第4話
見ると、道路を少し外れた森の中に、崩れかけた木の棒みたいなものが二本、並んで立っている。門だと言われれば、そういうふうにも見えた。
「こんなところに、だれか住んでるのかな?」
山奥とはいえ、道路沿いだから、家があるのは不思議でもない。でもその門は、とても車が入れそうには見えなかった。
「気になるなら、見てくる?」
「うーん……」
迷っている明人の横を、青葉がすり抜けていく。彼女は門らしきもののところまで近寄ると、奥を
「建物があるよ」振り返って笑う。「ちょっと探検しようよ」
青葉はそのままどんどん奥へ進んでしまう。仕方なく、わたしと明人も後を追った。二本の柱の間をくぐると、木々の隙間から、奥に小さな建物があるのが見えた。古い木造の平屋建てで、神社にしては生活感のある作りだったが、人が住むにしては狭すぎるように思えた。第一、かなり傷んでいる。
わたしたちが追いついたとき、青葉はもう入り口のガラス戸を開けていた。
「うわ、変な臭い」
腐った野菜のような独特の臭いが屋内から
靴のまま上がり込む。廊下にはものが散乱していた。食器や、衣類や、農具に古新聞。配置に規則性がない。最初からこうだったのか、だれかが荒らしていったのかはわからない。
明人がわたしの服を強めに引っ張る。そのせいでわたしは転びそうになった。
「ねえ、なんで止めないの」
「だって」と、わたしは答えた。「探検したいんでしょ?」
「おれは別に」
「おもしろいじゃん。お宝が眠ってるかもよ」
わたしは気安く言った。足元には、どす黒い液体の染みた座布団のようなものが横たわっている。スニーカーのかかとで、それを
もう青葉の姿は見えなくなっている。とはいえ小さな建物だし、はぐれる心配はなかった。廊下を進み、角を曲がると、突き当りに引き戸がある。
その戸が、わたしたちの見ている前で、すっと閉じた。
わたしと明人は顔を見合わせた。あとからわたしたちが来るとわかっているのに、どうしてわざわざ閉じるのだろう。なんとなく嫌な予感がした。わたしはやや速歩きになって、引き戸に手をかけ、一気に開けた。
三畳くらいの部屋だった。床は汚れた板張りで、ほこりが積もっていたけれど、それ以外はなぜか片付いていて、ものが散乱していることはなかった。
部屋の中央には布が
布は半透明で、その向こうに人影のようなものが見えた。青葉、と声をかけると、その人影の、首に当たる部分が動いた。それはちょうど、名前を呼ばれて振り返る仕草のようだった。
次の瞬間、人影は真ん中から、じわりと溶けるように消えてなくなった。
「え?」
わたしは慌てて布に駆け寄り、めくってみた。それはただの布だった。両手で
「青葉、青葉!」
妹の名前を大声で呼んだ。返事はない。明人は部屋の入り口で、凍りついたみたいに立ちすくんでいる。わたしは彼に呼びかけた。
「今の、見た?」
こくこくとうなずく。
「何を見た?」
「あ、青葉が、その布の向こうに歩いていって、それで……消えちゃった」
わたしの見たものと同じだ。一瞬、見間違いであってほしいと思ったが、その望みは
ふと明人のほうに目をやると、彼はさっき立っていた場所から、一歩も動いていなかった。
「何してるの、ちゃんと捜して!」
「え、あ……うん」
明人は気のない返事をして、それから申し訳程度に、手近にあった段ボール箱を裏返す。わたしは
それから、ふたりで手分けして、その廃屋の中を捜し回ったけれど、青葉は見つからなかった。その家は、外から見た通りの平屋建てで、家の裏には
どこにも彼女はいなかった。やっぱり青葉は、あの部屋で消えてしまったとしか思えなかった。
「夏日」
と、明人に名前を呼ばれて顔を上げたところで、初めて周囲が暗くなっていることに気づいた。もう夕方だった。
「家に帰ろうよ」
「でも、青葉が」
わたしの妹が。そう答えたけれど、明人は首を振った。
「先に家に帰ったのかもしれないよ」
「山道を、ひとりで?」
明人は視線をそらし、家を囲んでいる森の奥をちらちらと見ている。薄闇がだんだんとわたしたちを取り囲む。わたしは彼が何を言いたいのか、わかってきた。
