第11話 初めての反抗
落ち着きを取り戻したヴィンセントを寝かし付けた後、アリュインは本部に滞在中の会長と魔導士を会長室に召集して緊急会議を行った。掟により邪悪な存在を目視で確認することができなくても気配を察知することはできていたようなので、話の進行が早かった。集まったのは会長のアデル、〈
「……ふむ、やはりあの気配はケイファーだったか」
アデルは溜め息混じりに言った。
「だが、奇妙な話じゃのう。奴がヴィンセントの存在をどこで知り、そして固執する理由が見当たらん。しかも腕を持って行くとは相当気に入っているようだしのう……」
「ヴィンセントはケイファーと面識はないと言っている。とにかくあらゆる手を使って今は落ち着いたが、深淵との共鳴もある以上、精神的に不安定な日が続くだろうな。何とか特訓と並行してケアをしてやるつもりだが、それよりも……」
「アニータ、ね」
パトリシアが口を挟む。
「ああ。距離が近え関係だし、いきなりヴィンセントと会ってしまえばパニックを起こしかねねえ。事前に知らせておくべきか……」
「それなら私に任せてちょうだい。時期を見計らって二人で話してみるわ。こんな時に掟が……なんて言わないわよね、会長?」
「緊急事態じゃ、仕方あるまい。ヨナとツェザーリに見られぬよう気を付けるのじゃぞ」
「わかってるわ」頷くパトリシア。
「なら、俺は」デューイが口を開く。「他の魔導士達に伝えておこう。事前に知らせれば最低限の配慮くらいはできるだろう。それからケイファーの動向も調査してみようと思う。あまり期待できるような収穫はないと思うが」
「ありがてえ。頼んだぜ、パトリシア、デューイ」
珍しく弱気なアリュインは三人に深々と頭を下げた。他人にこんな態度を取ることのない彼だが、今回の事件は相当ショックを受けたのだろう。その様子に三人はどうしても協力したくなってしまった。余程ヴィンセントが気に入ったのか、あるいは自身の過去と重ねて情が移ってしまっているのか……誰も尋ねることはしなかったが、何かあることは勘付いていた。
「外のことは儂らに任せて、お前はヴィンセントの元へ戻りなさい。ルインの特訓はまだまだ道半ばじゃ。義手を着けて続けるか、ヒースコートのように片腕で行うかは少年次第。お前は余計なことを言わずに選択肢だけを与えなさい。良いな?」
「ああ」
消え入るような弱々しい声で返事をしたアリュインは険しい色を浮かべたまま会長室を去って行った。その背中がドアの奥に消えるまで見届けた三名は彼のおかしな態度に顔を見合わせる。
「何だか……調子が狂うわね」
「全くじゃ」アデルは同意して大きく頷いた。「事件よりも奴の慌てっぷりの方にこちらが動揺してしまいそうじゃわい」
「あの少年に相当感情移入してしまっている。ルインの指導者とは言え、近過ぎる関係はいずれ何かしらの崩壊を招く。そうなる前に指導者を交代させた方がいいと俺は提案する」
「バカを言え。今までそんな例はないし、二人の信頼関係に関わる問題じゃぞ? ルインの力を引き出すには絶対的な信頼関係が必要で、それこそ今、二人を引き離せば望まぬ結果になることは明白。しばらくは逐一状況を報告させつつ傍観するしかなかろう」
「賛成しかねるところだが……」アデルの返答に不満げなデューイだったが、溜め息をついて続けた。「仕方ないのかもしれないな。あのアリュインがあれだけ気にかけるんだ、無理に引き離さない方がいいのだろう」
