2. くろ

 体の芯まで凍えきっている。指先の感覚がなく、痛いような気がした。土のにおい。右目を開けてみると土が目に入ってきた。地上はそう遠くないようで、視界は真っ暗ではなかった。光の有るところへ手らしきものと足らしきものを使って進んでいく。指がもげそう、でも進まなきゃ死んでるって事ははっきりと分かった。



 外も雪だった。誰もまだ手を付けていない柔らかな雪が一面に広がっている。

街灯がない、民家がない。服は長袖の薄いワンピース一枚で、靴も履いていない。夜になったらもっと寒くなるだろう。生きてはいられないかもしれない。だからどこかへ向かって進むしかなかった。右に向かって走る。ほとんど歩いたみたいな速さだったがその時出せる力の限りで走った。死にたくなかったが、死にたくない理由は分からなかった。足が雪に深く埋まってびりびりした。光を求めた。もしかしたらこっちは間違っていたかもしれない。でも今更戻るわけにも行かなくて、止まったらますます苦しいことも理解していた。

切れる息が白い。スカートの裾が冷たくて腹が立つ。鼻が痛い。全部が痛い。




ドアの隙間から橙色の光が漏れている。家の前には薪が置かれていて、太い煙突からは煙が盛んに出ている。そこには人の気配があった。

 駆け出す、足がもつれて転ぶ。それでも駆け出した、あと一歩が遠かった。届いた。それは嘘だった。手の指の本数が足りてないことに気づいた。どこに落としてきたんだろう。手を伸ばす。しかし今度こそは本当に手が届いた。ドアに体ごとぶつかる。何度もぶつかる。人が出てこない。殺す気か。くそ、くそ。


「まってました」


息がひゅうと漏れた。


*


「コーヒーと紅茶、どっちが好きですか」 

「コーヒー」

細縁の眼鏡をかけ直して彼は立ち上がる。部屋の奥のコンポから音が聞こえた。お母さんが嫌いだと言っていた『雑音をわざと作る』音楽。

座った椅子には分厚いクッションが敷かれていて、お腹が空いてさえいなければすぐに眠ってしまいそうだ。

 コーヒーの匂いが部屋に広がっていく。この家にいると、外が雪の世界であると忘れてしまいそうになる。窓がないからというのもあるが、見た目の割に丈夫な作りのようで、あの雪の中なのにビクともしない。


「お疲れ様でした」


そう言ってカップが置かれる。カップは温まりきっていて、触れるとかじかんだ手に染みた。コーヒーを一口含むとやっと一息つけた気がした。


「貴方を山で失わずに済んで良かった。こう言うときのために私はここにいる必要があるんです」


彼はなにも持たずに向かいの席に座って、両手を机上で遊ばせている。ブラウンのニット姿と皺ひとつない顔が釣り合っていない。風貌と落ち着き具合も不釣り合いだ。


「スコーンはお好きですか」

「うん」

「あと三十分で焼けます。今オーブンに入れた所です」


私はコーヒーを啜った。酸味が強くて好みではないが、美味しいコーヒーだった。


「どうやってこのような所で冬を越しているの」

「越す冬はありません。ここはずっと冬の季節です」

「私、ここに来る前は、めったに雪が降らない場所に住んでいた気がするの」


一年中雪が降り続くここと、私が存在していたかもしれない場所。どうやってここまで来たのかという記憶がすっかり抜け落ちていた。その事の危険性すら抜け落ちていた。お母さん、お父さんの薄ぼんやりした面影と故郷の思い出は夢見たくちらつくが、名前が思い出せるという訳ではなかった。


「ここは私みたいな人がよく来る場所?」

「いえ、人が駆け込んでくることは時々ありますが、あなたのようなことを言う人に会うのは初めてですね」


こちらから見て右側の口元にほくろが二つあった。人差し指一本分の隙間を開けて横並びになっている。彼が微笑むとほくろが動く。


「ずっとここに一人なの?」

「ご近所付き合いは時々します。ご近所といっても、ここからは見えないですがね」

「あんなに吹雪いているのに外に出られるのね」

「止みはしませんが周期的に吹雪が収まるときがあります。そこが狙い目です」

「買い物もそのタイミングでしているということね」

「しばらく山を降りれば町があります。そこから電車に乗れば都市へも行くことができます」

「じゃあこの家にあるものは全て持ってきたってこと?家を建てるのも一苦労ね」

「それは違います」


噛み合っていると思うと少しずれる。そんな会話を繰り返していると、自分の常識が曖昧になっていくように感じた。そもそも常識をくれた場所すら曖昧なのだから、それは当たり前のような気さえしてくる。キッチンの方からスコーンの甘い匂いがする。冷めたコーヒーはまだカップの四分の一を占めている。


