第6話 崩壊の始まり
「もう、その時が迫っているんですね……」
一気に落ち込むアニータだが、隣に立つヴィンセントは状況が理解できていないようだ。
「魔法の遺物って?」
「大厄災の時に使用する物じゃ。前回の大厄災で魔法の力は世界中に散って新たなる器に宿り、次の大厄災の時を待つ。全て集めてこそ真の力を発揮し、〈星託者〉の手足となって穴を塞ぐ物。力の器は様々で、大厄災が近付くと総力を上げて捜索しているのじゃよ。毎回とても苦労しているがのう」
「ということは、毎回違う物に力が宿っているということですか?」
「そうじゃ。崩壊の兆しがあちこちに出始めていると報告を受けてな。同時に魔法の遺物の情報も運良く入ったから、お前たちの初任務に相応しいかと思ったわけじゃ。どうだ、やってくれるかな?」
「僕は構いませんが、アニータが……」
少年が視線を向けたのは落ち込んでいるようにも見えるアニータの顔。ディアンが〈星託者〉として自分の前から消えてしまう現実を突きつけられてショックを受けたようだ。
「あ、あたしも大丈夫、です……」
と、言ったもののそうは見えない。大きな赤い瞳に涙が溜まって今にもこぼれ落ちそうだ。
「アニータよ、お前の気持ちはよくわかる。じゃが、ディアンが〈星託者〉となった今、彼に感情移入することは良いこととは思えないのじゃ。苦しいかもしれんが、それが守る者と守られる者ということなのじゃよ」
「で、でも!」
「やめなさい、アニータ。同じことは二度は言わん。それができぬのなら、今すぐ〈
厳しい言葉だったが、そう言われる理由をアニータはわかっていた。魔導士会の中で〈星託者〉は人ならざる者という位置付けであり、〈星託者〉と指名された者との接触を必要以上にしてはならないという暗黙の了解が存在する。ディアンとアニータの関係性を知っているアデル・オルビーは、アニータが時々ディアンに会いに行く場面を目撃しつつも注意することなく目をつぶっていた。しかし、それが続けば大厄災の日をアニータは迎えられないと危惧しており、あえて突き放すような口調で言ったのだ。アニータは次期〈
「わかりました……任務を受諾します」
多少、冷静さを取り戻したのか、アニータのはっきりとした声色が戻ってきた。表情はまだ暗いが、納得していないわけではなさそうだ。
「よろしい。では、任務の概要を説明することにしよう。今回、魔法の遺物として情報が出たのは〈呪う者、呪われる者〉という置物じゃ。古都ヨリプトの第三皇帝フェルディナンド・ルイ・コルドウェルがヨリプトで一番の鍛冶屋に作らせた芸術品と聞いておる。素材は希少なオリハルコンで最高級の一品じゃが、今はヨリプトではなく兵士も立ち寄らないような田舎の村にあるとの報告があった。ヨリプトからセン川を下流に行って、シャレタン湖のほとりにあるオーレンという村じゃ。そう大きな村ではないようだし、聞き込みをすればすぐに何かわかるじゃろう」
「はい」アニータは頷いた。「行って来ます」
重い足取りで二人は馬小屋に足を運んだ。丁度、馬丁の一人が茶色に白いぶち模様の馬を引いて来た場面に遭遇した。
「やあ、アニータちゃんじゃないか」
馬丁の青年が挨拶した。黒髪短髪で清潔にした青年はアニータの隣に立つヴィンセントに視線が移る。足元から頭の先まで観察した後、愛想の良い男を演じ始めた。
「君がヴィンセント君だね。初めまして。馬丁のアストラル・ミーンです。今日は君の馬を連れて来たんだ。牝馬なんだけど、乗馬する前に名前をつけてあげてね」
「名前かあ……」
ヴィンセントは馬丁のアストラルが引く馬を見つめる。長くてカールした睫毛に優しさが滲み出る瞳、光沢のある毛艶は最高で、とても上品な表情をしていた。少年の中では多数の名前が浮上していたが決定的なものがなく、浮かんでは消えを何度も繰り返す。
……ううん、困ったな。
多少投げやりになった時である。誰かに雰囲気が似ていると思っていたのだが、二、三年くらい前、まだ異常気象が起きる以前に近所に住んでいた数個上の女の子がこのような雰囲気を纏っていたようなうっすらとした記憶があった。時間を見つけては毎日のように話していたような気がしたが、畑が使い物にならなくなった辺りから周囲は続々と引っ越していき、もちろん女の子の家族も夜のうちに姿を消していた。二度と会うことはないだろうが、その子の名前だけはしっかりと覚えていた。女の子は確か……。
「……レーラ」
口から溢れ出た名前に反応したアストラル。
