第4話 ボールドウィン家の恥さらし

 魔導士会が所有するヨリプトの一軒家に戻った時、もうミレイン・モロウは姿を消していた。もはやそこにいたという痕跡すら消えてしまっている。人の温もりも、残り香すらも全く感じない。元々ここには誰もいない。空間がそう言っている気がする。


 再びクローゼットを通って本部に帰還した二人。アニータはヴィンセントを浴室の二つ隣にある一室に案内した。


 質素で静かで、足を踏み入れてすぐ目にした小さな窓とベッドが置かれているだけの部屋。床に埃は積もっていないようだが、まるで何年も掃除されていない古臭い雰囲気が漂っている。


「ここがアンタの部屋ね。他の家具や雑貨は自分の給料で買うのよ。浴室はさっきのところ、食事は大広間。椅子の背にそれぞれ星座の名前と紋章が彫られてるからすぐわかると思う。食べる物は自分で調達しなきゃいけないから注意するのよ。街で買ったり、森で狩りをしたり。調理室と常備されてる野菜や果物なんかは自由に使っていいわ。ただし、何を使ったのかメモを残しておくこと。いい?」


「あ、その……」


「何?」


「僕、文字が読めなくて、星座の名前も読めないんだけど……」


 隠された事実が浮かび上がったことでアニータは両腕を組む。


「なら、最低限の勉強もしなきゃいけないわね……とりあえず、これ見て」


 そう言って彼女が取り出したのは〈獅子座レイヨナ〉のラベルが貼られた空き瓶。ラベルの部分を指差して続けた。


「これが〈獅子座レイヨナ〉の文字よ。紋章はこっち。わからないうちは形で覚えると楽だと思う。忘れたらあたしに聞いてよね」


「うん、わかった」


 ヴィンセントは瓶のラベルに刻まれた文字の形を目に焼き付ける。更に〈獅子座レイヨナ〉の紋章も成長が止まりかけている脳に叩き込んだ。どうしても文字が読めないことを他人に知られたくなかったからである。酒と間違えて霊薬を飲んでしまったことがきっかけだ。多少でも文字が読めたなら、酒ではないと判断できたかもしれない……酒の種類を把握できていればの話だが。


「ええっと、あと説明しなきゃいけないことは……魔導士についてね。さて、ヴィンセント君に質問です。魔導士は何のために存在しているでしょうか?」


「ううん……」


 言葉が途切れる。出てくるはずのない答えを見つけようと必死に考えるが、魔導士をよく知らない少年の口は開く様子すらない。アニータもそれを承知の上で質問を投げたのだ。


「わからないよ。魔導士って何をするの?」


「普段は便利屋って感じね。怪物を倒したり、おつかいを頼まれたり、飼い猫を探したり、住民同士のトラブルで仲裁役をやったり……とにかく何でもする。でも、魔導士はそれだけをこなしてるわけじゃないの。魔導士が存在する理由は、この世界を壊そうとする怪物から世界を守るためなのよ」


 いきなり話が夢物語のような部分まで飛んでしまったものだから、少年の脳内は混乱しそうになっていた。あまりにもスケールが大きくて、あまりにも非現実的な発言である。世界を壊す怪物? 世界を守る? ヴィンセントにとってそれらは幼い頃、母が読み聞かせしてくれた絵本の中だけの話だ。現実とはかけ離れた、誰かが作り出した空想の物語。


「アニータ、まさか嘘をつこうとしてないよね?」


「そんなわけないでしょ! まさか、あたしの話が本当じゃないって思ってるの?」


 大きく頷く少年。アニータはその反応に溜め息が出た。自分が魔導士会に加入する時、この話を聞かされた自分と同じ反応だったからである。


「経験しないうちは信じられなくて当然かもね。でも、すぐ時は訪れるわ。最近、ソウルドレインの活動が活発になってきたし……」


「ソウルドレイン?」


「世界を壊す怪物よ。魔導士は与えられた特別な力を使って何十年、何百年も前から世界を魔の手より守り続けているの。これからはアンタもその一員。それはつまり、相手の敵と認識されること。どんな時も気を緩めないことね。魔導士がいくら老いのスピードが遅いからって、完全な不死じゃないんだから」