口ではそう言っているものの、やはりアデルの提案に納得できていないデューイの色は確実に曇っていた。自身もルインの訓練を受けていたからこそわかる、指導者と築き上げる深い関係がもたらす危険性。訓練が終了すればその関係が完全に解消されるというわけでもなく、その後も人間関係として継続していく。つまり、今後の魔導士生活に影響を及ぼすことになりかねず、もちろん、習得したルインの質もだが、もはや人生そのものを左右すると言っても過言ではない。アデルの不安の種の一つ、ルインの訓練についても理解できるが、デューイの発言も一理ある。強い結束はほんのわずかな小隙で大きく切り裂かれる可能性も否定できないのだ。ルインというものは使用者の精神状態を表す鏡そのものであり、それが悪化すればルインは暴走し、他人だけでなく自らをも傷つけてしまうし、そうなることで時として取り返しのつかない事態が起こるわけだ。アデル本人もそれを承知の上であったが、あえて傍観を選択した。ヴィンセントとアリュインの信頼関係に賭けをしたのだ。もし、デューイの不安が的中した時はアデルがその大きな責任を取ることになるだろう。
不安を抱えたままのアリュインはその足で地下の訓練場に戻った。ヴィンセントの寝顔を見て無事を確認し、静かにドアを閉めて大きな溜め息をつく。瞬間に岩石のような疲労がどっと両肩にのしかかり、足がふらついたアリュインは限界を感じて近くの無造作に置かれた椅子に腰を落ち着かせる。
足を投げ出し、両腕を組んでうな垂れる。今まで気を張り続けていたせいか、疲労感が一気に押し寄せてきたようだ。頭痛もするし食欲も湧いてこない。体は鉛そのもので、脳は既に労働をやめてしまっている。思考する気力もなければ体力もなく、アリュインは完全に疲弊している。その度合いは本人の想像を上回っていて、しかも急に襲ってきたものだから抗うことなんて無理な話。目の前の問題に必死になって対処していたアリュインはまるで抜け殻のようである。
顔を上げることすら億劫だった。もうここから動きたくない気持ちでいっぱいだ。せめて自室で休息を取れてばいいのだが、それを行動に移す前に彼は気絶するように意識を失ってしまったのだった。
次に飛び起きた時、アリュインはしまったという表情で立ち上がり、その勢いで椅子は背中から倒れた。
気付けば朝を迎えていた。それが発覚したのは大広間に向かった時で、窓から差し込む朝陽はどんよりとした気分のアリュインには眩しすぎたようで彼は目を細めて朝食を用意し、早々に地下の訓練場へ戻る。
端に寄せていたテーブル等を中央に持ってきて食事を乗せたトレイを置き、ヴィンセントの様子を伺いに彼の部屋をノックする。……返事を待つが応答はない。まだ眠っているのかと静かに中を覗くと、ベッドの上で上半身を起こしたヴィンセントの姿が確認できた。ぼうっとした様子で一点を見つめている。虚ろな目でまるでアリュインに気付こうとしない。
「起きてたのか」
一言、声をかけると、ハッとしてアリュインに顔を向けた。昨夜よりは顔色が良く、右肩の痛みも和らいでいて、精神的にも落ち着きを取り戻せているようだった。
「飯だぞ」
「アリュインさん、おはようございます」
「早く来い。飯が冷める」
「あ、はい。今行きます」
ヴィンセントはアリュインを追いかけるようにしてベッドから降り、部屋を出て食卓につく。互いの顔を合わせるように着席し、無言のまま食事を始めた。
パンをちぎって口に運ぶ二人。トマト風味のスープが湯気を立て、木製のジョッキに注がれたブドウジュースは持ち手の顔を鏡のように移す。会話はなく、双方とも黙々と食べ進め、あっという間に完食してしまったのだった。
「気分はどうだ」
空になった食器に視線を落としたアリュインが尋ねる。決して目を合わせようとしないアリュインの様子に違和感を抱きつつも少年は質問に答えた。
「まだ……」一旦、口を閉じる。「まだ……自分の中で混乱していて。なんだかあの人に見覚えがあるような気が……でも、そんなはずもなくて、僕はこの現実にどう向き合えばいいのかわからない、というのが正直な気持ちです」
「まあ、そんなところだと思っていた。が、お前が答えを掴むまで暢気に待っていられるほどの時間はねえ。まずは義手を使用するか否か決めてもらわねえとな」
「義手?」
「ああ。装着者の魔力を流し込んで動かす特殊な物だ。装着時は常に魔力を消費するが、元の腕と変わらねえ動作ができる。〈
