3. Clock

(2020/10/1)


 何かを忘れようと決めて物を捨てた時、隙間ができる。空っぽになると清々しい気持ちだけれど、同時に不安にもなる。空いた隙間にはしばらくすると新しいものが収まる。衣替えの様にそれをできる人間は生きやすいだろうが私は掃除が苦手なタイプで、ゴミも数週間に一回出し忘れる。忘れようとし、捨てようと決めたのにまた渋ってしまう。捨てるときにはたくさん捨ててしまって、空っぽになった部屋で不思議に思う。こんなに捨てなくてもよかったのに。



「別れようか」


 出た言葉は取り返せなかった。私が捨てたのはガスを抜き損ねたスプレー缶みたいなものだったらしい。小洒落たベーカリーで彼の罵詈雑言を浴びること数十分。

 クロワッサンは本当に美味しかった。味覚が特段鋭いわけじゃないけど、高級なバターを使っている事は分かった。半分残してしまって申し訳無い。食後に口にすべき言葉だった。「美味しかったね、別れようか」。今の時間は避けられなかっただろうが。

 万が一彼の気持ちが今収まったとして、私がクロワッサンに手を伸ばしたら、誠意がないとか言われてまた説教が始まるだろう。私は身動きがとれない。火が自然に消えていくのを待つしかない。

 こんなに外で騒げる人と長い間上手くやっていけるはずがない。別れるのは間違えた選択ではない。ただ切り出すタイミングを間違えただけだ。


 悪い人ではなかった。最初はこんな人じゃなかった。彼との甘美な日々がフラッシュバックするが、それらは美化に美化を重ねた結果だとすぐに気づいてしまう。悲劇のヒロインになることも許されなかった。悪い記憶では無かったはずだ。しかし「お前は」「お前のせいで」「お前が」「お前」「お前」「お前」「オマエ」「オマエ」「おまえ」が雑音で、良い思い出が浮かばない。


 彼が食べていたキッシュに唾が降りかかっている。作ってくれた人の悲しんでいる顔が思い浮かぶ。


「聞いてる?」


すぐに頷くのが正解だったのに、私はまた言葉を探してしまった。そのために


「俺はお前のために言ってるのに、お前は俺の好意すら無下にするのか」


というありがたいお言葉を受け取ってしまう。私はよく反省して、反省が滲み出た表情をすると、彼は深く頷いて話を再開する。さっきより多少落ち着いた諭す様な口調。いいチャンスだと立ち去っていく二人の男性。早く帰れと言わんばかりこちらを睨みつけている丸眼鏡の女性。



 空っぽの家に帰る事が想像しているよりずっと不幸じゃないと知った頃、彼氏ができた、今目の前にいるこの人だ。若さとお酒に溺れていた時の話だ。大学二年生の春だ。


 2人で夜遅くまで飲み歩いてばかりいた。彼は大学で出会った人の中では「安くてもちゃんと美味しい店」を知っている部類に入る人で、私は彼が今まで出会った人の中で「お酒の味が分かる」センスをもった部類の人間だった。そしてあの人にはお金があった。私には表面を取り繕う余裕があった。

 私たちは最高の友人だったはずなのだ。少なくとも私はそう思っていた。だから彼も私と同じ気持ちで、真夜中までの暇を潰す位の気持ちでお酒を流しこんでいるのだ。私はそうとも思っていた。



 「結構必死にアタックしてたんだけど」


もう両手の指じゃ足りないくらい二人で出かけた頃の事だ。この頃になると酒じゃ飽きたらず、ランチやスイーツにも手を出すようになっていた。私はこの行為が『デート』と分類されることを見逃していたのだ。


「付き合って欲しい」


体感的にはとても長い時間のあとの言葉、すごく重みのある言葉だった。天秤が頭の天辺で揺れている。彼と付き合うメリットとデメリットが思い付く限り積み重なっていく。

 ワインとカプレーゼがテーブルクロスの上でぐらぐら揺れている気がした。揺れがテーブルの足に、床に、粗末な店のシャンデリアに広がる。

 私の目を逃がすまいとする彼の目だけが、動きを止めている。金色の細いネックレスを丸い爪で弄びながら、私は、視線を逸らした。


 最終的な決断を後悔することはないだろうが、自分の価値を軽視しすぎた自分という視点で過去を回想することはある。



 最初はとても優しい人だったのだ。手を繋ぐ瞬間すら愛しいような付き合いをしていたはずなのだ。


「ごめんなさい」


クロワッサン。作ってくれたフランスで修行したであろう方。今までの時間。彼が買ってくれた時計。その時計を作ったスイス辺りの職人の方。今日塗ってきてしまった口紅。


「まだ話は終わってないぞ」


手首をぐるりと囲う手を力一杯跳ね除ける。自分にこんな力があったのかと感心する。財布から1000円を出して、さようなら、金の取手を強く押して逃げた。


 駅に向かって走ると広い道に出る。低めのヒールで来たために助けられていた。イチョウ並木が広がっていて、その下を人が歩いている。透き通った水色の空を背景にして走り続けた。道の片隅に落ち葉が溜まっている。時折潰された吸殻が落ちていて、それをわざと踏むように進んだ。乾いた風が横を通り過ぎる。

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ショート・ストーリー おかお @okao

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