「元から『私のもの』として用意されているものはあるじゃないですか」


決定的な考え方の違いがある。それが少しずつ浮かび上がる。


「それは生まれもった才能とか、そういうものの事」

「ではないですね。人には生まれもって与えられた役割があるじゃないですか。その延長線上に生まれもって分配されているものが存在するのです」

「あなたはここに分配されたから、ここに住んでいると」


黙って頷いた彼の瞳には一点の曇りすら見られなかった。それはとても不気味な事だった。


「こんな説明をしたのは初めてです。あなたは余程疑り深いらしい」


彼は喋りながらもキッチンに引っ込んだ。スコーンは完成したらしい。


「どうして人が皆同じ格好をしてこの家に来るのかとか、どうして僕はいつもコーヒーとスコーンを用意しているのか、とか、色々と考えることはあるんですよね。でも五秒経つとどうでも良くなってしまう」

「『ゲームみたい』とこの世界を表現した人がいます。しかし今生きている人に、そんな事を考える人はいません」

「先人達は安定と繰り返しを求めて、この世界を造ったんです......もちろんゲームの世界ではない、本当の世界での話です」


彼としては真実を伝えているつもりなのだろうか。それより彼の独り言、虚言といった方がしっくり来た。私に向かっての言葉ではない。聞きたいことが次々に出てくる、しかし戦慄と一抹の好奇心は、彼の手にもつ針に集約されていって、


「あなたも今日からこの世界の住人ですから」


消えた。


* * *



 硝子張りのオフィスは音で満ちている。その音達が人を急き立てて、今日も仕事は回っていく。

 平均より少しだけ高いヒール。新しくしたオレンジレッドのリップ。女だからとかいう考えに強制されたものではない。全ては自分の選択、自分のため。

 完成された街に似合うように、自分のセンスを尖らせて、社会に出た。

 トウキョウは私の期待を裏切らない街だった。かつて私がいた田舎にはびこる東京への偏見、冷たい都会のイメージはきっと数十年前のトウキョウの姿だ。「トウキョウなんてすむ場所じゃない」。母が言った言葉を信じなくてよかった。

 尖らせたセンスが崩されることなんて日常茶飯事で、それを恐れるがため、トウキョウを毛嫌いしたのだと思う。私だって、明日にはここにいられないほど醜くなっているかもしれない。

 新しいパンプスで、自分が一番の美人であるかのようにマンションを出ても、会社前の通りでは、もう自分を誇れない。自分が一位でないことを必ず思い知らされる。どれだけ足掻いてもダメなんだと思い知らされる。でも、そこが好きだ。


「ミーティングあと15分だから」

「はい」


*


 人並みに揉まれながら、意外にも私には考える時間が与えられた。『都会』の二文字を渇望しながらがむしゃらに進んだ子どもの頃の自分は、考えることを放棄していたような気がした。

 考えるほど、見えるものはフラットになる。哲学書なんて読まないから自分の考えることはどういう種類のものなのかも、それを発表する手だても知らない。ただ、家から会社までの六十五分間をもて余していただけだ。そして、人生を少しもて余していただけだ。


 都会は好きだ。完成されたものを壊すことに躊躇いがないから。それに追い付けない自分が少し悔しいだけだ。都会は何も悪くない。


 しかし、少し不安になる。私の人生は都会で完結していくのか。考えはするが、行動には移せない。こんなに沢山考えているのに、哲学者になりたいとも思わず、小説家になりたいとも思わない。入る学校に迷うこともなければ、誰と結婚するかすら、迷うこともなかった。私は脳味噌で前提を壊してはその先の社会を想像する事もある。それをいちいち悩むような無駄で溢れた世界を想像する事もある。しかしどうでも良いことだった。

この思考すら五秒後にはどうでもよくなるから。


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