「どこかで聞いたような……いや、思い過ごしかな。じゃあ、今日からこの子はレーラだね」
そうして渡された手綱。受け取った少年はどこか嬉しそうで、その様子をアニータは何故か良く思っていないようだ。どこかで聞いた、というアストラルの言葉が引っかかって仕方がない。
「さっさと行くわよ」
不機嫌になったアニータは言い捨てて黒い愛馬に跨った。早く乗れと言わんばかりにきつい視線をヴィンセントに送る。当の本人は状況が理解できないまま、促されて初対面のレーラに足をかけたが、これまで乗馬なんて経験がない少年は尻を据えるまで相当な時間を食った。その間にもアニータの機嫌の悪さは加速していく。
ようやくのことで愛馬に騎乗できたヴィンセント。アストラルが基本的なことを説明し、なんとか手綱でレーラを操れるようになると、アニータは無言でさっさと馬小屋を出て行った。
「ちょっと待って!」
慌ててヴィンセントは後を追う。その様子を心配そうに眺めていたアストラルは、未だヴィンセントが口にした〈レーラ〉という名前をどこで耳にしたのか思い出そうとしていた。
「レーラ、レーラ、レーラかあ……」
唸りながら考え込む。脳内の引き出しのどこかに存在している単語であることは確実なのだが、いつ、どこで聞いたのかが引っ張り出すことができない。
「なんだっけなあ……」
しばらく思考を巡らせたが欠片も思い出すことができなかったため、諦めたアストラルは自分に与えられている仕事に戻って行った。
「ねえ、アニータ! なんで口を利いてくれないの?」
任務の目的地に向かう途中、ヴィンセントの前を行くアニータは一言も少年の言葉に答えることはなかった。振り向きもせず、微動にしないまま整備された道を突き進む。何度、声をかけても全く反応がない。
……どうしたんだろう?
まるで声そのものが届いていないようだった。レーラの名を口にしてから彼女の不機嫌は始まっている。まさかレーラに嫉妬しているのか? いや、それはさすがに思い違いの度が過ぎている。レーラが近所に住んでいた少女だなんて一切漏らしていないし、それならアストラルの発言が問題だったのだろうか? いいや、どこかで聞いたことがあるだけで、どこの誰とは言っていなかった。アニータがヴィンセントを無視する理由が見当もつかず、あまりにも感情的で自分勝手な彼女の態度に苛立ちを覚え始める。
その頃にはもう、ヴィンセントは声をかける行為をやめていた。続けば続けるほどに少年の心が荒れていくばかりだからである。レーラの扱いにも慣れてきていたし、ヴィンセントは緩やかに流れていく景色に目を向けて楽しむことにした。そうする他になかったからだ。
会話を交わさなくなってからどれほどの時間が経過したのかわからないが、そろそろ日が暮れ始めたので今夜野宿する場所を探さなければならなかった。出来るだけ平坦で見通しの良い所が望ましい。そんなこと、アニータはわかっていた。彼女が無言になった原因はヴィンセントの件ではない。アデル会長に注意されたディアンとの接触に間することだ。星の掟とはいえ、納得がいかなくてつい考え込んでしまっていたのだった。
「ねえ、この辺りでいいんじゃないの?」
少し声を張り上げてヴィンセントが言うと、はっと我に返ったかのように目が少年に向けられた。彼は今にも文句をこぼしそうな膨れっ面だ。
「そ、そうね。ここにしましょ」
半ば強引に選ばれたのは根をしっかり張っている大木の根元付近である。ここなら枝をすぐに集めて火を起こせるし、見晴らしが良いので何かあってもすぐ行動に移せる。何もないことが最も好ましいのだが、このご時世、油断は禁物である。
夜の帳が下りてきて、ヴィンセントが集めた木の枝にアニータが魔法で火をつけた。みるみるうちに火は勢いをつけ、二人の顔を暖かく照らした。
「それ、どうやってやるの?」
興味津々でアニータに問う。星の儀式を受けたのだから自分も使えるはずだとヴィンセントは思っていた。練習する間もなく任務に駆り出されてしまったものだから、魔法については右も左もわからない状態だ。武器も所持していないし、何か身を守る手段が欲しいのが本心である。
「強く念じるのよ」アニータは言った。「火よ、つけってね。最初は時間がかかると思うけど、慣れればすぐよ。試しに少しやってみる?」
彼女は手を伸ばして一本の枝を持ってみせた。
「これの先端に火が灯るように心の中で念じてみて。手をかざして……そうそう」
枝に手の平を向けたヴィンセントはその先を凝視する。
……火よ、つけ、つけ、つけ!