少しの時間すら惜しいということは考えずとも理解できていたヴィンセント。元のようにそれが動いてくれるなら……答えは一つだ。
「僕は義手を使いたいです」
「よし」食卓に両手をついて立ち上がるアリュイン。「すぐに義肢装具士に連絡して寸法をとってもらわねえとな。俺はこれを片付けて用事を済ませてくる。戻ったらお前の魔力属性と、あの男……ケイファーの話をしよう。それまでに準備体操を終わらせておけ。話が落ち着いたらすぐ魔法の訓練を始める」
「わかりました、アリュインさん」
少年の迷いのない返事に頷いたアリュインは重ねた食器を乗せたトレイを持って訓練場を出て行った。
一人になったヴィンセントは食卓と椅子を端に持って行き、不便さを実感しながら体の右側に視線を移す。垂れ下がっていたはずの肌色の棒はなく、揺れ動く服の袖の中はすっからかんだ。未だに氷そのものに直接触れているかのような鋭利な痛みが晴れず、その感覚はヴィンセントを一晩中悩ませる原因となっていた。手の平で包むようにして暖めても、別の痛みで塗り替えようとしても全てが無駄に終わり、右肩で発生し続ける寒気が背中を伝って全身に広がっていくばかりで、ヴィンセントの体は常に冷え切っている状態だった。しかし、不思議と不快感はなく、むしろ懐かしさすら感じてしまっている。どこで経験したのか思い出すことができないこの感覚こそが少年にとっての不快感となっているのは間違いない。
アリュインの指示通りに準備体操に取りかかる。体の筋をゆっくり伸ばし、前屈みになって床に手をつき、次は後ろに反って反転した世界を見る。それから体を戻し、訓練場の壁に沿うようにして小走りでゆっくり走り始める。五周もすれば体はだいぶ暖まるだろう。
それらが終わって少しも経てば指導者は颯爽と戻って来た。手には細い帯のような紐を持っている。
「ここには訓練生と指導者以外の立ち入りが許可されていねえからな。義肢装具士に代わって俺が寸法をとることになった。両腕……ああ、左腕と右肩が一直線になるように上げろ。そんで少しの間、黙っててくれ」
言われた通りに腕を上げて息を殺すように直立するヴィンセント。その中、持参した紐を肩や肘、更には指の一本、一本まで細かく測定していく。手の平の幅や厚みも数値化し、小さな手帳にそれらを記録。「もういいぞ」と言われた頃には左腕が小刻みに震え出していた。
「まだ成長期だ。成人した頃にはまた作り直すことになるだろう。それまでは微調整を繰り返して使っていくことになる。後はお前の使い方次第ってこった」
「出来上がるまでどのくらいかかるんです?」
「ああと……優先的に作らせても最低で一週間だ。それまでにお前に魔力の扱い方を叩き込む。完璧に習得しなきゃ義手はお預けってところだ」
「それは! ……困ります。アニータが今の僕を見たら何て思うか……」
心配事はそれか、と突っ込みたくなったアリュインだったが、そこはぐっと我慢して言葉を呑み込んだ。
「なら、死ぬ気で覚えるこった」
アリュインは紐をズボンのポケットに入れ、ヴィンセントの左手首をおもむろに握った。何を始める気なのかと首を傾げたヴィンセントだったが、次の瞬間には強い恐怖の色が浮かび上がってアリュインの手を振り払った。見開いた目で己の指導者を見つめる。
「な、何を……」
「ケイファーがお前にしたことを同じようにしようとしただけだ」
言葉に詰まるヴィンセントは握られた左手首を見るが、見た目に異常はなく、それに痛みなどの感覚もないことに、つい安堵してしまう。
「アリュインさんにもできるんですか……僕の腕を奪うこと」
「ああ。これだけ長く魔導士をやっていりゃ肉体の一部を消滅させることなんて容易い。お前もいずれできる時が来るさ。悪魔を体内に取り込むことになれば、な」
「悪魔……アリュインさん、それは本気で……」
「信じるかどうかはお前次第。時が訪れたら話してやるよ。……さて、ケイファーのことを教えるんだったな。ああ、そうだな。奴は元はここに所属していた魔導士だ。それも〈
