第10話 魔法とルイン
その後、ヴィンセントが目を覚ますまで丸一日以上が経過した。すぐにルインの指導者に任命された〈
到着してまず、自分がどんな状況にあるのか、その説明から始まることになった。〈呪う者、呪われる者〉素手で触れたことによって呪いを受けてしまい、深淵の王との共鳴が起こってしまっていること。パトリシアの応急処置により一時的に共鳴は停止しているものの、いずれは再開してしまうこと。それを耐え抜くにはルインやその他の魔法を習得し、魔導士として成長しなければならないこと。
「というわけで、お前にはこれから半年間、この訓練場でルインの訓練を行ってもらう。訓練中は誰とも会えねえから覚悟することだな」
訓練場の中央にへたり込んでいる少年に淡々と言葉を投げていくアリュイン。だが、ぼうっとしているヴィンセントが理解している様子がなかったため、アリュインはバケツで汲んだ水を少年の頭にかぶせた。さすがに冷水で驚いたヴィンセントは意識をはっきりさせたようで顔を上げる。
「よお、クソガキ。ちゃんと起きたか?」
少年は目の前の人物が以前、アニータと言い合いをしていた男だとようやく認識する。
「アリュイン、さん?」
「覚えてくれてるなんて光栄だな。まあ、それはさておき、もう一度言うぞ。しっかり頭に叩きこめよ」
アリュインは再び同じ説明をした。内容が進むにつれてヴィンセントの表情は曇って行き、己が死と隣り合わせになっていた現実に絶望しているように見受けられた。血の気が引いた顔でアリュインに尋ねる。
「僕は……どうすればいいんですか?」
「死ぬ気で訓練すんだよ。言っただろ? 選択肢は他にねえってな」
「魔導士のみんなは必ずこれを?」
「そうだ。ま、通常は魔法を覚え始めてからするもんなんだが……事態は緊急を要するってことで、お前は特別だ。容赦しねえから覚悟しろよ」
「は、はい!」
「じゃあ、まずは知識からだ」
そう言ったアリュインが手招きするように右手を振る。すると、訓練場の壁に沿って配置されていた本棚の中身が全て飛び出し、ヴィンセントの周囲に高々と積み上がった。軽く一◯◯冊は超える大量の本に少年は圧倒されてしまい、状況を飲み込むだけで精一杯な様子だ。
「魔法学、植物学、魔物図鑑に世界史、それから各宗教の教典もある。まずはこれら全てを熟読することだ。その後に音読もしてもらう。そして、これを見ろ」
彼が少年に渡したのは無数の言葉が書かれた辞書だった。
「文字の読み書きができないと言ったな。自分でこれを見ながら自力で読み進めてみろ。最低限の文字は教えてやるが、それ以上は基本的に手を貸さないことになっている。不明なものがあれば辞書を引き、調べ、意味を理解しなければならない。俺はその間ここにいるが、だからといって甘えは禁物だぞ。わかったな?」
「……わかりました、やってみます」
気が遠くなりそうな作業を目の前にして頭がくらくらしながらも、ヴィンセントはまず基本的な文字の読み方を学習するためアリュインの声に耳を傾けた。
メインとなる言語は三つ。世界共通のスピヴ語、サイファルース大陸でのみ使われるルレンス語、古代ルレンス語だ。これらの基礎を学ばなければ周囲の書物は理解できないというので、ヴィンセントは言われるがまま勉学に勤しむこととなった。死にたくない……ただその一心で、必死に知識を脳の隅々まで行き渡らせようとする。とはいえ、ゼロからの学習は想像以上に困難を極めた。古株のアリュインですら頭を抱えてしまいそうだった。
簡単なスピヴ語の読み書きが可能になったのはそれから一週間後のことだった。たくさんの本に囲まれたまま朝から晩まで頭を回転させた結果だ。これで調理室のメモも人に頼らず残れるかと思うと嬉しさが込み上げてきた。
