……。」

 「脚抜け? ああ、瀬戸さんから聞いたんだね。」

 「はい。」

 「瀬戸さんは薫を気に入ってたからね。」

 「薫、さん?」

 「蝉の脚抜け相手だよ。」

 一旦言葉を切って、サチは俯くようにして低く笑った。その笑みは、どことなく暗みを帯びているようだった。

 「そのくせ蝉が密告したんだよね。薫が脚抜けするって。」

 「蝉さんが?」

 「そう。あいつ、めんどくさいことが嫌いでしょ。だからじゃないの。」

 「薫さんは、どうなったんですか? 」

 「逃げ切ったよ。今はどこでなにしてんだろうね。」

 「逃げ切った……。」

 「そう。前借金踏み倒して、夜中のうちにどっか逃げた。蝉がちくったんだけど一足遅くてね。薫が逃げた後だったんだ。」

 「蝉さんは、一緒に行かなかったんですね。」

 「あいつはめんどくさいことはしないのよ。」

 そんなことを知りたかったのね、とサチは笑った。

 「客のあしらいだとか、そんなことかと思ったわよ。」

 短い沈黙が落ちた。サチは悟の顔を覗き込んで、彼の言葉を待っているようだった。

 「……蝉さんと薫さんは、恋人同士だったんですか?」

 なんとか絞り出した言葉に、サチはあっさり頷いて見せた。

 「そうでしょ。じゃないと二人で脚抜けなんて話にならないもんね。」

 「でも、蝉さんは……。」

 「そう。ちくった。」

 最低だよね、と、サチが歌うように言う。

 「あの頃はあたしもガキだったからよく分ってなかったけど、今思えば蝉と薫ができてることくらい、一目瞭然だったんだろうね。いつか二人で脚抜けするんじゃないかって、あの頃の遣り手も疑ってたみたいだったし。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る