例の男について口にするのが苦しそうなアリュインは気を紛らわせるためか、ヴィンセントに付き合うよう促して訓練場の中で息が上がらない程度で走り始めた。
「ケイファーは魔導士会で最も長くその座に居座り続けた人物で、唯一、〈星託者〉を回避した魔導士でもある。〈星託者〉はわかるよな?」
「はい。でも、ルインを使い続ければ身体の自由は奪われるんですよね? そんな風には全く見えなかった。むしろ、もの凄い冷気を放っていて……」
「奴が〈星託者〉を回避できた理由は一つ。新たな力を求めてソウルドレインの王、ソウルドレイン・ルージャに取り入って邪悪な存在と化したからだ。完全に寝返った哀れな男ケイファーは二人の魔導士を惨殺し、魔導士会の危機を感じた会長の命令によって数人がかりでケイファーを取り押さえて〈
少年はすぐに返答する言葉が見つからず沈黙してしまった。
まさにアリュインが口にしていた「哀れな男」という表現が適当な背景だとヴィンセントは第一に思った。魔導士の理に外れた道を歩んででも更なる力を欲する何て、魔導士会の誰もが許さないはずだとも思った。自身のためなら人すら殺める人物は果たして自分の周囲に存在していただろうか? 少年は己にひたすら問いかけたが答えが導き出されることはなかった。
「あの人は僕のことを知っていました」唐突に話を切り出す。「だから、僕もあの人を知っているんだと思います。かけられた呪いのせいで忘れちゃってるだけで……でも、全く思い出せない」
「そんなもんでまかせに決まってんだろ。お前が生まれる頃にはもうとっくにソウルドレインになっちまってるんだからな。今はそれより魔法の練習に集中してくれ」
どうにかしてケイファーから意識を逸らしたいアリュインだったが、右腕を取られてしまった以上、ケイファーとの繋がりを断ち切ることは不可能であり、それとの過度な干渉は共鳴の度合いに影響してしまうことになりかねない。せめてルインを習得するまでは……少年が戦う術を身に付けるまでは……精神だけでもケイファーから引き離さなければ指導者として名がすたる。
十分に体が暖まり、アリュインは半ば強引に話を終了させて魔法の特訓に移った。それに対し納得がいかないヴィンセントではあったが、男のことをあまり考えたくない気持ちも多少ながらあるようで不満をぐっとこらえた。
「お前が扱える魔法は重力のただ一つ。最も発現率が低い属性で……つまり、お前はかなりレアケースだ。日常で使うこともできるが他に比べて制御が難しく暴走しやすいという危険性がある。〈大鎌のルイン〉同様、暴走すれば多くの人間が死に、街が崩壊しかねん。そうならねえためにもお前は人一倍慎重に魔法を使わにゃなんねえわけだ。いいか、何度も言うがこれは遊びじゃない。自分もそうだが、他人の生死にも関わってくる。だから俺は本気で指導するぞ。いいな?」
真っ直ぐで偽りのないアリュインの目はヴィンセントの背筋を伸ばさせ、緊張感を持たせるのに十分なくらい力強いものだった。少年の脳裏にはアニータの笑顔がよぎり、決意を秘めて左手に拳を作る。彼女からの贈り物が疼き、じんわりと温かくなるのを感じた。
残る四ヶ月の間、ヴィンセントはアリュインの容赦ない指導を受けて猛特訓の日々を過ごすことになった。運良く深淵との共鳴で体調不良に見舞われることもなく、順調に魔法とルインの練習をこなし、出来上がった義手も大きな問題なく少年の体に馴染んでいっていた。ヴィンセント本人も確かな手応えを感じることができると同時に魔導士としての自覚も芽生えてきていたのだった。
合間を縫い、アリュインはというと古に滅んだという北の民族について調べていた。〈ニーニェ〉と呼ばれた少数民族で、ヨリプトの皇族と信仰もあり、色素が極端に薄い等、容姿に特徴があったと記載されていたが、どうしても彼の中で引っかかってしまう頭髪の色。白髪ならほぼ間違いなく〈ニーニェ〉の血が流れていると書かれているが、信じることができないでいた。
……何故、今まで気付かなかったんだ!
