前章2 開戦前夜


 女皇暦1186年 3月15日


 オラトリエス王国。

 ゼダの北東に位置し、その国土は十分の一以下。人口は全土で150万人程度の小国である。

 国土の大半が海に面しており、気候も温暖で作物も十分に育つ。

 だが、この国の最大の産業は海洋交易にあった。

 天然の良港から揚がる海産物と山岳部で育てた良質の羊毛を中原各地の港に運んではせっせ売り捌き、新たに仕入れた産物を別の港に運んではまた売る。

 王都リヤド。

 海沿いには巨大な倉庫が建ち並び、ずらりと並んだ桟橋には巨大な船が所狭しと並んでいる。

 文字通りの港湾都市。

 そうして莫大な富を得た豪商たちが海沿いに大きな屋敷を並べる。

 その一段高い位置に、王宮が置かれていた。

 王宮前の目抜き通りは午後ともあって活況を呈している。

 買い物に向かう主婦らがかまびすかしくおしゃべりに花を咲かせ、買い付けを終えた商人が荷運びの人足たちを急かすように歩く。

 学校を終えた子供らが楽しそうに脇道を走り去る。

 その片隅をひどくみすぼらしいなりの小男がとぼとぼと歩いていた。

 特別珍しいものでもないので誰も気にとめることなく見送る。

 時折、擦れ違った者があまりの悪臭に顔をしかめ男を避けていく。

 男は大通りから路地に抜け、そしてまた別の大通りを抜けると一件の店の前に立った。

 パブ ドゥーセット

 看板の文字を確認し、さりげなく周囲を見回す。

 店の入り口付近には強面の男たちがたむろしており、サイコロ博打にうつつを抜かしている。

 それ以外には人影もない。

 市内でもとりわけ治安に問題のある地域で、一般人は容易に近づかない。

 こういった裏町は中原諸国のどこの街にも一つや二つ必ず存在した。

 男は訝しげに睨む男達に軽く会釈をした後、するりと店の中へと入った。

 外の喧噪とはまったく無縁の店内は昼間だというのにすえた煙草と安酒の臭いに満ちている。

 まばらな客がそれぞれのテーブルで、ひどくうつろな目をしながらひそひそと会話を続けていたが、突然入ってきた見慣れぬ小男を警戒して一斉に会話をやめた。

 男は警戒心から静まった他の客を一顧だにせず、まっすぐカウンターへと向かうや、店主らしき恰幅の良い男におずおずと声をかけた。

「水を頂けませんか?」

 その見た目よりもひどく若々しい張りのある声に店主の眉がピクリと反応する。

 店主の名はパエール・フェルメ。

 今年で45になる。

 落ちくぼんだ瞼の奥に鋭い眼光が光る。

 丸太のような太い腕を組んでおり気の弱い者ならばそれだけで尻尾を巻いて逃げ出しそうなほどの威圧感を漂わせている。

「あいにくとウチは客以外にはなにも飲ませんことになっている」

 パエールは何事もなかったかのように顔の半分を覆った髭をなでつけ、値踏みするようにみすぼらしいなりの男を見据えた。

「エラルの山間から流れ出た雪解けの冷えきったおいしい水を一杯頂けませんか?」

(符丁か・・・)

 事前に示されていた通り、一言一句違わぬ合い言葉だった。

 エラル山脈はオラトリエス南西部に走りゼダとの国境を成している。

 雪解けとは両国の緊張緩和を目的とし、冷え切った水は現在の両者の関係を表す。

 その水を一杯欲しがるというのは「要人に会わせろ」という意味だった。

 パエールの眉が再びピクリと動き、顔つきがにわかに緊張する。

(そうか、こいつが例の密使か)

「雪解け水なら大いに結構。すぐに用意してやる」

「かたじけない。“ご注文の品は仕入れてきた”と伝えてください」

 改めてまじまじと男の顔を確認する。

 なりはみすぼらしく装っているが、凛とした声からは少しの緊張も怯えも読み取れない。

 なるほど、度胸は大したものである。

(品は入荷したか、あの御仁の気に召すと良いのだがな)

 パエールは狭いカウンターを抜け出し、勝手口から店の裏手に回ると、そこにたむろしていた男の一人に声をかけた。

 男は黙ってうなづくと往来へと走り去る。

 すぐさま店に引き返すや、パエールはカウンターで表に視線を向けていた男にそっと鍵を差し出した。

「二階の奥の部屋だ」

「すみませんが、湯を使いたいので用意しては頂けませんか」

「分かった。すぐにも二階に運ぶとしよう」

 小男はニコリと笑みを残して一人二階へと上がった。


 部屋に入るやみすぼらしいなりの男はやれやれとため息をついた。

(よりによって、この俺様にこんな連れ込み部屋みたいなところをあてがうなんてな)

 部屋には大きなベッドが一つあるきりだ。

 こんな場所ですることなど男女の営みの他になにがあるというのだろう。

 安酒と腐敗臭を漂わせた古びた外套を脱ぎ捨てると、そのまま男は衣服をすべて脱ぎ捨て下帯一枚になった。

 そして、どうと体を投げ出しベッドに横たわる。

 開け放たれた窓からは潮の香りを漂わせる風がさわやかに吹き込む。

(風の薫りも街の様子も以前とまったく変わらないな。だが、もうじきここは戦場になるのか)

 厳かなノックの音で男は体を起こした。

 なみなみと湯の注がれたタライとタオルを抱えたパエールが窮屈そうに部屋に入ってくる。

「湯をもってきたぞ」

「すまない」

 その小男はさっそくタライの湯にタオルを浸して体を拭いた。

「さすがに鍛えているらしいな」

 男の小さく痩せた体にはみっしりと筋肉がついている。

 体のそこかしこに縫い合わせた古傷が確認できる。

 さながら、鍛え上げられた業物でも見るように店主はふふんと鼻を鳴らした。

「まぁな、これでもいっぱしの人形遣いだからな」

(なるほど、ただの連絡員にしては落ち着き払っているかと思えば)

 「人形遣い」とは騎士の隠語だ。

 トゥルーパーこと基本体高6メルテの巨人兵器「真戦兵」の操縦適正者たちを言う。

 戦場の全権代理人であり、基本的に騎士同士が争わなければ大きな戦争など起きない。

 だからこそ騎士たちは各国においてエリート軍人として大切に扱われ、貴族並の待遇を受ける。

 だが、彼らがただの軍人貴族と異なるのは彼らの働き如何で勝敗が決するいわば決戦兵器の担い手であること、そしてそれだけに戦略戦術機略に通じており、露払い役で雑用係の生きた駒に過ぎない一般の志願兵士たちと異なり、自らの判断で行動することを日常的に求められることに尽きる。

 彼等が戦いの担い手であるから、徴兵などその必要がなく生産労働者たちは生産労働者として建設的な人生を謳歌出来たし、騎士因子を持たないが体格腕力に秀でた者たちを治安組織である警察官として抱えることが出来、社会秩序を安定させていた。

 騎士たちこそ戦争のない世では、抑止力以上の意味を持たない無用の長物に過ぎず、それだけに常日頃から、戦争の発生を止めるために危険を顧みずあらゆる抑止任務に従事する。

 敵情偵察や密使の類はその最たるものだ。

 彼らが安閑としてお飾りでいることは、この比較的平穏な時代であってさえない。

 必要があればあらゆる場所に出入りする。

 高名になれば暗殺者に狙われる危険も多い、暗殺者もまた機略に通じた騎士であることがほとんどだ。

 それゆえ彼らが公然と「騎士のなり」をするのは所属する騎士団の管轄区にいるときだけとされる。

 安酒屋を営む傍らで密かに裏の仕事を請け負うパエールはこれまでも多くの各国騎士たちと接してきた。

 その経験から察するにこの小男はただの騎士でもなさそうだ。

 パエール・フェルメが思い切って尋ねてみる気になったのは、この小男ならば近頃店の常連客たちの間で話題になっている例のウワサについてなにか知っているのではと確信したからだった。

「嫌なウワサを耳にした。国境の向こうじゃ戦支度に忙しいとな」

「ふうん」

 全身の汗と垢を拭いつつ、小男は軽く受け流す。

「なあ、実際のところどうなんだ?あの大国ゼダがこの国に本格的な戦を仕掛けてくるって話は本当なのか?」

「さあね、あんたはどう思ってるんだい?」

 パエールはもじゃ髭を撫で付けて眉根を険しくした。

「正直な話、信じたくはないさ。20年前にあんなことが立て続けに起きる前までは、そりゃあ隣の誼で仲良くやってたんだぜ。それがすっかり変わっちまった。今でもゼダの商人がよそを経由してこの港にも出入りしてるし、ウチの国の連中だって似たようなことをやっている。だが、こうも長く緊張が続くとさすがに表立っての関わり合いを避けるようになっていてな。あの国にも気のいい連中が大勢いたし、この店の常連も随分いたってのにな」

 少し寂しげなパエールの物言いに、小男は視線を鋭くした。

「正直なところ仲良くしたいと思っているのは向こうの連中も一緒だろう。もっとも、一部の輩はどうもそうは思っていないらしいがな」

 本当に不毛な戦争など文明社会に生きる者たちの誰もあって欲しいとは思っていない。

 力だけの野蛮な社会を望むなら、それこそ新大陸や暗黒大陸にでも渡ればいい。

 其処には不文律は存在するが法や秩序などない。

 まさに力だけが正義であり、逆に法と秩序の加護も得られない。

 人類の始祖メロウは自身が神であることも、出自や民族、肌の色で人が差別し合うことをなによりも望まず、知的生命種である同族同士が「共食い」することを徹底的に嫌った。

 現状変更に戦争など必要ではない。

 それでも偶発的な衝突はあり、騎士は其処に否応なしに命掛けで駆り出される。

 真戦兵は個人で所有などそうそう出来るものでなく、維持管理に莫大な費用がかさみ、騎士因子保有者と同じ数だけ存在もしない。

 生体兵器だからだ。

 つまり、真戦兵は生き物であり、経年劣化すれば死ぬ。

「もし戦になったらどうするかな。あの国が本気でこのリヤドを攻めてきたら、実際のところひとたまりもあるめぇ」

 パエール・フェルメの言葉にその小男は悪戯っぽく笑いを浮かべた。

「今のうちにリヤドから逃げておくかい?まっ、その年で忠義面して国に義理立てするような男には見えないが、おいそれと逃げ出す軽薄な輩でもなさそうだ。一つだけ言えるのは、アンタは世間の無責任な噂よりも鍛え上げた自分の勘働きだけを信じた方が良さそうだということかな」