 実感が湧かなかった。異次元の話が少年の耳に入るが、あまりにも聞き慣れない単語だらけで反対側の耳から抜けていってしまいそうだった。


「あたしもね」アニータが口を開く。「いきなり生きる世界がガラッと変わっちゃって、最初の三ヶ月くらいは夢の中を生きているような感じだったんだ。だからアンタの気持ちがわかる。けどね、いつかは受け入れて理解しなきゃいけない日が来るわよ。だから、一つ一つの仕事をきっちりこなしていくのが大切だと思う。場数を踏めば、おのずと自覚が湧いてくると思うから」


 アニータが真っ直ぐな目で少年を見つめる。つい視線を逸らしたヴィンセントだったが、彼女が言おうとしていることはわかっていたし、それに応えたいという思いも沸々と込み上げてきていた。


「うん、頑張るよ」


 ヴィンセントの答えに安心したのか、少女の強張った表情は柔らかい笑みに変化していた。何だか彼女には笑顔の方が似合っているような気がした。


「さてと、他の説明は追々していくことにして……会長様の元に一旦戻るわよ。あ、その前にアンタの親の手配をしなきゃ。ちょっとここで待ってて」


 急ぎ足で部屋を飛び出して行くアニータ。置いて行かれたヴィンセントは静寂が漂い始めた室内に多少の居心地の悪さを感じつつ、固いベッドに腰かけた。


 窓から見える広大な庭園は本当に見事だった。今では本物なのか魔法で作り出しているものなのか区別がつかないが、風に揺られる美しさは真実だろう。淡い色の花々に埋め尽くされた花壇は人の意識を吸い込んでしまいそうで、現にヴィンセントの視線は外の世界に釘付けである。もう何年も感じられなかった平穏と緩やかな時間の進みに浸り、少年はいっときの休息に長い溜め息をつく。


 それからしばらく自室で休んでいたヴィンセントだったが、激動の一日で疲労がたたったのか、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。ベッドで背中を丸めるように横になっている。無意識のうちに出てしまう身を守る格好は、容赦ない寒さや隙間風、時たま振るわれる両親からの暴力から逃れるため、長年、体にしみ込んでしまった姿勢だった。本人は未だ無自覚のようだが。


「ヴィンセント! 会長様のところに……」


 ようやく戻って来たアニータ。ドアを勢いよく開けるも、ヴィンセントは静かに寝息を立てて熟睡してしまっていた。彼の疲労がピークを迎えそうだったのはあらかじめわかっていたので、ゆっくりドアを閉めた少女は忍び足で窓際に行き、壁に寄りかかって腕を組む。


 深い眠りについているヴィンセントの顔を眺めていると、嫌味な言葉を投げてきた彼の両親の顔が脳裏に浮かぶ。両親を古都ヨリプトへ引っ越しさせる手配、使用人の準備など、既に難航の兆しが出ていた。魔導士会の全国に張り巡らされた情報網によると、少年の両親は貧困が原因でなく元々外では横暴だったようで、父親に関しては地元では有名な暴君とのこと。更に耳を疑ったのは、ヴィンセントには二つ下の妹がいて、父親が数年前に奴隷商人に売り払ったという噂話。こんなことまで出てきたのだから、父親は限りなく黒に近い。ヴィンセントに確認を取れば事実かどうかハッキリする(本人が口を割れば)し、下手に接すれば古都の衛兵隊との信頼が揺らぐ事態となってしまう。


……やっぱり、早く会長様に指示を仰ぐべきね。


 思い立ったアニータは少年の肩を叩いた。


「ちょっと! 起きて! 起きてってば!」


 甲高くて大きな声に、うっすら目を開けるヴィンセント。その寝ぼけた脳みそは何を勘違いしたのか、「あと一◯分だけ」と、モゴモゴとした口調で再び夢の中へ飛び立とうとしている。それに怒りを覚えたのか、彼の頬を思いきりつねってやった。


「痛い! 何⁉︎」


 ようやく飛び起きたヴィンセント。アニータの怒り心頭な顔を見て、状況を察することに成功する。


「いつまで寝てる気? まだまだ仕事はたくさんあるんだからね!」


「ごめん。ちょっと疲れてて……」


「それはあたしも同じ!」


「はい……」


「時間がないし、急ぎ足で行くわよ!」


 さっさと行ってしまうアニータをヴィンセントは追いかける。少しの仮眠で元気を取り戻したのか、先程より顔色が健康的になっていた。


 廊下を駆け抜け、会長室の前に辿り着いた二人。ノックをすると中から「入りなさい」という声があり、「失礼します」と言ってドアを開ける。


「おお、来たか」


 穏やかに迎え入れたのは会長アデル・オルビーである。大きな机の前に座り、高く積み上げられた書類と、木製の土台に置かれたガラスの球体に老人は埋もれているように見えた。インクをつけた羽ペンを羊皮紙の上で滑らせる。