「一週間でこれだけ学べたのなら上出来だな」アリュインは床に散らばった書類の数々を拾い集めてまとめる。「それにしてもお前、妙な癖のある字を書くが……どこかで多少なり習ったことがあるのか?」
「ずっと前、近所に住んでた友達がこういう字を書いてて……思い出したから少し真似てみたんですけど、やっぱり変ですか?」
「いや、そういうわけじゃねえが……」
顎に手を当てて黙りこくるアリュイン。
少年が真似たと言った字はヨリプトの皇族たちが使う字にそっくりだった。全体的に角張ったのが特徴で、文字列の最後になった字は例え何であろうとも書き終わりの一つの線を跳ね上げる独特の癖が見られる。まさにヴィンセントの字がそれだ。まさか、その友人が皇族だったというのか? 田舎の農村で? 信じ難い話である。一族から追放されない限り皇族は都から出ることもないので、アリュインは状況を受け入れることができないようだった。
「その、お前の言う友達の名前は?」
「ううん……多分レーラって子だったはずなんです。僕の愛馬にも名付けた名前なんですけど。でも記憶が曖昧で……」
困った表情を浮かべる少年は再び視線を床の紙に落とした。
……ふむ、興味深い話だ。
アリュインは目を細める。近くで少年をよく観察すれば疑問点がいくつか浮上することにどうして気付かなかったのか。
まずは頭髪の色。生まれながらの白髪は、文献にのみ残っている古の民族と同じだ。よほど考古学や歴史に興味がなければわからないことだが、それらをかじっている側からすればとんでもない発見だ。そして、瞳の色からして純血であることは確か。知り合いに皇族がいた可能性もあり、当人も古代部族の血を受け継いでいる可能性もあり……ううむ、これは一度、少年の出生を詳しく調査しなければならない。アデルもこのことについて気にはなっているだろうから、指導をしつつ探りを入れてみよう。
「まあ、友達のことは思い出したら教えてくれ。さて、次はルレンス語だ。このサイファルース大陸でのみ使用される言葉で、俺もお前も今、こうして口にしている言葉がそれだ。大陸外の奴らにはルレンス語は通用しない。そして、更に大昔、魔導士や魔女たちが作り出した古代ルレンス語は現在のルレンス語の語源になっている。どちらも大切な言葉だ。しっかりと覚えろよ」
「はい!」
やる気を見せるヴィンセントに指導し続けるアリュインの脳内では、自身の知識をフル活用して彼の特別な血による特徴が発現したのか考えを巡らせていた。ヨリプトに移住した両親と面会したが、一般的なサイファルース人であったし、正直言うと全くもって親子とは思えないほど容姿が似てもつかない。本当に親子関係が存在しているのか疑問である。
ルレンス語と古代ルレンス語は馴染み深いこともあって、予想していた期間の半分、二週間で習得できたヴィンセント少年。すぐに彼は山のように積まれた本を手に取って黙読し始める。途中、不明な単語はアリュインに尋ねたり、彼が不在の時は事前に渡されていた辞書を引いて言葉の理解を深めた。そうしているうちに言葉の知識が増え、難読だった内容が自然と意味を思い浮かべて読み進めることができるようになり、嬉しさのあまりヴィンセントは夢中になって分厚い本を読み漁る。続けて音読し、その知識を確実なものにしていく。
言語の勉強におよそ三週間。それから読むよう指示された本を読了するまで一ヶ月は経過し、音読も含めると二ヶ月はかかっていた。すっかり残暑の時期になっていたが、地下に引きこもっているヴィンセントはそれを知らない。
「ふう……」
昼食の肉団子入りスープを食べ終えた少年は短く溜め息をついて訓練場を見渡した。