 パエールは僅かに口元を歪めた。

 彼の勘は今回の件は「黒」だと睨んでいた。

 聞く愚を犯してでも見ず知らずの小男に意見を求めたのは自分の勘働きを確かめるためだった。

 いよいよ、事態が動き出す。

 今はその嵐の前の静けさとでも言うべき時期に差し掛かっているのだと。

 腹の内で打つべき手はすべて打っておくことに決めたのは、小男が暗に示した国に義理立てするという言葉だった。

 この小男は自分の正体を見破っている。

 パエール・フェルメはまたそのように確信した。

「分かったご忠告ありがとうよ」

 パエールは踵を返し掛ける。

「で、“奴”はいつ来るって?」

 パエールは一瞬だけ驚愕の表情を浮かべ、努めて平静を装った。

「奴か・・・そうだな、一時ほどこの部屋にいてくれれば向こうから連絡が来るだろうさ」

「分かった、それまで少し休ませて貰おう。船旅で疲れたんでな」

「そうしてくれ」

 再び小男を振り返ることもなく、静かに部屋を後にしたパエールは脇にかいた冷たい汗に一人戦慄していた。

(俺の想像が正しければこの小男の正体は話に聞いている・・・)


 陽が僅かに傾き掛けた頃になって、ドゥーセットのパブは新たな客人を迎え入れた。

 長身を外套ですっかり覆ったその人物は店に入るや、パエールに近づいた。

「いよう、久しいな」

「あんたが来るとは・・・」

 パエールは驚愕のあまり表情を隠すことすら出来なかった。

 手にしていたピッチャーからビールがこぼれだす。

「例の男は二階の奥だな」

「ああ、寝ている筈さ」

「分かったよ。ところでマダム・マーゴットは元気かい?」

「ああ、おかげさまでピンピンしてるよ。もっとも、里に帰したあいつに最後に会ったのは三月前だがな」

 マーゴットはパエールの古女房だ。

 娘の一人がお産の準備に入ったため、郷里に戻っている。

 あと一月もすれば、パエールには初孫ができる。

「悪いことは言わん。さっさと店を畳んでマーゴットと娘さんたちのところに行ってやるんだな。そろそろこのヤクザな商売ともお別れの時期だ。せいぜい、安全なところで余生を楽しんでくれ。俺からのせめてもの餞だ」

「・・・分かったそうさせて貰う」

「今回の件の報酬はこの情報とさせて貰うぞ。店を引き払う前に、有料で適当にあちこちにバラ撒いてくれれば助かるが」

「言われずともそうすることになるな。それが俺の商売だ」

「用が済んだらあの男は一度ここに戻す。その後の事はあいつ自身に聞いてくれ」

「了解した」

 パエールとの会話をさっと切り上げると巨躯長身の男は機敏な身ごなしで二階へと上がった。

 奥の部屋を目指して廊下を進み、ノックもせずにドアを開けた。

「おいおい、無礼だぞ」

「なんだよ、起きていたのか」

 小男はベッドに腰をおろし腕組みして待ちかまえていた。

 既に白い正装に着替えている。

 ゼダ女皇騎士団副司令トリエル・シェンバッハ本人だ。

 純白の隊服姿は先程の汚らしい小男とは同一人物に見えない。

 巨躯長身の男はフードを脱いだ。

「久しぶりだな、トリエル」

「ええ、アウザール王弟殿下団長もお変わりのない様子で」

 王弟殿下と呼ばれたその男こそが、オラトリエスの誇る「ルートブリッツ海上騎士団」を束ねるアウザール・ルジェンテ団長その人だった。

 年の頃は今年33になるトリエルとそう変わらない。

 実際には一つ年下ということになるが、童顔で若々しいトリエルと比べると中年の渋みを感じさせる。

 王族とはいうものの、荒くれ揃いの海の男たちで知られる騎士団の長らしく、くしゃくしゃの髪と同じ赤い髭を蓄えており、猪首のせいもあってひどく無骨に見える。

「皮肉はいいさ、ところで道中気づかれなかったか?」

「多分な。ニネベから船旅でここまで来たが、その間に会ったのは無学で不作法な船員たちだけさ」

「まあ、抜け目のないお前のことだから言葉通りと受け取っておこう」

 アウザールは部屋の隅に投げ出されたひどく臭う布に気づき手に取った。

 汚れの目立つ汚らしいコートにアウザールは思わず顔をしかめた。

「うっ、これはひどいな。腐った生ゴミでもこうは」

「言うなよ。船旅からこっちここまで我慢して着てきたんだ。どこにウチだか何処だかの密偵が潜んでいるか分からんからな」

 ゼダの国家騎士団、フェリオ連邦の各騎士団がオラトリエス各地に放った密偵は膨大な数に上っている。

 無論、諸方で動静に目を光らせているすべての密偵がトリエルのような国家要人の顔を見知っている筈はない。

 仮にいたとしても、国家の中枢に携わる人物本人がこれから戦争になろうとしている国でうろうろしている筈があるまいという常識に囚われて正常な判断は下すことができないだろう。

 だが、何事も用心に越したことはなかった。

「つくづく厄介なんだな、貴殿も」

「これも管理職たる俺の役目だから仕方がない。『白の隠密』に任せる手もあったがアイツに危険な橋を渡らせるのはまださ」

 甥っ子の顔を思い出してトリエルは苦笑しつつ、ずた袋の底に忍ばせていた汚らしい包みを手にした。

「それが?」

「ああ、我が敬愛するアリョーネ陛下からの親書だ」

 包みを解くと中からは真新しい金の装飾に彩られた文箱が転がり出る。

 “入荷した品”とはこのことだった。

「我が君はお待ちのご様子だ。会見の準備は整っている」

「そうか。そうであろうな」

「表通りに馬車を待たせてある。急ぐぞ」

「心得た」

 二人は何事もなかったかのように部屋を出ると廊下脇の裏階段から外に出て、そのまましばらく路地裏を無言で歩いた。

 尾行者がいないのを確認すると、するりと路地を抜けて表通りに出る。

 そして、煉瓦造りの大きな宝石店に横付けされていた二頭立ての馬車に手早く乗り込んだ。

 大通りを直進した馬車はひたひたと進み、巨大な大手門にさしかかる。

 門衛たちは敢えて中を確認するような真似をせず、十字に構えていた槍をどけ馬車が通過するのを見守った。

 彼らにしか気づけない場所にそれと確認できる目印が刻まれていた。

 広く巡らされた城壁は緩やかなカーブを描いており、城壁沿いには下働きや衛兵たちの利用する通用路が続いている。

 馬車はその道を進み、日よけに植えられた針葉樹の植え込みを抜けると長い石段の前でピタリと止まった。

 道中、二人は終始無言のままだった。

 険しい表情を浮かべたまま、レースのひさし越しに外の様子を伺う素振りで思索を続けていた。

 旧交を温め、昔話や世間話に花を咲かせる気には到底なれなかったのだ。

 二人は馬車から降り立つと、そのまま石段を昇って通用門へと進んだ。

 待ちかまえていた守衛がトリエルの体を検査する。

 服の下に凶器の類がないことを確認すると、二人を王宮内へと案内した。

 だが、単にトリエルの場合はその小さな躯こそが鍛え上げた業物たる武器だった。


 窓の外に広く海を臨む王宮の一室。

 その男は豪奢なソファーにゆったりと体を横たえ猫と戯れていた。

 男はまるで邪気のない顔つきで一心不乱に溺愛してやまない白い猫の毛を梳かしている。

 長毛のソファーには猫の抜け毛がびっしりと張り付いている。

 小間使いたちは毎日せっせとこれを掃除するのだったが、その男ときたらまったくお構いなしで、白い毛が羽毛のように舞う様をさも楽しげに見つめていた。

 炊き込めた香の甘い香りが漂う部屋には他に二人の少年が控えているのみだ。

 彼らは表情を変えることなく、さながら置物のようにじっと動かない。

 僅かに額に滲む汗だけが彼らが生きていることを証し立てている。

「おまえは良い子でちゅねー」

 時折似合わない赤ちゃん言葉を交えながら、男は愛猫の柔らかい腹毛を優しく撫でてやる。

 澄み渡る午後の日差しに猫は目を細めつつ気持ち良さそうににゃーんと甘えた声で鳴いた。

 その男、シャルル・ルジェンテ国王こそが海洋国家オラトリエスの主である。

 切れ者の弟と暗愚な兄という構図は彼の即位以来、世間に定着した風評だ。

 無骨で生真面目な弟アウザールがルートブリッツ騎士団の長として辣腕を揮うのに対して、国王であるその兄は周囲の者たちに政を任せきりにして、自らは王宮の奥で女遊びと小動物に戯れて日々を怠惰に過ごしているという噂話は王宮通たちの間でまことしやかに語られていた。