「終えたのかね?」


「はい。ですが問題が……」


「心配することはない。ベテランたちが上手く対処してくれているよ。お前はまず、自分に与えられた仕事に目を向けなさい」


「わかりました」


「では、言い渡す」羽ペンを持つ手を止め、緊張して突っ立っている新人魔導士に視線を移す。「これよりフィプス・アリンガム氏の元へ行き、これまでの経緯を伝えた上で誠心誠意、謝罪してきなさい。儀式の開始は明日の正午。それまでに帰還すること。いいね?」


「謝罪だけでいいんですか?」と、アニータ。


「もちろんじゃ。何かを要求されても全て断りなさい。念の為、二人にはヨナを同行させる。抱えきれない問題が発生した時は彼に頼るとよいじゃろう。ささ、外で待機するヨナと合流しなさい」


「よりによってヨナが同行者だなんて……」


「文句を言うでない。皆、忙しくて予定が合わないのだから仕方なかろう」


 不貞腐れた様子のアニータだったが、会長の命令ならばと悪態を呑み込んだ。


「行って来ます」


 素っ気なく言い放って会長室を出て行くアニータ。ヴィンセントは彼女が何故、こんなにも機嫌が悪くなったのか理解できなかった。


「不仲……というわけではないみたいだがのう」


 少年の心の中を読んだかのようにアデルは言った。


「どうもお喋り同士は気が合わないみたいでな。君のように静かに聞く相手ならいいんじゃが、自分が話したいという気持ちが二人を衝突させているみたいじゃ。喧嘩にならぬよう君が二人をコントロールしてやってくれ」


「ぼ、僕が?」


 戸惑うヴィンセントを頷きながら見つめる会長のアデル。断るということを知らない彼は嫌々ながらその役を引き受けたが、よりにもよってよく喋る二人の中立にならなければいけないなんて既に気が重くなっていた。アニータとぶつかるほどの相手……機嫌取りをするか、喧嘩が勃発しないよう自分がそれぞれの話し相手になるか……頭が痛い。


 ペコリとお辞儀してヴィンセントが会長室を出ると、廊下の奥から大きくてよく通る声が響いてきた。


「早くしなさいよ!」


 せっかちで忙しない人だ、と心の中で呟きつつ、少年は駆け足でアニータの背中を追いかけた。


 昼過ぎ、上からの日差しがまだ強く、皮膚が焼けるような感覚に嫌気が差していたヴィンセントだったが、それを意識の遠くへ飛ばしてしまうほどの張り詰めた緊張感がアニータと見知らぬ男の間で火花を散らしていた。今にも双方どちらかが罵声を吐き出しそうである。


「どうも、新人」


 男はアニータから目を離すことなく続けた。


「〈蟹座ラプ〉のヨナ・ゴスリングだ。今日はこのじゃじゃ馬娘のケツを拭う旅を命令されてな。即答で断ってやろうと思ったが、クソ娘の慌てふためいた顔が見たくて受諾したわけだ。どうぞ、よろしく頼む」


 まさにアニータの顔は鬼だった。歯を食い縛り、嫌味を吐き散らすヨナを親の仇のように睨みつけている。全てが図星で反論できない彼女は怒りで震えていた。


「あ、こちらこそ」


 アニータを横目に軽く頭を下げた。


「ヴィンセント・クックです。よろしくお願いします」


「ほう、良い名前じゃないか。このブスとは大違いだ」


 呼吸するかのように次から次へと男の口から暴言が溢れてくる。子供同然の少女をここまで罵倒するには何か理由があるのだろうが、突っ込んだ問いかけをするにはまだ情報が不足している。一体、二人の間で何が起きたのだろうか? ただ気が合わないという理由だけではない、とヴィンセントは察していた。


 魔導士会の本部からアリンガム家が治めるアレスタという町までそう遠くなかったので、夕方の到着を予定して徒歩で向かうことになった。


 季節は初夏。山の麓に建つ魔導士会の本部の前には標高が高い山の雪解け水による川が流れていて、周囲には民家の一つも見当たらなかった。どこまでも続く草原が広がり、つがいの小鳥が戯れながら目の前を通り過ぎて行く。心が洗われるような大自然を目にしたヴィンセントは感激のあまり深呼吸を何度も繰り返していた。