とにかくアリュインは自身を殴り飛ばしたい衝動に駆られていた。よく考えればすぐに話が繋がることだというのに……無意識のうちにそれを拒絶していたというのか? ヴィンセントとケイファーの頭髪が同じ色をしているという事実を。もし、そう、万が一、二人に血縁関係があったとして、〈ニーニェ〉が内乱により血を絶ったのが今から一◯◯年以上も前で、年齢的にケイファーが最後の生き残りであると言える。なら、ヴィンセントは? 弱冠一五歳の少年で、サイファルース人の両親を持ったごく普通の人間なのに頭髪は紛れもなく白。本当の両親は別に存在するのか、それとも先祖返りでもしたのか……まさか、ケイファーの隠し子とでも? とにかくおかしい。情報の辻褄は合うどころかこじれていくばかりだ。
これを会長や他の魔導士たちに打ち明けることはできなかった。自分だけが気付いていなかったかもしれないという恥とプライドが言葉の通り道を邪魔していたからだ。そのうち疑問だけが浮かぶようになり、口外する気すら失せてしまっていた。
ヴィンセントと顔を合わせるたびに悶々と悩みながら指導を続けるアリュインに対し、少年ヴィンセントは着実に魔法とルインを習得して力を強めていた。やはりそうなったか、というのがアリュインの感想だった。数あるルインの中でも〈
四ヶ月という時間は突風の如く過ぎ去った。気付けば夏は終わり、季節は冬を目の前にした秋を迎えていたことをヴィンセントは知らない。だが、今日をもってしてその乾いた空気に触れ、散りゆく枯葉を踏み、肌寒くなりつつある気温に身を晒すことになる。高い空を細めた目で見上げ、四ヶ月ぶりに太陽の光を浴びるのだ。
「ヴィンセント、会長がお呼びだ」
その日の朝。食事を片したアリュインがそう告げた。
「わかりました」
返事をした主は凛々しい表情で頷く。アリュインの厳しい訓練のおかげか、それともそういう時期だったのか、身長は一◯センチほど伸び、肩幅も広がって男らしい体付きになっていた。手入れが全くされていない伸び放題だった髪の毛は鎖骨につく程度まで切って整え、地下の訓練場に入る前とはまるで別人である。魔力を流し込み、それが可視化されて数本の筋のように表面を走る右腕の義手はうっすらと青い光を放っていた。サイズを微調整した、アニータが選んだ洋服に身を包み、少年は固い表情でアリュインと共に会長室へ足を運んだ。
窓から差し込む自然光はとても新鮮で、色付いた柔らかい光で懐郷の念に駆られつつもどこか不快で仕方がなかった。それは両親の顔を思い出すからなのか、それとも自分自身がこの状況に馴染んでしまったが故なのか、それはわからなかったが、とにかく複雑な感情が渦巻いていることは確かだ。アリュイン意外と顔を合わせることも億劫で、こんな日に限って気分も下降気味だった。
「失礼します」
アリュインに続いて会長室に踏み入るヴィンセントは軽く頭を下げた。目線の先には両手を後ろで組んで二人を待っていた会長のアデル・オルビーは変わらず、むしろ大きな変化を遂げたヴィンセントに驚いているようだ。
「半年に渡るルインの指導、ご苦労じゃったな、アリュイン。ヴィンセントも多数の困難を乗り越え、よくここまで頑張ったものじゃ。その腕については……」少年の義手に視線を向ける。「本当に災難としか言えん。助けに行きたいのは山々じゃったが、これ以上の星の掟を破るわけにはいかん。儂ら魔導士は星に従うことでその力を得ているからのう。アニータの件で力を多少失っている我々はもう掟を破るのは躊躇するのじゃよ。許しておくれ、ヴィンセント少年。本当にすまなかった。
「いいんです、会長」声変わりの最中で多少ガサついた声の少年は首を横に振った。「僕はそのことに関して誰も恨んでませんし、むしろ感謝すらしてるんです。こうなったことで僕の心に火がついたので」
「なるほど。随分と精神的にも成長しているようじゃな。アリュインもさぞ嬉しかろう」
そう言われてアリュインの顔を見ると何故かこわばっていたのが不思議だった。彼はヴィンセントと目を合わせないどころか口すら開かない。その様子に何かを察していたアデルは早めに話を切り上げることにしたようだった。
「ヴィンセントよ、本日にてルインの訓練は終了じゃ。これからヨリプトの両親への挨拶と報告をして来なさい。その後、何をするかはお前の自由。魔導士会への貢献は忘れぬようにな」