 当然、この情報は敵国ゼダの知るところでもある。

 ゼダの事情通の間で、シャルルの名は「暗愚王」、「愚王」との隠語で語られている。

 軽いノックの音でシャルル国王は我に返ったように鋭く目を上げた。

「陛下、私です」

「うむ」

 シャルル王は部屋の隅で待機していた二人の近習に目配せで命じる。

 近習は恭しく一礼すると扉を開いた。

「陛下、例の男をお連れ致しました」

「そうか」

 シャルルは立ち上がって進み出ると、二人を招じ入れた近習の手に猫を渡した。

 さしずめ先刻のトリエルのように、用の済んだ変装衣装を脱ぎ捨てるがごとく、そこには未練も愛着もなかった。

 若い近習たちは心得たもので、一応、丁寧に受け取った白猫を籐籠に入れるやさっと部屋から連れ出した。

「しばらく人払いを」

「畏まりました、陛下」

 二人の近習を外に下がらせるとシャルルは居住まいを正した。

 そこには先程までとは打ってかわった厳粛な男の姿があった。

 一族特有の猪首の上に整えられた赤毛がうなじの辺りで束ねられ首筋に垂れ下がっている。

 引き締まったアウザールとは違い肥満体だが、ぶくぶくと太ったというよりどっしりと落ち着いているという表現が似合う。

 赤い鼻髭をたくわえた柔和で丸い顔にあって、切れ長の青い瞳が委細なくトリエルを見据えている。

「しばらくぶりにございます、“シャルル陛下”」

「2年ぶりであったかな、シェンバッハ卿」

 トリエル・シェンバッハは職務柄、現在、国を治める中原諸国の王たちとも直接面識があったが、シャルル・ルジェンテほどに聡明で食えない男はまたと知らない。

 シャルルの頭脳は中原の王たちの中でも、自国元首アリョーネと並び最も優秀と言って良い。

 思慮深いし世情にもよく通じている。

 本気で謀をしたならば、世間をあっと言わせるだけの事はしてのけそうであったが、敢えてそれをしない。

 自らはせずにもっぱら謀に対する予防線を張り巡らせている。

 自らの評判を意図的に操ることなど容易く、臣下任せの政にもその実厳しく目を光らせており、これといった失政というものが見あたらない。

 本物の暗君の下で安定した政治など望める筈もない。

 オラトリエスの繁栄は先王アンドラスから後を受けたシャルルの即位後も微動だに翳りを見せたことさえない。

 その意味でも、彼はまごうことなき名君であり、国の実情を比較してみれば、世間では名君と称されるフェリオ連邦王エドラスごときはシャルルの足許にも及ばない。

 だが、本当の意味は違う。

 二人とも正に食わせ物だった。

 シャルルは真実名君であるが故に暗愚を演じてきた。

 それも用意周到に即位以来このかたずっと。

 現在、在位18年であるから赤子がいっぱしの青年に成長するほどの長きに渡り、愚者の仮面を被り続けてきたことになる。

 それでいて、打つべき手はしっかり打ってある。

 自らの后にはフェリオン侯爵家からエドラス王の妹ミュイエを迎えていた。

 彼女はその美貌と頭脳こそ世に知られていたが、耳が不自由であったせいか言葉の方もうまく話せなかった。

 そうした障害がある故になかなか貰い手がつかずに兄王を悩ませていた。

 シャルルはそれに目をつけすかさず妻に迎えられるよう積極的に働きかけた。

 エドラスは見栄えも悪く好色にして暗愚という評判のシャルルに可愛い妹をやることなど考えもしなかった。

 だが、意外や聡明な妹のミュイエの方がシャルルとの結婚を強く望んだ。

 エドラスは承服しかねたが、自国の貴族風情にくれてやるならば、小国とはいえ裕福なオラトリエスに嫁がせる方が愛する妹の将来や抱える障害との共存にとって良いと判断して二人の結婚を許した。

 実はミュイエがシャルルを知ったのは婚儀の話が出るよりずっと以前のことだ。

 ミュイエがまだ愛らしい少女だった折からシャルルは珍しい異国の品々と共に心のこもった便りを送り続けており、求婚当時に至るまで文通は続いていた。

 こう書くと彼女だけが特別のように思えてしまうが、実のところシャルルは筆まめで自分の妻に迎える可能性がある各国の王女に付け届けを欠かさなかった。

 だが、ミュイエ唯一人に絞り込んでからは他の王女たちの所からそうした風評を知られることを恐れ、ごく自然な形で便りの数を減らし、慎重に距離を置いた。

 言葉が不自由であるがゆえに達筆で筆まめなミュイエ王女は各国の王女たちともせわしなく文通している。

 王女はその兄よりも、中原諸国の政情に明るく、要人の評判についてなど詳しい。

 ミュイエはシャルルの心遣いとその裏側に隠された真意について、先刻承知していた。

 シャルルの目的は三つあった。

 一つは来るべき有事に備えてオラトリエスとフェリオ連邦の結びつきを強化することにあった。

 輿入れの際にはほうぼうに金を惜しげもなく使い、選王候家を含むフェリオ連邦有力諸侯の関心を引き付けた。

 特にフェリオン侯爵家筋の人間には身分の上下を問わずに手厚くその関心を引き寄せた。

 彼らが最終決定権を持つエドラス王の身辺をまかなう側近であり、決断を求められた王が意見を求めるのはこうした人々であると判断してのことだ。

 二つ目は、エドラス王個人に恩を売ることである。

 難があるとはいえ、大事にしてきた妹の嫁ぎ先ということになれば、エドラスもあだや疎かには出来ない。

 シャルルは図体だけは大きいが財政的には貧しいフェリオでは到底行い得ない大がかりな規模で自らの婚礼を執り行った。

 関係が冷え切ったゼダの要人でさえ招待を断ることが出来ずに心ならずも出席したほどで、中原諸国で婚礼に招かれていない国は皆無であったし、要人を誰一人として寄越さなかった国も皆無だった。

 法皇国ミロアからは神殿騎士団副団長でナカリア枢機卿のミシェル・ファンフリート卿までもが招かれた。

 当時の規模としては最大級といえる。

 その威容はシャルルのみならず、エドラスの声望も大いに高めた。

 シャルルは諸国の宮廷筋から愚かで好色な男とみなされていた。

 だが、一国の国守でしかも大金持ちである。

 その男がたってと望んでフェリオ連邦王の妹を妻にしたというのは、オラトリエスが事実上大国フェリオ、ひいてはエドラス王の威光に追従していると人々の目には映ったのである。

 婚礼の宴席でエドラスがシャルル以上に上機嫌であったことは言うまでもない。

 現にこのときエドラスは側近に思わず「安い買い物をした」と漏らしている。

 心ある人が耳にしたならば思わず眉をひそめかねない不穏当な表現であったが、彼の心中を如実に現している。

 三つ目は、ミュイエ自身の抱えた障害にあった。

 耳と言葉に不自由するミュイエだったが、その分だけ頭脳と他の感覚には優れており、文章の方はシャルルが感心するほど達筆であった。

 また、表裏ある複雑な役割を演ずるシャルルの意図を正確に理解する聡明さを備えており、またどこかで余計なことを口走る心配もなかった。

 盛大な婚儀を経て后となったミュイエは男の子を二人生んだ。

 幸いにしてどちらも健常であった。

 15歳になる上の子リシャールは法皇国ミロアに留学させている。

 既に立太子を終えており、後継指名を受けている。

 8歳になる下の子サキエルは両親の手元で暮らしているが、ゆくゆくはアウザールの手で騎士団を引き継ぐよう養育されることになっている。

 シャルルには他に子はない。

 他の女に生ませた子などいないという意味だ。

 彼が好色というのも自ら生み出した悪評の一つに過ぎない。

 実のところシャルルは宮廷に侍らせた多くの美姫たちに一切手をつけていない。

 大国から迎えた妻の手前を憚ってのことではなく、相続を巡る骨肉の争いを懸念してのことだった。

 特に国内の有力諸侯が送り込んだ女性達は表向き大歓迎したが、実際には警戒して容易に側に近づけていない。

 事実上、「飼い殺し」にすることでシャルルの企図しない余計な婚姻交流を避ける狙いがあった。

 彼女たちは時期をみて婚期を迎えた臣下の子息や他国の有力者に下げ渡される。

 オラトリエス王の寵姫を妻に迎えたとあれば家格は上がるし、王家への忠誠心や結びつきも強まる。

 迎える側と異なり送り込んだ側としては大いに不満ではあったが、なにぶんにも国王の特別な寵愛を受けられないのであれば、宮廷に置いておいても日々の支度に出費が嵩むばかりだ。

 王命には逆らえないが、結果的には胸をなで下ろすことになる。

 これがシャルルの掲げる婚姻戦略だった。

 三つの目的が指し示す事実はたった一つ。

 シャルルが有事に備えてオラトリエスを一つにまとめ上げ、いざとなれば救援を頼める隣国の支援を確実なものとし、かつその王が心変わりせぬよう様々な形で楔を打ったのである。