「そんなに珍しいか?」


 ヴィンセントの隣を歩くヨナがボソッと呟いた。数メートル先を行くアニータには聞こえていないが、少年の耳にはバッチリ入っていた。


「だって、こんな綺麗な自然が残っているなんて思わなかったから……」


「どこの出身なんだ?」


「ミモ地方の……」


「トゥメリか」


「何でわかったんですか?」


 得意げにヨナは続けた。


「最近、壊れた土地だからな。任務で行ったことがあるだけだ」


「土地が壊れる?」


「知らないのか? あのバカ娘から説明されただろ?」


「いや、それは何も……」


……中途半端な仕事しやがって。


 ヨナはその青い目を細める。霊薬の譲渡にも失敗した挙句、説明すら怠るとは憤慨だ。顔を合わせただけでも苛立っていたのに、この話で更に怒りのボルテージが上がる。しかし、ここは冷静になってみなければ。純粋無垢な少年をあの性悪女から引き剥がすチャンスじゃないか、と思考を巡らせたヨナは上手く誘導しようと画策する。


「ソウルドレインの話は聞いたな?」


「はい」


「奴らは生きる力……つまり、生気を好んで摂取する怪物だ。生気は色んなものに宿っている。草木や野生動物、大地や人間も。ソウルドレインは基本的に時空の狭間で星の封印によって大人しくしているが、長い年月が経過すると封印が朽ちて野放し状態だ。奴らは時空に裂け目を作って世界に侵入し、魔導士の監視をかいくぐってその土地の生気を喰い始める。そうして生物は消え、土地は痩せ細り、天候も崩れやすくなって大地は壊れるわけだな。そうやって奴らは力を蓄え、隙を伺いながら人々の生活の中に紛れ込み身を隠す。もしかしたらあの木の陰や、あの廃屋の中に潜んでいるかもな」


 指を差して言うと、途端にヴィンセントが辺りを見回し始めた。素直で無知とは扱いやすい人間だ。


「ちなみに」手で口を覆うようにして付け加えた。「あの女はソウルドレインを撃退する手段を持っていないぞ」


「え? そうなの?」


 驚いたヴィンセントがアニータに視線を向けると、一瞬だけ振り返った少女と目が合った。もの凄い形相でこちらを睨んでいたが、すぐにそっぽを向く。


「だから、何かあったら俺に聞け。何でも答えてやるぞ」


「う、うん。ありがとう、ヨナさん。でも……」


「でも?」


「あんまりアニータのことを悪く言わないでほしいんです」


 一本取られた、と思うと同時に苛立ちが募る。ヴィンセントがいくら事情を知らないとはいえ、大嫌いな人間の息がかかった女の肩を持つことがどうしても許せないヨナ。いっそのこと殺してしまおうか、とすら思ったが、ここはぐっと我慢に徹することにした。


 以降、ヨナは口を開かなかった。先程まで饒舌だったのに急に黙るものだから、何か変なことでも言ってしまったのかと不安に駆られるヴィンセント。的外れというわけではないが、少年はまさかこの男が殺意を抱いているなんて夢にも思っていないだろう。アニータ本人は薄々勘づいているみたいであるが。


 しばらく無言で一本道を進むと青々しい森に足を踏み入れた。道はまだ続いているが、ほとんど獣道のようなものだった。生い茂った葉が日光を遮り、中は薄暗くて少々湿っぽい。野犬や狼の気配はしないが、夜中に踏み込めば無事では済まないだろう。


 薄気味悪い森を無事に抜けると、小規模ながらも門番が仕事を全うしている町に到着した。太陽はまだ沈んでいない。


 監視の目を光らせる門番の横を通過する三人。ビクビクしながら歩くヴィンセントの腕を掴んで引っ張るアニータはやはり苛立っているようだった。


 意外にも町中は人で溢れていた。道は舗装されていないので昨日の雨によってぬかるんでいるが、そこを泥まみれになりながらも走り回る子供たちがこの町の治安の良さを表している。奥の方には畑もあり、商人が家の前で品物を披露して客に売りさばく。平和な時間が流れていた。