つい唸り声が漏れてしまいそうなくらい強く力んでいる少年だが、一向に火は灯らないどころか煙すら立つ気配がない。溜め込んだ空気を一気に吐き出し、自分の手の平と枝を交互に見やった。
「全然つかないよ……」
「そう簡単にできるわけないでしょ」枝を横に振りながら続ける。「魔法っていうのはね、自然の理にかなったものなの。自然と一体になって、自然を手の平で感じるように感覚を集中させる……ここでつまづいてたら、ルインが使えるまで遠いわよ」
「ルイン?」
「ソウルドレインとの戦いに使う特別な力のことよ。〈
「魔法の勉強もしてルインの訓練もして……気が遠くなりそう」
「アンタなら大丈夫でしょ。ルインのことは他の魔導士に聞いてよね。あたしは使えないから」
彼女の言葉を最後に沈黙がやってきた。
アニータの自虐に何と返答すべきかヴィンセントはわからずにいた。今や立場的に上になってしまったヴィンセントだが、知識や経験などに関しては彼女の方が確実に多い。しかし、魔導士の立場になると逆転する。とても奇妙だ。気にしなければいいのだが、時々、こうやってアニータが口にしてしまうので気にせずにはいられない。今の彼女にはどう接するべきなのか、少年はほとほと困り果てているようだ。
「あのさ、魔法って他に何があるの?」
話題を逸らそうと必死になるヴィンセント少年。
「願えば何でもできるわよ、多分」
「例えば?」
「それくらい自分で考えてみなさいよ。あたしはもう寝るから。明日は早いし、アンタも早く寝た方がいいわよ」
全てが裏目に出ていた。捨て台詞を残したアニータは火に背を向けて横になってしまった。くべた薪だけが会話を続けていて、反対にヴィンセントの口は固く結ばれた。両脚を抱えるように座る少年は、ぼうっと篝火だけを見つめて考え事にふける。しかし、程なくして眠気が彼を襲い、少年もまた火に背いて眠りについた。
夜明け前、熟睡していたヴィンセントを先に目覚めたアニータが叩き起こした。
「起きてよ。もう出発するわよ」
重い瞼を開け、覚醒しない頭のまま目覚めたヴィンセントをアニータが叩き起こした。目を擦った先には完全に灰と化した篝火の残骸がある。まだ周囲は薄暗く、鳥たちの鳴き声すら聞こえてこない。しんと静まり返った夜明け前は空気が鋭く冷ややかで、寝起きの人間には厳しい寒さである。
「もう行くの?」
「当たり前でしょ」即答するアニータ。「今から出発してヨリプトに着くのはお昼前ね」
「クローゼットを使えばいいのに」
「近ければね。セン川の下流はヨリプトからずっと南だし、徒歩は大変よ」
「ふうん……なら仕方ないね。昼食はどうする?」
「ヨリプトでとろうと思って。行きつけのお店があるの。朝昼兼用って感じね」
「お腹が減るなあ」
ヴィンセントの嘆きは完全に無視された。どうやら朝食はとらずにヨリプトへ向かうらしい。土地勘のないヴィンセントが口を出すわけにも行かず、仕方ないといった様子で馬に跨り走らせた。
しばらくも経てば夜明けが始まった。街道を行く途中、帰還中のヨリプトの遠征隊を追い抜き、二人の商人とすれ違った。ヨリプトに近付くにつれて兵士の数が多くなり、朝日が眩しいと感じる頃には駐屯地を抜けていた。人通りも増え、故郷とは正反対の都会な風景にヴィンセント少年は挙動不審になっていく。どこを見ても人、人、人ばかり。流れを縫うように馬を進める。
「すごい人……」
ヨリプトの関所前に到着したヴィンセントとアニータ。沢山の人間で溢れ返るここで一人の兵士に呼び止められる。
「通行料を払わなければ通行できないぞ」
「あら、そんなの聞いてないけど」
兵士のガサツな口調に目を細めたアニータ。
「本日より施行された制度だからな。料金は三◯◯ギルだ」
「はあ? ちょっと高くない?」