「はい! では、行って来ます」
「気を付けて」
ヴィンセントは再びお辞儀をして会長室を去った。
「さて……」
アデルの顔から穏やかな色が消え、真っ直ぐにアリュインを見据える。
「何か言いたげじゃな?」
「ヴィンセントのことで」
「ほう」
「あいつ、あの北の〈ニーニェ〉かもしれねえんだ。髪も白いし、皇族と同じ字を書くし……」
「ケイファーと血縁者とでも言いたいのかね?」
「いや! そういうわけじゃねえが……」
「ただ一つ言えるのは、あの子はただの人間ではないということじゃ。ケイファーとの血縁関係も否定できん。皆、それにはもう気付いておる。破滅した〈ニーニェ〉の生き残りかと」
やはりか、と言葉に詰まるアリュイン。
「じゃが、全て憶測にすぎん。そこでお前に命じるヴィンセントの素性、ケイファーとの関係を秘密裏に調査するのじゃ。他の誰にも口外してはならん。よいな?」
「……了解」
ヴィンセントの表情は暗く、唇は血色が悪い。部屋を出てドアに背中をつけて密かにアデルとアリュインの会話を盗み聞いていた少年に後悔はなかったが良い気はしなかった。
静かにその場を離れて廊下を歩いていると、ばったりとアニータと鉢合わせた。互いに目を丸くし、久々の再会でよそよそしさを感じるヴィンセント余所に何故か両手で顔を覆って泣き出してしまった。ヴィンセントは戸惑いを隠しきれない。
「ど、どうしたの?」
「腕が……腕が……」
彼女はそれだけを繰り返しながら嗚咽を漏らす。わかっていたことだった。パトリシアに呼び出されてその事実を聞いた時、心に大穴がぽっかり空いたような感覚だった。信じられず、受け入れられず、それでも本当だと言われて大泣きした、激しい雨音が鳴り続いたあの日。一度は受容したものの、やはり本人を前にすると真実の深刻さに悲しみが抑えきれない。
「ごめん」
呟いたヴィンセントは泣きじゃくるアニータを抱き締めてやることしかできなかった。
「僕は大丈夫。だからアニータも泣かないで。アニータの笑った顔が見たいんだ」
「……うん」
濡れた頬を手で拭い、顔を上げると目線が自分より上になったヴィンセントが微笑んでいた。つられるようにして笑顔を見せるアニータは左手の薬指に右手を重ねて強く握る。
……すっかり男らしくなっちゃって、もう。
「ねえ、今からどこか行くんでしょ?」
「うん。父さんと母さんのところに」
「あたしも着いて行っていい?」
ヴィンセントの顔が曇る。
「何を言われるかわからないんだよ? 汚い言葉を平気で使うかもしれないし」
「そんなの百も承知よ。ただ、その後に付き合ってほしい用事があるんだけど」
「本当の目的はそれ?」
「半分はね。残りの半分は霊薬の譲渡人としての最後の仕事を終わらせるためよ。引越し後の両親の様子を見るのと、ルイン訓練後の挨拶の付き添いってとこ」
「まあ、そういうことならいいけど……」
何かを期待していたのか、ヴィンセントは少々不機嫌そうにそっぽを向く。心配で泣き出したのを慰めたら手の平を返したようにいつもの調子で淡々と仕事の話を始めるアニータは気分屋とでも言うべきか。放って置いても勝手に泣き止んだのではないかとヴィンセントは心の中で文句を漏らしたが、すぐに気にするほどでもないことだと自己解決に至ったのは成長の証だろう。
「行こうか」
頷くアニータとヴィンセントは例の衣装部屋に歩を進める。
相変わらずそこは空気が停滞していて埃臭い場所だった。息を止めるようにしてぽつねんと佇む年季の入ったクローゼットを開け、古着を押しやりながらためらうことなく奥へ、奥へと突き進んだ。視界が暗黒に包まれても歩みを止めず、ヴィンセントは今では忌わしくも愛情を捨てきれない両親の険しい顔を思い浮かべながらヨリプトの地を踏んだ。
香が焚かれていない無人の部屋を抜け、屋敷を出たところで両親の引越し先の住所を尋ね忘れるという失態に気付いたヴィンセント。少々慌てた様子でアニータに質問を投げかける。
「そういえば……」
「住所、でしょ?」遮るようにアニータは言った。「やっぱりどこかしら抜けてるのね、アンタって」
「ご、ごめん」
「こっちよ、着いて来て」