 先の表現を借りればシャルルは王女一人を妻にすることで、大国フェリオ連邦一つを丸ごと買い上げたのである。

 それこそ多少の出費を惜しむいわれはなかった。

 シャルル退位後はミュイエの生んだ子である二人の王子リシャールかサキエルのいずれかが即位する。

 ともなれば、エドラスにとって甥子がオラトリエスの新たな統治者となる。

 これはフェリオの国家戦略において大いに歓迎すべきことで、うまくすればオラトリエスを間接的に支配操縦することも出来る。

 もっとも、実際には軍事を掌握する王弟アウザールがしっかりと目を光らせているので、容易にそのような事態にはならない。

 この場合、エドラス王の脳裏で、オラトリエスという珠を掌中にしているというイメージこそがなにより肝心だった。

 自分のものだと思っているものが他者に奪われようとしたとき、人は抗議のために立ち上がる。

 シャルルはその心理に賭けたのだ。

 今、こうしたシャルルの布石が実を結ぼうとしている。

 無論それは最悪の形ではあったが・・・。


「まあ、座るがいい。話は長くなりそうだ」

「それでは失礼させて頂きます」

 アウザールは二人のやり取りを横目に部屋の片隅に置かれたティーポットから紅茶を注いだ。

 既に湯は冷めてぬるくなっていたが一向に構わない。

 どうせ、深刻な密談に乾ききった唇と喉を湿らせるためのものだ。

 彼もその兄も富裕な王家の人間とは思えぬほどの実用主義者で無頓着である。

 三人分の紅茶を用意するとアウザールは自分もソファーに腰を落ち着けた。

「まずは親書を」

 トリエル・シェンバッハは例の文箱を恭しく差し出した。

「アリョーネ陛下はさぞかし心を痛めておられるのであろうな」

「はい、それはもう。地団駄を踏んで悔しがっておられますよ。『他に方法はなかったのか』とね」

 ニヤっと微笑んだトリエルの皮肉にシャルルは相好を崩して笑った。

「あの方らしいことだな」

 女皇アリョーネの人となりをよく知るシャルルは苦笑しながらトリエルの手から文箱を受け取った。

 ペーパーナイフで自ら蜜蝋を切り、手紙を取り出す。

 4枚の便箋にはみっしりと女皇自身の筆跡で彼女とその配下が入手した詳細な情報が書き込まれていた。

 シャルルは全文をじっくりと確認した後で、弟のアウザールに手渡した。

「随分と手の込んだやり口だな」

「はい、恐ろしく用意周到。そして、綿密に練られた作戦計画です。ただ」とトリエルはニッと人の悪い笑みを浮かべた。「惜しむらくはこれが事前に漏洩したことです。代案もない」

 おそらくはトリエルたち女皇騎士団が持つ諜報の網に引っかかったのであろう。

 手紙に書かれた詳細な作戦計画は前線に赴く将校が受け取った作戦指示書以上の内容を含んでいる。

 作戦計画の概要はこうだった。

 ゼダ国家騎士団の東征部隊は現在、北部の要衝アイラス要塞に集結している。

 うち、真戦兵45機から成る先発隊は既に国境を越えてラダンの森に潜伏している。

 彼らはオラトリエス国境警備隊の目を逆方向となるゼダ国境内のモリア渓谷に引き付けており、こちらには陽動部隊として真戦兵26機が駐屯している。

 「演習」と称する彼らの動静は国境警備隊を通じて逐一アウザールの耳に届いていた。

 また、海路封鎖を目的としたゼダ海軍の艦艇32隻がここ港湾都市リヤドを目指して各方面に進発している。

 その主力は北海への迂回航路をとっているが、作戦発動と共に転進して一斉にリヤド湾内に集結する。

 だが、そのいずれも戦の口火を切るための部隊ではない。

 飛空戦艦8隻から成る国家騎士団虎の子の精鋭部隊による交易都市ブルスへの空からの強襲降下作戦こそが緒戦と想定されており、ブルスの制圧が済み次第、各方面から進発した部隊は王都リヤドへの進軍を開始する。

 その指揮を執るのは東部方面軍のエースたるシモン・ラファール大佐だ。

 「カミソリ」の異名を取るエイブ准将の実子で、ゼダ国家騎士でも屈指の実力者だ。

 王都リヤド制圧までの期間は8日と想定されている。

 計画通りであれば、文字通りの電撃戦となる。

「洋上艦艇32隻、飛空戦艦8隻、真戦兵232機から成る制圧部隊か。これだけで我が全軍の倍に達する」

「国内に駐屯させた後詰めの部隊を合わせればその総数はほぼ貴国の全戦力の4倍に達するでしょう。圧倒的な物量と戦力でこの国を一気に制圧する・・・というのが国家騎士団参謀部・・・というより、カロリファル公爵の懐刀で最側近たるリチャード・アイゼン中尉の出した結論です。犠牲を最小限に留めるためには大軍で電撃的に制圧する方がいい」

 真戦兵の組織戦闘では分の悪い方がさっさと退く。

 でないと数に押される。

「しかし、よくもまあこれだけ歴然とした差がありながら今日まで無事にきたものだ」

 シャルルは皮肉も籠めつつ、呆れたように笑った。

「我らの外交努力の賜などとうそぶく気にさえなりませんな」とアウザールも苦笑いしつつ頭を掻く。

 大国と小国。

 国力と戦力の差は歴然としている。

 どう足掻いてみたところで勝ち目は薄い。

 問題は「いかにして勝つか」でなく、「いかにして負けないか」にあった。

「私はそれもすべてシャルル陛下と我が君アリョーネのご慧眼があってのことと思っております」

 ゼダとオラトリエス。

 それまで友好関係にあった両国の緊張状態が一気に高まった「クロウデール醜聞事件」と「アラウネ事件」が勃発して、はや20年を経た。

 それぞれ事件後に即位したシャルル国王とアリョーネ女皇は表面的には国交を緊張させながら、影では巧みに世論を牽制しつつ、深刻な武力衝突を避ける努力を続けてきた。

 それでも何度か小競り合いは起きている。

 その典型が《アイラスの悲劇》だ。

 シャルルは在位中5度にわたってお忍びで女皇家の離宮マルガの客人となっていた。

 無論、ゼダの元老院やオラトリエスの後ろ盾となっているフェリオン侯爵家の耳に入ればただ事では済まない。

 少なくともオラトリエス王家とゼダ女皇家の間に遺恨も敵意もないことを証明するための恒例行事で、アリョーネの手足となって働くトリエルや、シャルルが心より信頼する弟アウザールの尽力があってのことだ。

 信用できる部下を厳選し、水も漏らさぬ箝口令を敷いた上で二人は会見を重ね、確かな信頼関係を構築してきた。

 すべてはこの日の為にである。

「我々の取るべき道筋はとうに立っている。我らはアリョーネ陛下を心から信用して一人でも多くの国民の生命と財産とを守る。戦場から逃がしてしまうことそれに尽きる」

「はい、しかし情勢は実に難しい」

「そうだな、トリエル。こうなってはもはや猶予はならぬ。母と妻、そして我が子をサマリア法皇にお預けする手筈は整っている。あとは国土奪還の好機までいかにして我らが主力部隊を温存し、来るべきその日に備えるかにあるが・・・」

 トリエルは恭しく頭を下げた。

「ご心中お察し致します。陛下」

「私はここに残り、全軍の指揮を執る」

「えっ?」

「兄上、それは」

 シャルルは並々ならぬ決意を秘めた眼差しを二人に向けた。

「もとより腹はくくっていたのだよ。私の在位中に事が起これば私はいかなる場合もこの王都リヤドを捨てぬとな。それが我が国民たちへのせめてもの義務。当然のことではあるがな」

「しかしそれでは・・・」

「いや、私はこれを機会にこのオラトリエスに溜まった膿を出し切りたいのだ。大戦を引き起こした剣聖マガールの招聘事件以来、我が国は金満国家として中原諸国から疎まれ続けてきた。もとより、我が国は海上交易で財を成し、小国とはいえ莫大な富を独占してきた。それが中原に住まう数多くの貧しい避難民の末裔たちの反感と憎悪を一身に受けることを承知でな。『アラウネ事件』はそうした背景の下に起きた。貴官らの先達たちによる綿密な調査で我が国の事件への関与は完全に否定された。にもかかわらず遺恨は根強い。それも小国の身の丈に合わぬ栄華が招いた悲劇に他ならぬ」

 「アラウネ事件」とは現女皇アリョーネの実姉アラウネ・メイデン・ゼダ皇太子皇女の暗殺事件をさす。

 ゼダの首都パルムの迎賓館にて執り行われたシャルルとアウザールの実父で前オラトリエス王アンドラス3世の在位30年を祝う祝賀晩餐会の会場でアラウネは毒を盛られ横死した。

 警備に当たっていた女皇騎士団幹部とルートブリッツ騎士団の派遣将校は事前になにかの陰謀が巡らされているとの情報を得てこれに備えていたが、まだその時点ではアラウネ暗殺が目的だとは判明していなかった。

 晩餐会には国賓として当時はまだ王太子だったシャルルも列席しており、ルートブリッツ騎士団はシャルル王太子の誘拐拉致という偽の情報に踊らされた。

 身の危険を知らされ、周囲を用心深く警戒していたシャルルの眼前でアラウネは顔面を蒼白にして倒れた。

 事件直後、アラウネの飲んだワインを給仕した男と食した料理を調理した料理人たちは逮捕され、厳しく追求されたが彼らが口を割ることはなく、その後獄死した。

 もっとも料理や酒に毒が盛られていたのであれば同じ物を口にしたシャルルが無事に済む筈もなかった。

 毒味役に何事もなかったことも明らかになっている。

 事件を防げなかった当時の両騎士団首脳部は更迭され、真相は闇に葬られた。

 そして、両国の間に拭いがたい遺恨だけが残った。

 事件の黒幕は当時から明白だった。

 しかし、ゼダ国内で再度主流派となった彼らを糾弾する術はなかった。

 アラウネを排除対象としていたのはゼダ元老院だ。

 事件発生に心を病み退位した母メロウィンの後を受けたアリョーネは即位するやいなやシャルルにその心境と謝罪を綴った手紙を書き送った。

 それをシャルルの許に届けたのが奇しくも当時は出戻りで女皇騎士団入りしたトリエルである。

「オラトリエスの膿を出すというのは結構でしょう。それに貴方が残るというのも妙案です。フェリオは喜んで兵を出すことでしょうな。だが、その後続くのはオラトリエスを戦場にした二大国間の激しい戦争です。国土は荒廃し、多くの人命が失われ、この国は二度と元のような栄華を取り戻すことはないでしょう」

 トリエルの冷徹な指摘に兄弟はぐっと唇を噛み締めた。

「そうだ」

「それは重々わかっている」

 トリエル・シェンバッハは鋭い視線を二人に向けた。

「私が推奨する作戦計画はこうです。陛下、あなたは退却戦を装い、フェリオとの国境に最も近い内陸のファルマス要塞に入る」

「ファルマスだと?確かにあそこは我が国の東部防衛の要で戦力もそれなりに置かれているが、ここリヤドからは遠い。友邦国たるフェリオへの手前もあって守備兵力は最低限に抑えておるし物資の備蓄も少ない。それに、このリヤドから移送したとするならどう見積もっても片道三日を要する」とはアウザール。