「ほら、おじさんかおばさんが迎えに来たのかも……あ、それか、門のところにいるかもしれない」
明人は怖がっていた。とにかく早くここから出たくて、それでいろいろと言い訳を並べているのだろう。青葉のことは心配していないのか。いや、そもそも、彼には心配する理由がないのか。わたしは彼に近寄り、吐き捨てるように言った。
「あんた、このまま青葉が消えちゃえばいいって、そう思ってるでしょ」
さっと彼の顔色が変わる。
「ちが……そんな……そんなわけないだろ!」声が裏返った。「消えればいいなんて、そんな……そんな……」
不幸な事故がきっかけで、青葉と明人は「特別な関係」になった。彼女の顔に傷が残り続ける限り、その関係は終わらない。だから明人は絶対に青葉から離れられない。あの子が望むまで、絶対に。
「だったら、ここで誓える?」
「誓うって何を」
「青葉を絶対に見つけ出す、って。青葉が見つかるまで、ずっと捜し続けるって」
明人に詰め寄った。それは八つ当たりのようなものだった。青葉の顔に傷をつけたことで、彼を許していなかったのは、実はわたしのほうだったのかもしれない。わたしは明人のことが憎くて、青葉が消えたことで混乱してもいて、だから、わたしはその場で彼をなじった。
しかし、明人は何も答えなかった。うんざりしたわたしは、もういい、と吐き捨てて、歩き出した。その後から、明人が慌ててついてきた。
門をくぐって外に出たわたしと明人は、そのまま来た道を戻った。さっきは三人で歩いた道を、今はふたりで歩いている。お互いに何も話さなかった。話したいとも思わなかった。夕暮れ時の山はしんと冷えて、遠くからわけのわからない鳥の声などが聞こえたけど、別に怖くはなかった。目の前で人が消えてしまうことのほうがよっぽど怖かった。家に帰って、両親になんて言えばよいのだろうと思うと、それも怖かった。
けれど、そんなものよりもっと怖かったのは、青葉がいなくなって、不思議とわたし自身も肩の荷が下りたような気持ちがしていたことだった。何か嫌な感情を彼女に押しつけて、そのまま消し去ったような感じがしていた。そういうふうに感じてしまうことも怖かったし、青葉と一緒に消えてしまったわたし自身の感情がなんだったのか、思い出せないのも怖かった。
急にどうしようもない不安が襲って、わたしはとうとう歩けなくなった。
そのとき、不意にだれかの体温が、わたしの体に触れた。
「大丈夫」明人が、わたしの肩をそっと抱いていた。「約束するよ。青葉は、おれが必ず見つけるから」
これがあの日、わたしと、明人と、そして青葉に起きたことだ。それでは最後に、こういう話のお約束を付け加えておく。
わたしたちは、あの家には二度と行くことができなかった。事件があった次の日、わたしと明人とでさっそく行ってみたのだけれど、何度あの道を通っても、建物はおろか、目印の門柱さえ見つからなかった。道を間違えているのか、タイミングよく取り壊されたのか、原因はわからない。青葉を飲み込んだことで満足し、家ごと蒸発してしまった、という説明がもっともしっくり来る。が、そんなはずはないだろう。
そういうわけで、青葉は見つからなかった。もちろん、今日までずっと見つかっていない。彼女は完全に消えてしまった。わたしの人生から。
この出来事から何ヶ月か経った頃、明人は両親の仕事の都合で県外へ引っ越すことになった。彼はとても悔しがっていた。青葉を見つけられないまま、町を去るのは残念だ、と。一方のわたしは冷ややかだった。そんなもの、ポーズに決まってる。忌まわしい土地を離れられてせいせいするはずだ。でも、二度と会わないかもしれない相手にそんな言葉をかけて別れるのは後味が悪いと思ったので、わたしは何も言わなかった。ただ、またどこかで、とだけ言った。
どんなお話にもパターンは存在する。わたしはそういうものを読み解くのが得意だ。妹が消え、残されたふたりは、それでも前を向いてそれぞれの人生を生きていく。そういう話なら、わたしにも想像がついた。
でも、この話はそうじゃなかった。
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