第5話
クリスの足が止まった。
「着いたぜ」
そこは喫茶店だった。看板に『喫茶・黒猫』と書かれている。目をまん丸くした黒猫は看板にも関わらず今にも飛びかかりそうな勢いがある。
……真っ黒な目が合った。背筋がざわつくほど本当によく出来ている。
「看板、カッコイイな」
「サンキュー。さぁ、入れよ」
クリスに促されるまま店内に入ると珈琲の香りが漂っていた。そして何故か木くずの香り。一瞬だが金属のような香りもした。
クリスは平然と自転車を建物の中まで運んでいた。素っ頓狂な声が出た。
「おっ? ……店の中まで持って来て良いんですか」
俺の様子に――ああ、とクリスは口を開いた。
「この店舗……まあ爺ちゃん家なんだが、今は俺が使ってんだ。店と言ってもとっくに閉店済み。だから金を取ってはいねぇ。今や老人たちの溜まり場だ。まあ、ゆっくりしていけや」
――なるほど。だから店内にまで……いやいやちょっと待て。俺はバイトって名目で連れてこられたんだよな……
ひとまず店内? に入っていくと、老眼鏡をかけた爺さんが居た。――おお、と言うとクリスは老人に近づいていった。
手持ち無沙汰だった。
とりあえず椅子に座り、様子を見た。
「クリ坊、この前オメェが言ってたもん……出来たぞ」
爺さんがそう言うとクリスは何かを受け取った。何を持っているのか分からなかったがシュルシュルという音だけが聞こえてきた。
「いい具合だ。よく出来てるぜ、ジジイ。やっぱ、やるなぁ」
「こんなもん……感覚がありゃできんだよ」
渡されたものをジャラジャラと鳴らしながらポケットに突っ込み、クリスはパンと手を叩いた。
「あ、そうだジジイ。この自転車のブレーキ直せるか?」
「……クリ坊、ジジイを暇人と勘違いしてないか?」
面倒くさそうに爺さんが言うが、クリスは頷いた。
「オーケー気分じゃないんだな。とりあえず自転車はここに置いとくわ」
「オメェの店だ。勝手にしろ」
そう言いながら爺さんは自転車を見ると――フン。すぐに前を向き直った。
自転車を置いたクリスは店のカウンターの向こう側に周っていた。そしてニヤッとした顔をした。
「そう、オレの店だ。だから誰が勝手に何をしようが何もしなかろうが構わない」
そう言うクリスの言葉に爺さんはケラケラと笑った。
「ここでどんな行動しようが構いはしないが、オレに面倒をかけるなって事だからな」
爺さんのハイハイという投げやりな返事にクリスは呆れた表情をしていた。
珈琲の香りが漂い始める。カウンターに周ったクリスが珈琲を淹れていたのだ。会話をしながらにも関わらず手際が良かった。店を開いていないとは言うが、まんま喫茶店の光景だった。
珈琲が出来上がる。俺の前にもブラックコーヒーが置かれた。
「ウチの店の味はブラックなんだ。飲めるか?」
「飲めるけど……本当にタダでいいのか?」
「店はやってないって言ったろ? 爺ちゃんの頃からの常連が懐かしさを飲みに押しかけて来くるから腕が上がっちまったけど、これはお茶汲みの延長だ。珈琲だけど」
勝手に珈琲を淹れているだけみたいな言い草だが、その延長っていうのが喫茶店じゃないのか? などとゴタゴタ考えていると、クリスはゴホンと咳払いをした。
「くる者拒まずゆく者追わず……ようこそ、雪兎。『喫茶・黒猫』へ。どうぞごゆるりと」
「懐かしいな。その口上」
爺さんがそう言って。クリスが一瞬、苦笑う。
「初めて言ったわ」
「店やってないのに言うんですね」
「やってるかどうかなんて関係ないからな。この場所に来て始めて珈琲を出した人に贈る言葉なんだとさ」
へぇ。俺はカップを持ち息を吸い込んだ。珈琲の香りが体内に流れ込んだ。
――いただきます。
珈琲を啜る……旨い。少しの甘みと水のような口当たり。柔らかく包まれ、スッと抜けていく。気持ちのいい珈琲だ。
「……懐かしぃなぁ」
じっくりと珈琲を堪能していると爺さんはまたそう言った。さっきの言葉より重さがない。妙な軽さに爺さんの方を見ると、上の空になっていた。
「……クリ坊、そういえば昨日の火傷大丈夫か?」
「ああ、十年前に治ったよ」
上の空な言葉に、クリスは平然と答えていた。
「……クリス?」
「静かにしててくれ。今じゃない」
穏やかに、さも当たり前のようにクリスは今の状況に対応していた。爺さんの様子が微妙に変わった。
「十年か……十年もすればおれもジジイに一歩近づくのかなぁ。ジジイになってもこの店に来たいからさ、店閉めるなよマスター」
「この店がある限り受け入れますよ。お客さん」
爺さんの表情はコロコロ変わっていく。爺さんの表情に少しづつ重みが増し始め、クリスの表情が変わった。
「息子が生まれるんだ……ジジイになる前にパパになっちまったよ!? どうしようマスター!」
「ジジイ、その息子がパパになってから何年目だ?」
「息子がパパになってから? …………ああ、そうだ。今年でおれの孫は十八歳だ」
爺さんの意識が今の今に戻ってきたようだ。
「おかえり、ジジイ」
「帰ってきてねぇ。ずっとおれだ」
――死期の近い老いぼれにとって生きている時間なんて、もうどうでもいいんだ。
爺さんはボソッと言う。興味深い話だ。続く小言に耳を傾けた。
「昨日も一昨日も十年前も五十年前も今の事だ。おれにとっては……」
「……ふぅん」
だから――いつかの今と、いまの今が混ざる、か……
俺は口を開いた。
「なんか汽水みたいですね。いつかといまが混ざった中に生きてるって」
――でも爺さんだからって訳でも無い気がしますね。皆んな同じ水槽の中に生きているんだから。
俺の言葉に、クリスが反応した。
「どういう事だ?」
「皆んな汽水の中にいるんですよ。でも、若い俺達は生きるからこそ時間に頓着してしまう。だからその事に気づけない。ちゃんと生きた爺さんみたいな人にはそれが分かる様になってくる。たぶん『ずっとおれ』って言ったのはあながち間違っていないんじゃないですかねぇ」
――だとしたら、なんか面白くないですか?
俺の言葉に、クリスは口角を上げた。そして頷いた。
「人は汽水に生きるか……ふぅん。良いじゃん」
爺さんが首を傾げる。
「なんだよ二人して、さっぱり分かんねえよ」
「違う。分かってんだよ、ジジイはもう感覚で分かってんだ。下手に言葉で分かろうとなんかしなくて良い。頭で考えるなってのはジジイがよく言ってるだろ? そういうことだよ」
爺さんは自分の手を見た。
「感覚がありゃ分かるってことか」
「感覚が一番信用できるってのはジジイが一番確信してるだろ?」
「……そうだ」
――じゃあ、
そう言って爺さんは俺の方へと向き直り、
「……アンタうちの孫と同じくらいに見えるが学校はどうした?」
と、答えづらい質問が振られた。
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