第2話 星々の運命

 魔導士会の本部に到着し、何とか会長のアデル・オルビーに報告を済ませたヴィンセントとアニータは、アデルから今回の失態の償いの一つとしてヴィンセントに同行し、仲間たちに挨拶するよう命じられる。まずはそれをこなすために早速、人が集まりやすい大広間の方へと向かった。


 とても広い屋敷だったが、割と質素な雰囲気が漂っていた。壁にかかった絵画は埃がかぶっているわけでもないのに汚れて見えるし、腰まである背の高い花瓶は、接着剤か何かで繋ぎ合わせたような傷があるし、実はそれほど気を張らなくてもいいのでは? と、思い始めるヴィンセント少年。とはいえ、生まれてからずっと貧乏な暮らしを強いられていた彼からすれば、これらを質素と言ってはいけないような気がした。十二分に贅沢だ。隙間風が入らないだけでも。


……よくできたお屋敷だなあ。


 そんなことを暢気に思って辺りを見回していると、前を向いていなかった彼は突然立ち止まったアニータの背中に額をぶつけて足を止める。


「あれ、もしかして噂の新人さん?」


 アニータの前方から顔を覗かせたのは、短い金髪で耳にアクセサリーをつけた色白の青年。薄茶色の瞳は生命力に満ちていて、身長はヴィンセントよりもずっと高い。スラリと長い脚に、まるで貴族の息子でもあるかのような豪華な刺繍が施された衣服に身を包んでいる青年からヴィンセントは無言の嫌味を感じ取っていた。少年は貴族が嫌いだ。


 そんなことはつゆ知らず、青年は興味で目を輝かせてヴィンセントを見つめるが、アニータは困ったように説明しようとした。


「いや、彼は別の……」


「ああ、急いでるから挨拶なら後で! これから用事があるからさ。それじゃあね」


 少女の話を聞く間もなく青年は颯爽と去って行った。ヴィンセントは開いた口が閉じず、そのまま突っ立っていた。


「ったく、話くらい聞いてくれたっていいのに、もう!」


「あの人は?」


「ん? ああ、彼はレヴィン・ウィズ。〈山羊座カウリス〉の魔導士よ。あたしより年上だけど、魔導士会ではあれでも若い方なのよ。これからはアンタが最年少になるけどね」


「ふうん……」


「レヴィンはきっと、アンタがフィプスさんだって思ったのかも。ほんとならその人が〈獅子座レイヨナ〉になる予定だったから……」


 その言葉に酷い罪悪感を感じ始めたヴィンセント。本来はフィプスという人物が魔導士になるはずだった。それなのに、自分勝手な理由で霊薬を不正に飲んでしまった……どんどんと自分を責める感情が溢れてくる。彼や、彼の家族への申し訳ないという気持ちが噴き出して止まる気配を見せない。


「どうしたの? そんな顔して」


「だって、僕が、霊薬を飲んじゃって……」


 震える声。少年は徐々に俯いていき、小さな滴が次々にこぼれ落ちていく。握り締めた二つの拳。強く歯を噛み締めて、漏れる嗚咽を殺そうとする。何で、どうして。それだけが成長しきれていない彼の弱い心を支配していた。


「気にしなくていいのよ」


 たったその一言に顔を上げたヴィンセント。背中をさすってくれているアニータは微笑んでいて、少年を責め立てる様子は全くない。


「ほら、男なんだから泣かないの! アンタに悪気がなかったのは知ってる。皆にはあたしからちゃんと説明するから安心して。それに、元はと言えばあたしがあんな大切な物を落としちゃったからだし……ね? だから自分を責めないで」


 頷くことしかできないヴィンセント少年。女の子に慰められている自分が惨めでならない。本来ならば逆の立場なはずなのに。


……強く、ならなきゃ。


 今にも擦り切れてしまいそうな服の袖で涙を拭い、真っ赤にした目でじっとアニータを見つめた。彼女もヴィンセントの決意した目つきに頷き、二人は手を取り合って大広間へ向けた足を進め出した。


 少し廊下を行けば、高い天井の大広間に着いた。あちらこちらに設置された蝋燭のともしび。中央には縦長のテーブルと一三人分の椅子がずらりと並び、卓上には火が灯った燭台と白い花が生けられた花瓶、果物が盛られた銀の皿が置かれる。椅子は二席だけが埋まり、二人とも食事をとっている最中だった。


「アニータか。初めての霊薬譲渡は終わったのか?」


 先に発言した男はフォークで突き刺した肉を口に運ぶ。次から次へと乱暴に肉を刺しては食べ、お世辞にも行儀は良くない。色黒で、無造作に伸び続けた若干色素が薄い髪の毛は今のヴィンセントと同じ髪色だった。好戦的かつ闘志に燃えた赤い目はとても威圧的である。


「馴れ馴れしく呼ばないでよ、この野蛮人」


「何だって?」


 挑発的なアニータの言葉で男は憤怒し、フォークを握ったまま両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった。彼女は動揺すら見せない。


