第2話

 わたしたちの暮らす集落には沢が流れていて、そこはゲンジボタルのぐんせい地として有名だった。六月のある夕方、わたしと青葉とでホタルを見に行こうということになり、浴衣ゆかたを着て、沢へ向かった。あたりは薄暗くなっていて、ぎょわぎょわというカエルの鳴き声がホワイトノイズみたいにあたりを満たしていた。

 ふたりで沢へ続く坂道を下りていくとき、何か風を切るような音がした。と、ちょうど青葉がふらふらと車道側へ出て行った。あとから聞いた話では、道の向こうの生け垣にあじさいが咲いていて、それをわたしに見せたかったのだそうだ。

 次の瞬間、黒い大きな塊が青葉にぶつかってきて、彼女の体をはね飛ばした。明人も、友達とホタルを見る約束をし、自転車に乗って家を出た。まだ多少は明るかったから、ライトをつける必要はないと思ったらしい。

 青葉は道路脇のガードレールに顔から突っ込み、そこで倒れた。近寄ると、彼女の顔は血まみれになっていて、おびただしい血液がアスファルトの上を流れていった。わたしはそこで気を失った。あとのことは覚えていない。

 次に覚えているのは、青葉の入院していた病室に、明人がやってきたときのことだった。青葉の顔には包帯がぐるぐると巻かれていた。真っ青な顔をして、両親と一緒に頭を下げる明人。恨みがましいような、さげすむような、複雑な表情で彼らを見つめるわたしの母。その中でもじっと明人に視線を注ぐ青葉。

「本当になんとおびすればよいか……」

「うちの娘は」母が言った。「一生、顔に傷が残ると言われたんですよ。だいたい、無灯火の自転車なんて非常識な」

「申し訳ありません!」

 大人同士がぎすぎすと感情をぶつけ合う様子を見たのは、それが初めてだったので、まるでドラマみたいだな、と思った。自分の親というものは、そういった生活感のない会話とは無縁の生き物だと思っていたので、わたしは面食らった。

 ところが、当の青葉は落ち着き払って、それどころか微笑まで浮かべて、そのやりとりを楽しそうに眺めていた。そんな彼女の態度が、最初は奇妙に感じられたけれど、次第にその意味がわかってきた。

 そうだ、青葉はこういうことを待ち望んでいたんじゃないか。

「明人」

 顔の包帯をそっと手のひらで押さえながら、青葉が口を開いた。傷がずきずきして、しゃべるのもおつくうだと言っていた彼女が、わざわざ。

「わたし、明人のこと、怒ってないよ。許してあげる。その代わり」

 ずっと仲良くしてね、と、青葉は笑って言った。それで、彼女と明人との関係は決まってしまった。

 数週間後、青葉は退院した。包帯の取れた彼女の顔には、引きつれたように大きな傷が走っていた。目を背けたくなるほどではないが、前に立てば注目せざるを得ない程度の傷あと。それが皮膚を引っ張るせいで、彼女の唇は少しだけ右上を向いていた。

 だけど、その傷のことを青葉はまるで気にしなかった。これは運命だから、と彼女は言った。

「ほら、言ったでしょう?」

 美しい物語の中盤には、たいてい、障害と困難が待っている。それがこれなのだと青葉は言った。

「明人と結ばれるように、この傷痕をもらったの」

 わたしは何も言えなかった。いや、言いたいことはいくらでもあった。あの事故は単なる偶然で、運命なんかじゃない。たしかに、あれ以来、明人とわたしたちは一緒に登下校するようになった。でも、それは世間体と罪悪感がそうさせるからで、被害者と加害者になった青葉と明人はもう、純粋な関係には戻れない。だから、これは恋の運命なんかじゃない。

 そう言ってやることは簡単だったけど、そうしなかった。だって、だとしたらこの子はどうなる?

 顔に傷を負って、恋人になれたかもしれないおさなじみとの関係は粉々になって、この世界にひとり放り出される?

 それはあまりに残酷だ。わたしは彼女を抱きしめて、それからは、彼女の物語にわたしも付き合うと決めた。彼女が明人の誕生日プレゼントを買うといえばついていき、ふたりで頭を悩ませて選んだ。青葉が見つけたのは、何やら十字架を組み合わせたデザインのペンダントで、今から考えるとかなり子供じみた代物だったけれど、当時はものすごくおしゃれに思えたから、それを買った。明人の家に押しかけ、困惑する彼の両親の視線を感じながらお誕生日会を開き、プレゼントを渡した。次の日から、彼が毎日のようにそのペンダントを身に着けているのを見て、一緒に喜んだ。

 ときどき、青葉はわたしに尋ねた。このお話の続きはどうなるの。これからふたりにはどんな出来事が待ってるの。そのたびにわたしは新しいイベントを設定した。次は明人と買い物に行く。次はラブレターを書いて学校で渡す。次は下校中に手をつなぐ。だけど、他の子に見られちゃだめ。

 彼女の物語は順調に進んでいった。それとともに、明人も少しずつ、青葉に心を開いているように見えた。言葉遣いに遠慮がなくなり、呼び名も「おおはしさん」から「青葉さん」になり「青葉」になった。わたしのこともそれに合わせて呼び捨てするようになった。

 それはよいことだったのだけど、わたしは首をかしげていた。明人は、本当に青葉にかれているのだろうか。それとも、彼を支えているのはやっぱり青葉への罪悪感で、ただ表面上ではそれがばれないよう取り繕っているのだろうか。

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