戦海の破城槌
蒼 飛雲
戦海の破城槌
開戦
第1話 派遣戦力
一九四一年九月
ダウニング街一〇番地
英国首相官邸
高緯度都市ゆえか、ロンドンでは九月になると薄手のコートが必要なほどに寒い日が続くことがある。
国の行く末を大きく左右するこの会議に参加している男たちもまた心の内に寒々とした本音を隠しつつ、だがしかしそのディスカッションは非常に熱を帯びたものとなっていた。
「まことに恐縮ではございますが、それでも海軍大臣としてはっきりと申し上げさせていただきます。首相閣下からご提案いただいた極東派遣戦力の件ですが、海軍としては反対です。
『キングジョージV』ならびに『プリンス・オブ・ウェールズ』の二隻の新鋭戦艦はドイツ戦艦『ティルピッツ』への備えとして本国から動かすことは出来ません。それに、いくら『キングジョージV』級が強力な戦艦だからといっても寡兵では戦艦を一〇隻も擁する日本海軍への抑止効果はほとんど望めないでしょう。
極東については、海軍としてはまとまった数の『ネルソン』級ならびに『リヴェンジ』級を送り込むことを考えております」
仮想敵国である日本との戦争が現実味を帯びてきているなか、チャーチル首相は「キングジョージV」級戦艦ならびに「レナウン」級巡洋戦艦の合わせて二隻の主力艦をシンガポールに送り込むよう海軍に提案した。
そのチャーチル首相が海軍にもちかけた東洋に派遣する戦力に対し、海軍大臣は丁寧に拒絶すると同時にその根拠を示す。
しかし、海軍通を自称するチャーチル首相も簡単には引き下がらない。
「海軍大臣も知っての通り、かつて我々は『ビスマルク』ただ一隻によって散々に引っ掻き回され、さらに現在においても『ティルピッツ』の存在によって極めて大きな掣肘を受けている。
逆に我々が『キングジョージV』級を用いてこれと同じことを日本に対して行えば、日本軍はシンガポールに手出しが出来なくなると考えるが。
それに、新鋭戦艦を含むとはいえ私の案ならば戦艦二隻の派遣で済む。その分だけ補給の負担も小さいのではないか」
チャーチル首相の言う通り、英本土から遠く離れたアジアの艦艇に対する補給は修理整備を含めて英海軍にとって頭の痛い問題だ。
「補給については首相閣下のおっしゃる通りです。戦艦は人も金も資材も、それこそ湯水のように使うある意味で贅沢な戦闘機械です。
ですが、補給より肝心なのは日本軍が持つであろうマレー半島あるいはシンガポールに対する侵略の意図を未然に叩き折ることです。それが出来ればアジアにおいて英国青年が無駄に血を流す事態は避けることができます。
ただ、これを実現しようと思えばわずか二隻の戦艦の派遣では全然足りません。この程度の戦力では日本軍のマレー半島に対する野心を断ち切ることなど到底不可能です。
ここは二隻の『ネルソン』級と四隻の『リヴェンジ』級を送り込んで万全を期すべきです。一八門の四〇センチ砲と三二門の三八センチ砲であれば、これに対抗できる戦力は日本海軍には第一艦隊しかありません。
しかし、ハワイに太平洋艦隊がある限り、日本海軍がマレー攻略に第一艦隊を送り込むのは不可能ではないにせよ極めて困難なことは間違いない。その日本海軍がマレー攻略に出せる戦艦はせいぜい二隻、どんなに多く見積もっても四隻を超えることは無いはずです。
こちらに戦艦が六隻あれば最低でも一・五倍、最大で三倍以上の戦力差で日本艦隊との戦いに臨むことが出来ます」
具体的な数字を挙げて説明する海軍大臣、その話をもとにチャーチル首相は彼我の戦力を脳内で計算する。
仮に日本側の戦艦が二隻の場合であれば、こちらには『キングジョージV』級戦艦があるから負ける心配は無い。
日本海軍最強の「長門」型でさえ、「キングジョージV」級の敵では無いことはその建造年次の差を見れば一目瞭然だ。
たとえ「長門」型が四〇センチ砲という「キングジョージV」級をしのぐ大口径砲を搭載していようとも、二〇年にも及ぶ建造時期の差、つまりは技術の進歩の差は容易に覆せるものではない。
なにより、世界最強の大英帝国の最新鋭戦艦が日本の旧式戦艦にタイマンで後れを取ることなどあり得ない。
一方で、日本側がマレー攻略に戦艦を三隻乃至四隻投入してくれば、こんどはこちらが劣勢となる公算が大きい。
脚が速い半面、攻撃力や防御力が貧弱な「レナウン」級は「金剛」型以外の日本の戦艦相手にはかなり分の悪い戦いを強いられるはずだからだ。
もちろん、「キングジョージV」級と「レナウン」級の組み合わせではなく、「キングジョージV」級が二隻であれば戦力的にはなんの問題も無い。
しかし、さすがに思い切りの良いチャーチル首相といえども二隻もの「キングジョージV」級を東洋に送ることは想定していない。
もし、そのようなことをすれば孤独の女王は喜び勇んで出撃してくるはずだ。
(あるいは、『キングジョージV』級が二隻から一隻になったとしても同じように孤独の女王は出撃してくるのではないか)
ふと、そんな思いがチャーチル首相の胸中に、まるで啓示のように湧き上がってくる。
もし仮に、「ティルピッツ」が一隻となった「キングジョージV」級との一騎打ちを望み、そして勝ったとしたらどうなるか。
ドイツはここぞとばかりにその戦果を喧伝することだろう。
かつての「フッド」の悲劇のときと同じように。
そのことによってチャーチル首相の政治生命がただちに断たれるというようなことは無い。
それでも相当に大きな政治的ダメージを被ることもまた間違いの無いところだ。
(自身が現在置かれている政治的な立場を顧みれば、わずか一隻とはいえ『キングジョージV』級をアジアに送り出すことは悪手かもしれんな)
今のチャーチル首相にとって最も大事なのは欧州の戦争であり、それに関与し続けるために必要な己の政治的立場、つまりは首相の座だ。
アジアの植民地防衛はそれらよりも優先される事柄ではない。
仮に、自身の主張を取り下げて海軍の提案を呑むとして、もし極東で良からぬことが起こったとしてもその責任は海軍に転嫁することが可能だろう。
戦争遂行と己の保身を両立させるのであれば、ここは海軍の主張を受け入れておくのも悪くないかもしれない。
そう判断したチャーチル首相は海軍の提案を渋々といったふぜいで受け入れることにする。
しばらく後、六隻の戦艦が東洋に派遣されることがマスコミを通じて国民に周知される。
その表の目的はシンガポール在住の英国民の間で芽生えつつあった日本との戦争に対する不安を払拭すること。
そして、裏の目的は日本に対する威嚇、もっと言えば恫喝だった。
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