「アリンガム家の住まいはこっちよ」


 中央の通りを進み、突き当りを右折すると大きな屋敷が三人を出迎えた。衛兵の数は一層増しており、多数の視線に晒されることになったヴィンセントの体は硬直してしまっていた。


「何者だ」


 衛兵の一人が近寄って来た。重厚な鎧に身を包み、腰には剣を携えている。下手なことを言えばすぐに斬り捨てられるだろう。


「魔導士会の者です」


 強気な姿勢でアニータは続ける。


「フィプス・アリンガム氏にご報告があって参りました」


 そう言った途端に衛兵の態度がガラッと変化した。「ああ、あれか」と溜め息混じりに呟き、道を三人に譲った。


「さっさと行ってくれ。機嫌が悪くて屋敷の中で暴れているから、早々に話をつけてくれるとありがたい。おい、誰かあのろくでなしのところへ案内してやってくれ」


 別の衛兵が呼ばれ、事態を把握できていない三人を屋敷に誘導するが、近くにつれて奇声や怒鳴り声、物を強く叩きつけたような騒音にタダ事ではないと三人は身構えた。


 屋敷のドアが開くと、使用人の女たちがオロオロしながら散らかった玄関を片付けていた。ワインのボトルは割れ、中身が飛び散って酒の臭いが充満しており、ヴィンセントは思わず鼻を塞いだ。


「あ、あの……」


 予想外の展開にさすがのアニータもたじたじだった。声をかけられた使用人の女のエプロンは酒と食べ物のソースにまみれている。


「はい?」


「魔導士会の者ですが……」


「やっとお着きになられたのですね!」


 アニータの声を遮って歓喜に包まれる女。


「今は自室にいると思います。そこの階段を上がってすぐ左の部屋ですわ。全く、旦那様が外出なされた途端に癇癪を起こして手がつけられなくて……奥方様も留守ですし、本当、困り果てていたのです」


 おおよその原因は三人とも頭に浮かんでいた。〈獅子座レイヨナ〉の霊薬の譲渡が遅れたからだろう。ヴィンセントの緊張が更に高まっていく。


「行くわよ」


 物怖じしないアニータを先頭に、酒で汚れた階段を上って行く。奇声や大きな物音が厄介な相手だと知らせているようだ。


「フィプス・アリンガム氏はおられますか? 魔導士会です」


 ノックをして声をかけると、先程まで響いていた騒音がピタリと止んだ。少しの間、静まり返った後に足音が近付いてきてドアノブが回る。数センチだけ開けられた隙間からは充血した男の目がこちらを睨んでいた。


「この中で譲渡を担当した奴と勝手に俺の霊薬を飲んだバカはどいつだ?」


 ドスのきいた低い声に圧倒され、ヴィンセントとアニータは顔を見合わせてしまった。


「私が担当者で彼が……」


 そう言いかけた時だった。勢い良くドアが開かれ、男の正体が判明する。身長は優に二メートルは超え、少女の胸倉を掴むと部屋の中に放り込んだ。続けてヴィンセントも引きずり込まれ、一人を残したままドアは閉じて施錠の音が鳴る。


「ヴィンセント! アニータ!」


 ドアをガンガンと叩くヨナは必死に声をかけるが、男の怒声とアニータの悲鳴によってかき消されてしまう。この最悪な状況に対処するためには一つの方法しかなかった。ドアをぶち壊す。


 ヨナは少し下がって右手に魔力の塊を溜め始めた。ある程度の大きさに達するとそれを前方に突き出す。すると、圧縮されていた魔力は衝撃波を生み出し、木製のドアは枠だけを残して見事に吹き飛んだが、それは男の背中に直撃し、剣を片手にした大男は怒りの矛先をヨナに向ける。


 大きく振り下ろされた剣を体を捻って避け、腕を掴んで力いっぱいに殴打した。その激しい打撃に男は剣から手を離したので、ヨナはすかさず男を壁に押し付け、右手に握ったナイフを喉元に突き立てる。


「抵抗すればお前の喉を掻っ切ってやる」


 ようやく正気に戻ったのか、フィプス・アリンガムはすっかり大人しくなり、座った格好のままロープで柱に縛り付けられた。この騒ぎを聞きつけた使用人や衛兵が野次馬の如く部屋の外から様子を伺っている。