「文句は受け付けないぞ。通りたければ支払うことだな」
「……あたしたち、魔導士なんだけど。それで通れないかしら?」
偉そうな態度をとる兵士に苛立ったアニータはそう言い放った。ヨリプトの中には魔導士会の本部と繋がる屋敷があるし、そもそも魔導士会はヨリプトの皇族とお互い干渉せず、また、必要な時に限り協力するなどの条約が存在している。行き来が自由にできるのもそれのおかげと言わざるを得ない。
ところが、兵士の表情に変化はなく、アニータの発言はむしろ二人の雲行きを怪しくしてしまう結果となってしまった。
「じゃあ、魔導士だという証明をできるものは?」
そう問われた時、アニータの口が止まった。彼女は魔導士ではない。ペンダントを持たない彼女は自分が魔導士会の人間であると証明することが不可能だった。しかし、それだけのことでパニックに陥るようなアニータではない。ヴィンセントに視線をやり、顎で兵士の方を示した。
「これでどうかな?」
後を任されたヴィンセントは襟を開けて皮膚の下から浮かび上がる獅子のペンダントを兵士に見せた。
「彼女は僕の助手なんだけど」
ヴィンセントとアニータの顔を交互に見る兵士。まだ疑いの目をしているものの、傷跡が全くないのにペンダントが埋め込まれている様子を見てしまっては本物だと納得せざるを得ない。
「いいだろう。ほら、これが通行許可証だ。さっさと行け」
「どうもありがとう」
二人分の許可証を受け取り、沢山の兵士が目を光らせている関所を無事に通過した。
「あたしがアンタの助手ねえ……」
皇族のシンボルであるグリフィンが描かれた大きな判。〈通行を許可する〉と書かれた羊皮紙を片手に眺めるアニータ。ヴィンセントの発言に不満があるようだ。
「だって、君がなんとかしろって視線を送ってきたから咄嗟に出たのがそれで……」
「ま、無事に通過できたことだし許してあげる。さあ、お店はこっちよ」
再びアニータが先頭に立って迷うことなく道を突き進む。
古都ヨリプトの賑わいは以前、服を買いに来た時とそう変わらない。人混みが馬を扱う二人を二手に分かれて避けていき、まるで人の流れが薄っぺらい布のように裂かれていくようである。大きな雑踏は脳内で反響し、どんな声も全て呑み込まれていく。馬の蹄の音も、正午を知らせる時計塔の鐘の音も、何もかもが吸い込まれていった。
ようやくのことで足を止めた所は、大通りから外れて住宅街の一角に建つ民家だった。一見して営業している様子はないが、木造の壁からは〈フリル〉と書かれた焦茶色の看板が、せり出す金属のポールからぶら下がっていた。中からは人の気配も感じる。
それぞれの愛馬か降り、道の端に寄せて馬繋ぎに手綱をくくりつけて、窓のないドアをためらいなくアニータが開けた。
ドアの内側に付けられた鈴が主張するように多少大きく鳴った。ヴィンセントは人見知りな部分を発揮し、アニターの背後から恐る恐る店内を覗き込む。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、カウンターの中に立つ薄いブロンドの人物だった。端整な顔立ちで、細身でありながら身長は高く、透き通った声は騒音で疲労した耳に何の違和感もなく入ってきた。一目でわかるがこの男は普通の人間ではない。その細く尖った耳が特徴的なエルフの一族だろう。全体的に色素が薄い彼らは都会の女たちにはとても人気があり、その世界では有名人だろうが、エルフの気質として冷酷かつ理論的な彼らは人間関係を築く上では失敗しやすい。
「おや、アニータじゃないか」
エルフに対する固定概念を覆すのではと思うくらいに男の声は柔らかいものだった。それでも緊張してしまっているヴィンセントは胸を張ることなく、アニータの背後に隠れるようにして突っ立っている。
