嬉しさと不安と

「ヒナ? どうしたんだ?」

「な、なんでもないっ!」


 小春ちゃんの言葉を思いだして、私はクロードから顔を背けた。


 帰宅後、猫から人間の姿に戻ったクロードは、私の後にお風呂に入ることになった。

 何でも、猫同士の喧嘩の仲裁をしたら、うっかり汚れてしまったらしい。『せっかくだし魔法を使わずにおくか』なんて言って、少し乱暴に髪を拭く姿は普通の男の子みたいで、私はなんだか、いつもより少し落ち着かなかった。


「……」

 

 視線を戻してクロードの姿を見てみる。


 確かにクロードは格好いいし、私が困ったときには助けてくれるし、疲れたときはお菓子も作ってくれるけど、クロードは人間じゃなくて『魔法猫』なのだ。

 猫と恋なんて有り得ない! 


「まあ、言いたくないなら良い。それよりヒナ、手を出してくれ」

「……?」


 私の心などいざ知らず、クロードはいつもと変わらない様子で私に言った。

 私が言われるがままに手を差し出すと、クロードは私の手のひらに、星のついたヘアピンをのせた。


「これって……?」

「これは『杖』だ」

「『杖』?」


 私は目を瞬かせた。

 でも、これは――。

 

「……可愛いけど、ただのヘアピンに見えるよ?」

「ところが、そうじゃないんだな」


 クロードはそう言うと、いたずらっ子みたいににやっと笑った。


「魔法の力を込めると、変化するんだ。例えば――俺の場合、こうなる」


「わっ!」


 クロードが首のチョーカーに触れて、目を瞑って呪文を唱える。すると金色の鈴は、三日月の飾りついた黒の杖に変わった。


「……きれい」

「こんな感じで、上手く魔法を使えると形が変えられる。心の形に、杖が変わるんだ」

「心の形……?」

 

じゃあつまり、クロードの心は三日月と夜の杖ということだろうか?


「ああ。ヒナは、どんな形に変えるのか楽しみだな」

「……っく。う……ううう……ぬんっ!」

「がんばれ。ヒナ」


 クロードの気の抜けた声援に、私は少しイラッとした。


「……出来ないんだけどっ?!」

「まあ、こういうのは訓練が必要だから」


 クロードはそう言うと、私の手を取った。


「大事なことは、成功する自分を思い浮かべることだ。魔法は、心から生まれるものだから」

「……」


 ――『成功する自分』?

 難しいことはよくわからない。


「ヒナはどんな自分になりたい? なりたい自分を想像すること。それが、魔法を使うためには、必要なことなんだよ」

「『なりたい自分』……」


 クロードの言葉を、声に出して繰り返す。

 でも私は、当たり前のようにクロードが言ったことを、思い描けずに居た。


 ――わからない。わからないよ。『なりたい自分』なんて、私には……。


 いつものようにベッドに横になれば、クロードが頭を撫でてくれた。  

 優しい手のひらの感覚に瞳を閉じれば、私は真っ白な世界の中に居た。

 

 ――ああ。ここは、夢の中だ。

 

 理由は分からない。何故か私はそう思った。

 白い世界には沢山の色の扉があって、いくつか開いた扉の向こうからは、知っている声がした。


『ひな』


 ――お父さんと、お母さん?

 黄色い扉。

 それは、私が幼い頃、まだ両親が一緒に住んでいたころの扉のようだった。

 家の中の家具が、記憶の中の光景と同じだった。

 

『ひなね、今日かけっこで一番になったの! ひなの組で、ひなが一番!』

『すごいじゃないか。おめでとう。今度の日曜日は、みんなで遊園地に行こうか』

『流石私の娘ね。そうだ! 今日はひなの大好物を沢山作ったのよ』

『わあ! 茶碗蒸しとシチューだ! ありがとう。お母さん! お父さん!』


 温かな家族団らん。

 優しくて仲の良い両親の真ん中で、幸せそうに笑う幼い自分。

 私がその光景に手を伸ばそうとすると、私の背後でちりんと鈴の音がした。

 

『今日も来たよ。――【  】』

 

 黒い扉の向こう側で、幼い私が段ボール箱に話しかける。

 私は、私はその姿を見て、手を――……。


『起きろ! 起きろヒナ。遅刻するぞ!』

「……うん? クロード?」


 ピピピピピピピピピ!!!!


 けたたましい目覚ましの音が鳴る。


 猫の姿のクロードにペしぺし顔を叩かれながら目を覚ました私は、枕元の時計の時間を見て跳ね起きた。

 ごはんを食べる時間も無い! このままだと遅刻しちゃう!!


「クロード、さっさと行くよ!」

『うわっ!』


 私は着替えて、クロードのチョーカーをむんずと掴むと、そのまま体操着入れの中に押し込んだ。今日はのんきにお散歩しながら一緒に登校なんて出来ないのだ!


「はー。何とか間に合った」


 校門近くまで着いてから、私はクロードを袋から出してあげた。


『おいヒナ! 俺の首輪を掴むとは何事だ! しかもこんな袋に押し込むなんて!』


 にゃあにゃあ! にゃあにゃあ!

 クロードが不満の声を上げる。


「ごめんって。もうしないから……」

『絶対だぞ!』

「うん。絶対……」


 ――寝坊さえしなければ、という言葉を私はクロードには告げなかった。


「頑張って走ったからまだ時間があるね。小春ちゃん、まだ庭にいるかな?」


 不思議なことに、その日の朝、小春ちゃんは花壇にいなかった。


「おかしいなあ。今日はいないのかな?」


 私が不思議に思って辺りを見渡していると、クロードが一瞬ピタリと動きを止めて、それから怪訝な顔をした。


「今、歌が――」

「『歌』?」


 そんな音、私には聞こえなかった。

 私が首を傾げると、クロードは小さな声で呟いた。


「……いや、なんでもない。たぶん俺の気のせいだ」

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