「てめえらの有責だ。俺は何も悪くねえ」


 全く態度を改める気が見られないフィプス。


「このクソガキが俺の霊薬を飲まなきゃ、こんなことにはならなかったんだ!」


「それについては本当に申し訳ないと思っています」


 多少の動揺が残るアニータだが、自分の失態にはきちんと始末をつけなければならないので怯んでいる場合ではなかった。


「三日以内には違約金が振り込まれることになっていますので、どうかお納めください」


「はあ? 金だけか? 俺の華々しい人生設計を狂わせたくせに! ……そうだ、お前が俺の嫁になれば今回の件は水に流してやる。どうだ?」


「あ、あたしが?」


「どうせその歳で嫁ぎ先もねえんだろ? 俺といれば人生ハッピーだぜ」


「いいや、それはちょっと……」


 いやらしい目で見てくる男にアニータは一歩退いた。嫌悪感でいっぱいになり、言葉も詰まって声が出ない。鳥肌が立つ。


「なあ、いいだろ? お嬢ちゃんよお」


「それは僕が許さ……」


「それは規約違反だ」


 格好つけようとしたヴィンセントを押し退けてヨナが淡々とした口調で発言した。アニータの存在は鬱陶しいが、仕事に関しては別だった。


「違約金は支払われるが、契約者は魔導士会に対してそれ以外の要求をしてはならないと、契約書には記載されていたはずだ。それを了解して拇印を押したのだから今更になって聞いていないなどとは言わせんぞ」


「そういやお前……契約の時にジジイの付き添いで……!」


「あの時はどうも」


「この野郎、俺を見世物にした挙句、まともに謝罪もしないで……親父が黙ってると思うなよ!」


 体格もの良く、いかつい顔をした三◯過ぎの男が未だに親を使って脅迫してくるとは……もはや呆れて野次馬たちからも溜め息が漏れ出ていた。


「謝罪はした。後はパパが帰宅するまでそこで自分の行いを反省することだ。ドアの修理代はヨナ・ゴスリング宛に請求してもらって構わない。ただ、貴様も未成年に対して暴行の疑いがかかっていることを頭の隅に留めておけよ」


 そう捨て台詞を残し、拘束されたままのフィプスを置き去りにして三人は屋敷から出ようとするが、最初に言葉を交わした使用人の女に引き止められた。


「このたびは本当に助かりました。ありがとうございます」


 深々と頭を下げる女。


「いえ、これでもあたしたちが謝罪する側ですし……」


「そんなこと仰らずに! そうそう、お礼にこれを」


 女が差し出したのは水色のリボンで可愛らしく飾られた赤ワインのボトルだった。ラベルには〈アレスタ・ワイン〉と記載されている。それを受け取ったアニータは苦笑いを浮かべた。二人はまだ子供なので貰っても嬉しくない頂き物のナンバーワンが酒類である。


「アリンガム家が所有するブドウ園で採れたもので製造している最高級のワインです。会長様にどうぞよろしくお伝えください」


「ど、どうもありがとう。それでは失礼します」


 引きつった笑顔で別れを告げ、来た道を戻り始める一行。外はもう日が暮れ始め、夕日に照らされた木々が影を作り出していた。より一層不気味になった森はざわめき、なんとも言えない静寂が向かい風に乗って三人に吹きつける。一刻も早く森を抜けなければ、夜の顔が三人の魔導士に牙を剝くことになりかねない。


「落とすなよ」


「わかってるわよ」


 アレスタを出てからの会話はこれだけだった。ヴィンセントはすっかり沈黙してしまい、魔導士として本当にやっていけるのか、という不安に押し潰されそうになっていた。


 フィプス・アリンガムに掴まれて部屋に放り投げられた時、床に叩き付けられたことで体のあちこちが痛み、悲鳴を上げるアニータを庇えなかった。それが悔しくて、同時に何もできない貧弱な自分自身に苛立ち、情けなさのあまり涙を溜めていた。ヨナがあの時、咄嗟の判断でドアを打ち破らなければ、アニータは確実に刃の餌食になっていただろう。ヴィンセントの目には勇士が映っているようだった。彼は口は悪いが実力は本物だろう。そうでなければ自分の身長を上回る大男に躊躇わず挑めるわけがない。


 更に日が落ち、森の中の薄気味悪さは倍増していた。カラスが鳴き、昼間には全く感じられなかった気配が背筋を触っていく。三人はいつの間にか駆け足になり、厄介毎から逃れるかのように魔導士会の本部へ一直線に帰還したのだった。

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