レイヨナ 〜深淵編〜
宮崎 ソウ
第1話 手違いの少年
貴族の豪遊は夢で何度も見ることがあった。目が覚めると、情けない現実に押し潰されそうなことも幾度となく経験した。そのたびに彼は絶望しながらも日々を生きるため、両親と共に小さな畑へ足を運ぶ。
薄汚れて、もはや黒に近い灰色の頭髪。本来なら青く透き通っている瞳も生気が薄れて濁り、皮膚は青白くて血管が浮く。そんな少年の名はヴィンセント・クックという。街道から遠く外れ、血肉に飢えた狼や飼い主を失った野犬がうろつくこともある人気のない森の中に建つ、今にも崩れそうなオンボロの小屋で両親と暮らしている。
元々病弱で人と接することが苦手なヴィンセントは、街へ出て定職に就くこともなく、両親が営むこじんまりとした畑の手伝いをしているだけだった。とはいえ、最近続いている異常気象によりせっかくの作物は根腐れや病気にかかり、周辺の農家も含め、ほとんどが全滅している状況だった。クック家の畑も同様に被害に遭い、空腹のまま過ごす日もあれば、知識の欠片もない野草に手を出して安全かもわからない植物を胃に入れる日もあるほどに生活が困窮していた。
夕食時、食卓に上がったのはいつもの野草と、溜めた雨水が入ったコップだけだった。三人とも痩せ細り、もはや街道に出て物を乞う気力も体力もない。暖かみを灯すランタンに照らされた顔は死を背負っているようだった。
「いただきます」
少年の小さい声が虚しい時間に消えていった。このまま死んでいくんだ。一五歳になる少年はそう思いながら野草に口をつける。最初は吐き出してしまうほどの強烈な苦味に涙を浮かべていたが、そんな苦味はもう気にならなくなっていた。
父親がランタンの火を消すのが就寝の合図。剥き出しになった固い土の上に汚れた藁を敷いてそこに雑魚寝して朝を待つ。隙間風が唸る音、外から聞こえる狼の遠吠え。雨の日であれば雨漏り、バケツに水滴が落ちる音……今ある記憶の中では熟睡した覚えがなかった。うつらうつらと眠るだけで、毎日、目の下に隈を作ってぼうっとしている。
そんな変わり映えのしないある日の夜中、ヴィンセントはいよいよもって横になっているのが苦痛になったのか、眠っている両親に気づかれないようこっそりと家を抜け出した。
軋むドアにびくつきながらも外に出ると、満天の星が一気に視界に飛び込んできた。風も穏やかで雲ひとつない。今夜の狼や野犬は静かだった。少年は夜の沈黙した空気で深呼吸し、畑の側に置かれた岩に腰を下ろす。そして、夜空を彩る星たちに再び目を奪われた。
あまりの美しさに呼吸を忘れてしまいそうになったが、それと同時に今の自分が惨めに思えて仕方なくなった。何もしたいことがないまま腹を空かせて死んでいく未来。それを変えることすらできない非力な自分自身に苛立ち、また絶望していく。自分の体は自分がよくわかっている。もうそれほど長くない。まともな思考さえできないし、いつ動けなくなってもおかしくない。
考えを巡らせても終わりはない。無駄だった。寝床でまた横になろうと立ち上がった時、何か黒いものが視界の端で横切った気がした。狼かと思って心臓が飛び上がり、近くの農具に手を伸ばしてすぐにそちらを向くが何もいない。暗闇でも目が利く彼には、草むらの中でぼんやりと光を放つ青白い何かが見えているだけだった。
「あれは?」
不思議に思ったヴィンセントは恐る恐る近づく。彼が屈んで拾ったのは青白く光る液体が入った瓶だった。本来なら不気味に思うはずなのだが、極限まで空腹で栄養失調に陥っていた少年はその液体が美味しそうに見え、飢えた食欲を満たさんとばかりに手が勝手に動き、栓を開けて躊躇せず飲み干してしまった。
液体は少しとろみがあって無味無臭だった。今更だが、瓶に貼られたラベルには〈
瓶を隠す。彼に罪悪感なんてない。誰かの物なんて考えも浮かばない。ちょっとだけ満足した様子で寝床に戻って行った。