窓はない。どこまでも石造りの壁が空間を覆っていて、本棚、中身がわからない衣装箱、剣や鎚、槍などの武器の飾り棚、一時的に利用している寝室や浴室へ続くドアと地上と唯一行き来できるドアが反対側にある。基本的にそのドアのみ施錠されており、アリュインが滞在する時だけ解かれている。外に出て新鮮な空気を目一杯吸い込みたいと何度も思ったことはあるが、ここから逃走しようなんていう考えは一切浮かんでくることはない。話を聞かされた時から訓練を完璧にこなしてからここを出ようと決心していたヴィンセント。真面目で厳しいアニータが途中で訓練を放棄したなんて知ったら、容赦なく怒号を飛ばしてくるだろうから。
「昼飯は食い終わったか?」用事から戻ったアリュインは続ける。「本日より、ようやくルインの練習を始めるぞ」
……ようやく、ようやくだ。
やる気に満ち溢れた少年は立ち上がった。胸元に埋まった獅子のペンダントが疼くような違和感があったが気にも留めなかった。
「知っていると思うが、ルインというのは星の魔導士だけが使用できる、対ソウルドレイン魔法だ。各々に与えられる星の力は異なり、〈
「死んじゃうほど苦しいってことですか?」
「……まあ、そうだな。そうならないためにもルインのコントロールと魔力の自制を身に付ける必要があるわけだ。ひとたび暴走すれば簡単には止められない。だから俺もルインの指導をする時はいつだって本気だ。手加減はしない。お前も本気で取り組め」
「はい! アリュインさん!」
アリュインはそう言って右の手の平に小さな炎を灯した。アニータが出す炎よりも力強く、濃い色をした生命力溢れる炎だ。
「各々が持つ魔力には異なる性質があり、それによって得手、不得手が決まる。物体を動かすことに長けていても、液体を操ることは苦手……なんてことはザラだ。俺は火を使うことが得意だが、重力を操作することはほぼできない。さて、お前の魔力は何の性質を持つのか調べないとな」
そこでヴィンセントはオーレン村に向かった時、アニータに教えられて火をつけようとしたものの、全くできなかったことを話した。煙すらも出なかったと。
「なるほど、なら、お前は火の性質じゃない可能性があるな。ちなみに魔力の性質はそう簡単に判断できるものじゃない。一つずつ可能性を消していき、それらを踏まえて性質が判明する。〈
右手を握って炎を消し、彼は壁際に置かれていたカカシを引っ張り出してきた。人型を模した藁の塊の胸辺りには的が付いており、かなり使い込んでいる印象があった。
「よし、距離はこのくらいか……」独り言をこぼしながらカカシの位置を調整するアリュイン。「風を操る時のイメージは糸だ。空中に無数の透明な糸が浮遊していて、それを束にして掴み扇子のように振り回す。風の動きはお前の振り方で自由自在だ。集中して、まずは糸をイメージしろ」
そう指示され、少年はまず目を閉じた。
静寂が降り立った訓練場では会話が失われると自分の呼吸音が聞こえてくるほど他の音が存在していなかった。自然がもたらす音も、何もかもが地下という空間が遮断してしまっている。それらが精神に与える負担は大きく、完全なる孤独として襲いかかってきていた。その状況にヴィンセントは疲労を覚えていたが、生きるため、深淵に打ち勝つため、魔法やルインを習得しなければ、という使命感が疲労や孤独をものともしない精神状態を作り出していた。それから、自分の成長ぶりをアニータに見せつけて、その驚いた顔を見たいという欲求もヴィンセントを突き動かしているようだ。
しばらく意識を集中させて糸をイメージしようとしていたが、一向にイメージが浮かばず、思い切って空を掴み振り回してみたが、何も起こることなくただ腕を左右に動かしているだけ。カカシは未だ何の変化もなく突っ立っている。
「風でもないか……」
目を細めたアリュインは腕を振り回すヴィンセントの様子をしばらく眺めていた。