「こんにちは、オメリア。いつもの二つくれる?」
「かしこまりました」
そう言って厨房に消えていくエルフの男。二人は姿が見えなくなってからカウンター席に腰を落ち着ける。
「本当、行きつけって感じだね。知り合いなの?」
「兄の友人でね。オメリアが店を始める前からの付き合いよ。この店も兄とオメリアが共同で始めたの。どう? 良い雰囲気でしょ」
そう言われて初めて店内を見回すヴィンセント。数本の太い蝋燭と外からの自然光を光源にした店内は穏やかで、置かれている家具や雑貨は全て古い物のようだが、手入れが行き届いているおかげて美しい歳の取り方をしているようだ。閑静な住宅街に建っているため耳障りな騒音もないが、呼吸音すら聞こえてしまいそうな静けさは逆に息が詰まる原因になりそうだった。他に客は入っていないし、雰囲気を楽しめるような気分になれない。
「あのさ、アニータの両親ってどんな人だったの?」
微妙な気分と馴染めない空気を紛らわせようと少年は話題を振る。厨房の奥からは食欲を刺激する香ばしい肉の香りが漂ってきた。
「あたしの両親は精肉店を営んでてね。そこそこ評判が良かった。でも、あたしが九歳くらいの時に仕入れに向かった両親は途中で魔物に襲われて死んじゃったわ。通りがかった知り合いの商人がそれを教えてくれなかったら、あたしたちは何も知らずにずっと待ち続けてたかもしれないわね」
「……その後はどうしたの?」
「九つ上の兄が店を継いだわ。それから一年くらいして精肉店を閉めてオメリアと小さな酒場を開店したのよ。知る人ぞ知る隠れ家みたいですごく繁盛したのよ? 昼間は今みたいに静かなんだけどね。そうそう、この店のおかげでディアンと出会ったのよ。……まあ、この話は別の機会にしましょ。〈フリル〉を初めて四年くらい経った頃かしら。兄が仕入れに出て行ったっきり戻らなくなった。過去の両親のこともあったし、心配になってディアンに捜索をお願いしたけど、やっぱり兄は見つからなかったし、死体も発見されなかった。それでも諦められなかったあたしはあちこちを探し回ってて、そうしたらディアンから魔導士の話を持ちかけられたってわけ。子供だしお金もないし、オメリアに面倒を見てもらうのも忍びなかったし。魔導士の見習いなら働いて稼げるし、自由に動き回れるからって魔導士の弟子になることにしたのよ。星の掟を破ってしまったせいでディアンのルインはほんの少し弱体化してしまったけどね。本当、人当たりが良くて優しくて、努力家な兄だった。あたしとしては生きててほしいけどね……」
「待って。星の掟を破るとルインが弱体化するの?」
「そうよ。でも一回ポッキリだけよ。話せば話すほど弱くなっていくわけじゃない。話すという行為をしただけで一回分。みんなもそれをわかってあたしと喋ってるのよ」
「ふうん。そうなんだ……」
言葉が詰まっていく。その時のアニータの紅蓮の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。今にもカウンターテーブルに涙が落ちてしまいそうだったが、すぐに袖で拭ったため頬を伝うことはなかった。
「お待たせしました。アロ羊のローストと自家野菜のサラダのプレートになります」
丁度、オメリアが皿を両手に厨房から出てきた。二人の目の前に陶器製の賑やかな皿が置かれ、ナイフとフォークが差し出される。
「いつものってこれのこと?」
「そうよ。美味しそうでしょ? あたしが考えたメニューなのよ」
自慢顔なアニータ。アロ羊は庶民にとって身近な肉でその値段もリーズナブルなため手が出しやすい。ところが、ヴィンセントにとってはアロ羊は高級肉に見えて仕方がなかった。しばらく動物性の肉の塊なんて口にしていなかった物だから、この料理はヨダレものだ。
