長い風呂から上がり、悟が部屋に戻ると、そこにはすでに蝉がいた。

 勝手知ったる人の部屋といった様子で布団を敷き、その上にあぐらをかいて煙管をふかしている。

 いつもの派手な衣装ではなく、そっけない紺色の浴衣を着た蝉は、普段よりいくらか老けて見えた。

 「湯に行ってたのか。」

 はい、と悟は答えた。なぜだかそれが、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 抱かれもしないのに、磨いてきた身体。

 そっかそっか、と蝉は満足そうに笑った。

 「身体はいつも清潔にしとけって言ったもんな」

 たしかにそんなこと言われた記憶はあった。商売道具は清潔にしておけと。

 でも、さっき湯へ行ったのは、そんな理由からではない。

 おずおずと、悟は蝉の隣へ行って正座をした。乱れた浴衣の裾を、もぞもぞと手で引っ張って直す。

 蝉がその手付きをじっと見ているのが分かって、動作は自然とぎこちなくなった。

 いいな、と、蝉がまた満足そうに笑う。

 「恥じらいをなくしたら娼婦は終わりだ。」

 恥じらい。

 そんな単語は自分には似合わない気がして、悟は曖昧に頷いた。

 恥らい。

 あるとすればそれは、蝉に対してのみだ。多分どんな客が来ても、嫌悪や恐怖を感じたとしても、恥を感じることはないだろう。

 だって、悟が思うのは蝉のことだけだ。いつだって。

 「どうしたい? 俺と寝たいって言ってたけど、本当に寝るだけでいいのか? 話したいことがあるとか、したいことがあるとか、そんなんがあるなら言え。」

 隣の蝉が、ひょいとまだ小柄な悟の顔を覗き込む。

 しばらく黙り込んだ後、悟は蚊の鳴くような声で、触りたい、と言った。

 蝉はいつものニヤニヤ笑いを崩さないまま、商品には手を出さない主義なんだよな、と言った。

 分かっている。分かっているから、抱いてくれなんて言えない。それでも、蝉に触りたい。

 手を繋いで寝てください。

 声はまた、蚊のなくほど。それでも蝉は、悟の言葉を聞き取ってまた笑った。

 「可愛いこと言うじゃない。」

 ふざけた口調と、すべてを嘘にするニヤニヤ笑い。

 悟の心がすっかりめげそうになったところで、蝉は悟の手を握った。

 「寝よう。」

 短い言葉。悟は辛うじて頷くと、蝉と一緒に布団に潜り込んだ。

 電気を消すと、窓の障子越しに観音通りの街灯の灯が入ってきて、薄ぼんやりと辺りを照らす。

 今夜は眠れない。

 そう思った悟だったが、蝉と繋いだ右の手から、眠気がジリジリとやってきて脳内を占拠した。

 最初で最後の夜だ。眠りたくない。

 必死で目を開けていようとする悟の手の甲を、蝉が指先でなぞる。

 そうするともうだめだった。悟はあっという間に眠りの縁へ落ちていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る