微風すら発生しない状況を重く受け止めるアリュイン。魔力の性質上、苦手とはいえ魔力はゼロではないので何らかの現象が起きる予想をしていたのだが……想定外の事態にどう対応すべきか彼は悩んでいた。今まで見てきた魔導士の中で全く何も発動しないことは初めてで、星の儀式を受けているにも関わらず、だ。火でもなく風でもない。なら、重力あるいは他の性質なのか……とにかく一つずつ試していき、選択肢を潰していくしかないようだ。
「よし、ならば次だ。このカカシを後ろの壁まで押し付けろ。対象に手の平を向けて、そのまま押すイメージをする。先程よりは簡単なはずだ、やってみろ」
再び指示を受け、ヴィンセントは右手をカカシへ向ける。目を閉じ、イメージを膨らませようとした時、暗闇の中で微かに一閃した後、手の平に物体が触れている感覚が現れた。今だ、と言わんばかりにそれを押しやると、先の方で打撃音が発生。予想を上回る大きな音に驚いた少年は肩を飛び上がらせて目を開けた。
そこに棒立ちしていたはずのカカシは壁の側で仰向けに倒れていた。目をパチクリとさせてアリュインに視線を移すと険しい表情をしていた彼の口角が上がり、三度、拍手してカカシを起こした。
「お前の魔力性質は重力だろう。恐らくだが、お前はそれしか使えない」
「それしか? どういうことですか?」
「人には得手、不得手があるが決してできないわけではない。魔法もそれと同じで、魔力の性質のとある一つの属性の割合が多いだけで完全にそれのみということにはならないからだ。ところが、お前は他の属性の魔法を全く発動することができなかった。つまり、魔力の中にその属性しか存在していないということになる。火を灯すことも、風を吹かせることも不可能だ。他はこれから試す必要がありそうだが……」
「そんな……」
戸惑い、絶望の色を浮かべたヴィンセント。肩を落とし、事実を受け入れ難いようだった。
大きな期待が一気に破裂したことにより、アニータに顔向けできないのでは、と不安が芽生える。アニータの魔法を目の前で見て、自分もできるようになるかもしれない。そう一瞬でも夢を見た自身が愚かで仕方がなかった。全ての希望が絶たれたわけではないとはいえ、少年の意欲を削ぐには十分すぎる出来事であることには違いない。本来なら一つでも魔法が使えたことを喜ぶべきであるが、ヴィンセントの心情はそれどころではないようだ。
「とにかくだ」アリュインは重い空気を打ち破る。「他も試す価値はある。落ち込むのは終わってからにしろ」
返事はなく、口は固く閉ざされている。困ったもんだ、と溜め息が漏れ、大きな桶に水をたっぷりと入れてヴィンセントの前に置いた。水面に少年の落胆した顔が映り込む。
「手を触れずに水をすくい取って宙に浮かせてみろ」
そう指示されたものの、もはや、やる気を失いかけたヴィンセントに失敗は見えていた。魔法の発動には集中力が必要不可欠であり、他に気が散れば魔力の流れも同時に乱れる。そうなると自然エネルギーを操作することが難しくなってしまう。どうにかもう一度、少年にやる気を取り戻してもらわねば。
「一つ、良いことを教えてやる」
発言にヴィンセントは反応する様子がなかったが構わず続けた。
「アニータは簡単な魔法こそ使えるが、魔力の性質を活かした上級魔法を扱うことはできねえ。例え属性が制限されたとしてもそれらをお前が使うことができたら……どんな目で見るだろうな?」
言い終えるのを待たずに少年は顔を上げ、絶望しかけていた瞳に一瞬にして光が戻ってきた。単純な子供だと呆れる一方、ヴィンセントにとってアニータの存在は想像以上に大きく、大切であることを理解したアリュイン。特殊な状況下で出会った二人は強力な絆で結ばれ、いつの間にかお互いにとって必要な相手となっている。この短期間で二人の間に芽生えたのは友情でも家族に向けられる愛情でもないようではあるが……。