「冷めないうちに召し上がれ」
オメリアがそう促したので、腹を空かせた少年少女はがっつくように食べ始めた。
一口頬張ればたっぷりの肉汁と甘みの強い脂が一気に口の中で広がった。歯応えがありつつも筋が一切ない肉質、絶妙な焼き加減と塩味が舌の上で踊っているようだ。自家野菜もエグみが全くの皆無で、噛むたびに軽快な音が鳴り、みずみずしさを保ったまま食道を流れていく。
一瞬のうちにペロリと平らげたヴィンセントとアニータ。満足そうにナプキンで口を拭い、果汁一◯◯パーセントの柑橘系のジュースを口に残った肉の旨味と共に流し込む。
「やっぱりいつ食べても美味しいわね」
「うん、すっごく美味しかった」
初めての羊肉の味に感激していたヴィンセントは、この店への道のりを覚えようと必死になっていた。アニータがいなくても食べたい時に来られるように。
「こんなに良い肉を仕入れられるのはストレインのおかげさ」オメリアは続けた。「彼がいなければ仕入れルートを確保できなかったからね」
アニータはオメリアの言葉を黙って聞いていた。空になった木製のジョッキから視線を外す様子はない。
「そういえば、今日のお連れさんはボーイフレンドかな?」
「ち、違うわよ!」
途端に顔を上げたアニータは即座に否定した。
「あたしが初譲渡した新人の魔導士よ。たまたま任務で一緒になっただけ!」
「はいはい。少年よ、お名前は?」
「ヴィンセント・クックと言います。お肉が本当美味しくて。また来ていいですか?」
「もちろん」笑みを浮かべるオメリア。「どうせなら二人でおいで」
「からかうのはやめてよ」
「またまたあ。二人して左手……しかも薬指に指輪なんてしちゃってさ」
「あ、これ、アニータが魔導士になるお祝いにプレゼントしてくれたんです。すっごく綺麗で気に入っているんですよ」
その指につける意味が何なのか理解していないヴィンセントの隣で頬を赤らめているアニータは若干俯き気味だ。もう少し大人になれば少年は指輪の意味を知り、同時にアニータの気持ちにも気付くだろうとオメリアは微笑ましく思っていた。悲惨な状況下に置かれている少女をどうにかして支えてほしいと願うばかりだ。
「そうだ、君たちに依頼をしたいことがあるんだけど……聞いてくれるかな?」
突然の提案に驚いた様子のヴィンセントとアニータ。顔を見合わせ、オメリアに向き直った。
「構わないわよ。いいよね、ヴィンセント?」
「う、うん」
「ありがとう」
礼を言ったオメリアはコホン、と咳払いをして続けた。
「それはね、君の兄ストレインの捜索なんだけど」
「依頼の期限はとっくに過ぎてるじゃない」アニータが口を挟む。「同じ内容の依頼じゃあ上に持っていけないこと、知ってるでしょ?」
「まあ、そう早まらないでくれ。実はストレインの情報がつい数日前に舞い込んで来たんだ。常連の商人がヨリプトに向かう途中、とある廃村の方で人影を見たらしい。誰かに似ているような気がしていたら、紛れもなく人影はストレインのものだったらしいんだ」
「廃村で兄さんを? 人違いでしょ」
「いやいや、顔を向けた時に確信したみたいでね。だけど、その廃村は堕落者が出るって噂で近づけない。というわけで、魔導士の君たちに廃村の調査をお願いしたいんだ」
「なるほど。堕落者が出る村でねえ……」
「堕落者って?」
聞き慣れない単語にヴィンセントが割って入った。
「魔物の一種よ」少女が答える。「何かの原因で死んだ人間の肉体に悪魔がとり憑き、欲のままに徘徊する呪縛系の魔物。肉体は腐っていくけど、憑いた悪魔を払わなければいつまでも動き続けるの。それこそ廃村や古い墓地、殺人現場とかに多いわ」
「ふうん……」
そう返事をしたものの、内心恐怖を感じたヴィンセント。悪魔に動く死体だって? とんでもない!