そんなことがあった夜が明けた翌日、少年ヴィンセントの体に異変は起きていた。腹の上に岩でも乗っているのかと思うほどに自分が重く感じ、起き上がるだけで数分間はもがいていた。
……やっぱり酒だったんだ。頭がふわふわするし、二日酔いかも。
彼はそう確信して親に悟られないよう努力しようとしたが、そんなものは必要なかった。両親は最初から息子に興味すら示さない。母親は息子の様子がおかしいと察することもなくバケツの水を朝食として出した。
「何をモタモタしているの。早く起きて畑の世話をしなさい」
冷たい言葉を投げつける。この家族は、家族という均衡を保てないほどに限界だった。他人のことを気にかける余裕すらないのだ。頬がこけて無精髭を生やす父親も同様、息子に対して見て見ぬ振りである。
ようやくのことで体を起こしたヴィンセントは、さっさと出て行ってしまう両親を追いかけようと気が焦るが体が思うように動かず、今度は何もないところで躓いで食卓をひっくり返してしまった。その際に大きな音が立ったが誰も来ない。またもや少年はもがきながら体を起こし、土まみれになりながら食卓を元に戻す。
粗末な食卓と一緒にコップの水も溢れてしまったので朝食がなくなってしまったことに気づいた少年。きっと昨夜の罰だ。自分だけ良い思いをしてしまったから。もう抜け駆けはやめよう……そう自分に言い聞かせて外に出ると、何やら見知らぬ人物が父と母を大声でまくし立てていた。黒いローブに身を包んだ甲高い声の持ち主に怒鳴られている両親は困惑し、反論する隙を見つけられず黙っている。
「あ、あの……」
ヴィンセントが弱い声を出しながら近寄って行くと、やはり早口で怒鳴り散らされた。
「ちょっとアンタ、瓶を見なかった⁉︎ 小さくて青いの!」
キョトンとする少年。両親に目を向けると二人は全く心当たりがないようで、すっかり困り果てていた。
疑いの目をした少女は彼をじっと見つめる。紅蓮の瞳に短めの黒い髪、赤いヘアピンで直線に切り揃えられた前髪を留めている。フードで顔に影ができているが、年齢的にはヴィンセントとそう変わらなかった。
「瓶……」
「そう! この辺りで落としたはずなんだけど……アンタ知らない⁉︎」
少し考え込んだヴィンセントだが、ハッとした顔で昨夜に隠した瓶の元へ駆け出した。錆びた農具を押し退けて、草に埋もれた空の瓶を手に取る。〈
その様子を見ていた少女は「あーっ!」と叫び、ヴィンセントが持つ瓶に飛びついた。空っぽの中身を目にするなり顔がみるみるうちに青ざめていき、目を細めて疑惑の少年に視線を向ける。
「もしかして、飲んだの?」
マズい。このままでは一人だけ良い思いをしてしまったことが親に知られてしまう。そうなったらどんな酷い言葉をかけられることやら……。
両親に対する恐怖から少年はだんまりを決め込もうとしたが、両親の冷たい視線と少女の勢いに負け、彼はついに小さく頷いてしまった。
「アンタねえ、勝手に他人の物を飲んでいいと思ってるわけ?」
「そ、その、腹が空いてて、つい……」
「つい⁉︎」
「酒かと思って」
「お酒なわけないでしょ! はあ……飲んでしまったものは仕方ないわ。これはね、魔導士になるための霊薬なの。ほら、ここに〈
少女がラベルを人差し指で示したが、読み書きが絶望的なヴィンセントは難しい顔をして首を傾げる。
「とにかく、これは〈
「体が重くて頭がくらくらするくらい……二日酔いかなって。それに父さんと母さんに知られたら、その、叱られるから……」
モゴモゴと小声になっていくヴィンセント。このやり取りは距離が両親には完全には聞こえていない。少年のどこか怯えた様子に何かを察した少女はフードを取り、
「先程はパニックになっていまして、どうかご無礼をお許しください。あたしは魔導士会のアニータ・バルコンと申します。手違いですが、息子さんがめでたく魔導士として選出されましたので、それをご報告します」