「お前、アニータに惚れてるな?」
唐突な発言に集中が切れて目を丸くしたヴィンセント。
「い、いや! そんなことは……」
否定しつつも頬をうっすら赤らめて俯くヴィンセントは初々しく、アリュインが若い頃、初恋をしていた友人をからかっていた当時のことを思い出させるには十分だった。が、いずれアニータも魔導士になることを考えるとあまり応援する気にはなれない。魔導士同士のそういった付き合いはロクなことがないし、関係を続けることがとても困難だと彼自身、経験してわかっていたからだ。今の段階でそれを伝える必要はないが、もし進展した場合、アドバイザーとして体験談を語ることになるかもしれない。あまり気が進まないが。
「その、アリュインさん」
「なんだ?」
「どうしてみんなアニータにきつく当たるんですか? アリュインさんも、ヨナさんも……アニータに酷いことを言ってました」険しい色を浮かべる。「あんな良い子にあんな言葉をかけられるなんて、僕には考えられません」
「お前にとっちゃ良い子かもしれないが、苦労して魔導士になった俺たちにとっちゃ憎たらしくて仕方ねえ娘に変わりねえんだよ。優遇され、会長にも手厚く保護されてる小娘と顔を合わせりゃ、星の掟を無視してでも嫌味の一つも言いたくなるもんだ」
「アニータが優遇? でもまだ見習いだって……」
「だからこそだ。星の掟で本来なら見習いは正式な魔導士と会話することは許されない。だが、ディアンが会長や他の魔導士たちに頼み込んだおかげでアニータに限りその掟はなあなあとなった……儀式を受ける前に魔法を教わり、〈星の霊薬〉の譲渡人にも選ばれて、これのどこが優遇されてないっていうんだ? どれもこれも魔導士にならなきゃやらせてすらもらえないっていうのに」
話を進めるアリュインは苛立っている様子だった。たったそれだけでアニータに心無い言葉を? と、言いかけたヴィンセントは慌てて呑み込んだ。理由に納得できないし、彼女を苛めていいわけがなかったが、魔導士会内の事情をよく知らないヴィンセントがこれ以上口を挟めばアリュインは激昂してしまうだろう。偶然にも選ばれた少年とは異なり、必死の努力で魔導士会に入会したアリュイン、あるいはヨナたちの心情はヴィンセントらには理解できないような何かがあるのだと察する。
その後もあらゆる性質の魔法を試みたが、ヴィンセントの期待を大きく裏切り、アリュインの予想した通りの結果となってしまった。少年は重力を操ることしかできず、どんなに簡単であっても他の属性魔法は一切使用できない。異例なことだった。
「とにかく今日は休め。会長への報告を終えたら夕食とする。いいな?」
「……はい」
力のない返事を聞いてからアリュインは訓練場を後にしようとしたが、ヴィンセントが彼を呼び止めた。
「アリュインさん! やっぱり僕は……いや、練習すれば他の魔法も使えるようになるんじゃなかと思うんです。だから……」
「しつこいぞ!」
アリュインが一喝すると少年の口が止まった。
「お前はどう足掻こうが重力の魔法しか扱えない。その事実は二度と覆ることはない。潔く受け入れ、認めることだ」
言い捨てたアリュインは早足で立ち去った。こうなった以上、かける言葉が他になかった。
虚しく鳴り響く足音と鉄のドアの閉戸の音。壁の上部に設置された時計は午後六時を知らせていたが、ヴィンセントはそれにも向きもせずに座り込んだ。両手で〈魔法の指南書〉を開き、目次を頼りに〈重力〉のページに辿り着く。深みのある青い瞳は内容に釘付けだった。