威勢良く先頭を保っていたヴィンセントだったが、結局アニータの背中を追うことになってしまった。たった半年、されど半年、人は成長しても完璧にはなれないと言うことだ。しかし、その欠点を消すことはできなくても補うことは可能だ。少年は気付いていないがまさにその役を担っているのはアニータである。知らず知らずに助け合い、自身の欠点と補う術を知り、自分にとって有益な人間関係を築いていく。それらを意図的に行なっているのだとしたら、少年は大きな成長を遂げたと言えただろう。
二人は人混みを突っ切って住宅街に向かう。一気に人通りが減り、住民よりも巡回中の衛兵がよく目につく。昼前だからか主婦が多く出歩き、時折、民家から男女の怒鳴り声が聞こえて来た。それを耳にした途端、ヴィンセントの表情に翳りが表れる。
広い通りから路地に入ってすぐに三階建の多少古びたレンガ調の民家の前でアニータが足を止めた。
「ここよ。アンタの親をここに押し込むの大変だったんだから」
「……どういうこと?」
「もっと良いところに引越しさせろって駄々をこねられたのよ。魔導士の家族は原則として魔導士会が所有する住居にしか入ることができないから、アンタの親が指定して来た別の賃貸は却下されてどうにか説得したのよ。しかも三人がかりでね」
ヴィンセントは何も言わなかったがアニータは続けた。
「あたしとパトリシア、レヴィンの三人で小一時間は説明を続けたのよ? あのパトリシアの顔が引きつってたくらいだから……アンタの親って相当な頑固者なのね」
完全に口を閉ざしたヴィンセントは両親との対面が更に億劫で嫌気が差してしまっていた。アニータが言う両親とは別人なのではないか、とさえ思い始めるほどヴィンセントが知る両親の性格と異なっていたからだ。確かに周囲の環境が崩壊して畑が上手くいかなくなってから多少横暴にはなってはいたが、贅沢は言わないし頑固者でもないはずだった。そう、はずだったのだ……。
深呼吸を何度か繰り返す。決意し、ドアを強めに三回ノックした。……返事がない。もう一度ノックしようとした時、中から足音が聞こえて鍵が外れる音の次にはドアが勢いよく開いた。
「お久しぶりです、母さん」
「ヴィンセントかい。小娘も連れて……何の用?」
「魔導士の特別な訓練が終わったのでその挨拶に来ました」
「ふん。そんなものしなくていいって言ったのに。まあいいわ、入りなさい」
全く歓迎されていない雰囲気の中、二人は一階のリビングに通された。もちろんだが少年の父親もいて、忌避するような視線を向けられる。落ち着かないどころか、もはや丸腰で敵地に踏み込んだような気分でさえある。
テーブルを挟んで両親と顔を合わせるように着席したヴィンセントとアニータ。家の中を観察している余裕はなく、新しい実家の居心地の悪さに猛烈なストレスを感じていて、それに対処しようとするだけで精一杯だった。
「今日、魔導士の訓練を終えて正式に任務をこなせるようになりました。これから魔導士会に貢献できるよう努力しますので……」
「あら、それじゃあお金もたくさん入るわね! 仕送りを増やしてくれないかしら?」
母親の予想外な言葉にヴィンセントは口を半開きにして硬直してしまった。思考回路すら停止してしまいそうな中、更に父親が追い打ちをかける。
「今日の飲み代が足りなくてな。今いくら持ってるんだ?」
下品な口元にアニータは鳥肌が立っていた。新調したはずの洋服は既にシミだらけだし、なんだか二人とも酒臭い。引越しの手続きをするために面会した時よりも自堕落で不衛生極まりないのは確かで、この惨状を目の当たりにしたヴィンセントが大きなショックを受けなければいいのだが……そうもいかないだろう。
「お金は渡せません」
意外な言葉が少年の口から飛び出た。その答えに両親は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。が、すぐに怒りの色に変わり、父親は勢いに任せて立ち上がると同時に両手でテーブルを叩き付けた。
「渡せないだと? 親に口答えする気か!」
「十分な仕送りはしてるはずです」怒声にたじろぐことなく続ける。「それ以上、僕にどうしろっていうんです?」
「そこの小娘と結婚しろ!」父親は完全に頭に血が上っているようだった。「魔導士会は結婚すれば祝い金が入ると聞いた! お前もうちの息子にしでかした尻拭いのためにならんか!」