「とりあえず、あたしたちはこれから別件の仕事があるし、その間に依頼書を作っておいてほしい。帰りに寄っていくから」
「ああ、わかった。気をつけて行ってらっしゃい」
オメリアに見送られて店を出た二人。再び馬に跨り、南の関所からヨリプトを出発した。
古都ヨリプトを縦断するセン川に沿うようにして続く街道を行く。セン川は川幅が広く、川底が見えるくらい水質にも恵まれているため、生き物も豊富で人々の生活に欠かせない存在となっている。現在は雪解け水が上流より流れてくるため、多少の濁りと水位の上昇が見受けられる。
「何だか雲行きが怪しくなってきたわね……」
空を見上げるアニータがボソッと呟いた。先程まで晴天だったが、今では曇天が分厚く覆っている。すぐにでも雨が降り始めそうだ。
「急ぐわよ」
両足の内側で馬の横っ腹を叩くと、嘶いてから駆け足で街道を走り抜ける。運び屋や田舎から上京しようと大荷物を抱えた家族とすれ違うが、関所を通過できるのだろうかと無駄な心配をしていると、ヴィンセントの鼻先に空から落ちてきた水滴が触れる。それは次第に増え、大雨となって大地に降り注いだ。
街道の土石で舗装された部分が途切れ、雨でぬかるんだ道を大急ぎで行く。その間にも二人の髪は水を含んで重くなっていき、更に衣類まで浸透して体温を奪っていった。
……どこか雨宿りできる場所は……。
周囲を見回すアニータだが、どこを見ても民家らしき建物は全く見当たらない。どこまでも続くセン川と荒れた泥道、たまに現れる林だけである。しかし、少しもすれば道の脇に建てられた簡易的な待機所を発見した二人。急いでそこに駆け込んだ。
雨を凌ぐ屋根だけで風通りの良い待機所は、旅人などが突然の雨や嵐の時に休むことができるように設置されている建物で、つい最近、誰かが休息をとったのか火のない焚き火が組まれたまま放置されていた。アニータがそれに火を灯すと、雨で冷え切った体がじんわりと温かくなってくる。
「オーレンまでまだかかるかな?」
「そうね……」ヴィンセントの問いに答える。「この雨じゃしばらくは動けないし、もしかしたら到着するのは夜かもね。宿はやってると思うけど、野宿も覚悟しといてよね」
「またあ?」
文句を垂れるヴィンセント。野宿の過酷さを経験した彼は、できればふかふかのベッドで眠りにつきたい、と切実に願っていたが叶う様子はなさそうだ。
「止まないなあ……」
待機所の中から空を眺める少年は、遠くに見える鋭く尖った山脈に視線を向けた。
「ねえ、あの山ってなんて名前?」
「ああ、あれね。ヒガレット山脈っていう御神山よ。神様が宿るって言われてるけど、本当かどうかは行ってみないとわからないわね」
「神様が宿る山……」
そう呟いて遥か遠くにそびえ立つ巨大な山脈をぼうっと見つめる。頂上は霧がかかってよく見えないが、標高があるのか山肌のあちこちに白い雪の部分が確認できる。本当かどうか自分の目で見てみたい、という好奇心に掻き立てられたが、仕事を放り投げて旅に出なければならない距離だろうと思うと気が遠くなっていく。〈魔導の道〉を使えば一瞬かもしれないが。
時間は刻々と過ぎていき、この光景にも飽きてきた頃に大降りだった雨が止んで灰色の雲の間から日脚が延びる。複数の水溜りに空の様子が映り込んでいた。
予定時間を大幅に過ぎそうだったので、少年少女は急いで馬に鞭を打つ。街道を外れているため、夜更けまでにオーレンに到着できなければ野宿という危険と隣り合わせになることになりかねない。
不安定な道を走り続ける。次第に日が沈み始め、薄く広がる羊雲が橙色に染まっていく。カラスが鳴き、点在している林がざわめきだした。
二人がオーレンという小さな村に足を踏み入れたのは、すっかり日が落ちて初夏にも関わらず肌寒くなってきた頃だった。外から訪れる人間は多いようで、田舎にも関わらず酔っ払いで賑わっていた。人通りもあり、酒場と思われる建物からは明かりとどんちゃん騒ぎの大声が聞こえてくる。そんなところに入るのは気が引けたが、腹をすかせた二人は渋々と行った様子で騒音の中に飛び込んだ。