この魔法で何ができるのか例が記されていた。重力の強弱、重力がかかる方向の操作、あるいは重力の塊を可視化させる、対象を攻撃するなど応用次第で様々な使い方が可能なようだが、ヴィンセントが思い描いていた魔法とは程遠いのは確かだ。
……もっとすごいことをしたかったのに……何で僕だけ。
悲しい疑問が心を支配していくようだった。運命的なアニータとの出会い、魅入ってしまった魔法や膨らむ過度な期待……自身の愚かさに頭を悩ませてしまいそうだ。深淵の王との共鳴や魔法の極端な制限がそれらをたしなめているというでもいうのか? そうだとしたらあまりにも釣り合っていないような気がしてならない。
静寂の中、内容を無言で読み進めていくヴィンセントだったが、訓練場の室温が徐々に低下していくのを肌で感じていた。皮膚の表面が氷の如く冷え、吐息が白くなり、明らかな異常がこの訓練場を襲っている。急激な温度の低下に体が震え出し、いよいよもって指南書を手放し立ち上がった。
冷気が立ち込め、言葉にならない声が聞こえているような気がする。不気味さに恐怖を感じ始めたヴィンセントは周囲を見回すが自分以外に人はいない。だが、人の気配は確実に存在している。それだけは間違いなかった。
「だ、誰かいるの?」
勇気を振り絞って声を出す。言葉は冷気に吸い込まれるようにして消えたが、少し経過しても反応はない。気のせいか……そう一息ついた時、耳元で優しい声が何かを囁いた。
「うわっ!」
驚いてその場を離れると目視で確認できなかった人の姿がそこに佇んでいるではないか。すらりとした長身に床まで垂れた白髪。右目を潰された顔立ちは女性的だったが声は男そのものだ。金と黒のマントで足元まで隠し、抑えきれない異質なオーラはヴィンセントを恐怖のどん底に叩き落としてしまっていた。
「まずは魔導士になれたことを嬉しく思う。おめでとう、ヴィンセント」
突如として現れた謎の男はそう述べたが、ヴィンセントは男が何故、自分のことを知っているのか、魔導士になったことを祝うのか理解できなかった。
「何でそんなこと……」
「何故? お前はどこまで忘れてしまったんだ?」
「忘れるって……何を?」
全くもって意味不明である。ヴィンセントの脳内はクエスチョンマークで溢れてしまっていた。人違いをしているのでは、と一瞬よぎったが、名前を間違えないあたりそういうわけではなさそうな雰囲気だ。男はいたって真面目なトーンだし、からかうために発言している様子もない。
「ヴィンセント」
一瞬にして距離を詰め、顎を掴まれて顔が接近する。混乱のあまり少年は微動にもできない。恐怖なのか凍えているのか、笑う膝を止められなかった。
「何もかも忘れてしまったというのか? 可哀想に。呪いが強過ぎたか……」
「呪い……そうか、お前が僕を……!」
相手の手を払い、強く睨み付けたが男が怯む様子はない。本来、右目が収まるはずの場所は原型を留めず、ただれた皮膚が顔の右半分のほとんどを覆っている様はまさに異形で、こういったものに耐性がないヴィンセントは吐き気を催してしまいそうになっていた。
「残念だ、本当に」
男は低いトーンで呟き、ヴィンセントの右手をおもむろに触れた。次の瞬間、指先から徐々に凍りついていき、微かな鋭い痛みを最後に感覚が失われていく。呆気にとられた少年は何もすることができないまま氷に包まれていく自身の右腕を眺めている。一方、男は薄ら笑いを浮かべて情景を楽しんでいるように見られた。増殖していく氷に顔が映り込むと途端に色は消えてしまったが。
とても無色とは言い難い氷に包まれた右腕。灰色に濁ったそれを男が軽く叩いた時、薄っぺらいガラスの窓に石を投げ付けたように簡単に氷は砕け散ってしまった。中の腕ごと粉砕され、散らばった破片を丸くした目で眺めるように見ていたが、まるで切断されたかの如く腕を失った肩に激痛が走ったせいで少年はその場にうずくまった。歯を食いしばり、声は出ず、大量の脂汗が噴き出す感覚と異常な寒気が手を組んでヴィンセントに襲いかかる。