「おい、聞いてないぞ」
やはり父親が一転して強い口調で口を挟んできた。険しい表情である。
「うちの使えないバカ息子が魔導士だって? それに、魔導士になる前は事前に通達があるんじゃないのか? 我が家にはそんなものは来てないぞ!」
……あーあ、何て面倒な親。
少女アニータの予想は当たっていた。両親が彼を見る目、使えないバカ息子という発言、とてもじゃないが良い親子関係とは言えない。下手なことを言えば一悶着起きてもおかしくないが、すぐにこの両親は手の平を返して息子にゴマを擦り始めるだろうと少女は更に予想した。
「申し訳ございません。こちらの手違いで通知できていなかったようですが、ご安心ください。息子さんは最初の副作用を乗り越え、晴れて魔導士となったのです! ご家族には毎月の報酬と住居、生活そのものの安全をお約束します。詳細は後日、別の者が説明に参りますので」
「いくら?」
「はい?」
「毎月いくらもらえるの? その、魔導士っていうのは」
……ほおらね、きたきた。
早速、母親が話に食いついてきた。こういう貧困家庭は魔導士の話より、報酬の話にいとも簡単に引っかかる。自分の失態だったが、何とか事態を収めることができそうだ。会長への説明には苦労しそうではあるが。
「いいから教えなさいよ!」
声を荒げた母親がアニータの肩をどついた。ムッとした表情を浮かべた少女だったが、すぐ苦笑いをしてみせた。
「すみません、決まりを破ることはできないんです。早急に説明に向かわせますので、一、二日ほどお待ち頂ければ幸いです」
こちらがいくら腰を低くして頼んでも機嫌が直らない母親と、便乗して威圧的な態度をとっている父親。貧困は性格も歪ませるのか? と、アニータは勝手に差別的な考えを持ちつつも、暴力沙汰にならなかったことに対してはホッと胸を撫で下ろした。
「おい、バカ息子!」
父親が怒鳴って少年を呼ぶ。彼の両肩は飛び上がり、怯えたような、相手の様子を伺うような顔で駆け寄った。
「早く行け。お前が役に立つなんてことはないだろうが」
「はい、父さん……」
小汚い父親が体調不良でふらつく息子の背中を強く押したが、アニータがさり気なくヴィンセントを受け止めてやった。霊薬の副作用がどれだけ辛いものなのか、彼女自身は体験したことがなかったが知ってはいたので、どうしても少年に同情してしまうのであった。
「では、息子さんは我が魔導士会が預からせて頂きます。先ほども申し上げました通り、説明は後日になりますので、よろしくお願いします」
それに対しての返事はなかった。二人は横暴な態度を続けたまま、少女に付き添われる息子を睨むばかり。アニータは呆れてそれ以上は何も言わなかった。これでよかったのだ。きっと運命がそうしろと言ったに違いない。星々の導きなんだ、と。
「行くわよ」
右手に空き瓶、左手で少年の手を握り、ゆっくりとした歩みで少年を実家から引き剥がすように離れて行った。その間、ヴィンセントが一度も振り向かなかったのが唯一の救いだった。
しばらく森の中を歩いた。めまいと酷い倦怠感でヴィンセントは疲弊しきっていたので、アニータは予定していた目的地へ行くことを諦めざるを得なくなってしまった。
「アンタ、男のくせにだらしないわねえ……もっとシャキッとしなさいよ」
首を横に振る少年。副作用の症状がピークを迎えつつあるのだろう。これを乗り越えれば楽になっていくのだが……予想外の出来事とはいえ、彼に文句をぶつけるのは酷である。一日休んで、今日予定していた用事をこなせばいい。
「仕方ない。一度、本部へ戻るわよ。えっと、名前は……」
「ヴィンセント。ヴィンセント・クック」
「そ、ヴィンセントね。あたしの手を離さないでよ? どこに飛ばされるかわからなくなるから」