子供の入店を気にかける輩は誰もいない。この周辺の地域では成人は一五歳からとされているのが理由だった。それを知らない二人は居心地の悪さにそわそわして、入口に近い空いているテーブル席に腰を下ろす。
「ヨリプトの店と全然、雰囲気が違うね」
「そりゃそうよ。大都会と田舎なんだから違って当然。私はこういう気軽なお店の方が好きなんだけどね」
「そうなの?」
「兄さんたちのお店は味は確かなんだけど、何か息苦しいっていうか……きっと私には向いてないんだろうなって」
「ふうん……僕もこっちの店がいいかな」
「あら、人見知りなくせに意外ね。静寂は嫌い?」
首を横に振るヴィンセント。
「嫌いというより苦手って感じ。余計なことを考えちゃいそうで……」
「見た目通りの繊細さねえ……」
若干呆れた様子でアニータは言った。儀式の時や関所では堂々とした態度ができるのに、それ以外では縮こまって他人の背後に隠れる小心者。肝が据わっているのか、はたまたそうではないのか、何事も白黒つけたい性分のアニータにとって苛立ちの原因となっている。仕事に慣れていけば一人でこなすことも増えていくだろうし、今のうちから人見知りな部分を矯正していかなければ彼は後々、大変な目に遭ってしまう。先輩としてなんとかしなければ、という責任感がアニータの中で渦巻いていた。
「でも、いずれ孤独に慣れなきゃダメよ。魔導士は普段、チームを組まずに単独行動何だから。今回みたいに二人での任務は最初のうちだけよ」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。それこそ、私はアンタの助手って感じなんだからね。あたしは見習いで、アンタは正式な魔導士。本来ならアンタが先導しなきゃいけない立場なんだから」
途端に曇るヴィンセントの顔には不安が浮かんでいる。とはいえ、誰もが通る道のため、新人だからと甘やかすことはできない。一つの試練として、教える側も心を鬼にしなければならなかった。
何か考え事でも始めたのか、ヴィンセントはすっかり口を閉ざしてしまった。その間に注文しておいた食事が運ばれてくる。ヴィンセントは川魚のムニエル、アニータはマッシュポテトとビーフシチュー。テーブルの中央にはバスケットに入ったライ麦パンが置かれ、二人は無言のまま食事を始めたのだった。
酒飲みたちがバカ騒ぎをしている中、二人は会話を交わすことなく食べ進める。
「そういえば」
食べ終わった直後、リンゴジュースを口にしながらアニータが話を切り出した。
「〈呪う者、呪われる者〉ってどんな物だと思う?」
「ううん……」
「ヨリプトの皇帝が優秀な鍛冶屋に作らせた芸術作品……全く想像がつかないし、会長様に形や大きさを聞いておけばよかった」
「おい、今〈呪う者、呪われる者〉って言ったか?」
突然、会話に割って入ってきた酔っ払いの細身な男。ビールが入った木製のジョッキを右手に持ち、頬を赤くして声も大きい。
「え、ええ。言ったけど」
「それ、あの気味の悪い婆さんが持ってるぜ」
「気味の悪い婆さん?」
「おうよ。村はずれに建つ一軒家に住む婆さんだ。確か、呪術師とかなんとかっていう噂があるなあ……お前ら、その婆さんに何か用か?」
「ちょっとね」
「俺は会わない方がいいと思うぜ。あの婆さん、いつも独り言を言いながら周辺を徘徊してて不気味で仕方ねえ。近寄らないことだな」
そこまで言った時、男は飲み仲間に呼ばれて席に戻って行った。
「ふうん、なるほどね」
怪しい笑みを浮かべたアニータ。
「オーレンの人たちは友好的みたいだね」
「むしろそれが好都合だわ。聞き込みもやりやすいし……とにかく今日は宿に戻って休みましょ。明日の朝一番にそのお婆さんを訪ねるわ」
願ってもいない情報を仕入れた二人は宿に戻って床についた。
二階の仕切りのない宿泊部屋。ベッドは五つ置かれ、そのうち真ん中の二つを利用したヴィンセントとアニータ。お互いに背を向け、下の階から聞こえてくる宿泊者の談笑の声を気にすることなく眠りについた。
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