「お前の右腕は貰っていくぞ」
散乱した破片が吸い寄せられるようにして一つの小さな塊となり、男はそれを手にして鼻で笑った。まさに少年を馬鹿にした態度であり、苦痛に顔を歪めるヴィンセントの様子、姿を含味し、何やら満足げに薄ら笑いを浮かべるのであった。
「大丈夫か! ヴィンセント!」
丁度その頃に会長へ報告を行っていたアリュインが異変を嗅ぎ付けて訓練場に戻って来た。即座に状況を把握し、手の平で生成した火球を男に向けて投げ飛ばした。だが、火球は男の眼前で蒸発してしまい届くことはなかった。
「この野郎!」
激怒したアリュインは腰から下げていた剣を引き抜き、両手で握って男に突撃。対する男も氷の剣を生み出し、アリュインの怒りを片手で受け止めてみせた。
「よくもまあ、そんなツラしてここに踏み込めたな」
「相変わらず血の気が多い奴だ」
「てめえにそれだけは言われたくねえんだよ!」
力を込めて薙ぎ払ったアリュインの剣は相手の武器を破壊し、勢いのまま男に斬りかかったが、裂いた体は氷のように砕け、一瞬にして気配がアリュインの背後に移動した。振り返ると表情を曇らせて彼を見つめる男の姿。先程までの余裕な表情はどこにいったのやら、男は視線をアリュインから外すことはない。燃え盛る瞳の中では憎しみが渦巻いているようだった。
「お前はいつも私の邪魔をしてくるな」
「ヴィンセントに何をした?」
「さあ?」
「何をしたのかって聞いてんだ! 答えろ!」
怒鳴り散らしたが男から返事はない。無言を貫き、まるで話すことが無駄だと言わんばかりの態度である。威圧的で、相手を挑発しているような雰囲気はアリュインの更なる怒りをかっている。
「アリュイン、さん……」
振り絞った声で名を呼ぶヴィンセント。すぐに駆け寄り、少年の状態を確認する。
出血こそしていないが、右腕が綺麗さっぱり消えてしまっていた。これがどういう意味を指すのか、アリュインはすぐ察することができた。気に入った者の何かを奪い取って満足する……それがあの男の常套手段なのだ。本人は悪びれもなく行うのだから尚更タチが悪い。
「その腕をどうするつもりだ?」
「答える理由はない。さらばだ」
言い残した男の体は再び氷のように壊れ、同時に訓練場から冷気が一斉に引いていく。完全に男は去り、変わりない平穏が戻るも、ヴィンセントは未だ修羅場の中で苦痛と戦っていた。炎で炙られているような痛みに変化したそれは耐えろというのが困難で、今にも我慢の糸が切れて発狂してしまいそうだった。
「待ってろ。今、楽にしてやるからな」
少年を安心させるように声をかけ、焦る気持ちを抑えながら素材の保管棚を漁り始めた。目当ての物は傷を癒す効果があるポーションが入った手の平サイズの小瓶だ。黄緑色の液体で、経口摂取、あるいは傷口に直接かけることで損傷した部分を治癒させたり、完全な回復が望めなくても痛みを和らげることは可能だ。
「確かここに……」
その他の調合で使用する乾燥させた植物や器などを押し退けて捜索していると、上から二段目の右端に求めていた物が二本、置かれていた。すぐさま手に取ってヴィンセントの元へ戻り、右肩を中心にポーションを流しかけた。魔法により強引に傷つけられた箇所のダメージは想像以上に大きく、結局ポーションを二本とも使い切ってやっと痛みを緩和させることに成功した。
ヴィンセントの頭髪は脂汗で冷たく濡れていた。訓練場にたち込めていた冷気のせいで体はすっかり冷え、唇を真っ青にして小刻みに震えているが、魔導士会の掟により訓練中はここから一歩も出られず、また、指導者以外の立ち入りも許されない。今、自分がなんとかしなければ少年は苦痛の中で息絶えてしまうだろう。