「しかも山岳地帯ゆえに精強な我が艦隊をしても兵員や真戦兵の輸送は困難。長引けば連絡も絶たれ、個別に潰されるのがおちと見るが?」

 二人の指摘は当を得ていた。

 それこそ他国人のトリエルなどには及びきらぬほど、彼らは国土を熟知している。

「ええ、ですから、リチャードたち国家騎士団参謀部はそうした可能性が極めて低いと見積もるでしょう。逃げるつもりならば、海上封鎖の間隙をついて洋上から友邦国への亡命は容易。逆に徹底抗戦するつもりであれば、中央に位置し交通網が整備され、防塁固く、各地に散った部隊を集結させられるここリヤドを放棄せずに留まった方が勝算はある。ですが、諸方面との連絡を絶たれ国内にあって僻地で孤立することこそが生き残る最善の道なのです」

「どういうことだ?」

 用兵にはひとかたならぬ自信のあるアウザールがトリエルの矛盾した論理に露骨な難色をみせた。

 だが、その兄、シャルル・ルジェンテはなにかに気づいたかのごとく「ほぅ」と嘆息を漏らした。

 その瞳に生気が漲り始める。

「大兵力を擁する孤軍がフェリオ国境近くに置かれているという“事実”こそが、国家騎士団とフェリオ連邦各騎士団の頭痛の種となるでしょう。なにしろ、ゼダの真意はオラトリエスの国土を足かがりにしてフェリオと直接交戦するというものです。フェリオにしてみたところで、あなた方の完全な敗北を待ってから援軍を差し向ける腹づもりでしょう。ところが、貴方はオラトリエス国内で健在。かつ中央からは完全に孤立している。しかも、地理的にはフェリオに最も近い。オラトリエス国民の大多数よりも、むしろエドラス王の方があなたの動静に詳しいという情勢になる。国境付近で戦闘が始まればフェリオにも少なからず犠牲は出るでしょうから、援軍派遣の名目は立てやすい。しかも貴方は堅牢な要塞に拠って徹底抗戦を続けている。そうした状況になれば、側面支援という形で友軍フェリオは戦いやすくなります。我が国家騎士団とすれば時間と準備に加えて犠牲の多い要塞攻略戦よりも、野戦による友軍部隊の駆逐を優先させることになる。そして両国の戦力を考えあわせればそれほど早期に決着はつかない」

 トリエルの指摘にアウザールは迷ったがシャルルは目を輝かせた。

「なるほど、確かにそれは妙案だ。そうなればゼダの国軍も国家騎士団も我が国の全土掌握に戦力を割くことが出来ない。最低限の兵力で要所を押さえるだけに留まらざるを得まい」

「ええ、軍事と物流上重要拠点となるリヤド、ブルス、ルクセンといった都市に駐留部隊を配して制圧下に置く。オラトリエスの東西を大きく跨ぐことになるため補給線も伸びきることになるでしょう。そうなれば、少数部隊によるゲリラ戦術と虎の子の機動艦隊が大いに生きる」

「ふむ、輸送を妨害して、補給線を遮断しつつ反攻の時期を待つということか」

 やっと理解したアウザールの言葉にトリエルが大きくうなづく。

「ファルマスに籠もるもう一つの利点はルートブリッツの一大拠点であるノルドの港を予測制圧地帯から切り離すことが出来るという点です。アラル山脈に阻まれ互いの行き来は極めて難しいですが、陸路を遮る形で要塞がおかれている。飛空艦隊をもってしても大きく気流が乱れ、危険が伴う渓谷や山脈越えは避けたいところです。海軍による都市制圧はそちらの艦隊に気づかれずに上陸作戦を行うことが前提。もっとも懸念すべき事態はルートブリッツ海上騎士団が国内の拠点をすべて失うことです」

「確かにな。船の整備や修理・補給はノルドのような大きな港でなければできん。だが、逆に一つでも港が残ってさえいればいつでも撃って出られるというわけか」

「ゼダ海軍はリヤド制圧後はオラトリエス船舶の臨検のため、各地に分散せざるを得ません。逆にアウザール殿下は機をみていつでも艦隊決戦を仕掛けられる。洋上艦隊戦における勝利の秘訣は集中運用。正に賭けですが、賭けてみるだけの価値はあろうかと思われます」

 トリエルの言葉にシャルルは大きく頷いた。

「貴公の作戦案を採用する。アウザール、それで良いな?」

「兄上がそう申されるのに私めには異存などありません」

 アウザールは今こそ「試されている」のだと感じた。

 この聡明で用心深い兄が今の今まで国内最大の政敵である自分を殺すことなく、生かしておいたのはこのときのためだったのだ。

 兄弟の決意を確認したトリエルはふぅと大きな嘆息をついた。

 賽は投げられた。

 後はどこまで状況を有利に運ばせるかだ。

 アウザールがむっつりと黙り込んで思案に耽るのを横目にシャルルは立ち上がり、執務室の文机からなにかを取り出した。

「これを使う事態だけは避けたかった。だが、致し方あるまいよ」

「それは?」

 物思いで気づくのに遅れたアウザールにかわり、トリエルが驚嘆する。

 シャルルの手の中にあるのはオラトリエス王家の王笏だった。

「兄上、それは・・・」

 言いさしたアウザールの眼前でそれは二つに割れた。

 いや、正確には二つに分離した。

 あらかじめそうした細工が施されていたのだった。

「職人に命じてこういう仕掛けをしておいた。この国を受け継いだ日からだ」

 シャルルは感慨というより沈痛な面持ちで二つに分けた王笏の片方を力強くアウザールに差し出した。

「今、このときよりお前はこの国のもう一人の主。事が公に出来ぬので戴冠式も行ってやれぬ。だが、私に万一のことがあればお前はこの国の唯一人の王となる」

「なっ!?」

 アウザールは絶句した。

「王弟、海上騎士団長の肩書きだけで済まぬ事態にはこれを用いよ。殊に女皇家やフェリオとの外交では必ず必要になる。これをもって名実ともにオラトリアス王であることを示せ。拒否は許さぬっ!」

「・・・・・・」

 アウザールとトリエルはシャルルのふくよかな手に握られた王笏の片割れをじっと凝視した。

「また、私的の場にて『兄上』と呼ぶことは引き続きよしとしよう。だが、私を公の場で『陛下』と呼ぶことは罷りならん。これを受け取ればお前もまた国王。その決意と覚悟をもって今日より私にも接するのだ。無論、お前の民にもだ」

「わっ、わかりました兄上。謹んで頂戴致します」

 アウザールは恭しく王笏の片割れを受け取った。

「よいな、トリエル卿。貴公は見届け人。なればこそ、そちはアウザールの後見役。他国の者なればこそ、忠義を示せとは言わぬ。かわりに誠実を貫け。たとえ女皇から討ち取れという命が下り、我ら兄弟がそなたの手にかかることがあっても恨まぬ。が、背信は許さぬ。違えれば地の果てまで追い詰めるぞ」

「畏まりました。シャルル陛下」

「小国の意地、そして我らが兄弟の絆。この中原に知らしめてくれるぞっ」


「また、あの言葉を聞くことになろうとはな・・・」

 トリエルはそう一人ごちて小さく苦笑した。

「なんの話だ?」

 アウザールは心持ち紅潮した顔で横に座るトリエルを見据えた。

 約束通りにパエールの営む居酒屋までトリエルを送ったものの、「平民」として過ごす最後の夜だと心に決めたアウザールはトリエルにパエールの店を借り切って飲み明かそうと誘った。

 国王ともなればお忍びで飲み歩くことも簡単には出来なくなる。

 今更ながらにアウザールはこれまでの自分が気安い立場でいられたのだと痛感していた。

 ルートブリッツ騎士団長ならリヤド市街を好きに歩き回れた。

 軍務や訓練を口実に「海の男」でも居続けられた。

 夜の帳がおりても居酒屋の店内には二人とパエールの他に人は居ない。

 王弟がお忍びで飲みに来ていることを悟られまいとパエールは従業員も帰してしまった。

 店にたむろしていたごろつきどもも退散させてある。

「なぁ、親父さん。アンタ昔は騎士だったんだろ?なんでこんな商売やってる?」

 トリエルの言葉に、まるで通夜のように沈痛な面持ちの二人の客を前に黙々とグラスを磨き続けていたパエールが手を止めた。

「お客人はアラウネ殿下の暗殺事件をご存じですかな?あれの責任を問われて騎士を廃業したんでさぁ」

 すかさずアウザールは頷いた。

「ああ、パエールは腕利きのルートブリッツ幹部で提督の一人だった。だが、あの事件で失脚させられた一人さ。そういう“縁”があって俺から頼み事をすることが多い。信頼の置ける『情報屋』として各地に居る一人。そういうことだ」

「そっ、そうか・・・すまない古傷を触ったようだ・・・」

 トリエルは表情を更に険しくした。

「どうした?お前らしくもない」

 アウザールは豪快に笑み、パエールも昔の話だと取りあわない様子だったがトリエルの表情は明らかに青ざめていた。

「なに、騎士を廃業したお陰で妻と二人この店を切り盛りして娘も嫁に出せた。ささやかながらの幸せってものを手に入れることが出来たんでさぁ、別にお客人が気に病むことでは・・・」