アニータは握る力が強くなるのを感じながら、木と木の間に先の見えない入口を空間を裂くように出現させた。青と黒の何かが渦巻くそれは、まるで異世界への入口。その異様さと先が全く確認できないことが少年に恐怖を与えることになってしまった。ヴィンセントは両足で踏ん張り、アニータを引き止める。
「どうしたの? 怖い?」
「どこに行くの」
「魔導士会の本部よ。これは魔導士が使う移動手段の一つ。〈魔導の道〉って言うの。よっぽど急ぎじゃない限りは使わないんだけど、具合悪そうだし、早い方がいいと思って」
「だ、大丈夫だって。徒歩で大丈夫だから……」
ヴィンセントが〈魔導の道〉に入りたくない思いが丸見えだった。アニータは小さく「意気地なし」と呟き、再度少年を引っ張った。
「もう開いちゃったし、もったいないから行くわよ! アンタはもう魔導士なんだからしっかりしなきゃダメ。こんなもので怖がってちゃ仕事なんてできないんだから。ほら!」
ズカズカと〈魔導の道〉へ踏み込んで行くアニータを先頭に、目を閉じて手を引かれるヴィンセントが続く。二人が中へ入ると森の中に出現していた入口は閉じ、瞬く間もなく明るい広々とした屋敷の一室に二人は到着した。アニータが空き瓶を掴んでいる右手を軽く振ると、こちら側の〈魔導の道〉は消滅する。
「着いたわよ。いい加減に目を開けたら?」
そう促され、ゆっくりと目を開けるヴィンセント。光景の変わりように驚きを隠せないようだった。まるで貴族の館に迷い込んだような気分で、少年はそわそわして落ち着かない。
その時だ。まるでこうなることを知っていたかのようにタイミング良く部屋のドアが開く。老いた見た目によらず足腰がしっかりした男が入って来た途端、アニータの背筋がスッと伸びた。老人は長い白髪を背中で結い、整った白い髭も胸あたりまで垂らしている。本来なら新しい魔導士を歓迎すべき時だが、どうやらそんな雰囲気ではなかった。老人の表情は歓迎するにはあまりにも険しい。
「アニータ、よく戻った。それで、事情を説明してほしいのだが」
「はい。それが……」
目を泳がせて緊張しているヴィンセントを横目で見る。
「あたしが落としてしまった〈
「ほう。見たところ、副作用は出ているようだが……ふむ。体が適合しようとしているみたいだのう。フィプス殿に連絡は?」
「いえ、まだ……」
「ならば今夜にでも連絡が入るだろうから対応しておこう。ところで君、名は何という?」
老人に問われたが、見知らぬ人間と話すことが苦手なヴィンセントは上手く声が出ず、自分の名前すら答えられなかった。そこで気を利かせたアニータが代弁する。
「ヴィンセント・クック少年です」
「ほほう、古の高名なる騎士と同じとは良い名をもらったな。アニータよ、彼のご両親への使いはお前が手配しなさい。それと、皆への紹介、魔導士の存在意義の説明、風呂を浴びさせること。それらを終えたらまた儂のところへ来なさい。それで今回の失態を許そう。いいね?」
「わかりました」
アニータが一礼すると老人は笑みを浮かべて部屋を去って行った。ドアが閉じると同時に大きな溜め息をつく少女も、老人を前にして緊張していたようだった。
「アンタね、自分の名前くらい言いなさいよ」
「あの人は誰?」
「そこ? これだから人見知りは……あのお方はね、魔導士会の三代目会長、アデル・オルビー様よ。あたしなんかより、ずっとずっと凄い魔導士なんだから、失礼なことはやめてよね」
「か、会長さんだったんだ」
「会長様! さん、じゃなくて様よ! これからメンバーに挨拶に回るから、もっと背筋を伸ばして……ほんとアンタって猫背なのね。深呼吸して、ハッキリ喋ること。いいわね? よし、行こ!」
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