とにかくだ。助力を受けられないのならできることすべてをやり尽くすまで。まずは風呂を沸かし、ヴィンセントの火傷のような傷口を包帯で保護して体を温めるように言って湯の中に入らせた。容態を把握するため監視を続け、ヴィンセントの表情の変化にも目を光らせる。
まさかこのタイミングで奴が接触してくるなんて考えもしなかったアリュイン。これが引き金となってせっかく抑え込んでいた深淵との共鳴の再開が懸念される。何も起こらなければそれに越したことはないが、そうもいかないだろう。あの奪われた腕が共鳴を強めてしまうのは確実だ。
しばらくもするとヴィンセントの血色が良くなり、浅かった呼吸も安定してきたようだった。ヴィンセントは左手でカモミールの香りをつけた湯をすくい、じっと見つめてから口を開く。
「あの人は誰なんですか? 僕に何が起こったんですか? もう何が何だか……」
返答に迷うアリュイン。言っていいものかと悩んでいるのだ。今の精神状態で事実を受け入れられるのか心配でならないが……隠していても誰も得をしない。むしろ、ヴィンセントを追い詰める材料になってしまうだろう。ここはこちらが腹をくくり、少年に降りかかった不幸と運命について説明すべきだ。
「あの男はソウルドレイン・ギナの一人で名はケイファー。元〈
「魔導士がソウルドレイン……?」
酷く混乱しているようだった。当然だろう。口にしたアリュインですら意味がわからないほどの矛盾が言葉の中に存在してしまっているのだから。
「本来なら〈星託者〉となり、消滅した上で空席ができ、新たな魔導士が選出される。だが、奴は深淵の力に魅入ってしまい、強引にペンダントを魔導士全員で取り出して、そのまま失踪してしまった哀れな男だ。手違いとはいえ、まさか後任の魔導士を襲うとはな……奴は何か言っていたか?」
「僕に」口を閉じ、一息ついて続ける。「僕に呪いをかけたようでした。それから魔導士になったことにおめでとうと言われて、僕があの人を知らない……というより、忘れてしまったことを悲しんでいるようでした。僕には全く心当たりがなくて……」
俯くヴィンセントに対して険しい色を浮かべるアリュイン。
現況を整理すると、まず、〈呪う者、呪われる者〉に深淵の王との共鳴する呪いをかけていたのはケイファー本人で間違いない。だが、何の目的でそんなことを? 更にヴィンセントが〈呪う者、呪われる者〉に触れることを予知していたかのようで、最初から少年だけを狙っていたわけである。以前、今回と同様に呪いを受けた魔導士がいたが間もなくその者は行方不明となり、魔導士と深淵の王を共鳴させる理由は未だわかっていない。一体、あの男は何を企んでいるのか……疑問だけが残り、実に後味が悪い。恐らくこの報告を受けることになるアデル・オルビー会長は苦虫を噛み潰したような顔をすることだろう。
「あの人は僕の腕をどうするつもりなんでしょうか?」
唐突に質問を投げられたアリュインは言葉を詰まらせる。嫌な予感しかしなかったのと、わからない、と即答すべきか悩んだからである。不器用な彼なりの配慮だ。
「俺には何とも言えねえ。ただ、良い期待はすんなってことだ」
「そうですよね……」
「まあ、やれることは片っ端からやってくしかねえな。俺たちは魔導士だし、いずれ奴と再会することだってあり得るわけだ。まずはやるべきことを一つずつ片付けていくしか道はねえ。わかるな?」
大きく頷くヴィンセント。恐怖や絶望に打ち勝とうとしているその瞳は、ここへやって来た当初からは想像もつかないほど強い決意に満ちていくようだった。
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