「いいや、気に病むっ!」

 パエールの言葉を遮るようにトリエルは叫んだ。

「俺のせいだ・・・。それも俺のせいだ・・・」

 すっかり青ざめ、目の前のグラスを睨むトリエルにパエールとアウザールは戸惑った。

「なに言ってんだお前、俺もお前も事件の頃は15、16のガキだった頃の話だぞ」

「まさかアンタもあの事件に関わって将来を棒に振ったのかい?」

「いやいや、コイツは女皇騎士団の副司令だ。それこそ出世街道を駆け上ってる真っ最中で・・・」

 アウザールとパエールの言葉を遮るようにトリエルはかぶりを振った。

「違うんだ。俺がこうなのは産まれのせいだ。けれど、これだけは信じてくれ。俺は知らなかったんだ」

 アウザールは常にないトリエルの態度に面食らっていた。

「おいおい、もう酔ったのかよ。だいたいお前が優秀なのは昔から知ってるが、あの事件当時に今と同じ地位に居たところで責任取らされて左遷されるのがオチだぞ。パエールの旦那がそうだったようにな」

 トリエルは突き放すように、それでいて静かにアウザールを睨んだ。

「アウザール、少し黙ってくれ。そして俺の話を聞いて欲しい。あのときシャルル陛下は俺たち兄弟の絆を示すときだと言っていた。アレには俺も含まれていたんだ。そういうことなんだよ。それにお前が肝心な話を聞かされていないのもよくわかった。だから、俺が全部説明する。多分、親父さんもお前も俺を恨むだろうよ。全部台無しにしたのは本当に俺だったんだと、しまいまで話を聞けばわかる筈だ。シャルル陛下は知る限り洗いざらいお前にも話せという意味で俺の前であの言葉を・・・」

 あの言葉というのにも心当たりがない。

 それにどうして其処までトリエルが自分を責めているか全く見当がつかなかった。

「なにを知ってるってんだよ?お前が知ってることなんて」

 今のトリエルならゼダの機密の殆どを把握している。

 だが、事件当時はそうではなかった。

「なぁ、親父さん。アンタが仕えてた先王アンドラスってどんな人だった?」

 トリエルに話を振られてパエールは惚けた。

「なんだい藪から棒に。先代は豪放磊落できっぷが良くて・・・。そうだな殿下は先王によく似ていると思うが」

 パエールの指摘は当を得ていてアウザールも頷いた。

 だが、トリエルは即座に否定した。

「それは見せかけだけの話だ。アンドラス王は謀にかけては中原一という野心家でフェリオとゼダを計りにかけて上手く立ち回る術を心得ていた」

「聞き捨てならないな」とアウザールが睨む。

 トリエルはお構いなしに続けた。

「各地に間者を放って中原の動静を監視していた。金に明かして様々な陰謀にも関わっていた。それこそゼダの中枢はアンドラス王をとことん警戒していた。だから在位30年を祝う気なんてさらさらなかった。あの席で、アラウネ殿下は当時は王太子だったシャルル陛下に父王の退位を迫るつもりだったんだ」

 アウザールは父を愛していた。

 トリエルの言葉は侮辱ではなく、アンドラスを讃えている。

 だが、まるで敵に対するような言い草だ。

「なんだとっ!?」

 トリエルは俯きながら静かに話し出した。

「そもそもの発端はゼダの前女皇メロウィン陛下が自らの醜聞を隠していたことに他ならない。アラウネ殿下は母親の乱行に釘を刺すため自ら政界に進出した」

「えっ・・・、だがなぜそのことをお前が?」

 アウザールが一瞬息を呑んだほど、トリエルの目は鋭かった。

「俺自身が《クロウデール醜聞事件》の当事者だからだ。そして、俺の母親はメロウィン先皇陛下その人だ。アラウネ姉さんは一番上の俺の姉上だよ」

 アウザールとパエールは絶句した。

「おっ、お前も皇子だって、いや冗談がキツい・・・」

「皇子なんかじゃないし、ゼダの皇子なんて皇位継承権すらない。母親に認知さえされずに産み捨てられたただの私生児だ。宮内勤めだった俺の養父、リンゲル・シェンバッハ男爵卿はメロウィン陛下から嬰児の後始末を頼まれて俺を養子にしていたんだ。俺の出世も才能うんぬんじゃなくて母や姉といった女皇たちの贔屓からなんだ」

「・・・・・・」

「俺は自分の素性も知らずに自分がただの貴族のぼんぼんだと思っていた。10歳の頃には将来近衛隊に入ることが決まっていた。それも父親のコネだと思い込んでいた。近衛の騎士見習いだった当時、俺は世間知らずのガキで、初めて出来た恋人に舞い上がっていた。彼女は留学中のフェリオ王女の学友として皇女殿下たちに会うため宮城に出入りしていた。当時、まだ14だった。だからまさかあんな大事になるなんて夢にも思わなかった」

 《クロウデール醜聞事件》は舞台となっていたのがクロウデール伯爵邸だったことから名付けられた。

 クロウデール伯爵邸とはゼダの国立貴族学校に通う外国人留学生たちの宿舎。

「当時14?お前は妹のジョセフィンの一つ下だったか・・・いや、フェリオの王女の学友って・・・」

 そのフェリオの王女というのがシャルルの妻であるミュイエ・ルジェンテ現皇后だ。

 その学友として同行していたのは誰なのか悟ったアウザールの顔からさーっと血の気が引いていく。

 パエールは目を見開いたまま息を呑んだ。

「誓って言うが、彼女の方から積極的に俺に近付いてきたんだ。自分はフェリオのさる貴族の娘で王女と年頃が近いから父親に命じられて王女とともに留学してきたんだと。けれど、その言葉は全部嘘だった。彼女は歴としたオラトリエスの第一王女で・・・」

 アウザールは激昂して席を立った。

「やめろっ、トリエル!俺を本気で怒らせたいのかっ!」

「客人、それ以上の狼藉はこの俺といえども・・・」

 激昂する二人にトリエルは半泣きの表情を向けた。

「どうせ、許せっこないさ。だからこの際、全部言わせろっ!俺は誘われるまま彼女と寝た。何度もベットを共にした。そのうち妊娠を告げられたんだ」

「ばっ、馬鹿野郎。嘘にしたってそいつは・・・」

 トリエルは自嘲気味の表情を浮かべ、先を続けた。

「アウザールが知る筈なんてあるわけがない。その頃お前はミロアに留学中だったんだ。その意味はお前に知らないとは言わせない。なぜ、シャルル陛下は王太子のリシャール殿下をミロアに留学させている?それは法皇の覚えを目出度くして即位に向けた準備をさせるためだ。国内向けには次期国王だという宣言。つまりオラトリエスの次期国王子はシャルル陛下ではなくお前に決まっていた」

「トリエルっ、お前は死んだ妹だけじゃなく兄まで侮辱する気かっ!」

 うなじまで真っ赤にして激昂したアウザールに襟首を摑まれても、トリエルは冷ややかな笑みを浮かべる。

「死んだ?お前は本当になにも聞かされてないんだな。お前の妹も“姪っ子たち”も元気にしているよ。ただ公には死んだことにされている。今ではあらためて素性を問う者もいない。アリョーネ陛下の最側近で女官頭マリアン・ラムジーとして宮城勤めだ。俺と彼女の間に産まれた子たちも素性を隠されてパルムで暮らしている。それが事実なんだ」

「なんだ・・・と!?」

 アウザール・ルジェンテは急に拍子抜けしてしまった。

 言われてみるとトリエルの方から自分に積極的に近付いてきたことや、主導権はすべて自分に渡してきたことなど、義兄の赦しを請うてきたともとれる殊勝な態度は見られた。

「シャルル陛下は“すべて”ご存じだ。父アンドラスが妹のジョセフィンを謀の道具に利用したことも。狙いが両国の関係を秘密裏かつ強固に結びつかせるためだったことも。アンドラス王にことまでな」

「ばっ、馬鹿なっ!?それじゃ俺はそんな謀があるとも知らずに・・・」

 確かに謀略の話は武官たる自分向きの話ではない。

 アウザールの中で急に父と兄の背中が遠のいた気がした。

「パエールの親父さんがなにをどう聞かされ、なぜクビになったかもそれで察しがつく。留学中のジョセフィン王女殿下がどこの馬の骨とも知らない男に孕ませられて、それを苦に自殺した。表向きは流行病による病死。その責めは警護役だったルートブリッツの団員たちが負わされ、派遣武官のパエールのおっさんが一番責めを負った。けれど、実際は謀略に気づいたアラウネ姉さんが事態を穏便に処理するため関係者に箝口令を敷いたんだ。そして、ジョセフィンの死を偽り、予備として幾つか用意していた戸籍にジョセフィンをぶっこんだ挙げ句に俺を皇籍に戻した。皮肉な話さ。その数年後に姉さん自身も同じ道を辿るのだから」

 アウザールとパエールは思わず顔を見合わせた。

 ジョセフィンは死んでおらず、アリョーネ女皇の女官頭たるマリアン・ラムジーとして健在。

 そしてアラウネ・メイデン・ゼダ皇女も人知れず生きている。

 不可解な情報統制と事態の推移。

 それでいて想定外の大きな混乱もない。

 トリエルは自嘲に口許を歪ませ、更に話を掘り下げた。

「俺自身はその身も立たないうちに恋人を妊娠させたところで、親父に頭をさげさえすれば事が済むと思っていた。将来を約束して身を固め、少し早いが親父に初孫を抱かせる。別におかしくもない話だし、それほど身分に差があるとも思っていなかった。けれど、相手が隣国の王女ともなると話は全く違う。当然のように外交問題に発展する。そもそも俺に近付くよう仕向けられたのは彼女の方だった。メロウィン女皇に私生児が居てが近衛騎士に取り立てられる段取りになっている。だから、そのに接近しろと父親から言い含められてきたんだ。さもなければ政略結婚でどこかの王族の後添えにされると脅されていた。どうせままならぬなら自分から近付いて既成事実を作ってしまった方がいい。王族なんかに産まれたばかりに恋も出来ないのなら、なるべく年が近くて相手が逆らえない方がいいと・・・それをジョセフィンの口から聞いたときは信じられなかった。それにショックだった・・・」