「若造がお高くとまりやがって!」


「やめなさいよ、アリュイン。みっともないわよ」


 二人の間で火花が散っていたが、その一言で一触即発は免れた。声を発したのは男の正面に座る長髪の女。赤みが強い茶色の頭髪、細長で少々つり上がった緑の瞳は鋭く相手を捉えている。いかにも不遜な女だ。さすがにそれにじっと見つめられては目を逸らさずにはいられないようで、男は悪態をつきながら大人しく着席した。


「アニータも目上の者への言葉遣いには気をつけなさい」


 注意されたアニータだったが、謝罪をするどころか唇を噛み締めて不機嫌になっていた。このやり取りで見えてくるそれぞれの関係性。あまりにも個性が強烈な面子にヴィンセントは不安ばかりを抱くハメになっていた。果たしてこの中でやっていけるのだろうか、と。元々、自己主張が苦手な彼は完全に埋もれてしまいそうだ。


「……というか、喧嘩をしようとか、そうじゃなくて……新人の挨拶に来たの。彼が新しい〈獅子座レイヨナ〉のヴィンセントよ」


「は、初めまして! ヴィンセント・クックと申します……」


 最初の威勢はどこへやら。段々と声のボリュームは小さくなっていき、最後は聞き取れないほどに消えていった。厳しい人の視線に晒され、緊張と不安のあまり喉が詰まる感覚に襲われる。寒くないのに体は震え、羞恥で目線を下に向けるしかなかった。


「ヴィンセント・クック? 次の〈獅子座レイヨナ〉はフィプスなんちゃらって人でしょ? もしかして初めてで間違えちゃったんじゃないの?」


「そ、そのことなんだけど、向かう途中で瓶を落としちゃって、見つける前にそれをヴィンセントが飲んじゃってて……」


「はあ? じゃあお前、初譲渡にしくじって別人を連れて来たわけか!」


 ガハハと下品に高笑う、アリュインと呼ばれていた男。アニータをバカにする理由ができて喜んでいる様子だった。嬉々として肉が刺さったフォークをアニータに向け、腹を抱えて笑い続ける。開かれた大口からは食べかけの肉が飛び散り、反対側に座る女は目を細めてそれを眺めていた。「汚らしい」誰にも聞こえない声でボソッと呟くと、難しい色を浮かべてアニータに言った。


「ねえ、そのことはもう会長に報告したのかしら?」


「したわよ、とっくに」


「そう。本来なるべき方への謝罪は?」


「そっちはまだ……」


「なら、こんなところで油を売ってないで早くなさい。魔導士会の評価に影響が出てしまうわ。そうなったらあなた、責任なんて取れないでしょう」


 促しつつも嫌味が含まれた毒にアニータは反論できなかった。それもそのはず、今回の失態はどう考えても自分の不注意から始まったものであるからだ。もっと責任感を持ち、瓶をそのままカバンに入れず手に持っていれば……いや、今更後悔しても手遅れだ。我慢して償えば、そのうち皆はこのことを遠い過去として認識し始め、いずれは忘れる。むしろ忘れて欲しいところだ。


「それにしてもアニータ、酷い人間を連れて来たわねえ……まるで乞食よ」


 舐めるように見られるヴィンセントは女の言う通り、まさに乞食の格好だった。服装は穴とつぎはぎだらけ、靴も粗末なサンダルで露出した足は真っ黒。清潔という言葉から程遠い外見にヴィンセント本人はあまり気にしていないようだったが、これでは人と会う仕事は不可能だった。


「そんなのわかってるわよ!」


 それを最も理解していたアニータは大声を張り上げ、少年の手を引いて早足で大広間を出て行く。


 気になって指摘しただけで逆上された女はヴィンセントとアニータいなくなった後、ふふっと笑みをこぼした。男は彼女が何故、笑っているのか理解できていない。


「何で笑ってんだ?」


「本当、やることがアニータらしいと思って。あの少年も副作用が薄れてきていたみたいだったし、結果的によかったんじゃない? きっと会長も納得した上で挨拶に向かわせたんじゃないかしら」


「そうか? あんな汚い子供を魔導士会に入れるのはどうかと思うが」


「あなた、自分を鏡で見たことある? 変わらないわよ」


「お前っ!」


「そうムキにならないでよ。それにあのフィプスって人、高貴な家の出身みたいだけどあまり良い噂は聞かないのよねえ……だから、私はあの子で良かったと思うわ。一見したところ弱気で人見知りで自己主張ができなくて、良いところなんてなさそうだけど、アニータと手なんか繋いじゃって……可愛らしいじゃない。私の勘はあの少年が将来的に化けると言ってるわ」


「やれやれ、お前の洞察力と想像力にはお手上げだぜ」




……挨拶のために来たのに何なのよ、この言われようは!