声を荒げてめちゃくちゃなことを言う父親とは対照的に動揺することなく冷静さを保つヴィンセント。不安げな視線を少年に向けたアニータだったが、ヴィンセントはそれに頷いて答えて見せ、再び両親と向き合った。
「僕の人生は僕が決めます。確かにアニータとは結婚したいけど……僕はまだ子供だし、魔導士としても未熟だし、まだその時じゃないと思ってるんです。もし、今後結婚したとしても祝い金は自分たちのために使いたいし、仕送りを増額する気もありません。だから、もう僕にお金の話はしないでほしいんです」
「この野郎! 魔導士だからって気が大きくなったのか、こんのバカ息子め!」
怒り散らし、怒りのあまり顔を赤くした父親は今にもヴィンセントに殴りかかりそうな様子だ。母親もそれを止める気はないどころか便乗して息子に嫌味をこれでもかと投げ付けているし、魔法でも使用して二人の気分を鎮めなければ無傷でここから出られないだろう。ただ、一般人に対してむやみに魔法を使うことはあまり好ましく思われない。さて、新人魔導士はどう出るのか。
「ごめんなさい。でも……」少年は両親に対し力強く宣言する。「決めたことはもう曲げたくないんだ。行こう、アニータ」
立ち上がり、アニータの手を取って足早に実家を飛び出たヴィンセントは背後からの怒号に振り返ることなく路地を抜けて噴水のある広場まで足を止めることはなかった。おおよそこうなる予想はついていた少年だったが、余程のことがない限り二度と会うことはない、とアニータの手を握りながら心に決意していたのだった。
広場で強く引いていた少女の手を離す。両親の、自分を金がなる木だと思っているような卑しくて醜悪な顔と下劣な言葉が脳裏にこびり付いてしまっていて、それらが何度も音として脳内で響き渡ってしまい、ヴィンセントは吐き気を催すハメになってしまった。口に手を当て、道端に駆けて行ってしゃがみ込む。
「大丈夫?」
ヴィンセントを追いかけて彼の背中をさするアニータはそれ以上の言葉を駆けなかった。アニータ自身、両親からああいった態度をとられた経験がないので完全に彼の心情を理解できるわけではないのだが、親を失う、という意味では寄り添って話を聞いてあげることはできる。けれど、今はその時ではない。少年が落ち着いて、自分からその話題を出すまではこちらはじっと待つしかない。
「もう僕のことなんてどうでもよかったんだ」
無意識のうちに溢れ出たようなヴィンセントの本音。
「僕なんてもう……出来損ないで……どうして……」
誰かに対して投げかけるわけでもなく、涙と共に溢れ出る感情は地面に落ちていくだけで受け止める相手は存在しない。側でアニータは少年の背中をさすり続けて沈黙を貫いている。もはやこうするしかなかった、というべきだろうが。
しばらくそうし続け、ようやくのことでヴィンセントは立ち上がった。同じくしてアニータも立ち、少年の顔を覗き込むようにして様子を伺う。目と鼻はうっすら赤みを帯びていたが、表情は凛々しく、出会った頃の弱々しくて常に怯えていた少年とはまるで違う。もうアニータが彼の腕を引き、彼の前に立って代わりに誰かと話すこともない。あのアリュインの厳しい訓練に半年も耐え抜いたのだ、精神的にも人間的にも大きく成長している。ただ、下品な口調が継承されなかったのはアニータにとって相当ありがたいことだった。
「そういえば」ヴィンセントが話を切り出す。「付き合ってほしい用事があるって言ってたよね?」
「ああ、うん。実はアンタが訓練で地下に潜ってる最中に兄さんについてずっと調べてたの。それでね、一つわかったことがあって……一週間のうち、廃村で兄さんに似た人影を見かけるのは必ず木曜日の日付が変わる時なの。それで今夜、また見張りに行こうと思ってて、それに付き合ってほしいなって」
「何だか随分と複雑な話になってそうだね……」
ヴィンセントは少々考えた後、大きく頷いた。
「わかった、僕も行くよ。それまで時間もあるし、僕のもう一つの用事に付き合ってほしいんだ」
「何よ?」
「オメリアさんのお店に行こう」
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