 涙目になっているトリエルにアウザールは憐憫の眼差しを向けた。

 自分がミロアでミシェル・ファンフリートに師事し、安穏な留学生活を送っていた同じ時期に年の近いトリエルは追い込まれて孤独に煩悶していたのだ。

「追い打ちをかけたのはアラウネ姉さんだ。殿下は自分をだと言い切って俺を平手打ちにした。そして、俺の知らない事情を並べあげて、どう責任を取るつもりだと迫った。思春期のガキにどんな責めが負える?けれど姉さんは容赦なかった。オラトリエスとの外交関係維持は彼女の父で、あるいは俺の父でもあるロレイン侯が最も腐心していた事案だった。なにしろ相手たるアンドラス王は手練手管に長けた謀の達人だ。それに、ゼダ国内にも大物に内通者がいたんだよ。ライゼル・ヴァンフォート伯爵ってな」

 現在、ゼダの皇室政治顧問たるライゼル伯の名が出たことでアウザールとパエールは我に返った。

「それは違うだろ。俺は何度もしつこいほど、ライゼル伯爵からルートブリッツ海上騎士団こそはファーバの『預言の日』において要だから、抜からずその日が来るまで練度を高め、接近してくる不審な人間には注意してくれと忠告を受けてきた。国内船籍の確認や臨検も依頼されている。ことに《アイラスの悲劇》の背後関係は散々聞かれた。それほど慎重に警戒しているヴァンフォート伯爵が、結びつきを深めると称して両国を分断する謀に加担する筈があるのか?」とアウザール・ルジェンテは言い。

「違うだろ。ヴェルナール・シェリフィス元老院議長だ」とパエール・フェルメは言った。「アンドラス国王はときどきお忍びで此処に来て飲んでいた。陛下も腕の立つ騎士だったし、俺は陛下の直弟子だったからな。王宮で飲むとシャルル殿下が煩かったらしい。医師に節制するよう言われていたからな。そして、頓死する3日前にも其処のカウンター席に座っていた。ヴェルナール・シェリフィスはその生涯にわたり、対オラトリエス外交においてロレイン侯爵の肝煎りで動いていた。だのに途中から様子がおかしくなった。ヴェルナールとロレイン侯爵が暴漢に襲われた《ナカリア事件》以来、徐々にヴェルナールの要求と指示とがおかしくなった。その外交方針がチグハグそのもの。何故か自前の交易船で独占的に取引をしたがっていた。ひょっとしたらヴェルナールという人物を見誤ったかも知れないと先王陛下はコボしていたよ」

 悄然とうなだれたトリエルの瞳がキラリと光る。

「アタリだよ、パエール・フェルメ。よく時世と人物とを見ているじゃねぇか。ライゼル伯はアラウネ事件の黒幕だと今も目されていたがヤツは真っ白。真っ黒なのは議長の方だ。ライゼル伯の同志だったワグナス・ハイドマンも議長に殺された」

 アウザールは急にしおらしさを見せなくなったトリエルに動揺し、パエールは一言だけ呻いた。

「さては俺たちを試したな?」

 トリエルは不敵に笑いそうと認めた。

「そうさ、なにしろアンタの周辺は真っ黒だものな。だからといってアンタらまで排除したら、それこそ海上騎士団持つオラトリエスは干上がる」

 トリエルが入国以来武器を持っていないことで刺客たちは油断していた。

 ドゥーセットの外では日中にたむろしていたゴロツキたちがそれぞれ武器を構えて乱入の機会を待っていた。

 トリエルは単に武器を持つ必要がなかった。

 無手格闘術を極めたトリエルの真骨頂はその場にあるものだけで叩きのめせるという自信と無茶な修練で体中についた疵だった。

 さっと立ち上がるや、つかつかと出入り口に立ち、早速とばかりに洗礼を見舞う。

 蹴りで吹っ飛ばした店のドア自体が凶器と化し、機会を伺っていた3人ほどが構えた武器もろとも吹き飛ばされる。

「さっ、皇弟トリエル参るぜっ!」

 トリエルは使われなかった凶器の中から一番エグいものを選び取る。

 薪割り用のナタ。

 それを拾うや躊躇なく刺客全員の動きを確認出来る位置にいた男に投げつける。

 刺客たち全員が回転しながら飛んでいくナタの行方に気を取られた。

 つまりはソイツが皇弟襲撃作戦を指揮している。

 ナタは完全に指揮官の頭部に命中する軌跡を辿っていた。

 だが、左に立つ男が手にしていた手斧でナタを弾いた。

 が、男は次の瞬間立ったまま絶命していた。

 ゆっくりと膝から崩れ落ちる。

 瞬間的な踏み込み動作で肉薄したトリエルが、掌底で一番腕の立つ刺客の鳩尾に強烈な一撃を見舞ったからだ。

「天技たる《陽炎》そして《虎砲》。自慢の甥っ子たちから教わった騎士天技だ。その腕に見合う栄誉は与えたぞ、強者っ!」と言うが早いか、腰を抜かして動揺する指揮官の男の背後に回り込み首を横に一回転させた。

「指揮系統はわかってるんでな、指揮官は用済み。吐かせる情報もないから消えて貰う。あばよ、エルミタージュの狗。あの世でルーマー教団のお仲間と仲良くしろよ」

 ランタンを片手におっとり刀で駆けつけたアウザールとパエールの加勢はまったく不要だった。

 パエールは転がる二つの死体を確認し、その一つが元部下の中でも腕の立つマリアスだと確認して呻いた。

 これから国土防衛戦となるのに腕利きが路上で死ぬとは。

 そして、トリエルが殺したもう一人の男を確認して顔をしかめる。

 だとか、とか、だとか、訳知り顔をされてカウンター席でわけのわからない話をされ、敬虔なファーバ信徒を自認するパエールは内心かなり不愉快だった。

 いきなり指揮官とエースを喪失したら数に勝っていても退散するよりない。

 逃げ散っていく刺客たちの背にトリエルは冷笑を向けた。

「まぁ、いずれ狩るさ。恥知らずどもがどんな目に遭い、どんな絶望をつきつけられるかは自分自身で判断するといいさ」

 アウザールはすっかり青ざめていた。

 皇弟トリエルは真戦兵なしで騎士天技を扱う本物の怪物だった。

「見たかアウザール、パエール。これがシャルル陛下・・・いや、フェリオン候家の産んだ三人の怪物の一人たるの言っていたオラトリエスの膿だ。忠義ヅラして寝首かこうって連中がそこいら中にいやがる」

 酩酊した頃合いを見計らい、トリエル、アウザール、パエールを一挙に始末してしまうつもりだったのだ。

 アウザールはトリエルの口から出た耳慣れない名に疑念を抱く。

「ローデリア・フェリオンとは?どういう意味だ?」

 トリエルは不敵に笑んだ。

「昨日までオラトリエスの玉座に座っていたのはシャルル・ルジェンテではない。影武者たるローデリア・フェリオン王。その有能聡明ぶりは知っての通りだ。だが、残念ながら騎士の才はあってもテロの後遺症で、右脚が義足だし、男性器は不能。そして片目も潰れて義眼だ。エドラス・フェリオン王とミュイエ皇后の弟君だから血筋こそ正に確かな人物」

「それでは兄は?」

 アウザールの問いかけにトリエルは微笑した。

「さっきからずっとそっちで見物してたじゃねーか」とトリエルは踵を返す。「ローデリア様がコッソリ隠した5枚目の親書。いえ、ドライデン法皇と姉さんからのの御返答は、義兄上?いえ、《父殺しのカール大帝》」

 暗闇から進み出た燃えるような赤毛に隻眼もつ武人然とした本物のシャルル・ルジェンテの登場にアウザールとパエールは畏怖を覚えた。

 アウザールはすっかり騙されていたのだ。

 ミロア留学でしばらく遭わない間に兄のシャルルは肥満体のだらけた印象の人物に成り果てていたのだと。

 本物のシャルルは敢えてローデリアに自身を演じさせた。

 なぜならアンドラス王の仇討ちという名目でも、自身から王位を掠め取った簒奪者を誅殺する意味でもアウザールに正義はあった。

 アウザールが愚か者でローデリアの演じるシャルルを亡き者にしようと謀ったらすぐにも父アンドラスの後を追わせる覚悟だった。

 だが、アウザールもまた国家の危機の本質を理解していた。

 如何なる風評があろうと、兄と王位を争うより、大国ゼダと渡り合う道を選ぼうとし、パエール・フェルメら幹部の更迭人事で弱体化したルートブリッツ騎士団を献身的に建て直した。

 フェリオン侯家の三兄弟たるエドラス、ミュイエ、ローデリアも騎士として非凡であり、政治的手腕にも長ける。

 だが、旧マルゴー王室の流れ汲むルジェンテ王家の三兄弟とて負けていない。

 長兄シャルル・ルジェンテはそれと識られずにゼダのエルシニエ大学で政治経済学を学び、文句なしに剣皇に推挙されるほどの優れた騎士でもあった。

 次兄アウザール・ルジェンテもミロアで政治を学び、現在は神殿騎士団副団長のミシェル・ファンフリート枢機卿から教えを受けた文武両道の男。

 末娘のジョセフィン・ルジェンテもアリエア教育施設群にてエベロン女学院とシルバニア教導団で修練し、スカートナイツの指揮官にして隠密機動かつ女皇アリョーネの女官頭マリアン・ラムジーだ。