 大股で廊下を行く二人。アニータは心の中でブツブツと文句を漏らしつつ、少年を引っ張って向かった先は浴室だった。


 中は脱衣所が手前、きめ細かい模様が入った大きな衝立で仕切られた奥に木造の浴槽が置かれている。湿気でジメジメしている浴室だったがカビ臭さはなく、誰の趣味かはわからないが所々に多数の花が飾られていて、よく見れば湯船にも赤と白のバラの花びらが浮いているではないか。混ざり合った花の香りが鼻の奥をくすぐってくる。


「ほら、早く脱ぎなさいよ」


「え?」


「え? じゃないわよ。そんな汚い身なりをしてどこに行く気してんのよ」


「そうだけど……」


「恥ずかしがらない! 後ろ向いててあげるから、さっさと脱いで入りなさい!」


 腕を組んで背を向けるアニータ。それでもまだオロオロしていたヴィンセントだったが、「早く!」と更に急かされ、渋々といった様子でぼろきれ同然の衣服を脱ぎ捨てた。それから何故か忍び足で行き、人生で初めて触れた熱い水に驚愕する。


「これ、入って大丈夫なの?」


「はあ? 何言ってんの。入らないでどうやって洗うのよ。もしかして、お湯って知らない?」


「うん。ずっと水だったから」


「そっか……大丈夫よ。それに触っても火傷なんてしないから」


 アニータに後押しされ、思い切って湯船に浸かる。少し熱い気もするがとても心地良い。自然と溜め息が出て、まずは両手で汲んだお湯を顔にかけた。それから側にあった桶にたっぷりお湯を入れて頭からかぶる。何度も何度もそれを繰り返していくと少年に本来の髪色が戻ってきた。真っ白で混じり気のない白髪は伸び放題だったが、それでも彼は嬉しかった。


 いくら自分の汚れを落としても湯船のお湯が綺麗であり続けることに不思議を抱きつつ、洗い終わったヴィンセントは初めての温かい風呂を堪能していた。


 そうしていると衝立の反対側に人影が現れる。アニータだった。


「ねえ、その……アニータって呼んでもいい?」


「ええ」


「じゃあ、アニータ。さっきの二人のことを教えてほしいんだけど……」


「あー……そうだったわね。男の方が〈牡牛座ハルカ〉のアリュイン・マッコール、あの高飛車っぽい女は〈乙女座ネイシュト〉のパトリシア・バグウェルよ。二人とも魔導士会の古株って呼ばれてるの」


「そっか。魔導士になってから凄く長いのかな?」


「さあね。ま、二人は会長様が三代目に就任した時にはもう所属していたみたいだから、そこそこ長いと思う。あたしたちが産まれるずっと前のことだし」


 会話が途切れる。アニータも口を閉ざした。衝立越しに行き来する言葉は浴室に吸い込まれていったが、すぐにヴィンセントが再開させた。


「そういえば、アニータは何の星座を持っているの?」


「あたし? あたしは……」


 また声が消えていった。アニータの口は言いかけたまま止まり、ヴィンセントは沈黙して答えを待つ。口が達者な彼女が言葉を詰まらせることに違和感があったが、深刻そうな声色はすぐに一転して元に戻った。


「あたしは〈牡羊座オイナス〉の魔導士。ずっと新人だったけど、アンタが入ってくれたからようやく後輩ができたって感じね。先輩であるあたしの言うことをちゃんと聞くのよ?」


「う、うん」


「もう、辛気臭い空気は嫌いなのよね。洗い終わったなら早く上がって」


 早く入れだの早く上がれだの忙しい人だ、と呆れるヴィンセントだが、彼女が言うことは不思議と素直に受け入れられた。


 衝立の端から差し出された真っ白のバスタオルを受け取って体の水気を拭き取ると、次に畳まれた衣服を渡される。


「魔法で少しだけ綺麗にしたからまずはそれを着て。新しい服を買いに行くから」


「ちょ、ちょっと待って」


 擦り切れる前の真新しい服に袖を通す。おかしな気分。先程まではあんなに汚れていたのに……魔法という技術の素晴らしさを痛感する少年であった。


「あら、綺麗な白髪なのね」


 風呂上がりのヴィンセントを見てアニータが一言。本当に驚いた顔をしていた。無理もない、浴槽に入る前の彼の頭髪は黒に近かったのだから。


「肌も白いし……何だか女の子みたい」


「からかわないでよ」


「ごめんごめん。さあ、いざ街へ!」


「街? 服を買いに?」


「そうよ」


「でも、まだ全員への挨拶が終わってないし、アニータも仕事が……」


「いいのいいの! 霊薬を勝手に飲んだ罰としてアンタにも手伝ってもらう予定だし、アンタのその格好じゃフィプスさんに会いに行けないし」


「え、あ……うん。お金は?」


「そんなの決まってるじゃない。アンタの報酬を前借りよ!」


「ええ⁉︎」


「いいから早く! お店が閉まっちゃう」


 当たり前のようにヴィンセントの手を握って浴室を後にする。交差する廊下で横切って行く二人を見かけたアデル・オルビーはその様子を微笑ましく思った。


……あの少年、破滅か、それとも救済か。


 アデル・オルビー会長はまだ見定める必要があると判断していた。手違いとはいえ、人との関わりが下手なアニータがあそこまで少年を気に入るとは……これも星々がもたらした運命か。少年がアニータの支えになれば良いのだが。


 二人の元気な声が聞こえなくなった時、老人は再び自室へと戻って行った。

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