 三人の父アンドラス王とて悪人ではないし、小国の王として侮られぬよう謀をもって献身的に国を守ってきた。

 人物を見る目も確かで、騎士としてシャルルの才が抜群だった故に王太子をそれより劣るアウザールにした。

 シャルルにならその意味も父の真意も理解してルートブリッツ騎士団の束ねとなると判断してのことだ。

 剣皇候補筆頭だとサマリア・エンリケ前法皇も推した。

 シャルルがそれでも敢えて父を誅殺したのは、本人の意図ではないにせよ混乱の元凶だったからだ。

 ヴェルナールと謀ったがために、知らずのうちに国内に膿が溜まってしまった。

 憎しみではなく、妬みや恨みでもなく、ただという一点においてシャルルは真正面から騎士たる父アンドラスを一騎討ちで仕留めた。

 その際に左眼を負傷したが高度なナノ・マシン使いであるにもかかわらず、眼球は治療したが傷跡は残した。

 の戒めをその身に刻むためにだ。

 そして、シャルルは王位に自分ではなく、ミュイエとの婚約のついでに引き受けたエドラス王の実弟たるローデリアを据えた。

 剣皇候補筆頭だと知るシャルルの英断と配慮にエドラス・フェリオン王は絶対的な信頼を寄せた。

 ミュイエは障がい者だが兄たちを嘲笑うほどに騎士の才に長け、自分の身程度いつでも守れる。

 エドラス・フェリオン王が本当に心配していたのはテロで自身の身を守る術さえなくした聡明なローデリアの処遇だった。

 シャルルの影武者である以上、危険はつきまとうがシャルルとミュイエ本人が側についていれば滅多なことにならない。

 そうして皮肉な話、フェリオ王とオラトリエス王たる候家の兄弟こそが正にだった。

 傀儡王のフェリオ連邦国王エドラスに絶対的な忠誠を誓うのはフェリオン侯家直轄の《フェリオ遊撃騎士団》のメンバーたちのみだ。

 騎士団創設者として十字軍と大戦の英雄たる初代剣皇アルフレッド・フェリオンを崇拝し、ナコトの『預言の日』に備え鍛錬するのがベルゲン・ロイド大佐やメディーナ・ハイラル大尉ら

 これから戦場になるオラトリエス、フェリオ連邦のはゼダの国家騎士団でなどない。

 もっと厄介で狡猾なだった。

「トリエルっ、見事な技である。義兄として《剣皇》として誇らしく思うぞっ!」

(そうだ。確かにシャルル兄さんは腹の奥から凜と響く声をしていた)

 アウザールはこちらが本物のシャルル兄さんだと確信した。

「それでは《東の剣皇》として彼の地の戦いについて騎士最高位を請けると理解して宜しいのでしょうな?我らが《西の剣皇》と共に『ナコトの預言』に抗う輩と戦うために」

 トリエルのダメ押しにシャルル・ルジェンテは躊躇わなかった。

「無論だ。そのために父を殺め、可愛い弟まで欺くことになった。王宮の隅で掃除夫として身を隠し、ミュイエと共に密かに技を磨き続けた。《ブリュンヒルデ》はかねてからの手筈通りミロアの守護に、わたしは知謀優れる主参謀ローデリアと共にファルマスに隠されていた剣皇機たる《フェルレイン》で戦うのみ」

 トリエルは恭しく片膝をついて剣皇への敬意を示した。

「それだけ伺えれば私の役目は終わり。《剣皇機関》の一人として私も西で旗を揚げるまでは、つまりはあちらにまではこちらをかき乱してご覧に入れましょう」

 トリエルとシャルルのやり取りにアウザールとパエールは愕然となった。

「ナノ・マシンの鳴動が喧しいな。アレが《ブラムド・リンク》なのだな?それとジョセフィンとは別方向から刺客追跡を補佐しているのが例の“魔女”か?」

 刺客追跡に向かった妹のジョセフィンが一瞬だけカールに目配せしたのには気付いていたし、その娘と称する“魔女”セリーナの影も確認していた。

「はい、我らが傭兵騎士団エルミタージュより《ブラムド・リンク》にございます、カール剣皇陛下。《西の剣皇》の座乗艦となる予定」

 光学迷彩稼働形態の《ブラムド・リンク》を一発で見破るとはやはり、カール・ルジェンテは剣皇だけのことはあるとトリエルは舌を巻く。

 おそらくは白亜の貴婦人の名を冠するヴァルキュリアン級の《ブリュンヒルデ》を知っているからだろう。

 腕は立つがそれだけに過ぎないアウザールとパエールは気づいてすらいない。

「兄妹の絆示すため、このトリエル、愛妻マリアンと共に馳走いたす所存」

「用意周到なことだ、トリエル。国家騎士団の初期作戦目標はブルス。しかし、ルーマーのカルトどもがリヤドで一騒動起こそうとしていた」

「ええ、『海モグラ叩き』です。逃げた連中は元ルートブリッツ。だとしたら、潜伏先に真戦兵はある」

 トリエルは端から海路で帰るつもりはなかった。

 親書の運び人となった自分をルーマー教団が消しに来ると読み、あらかじめ盟友イアン・フューリーに《ブラムド・リンク》での回収を依頼しておいた。

 今回はフィンツ・スターム少佐には「ご遠慮願った」が、かわりとしてビルビット・ミラー少佐とティリンス・オーガスタ少佐を用意した。

 先程逃げ去った暴漢連中にはトリエルが他の誰よりも信頼をよせる愛妻のマリアン・ラムジーと魔女セリーナが貼り付いて追跡している。

 マリアンはデュイエ・ラシールと並ぶ女皇家隠密機動隊の指揮官だ。

 ヘマなどするわけがないし、

 王女ジョセフィンとその娘のご帰還。

 勝手知ったる我が庭だけに抜かりはない。

 さらにトリエルは手ぶらで帰るつもりはない。

 トリエル・メイル・ゼダ皇子に謀のすべてを伝授しながら、戦略戦術は一切教えなかった前任者ベックス・ロモンドのにとっての初陣らしい。

 ベックス・ロモンドがトリエルに教えなかったのはからだ。

 いざ戦となればトリエルは先鋒となり、戦術プランなどはいちいち立ててなどいられない。

 その場のアドリブだけでもどうとでもする術をはなっから持っている。

 そして、こと戦略においてはトリエルの右に出る者は少ない。

 「ファルマス籠城案」を女皇騎士団参謀部に提示したのは他ならぬトリエル・シェンバッハだった。

 数年も前からカールも承知の上のことで、当然ローデリアも知っていた。

 隣大国フェリオ連邦に遠慮して要塞ファルマスを骨抜きにしているというのも全くのデタラメであり、『ナコトの預言の日』が来たなら候都ウェルリフォートと要塞ファルマスが最終防衛ラインとなる。

 物資を運び入れ、人員も武器弾薬も相当数配備している。

 それを指摘して、ベックスの一番弟子たるイアン・フューリーも、老獪さではベックスの昔からの悪友だったパベル・ラザフォードをも黙らせた。

 皇弟、大佐格騎士団副司令にしてアリョーネ女皇の筆頭参謀というのがトリエル皇子の正体だ。

 あるいはベックスが育てている学生だけが、トリエルを超える逸材となるかも知れなかったが、まだひよっこだ。

 ゼダによる東征の出鼻を挫く、「リヤドでの反乱発生」を未然に防ぐ妙案としてトリエルさえ手駒にしたその作戦案を練ったのがだとは誰一人思うまい。

 トリエルはすぐにこの案を採用した。

 溜まりに溜まった膿を出すというオラトリエスに必要な大掛かりな外科手術だ。

 《ブラムド・リンク》が光学迷彩稼働状態で落下させた空のパージを確認するとトリエルはすぐに中へと入り、無線通信装置を操作する。

 暗号無線周波数帯に合わせ、呼び出しの3コールに続けて命令する。

「こちらトリエルだ。初期作戦無事終了。これより引き続き『海モグラ狩り』作戦に移行する。追跡中のマリアン、セリーナからの煙幕信号弾に注意し、取り敢えず俺を引き上げろ。その後は入れ替わりでビリーとティニーを出撃させる」

『了解だ、テリー。パージの引き上げを開始する。どっかにぶつかって怪我すんなよ』

「余計な心配すんな、イアン。弟弟子の渾身の作戦とやらを試す格好の機会だ。お前こそヘマすんなよ」

 およそ作戦会話と思えぬ軽妙なやり取りの後、トリエルはパージルームに入り、眼下に見下ろす形になったカールとアウザール、パエールに視線をやった。

(兄貴たちの手を煩わせるまでもない。真戦兵マリーンの鹵獲とアウザールへの引き渡しが済み次第、一度撤収だ。潜伏予測地点もビンゴだろうさ)

 リヤド周辺の詳細地図を渡しただけで、はルートブリッツ騎士団の主力真戦兵マリーンを隠している場所も相当に絞り込んでいた。

 有力地点はリヤドの近郊で人目に触れない海岸線にある天然の鍾乳洞窟だ。

 真戦兵としては中原世界でも珍しい水陸両用タイプのマリーンを隠すなら、陸と海の両方に打って出られ、両方に逃げられる地点に隠すと読んでいた。

 文字通り炙り出す方法として実際に炙り出す。

 騎士もどきの撤収ルートをマリアンが追跡確認し、セリーナが洞窟に通じているルートを先回りして確認し、煙幕信号弾を敢えて可燃性植物の中に放り込む。

 煙幕信号弾の目的が終わった後は火に油を注いで一方の退路を完全に絶つ。

 人一人通れる狭い出入り口の洞窟基地内に煙が充満する。

 視界が煙に遮られて騎士もどき共が右往左往しているうちに真戦兵の通れる海側の大きな出入口をビリーとティニーの駆るファング・ダーイン改で塞いでしまう。

 そうすることで僅か二機で洞窟内秘密基地を単純制圧出来る。

 マリーンの数などせいぜい総数で10機以下だ。

 ただ、せいぜい10機であれ、海からの奇襲に無防備なリヤドを制圧してルートブリッツ騎士団本隊との合流を阻害し、リヤドを無力化して、防戦に真戦兵を繰り出せない『剣皇カール』を討ち取るには十分だ。

 そこまで正確に読み切った。

(コチラ側でなければ、すぐに排除しなくてはならないほど恐ろしいヤツだ。だが、生憎とコッチ側でプランを出すと決めてくれたんだ。使っていいというなら徹底的に使い倒すさ)

 その後は戦いにすらならなかった。

 ビルビット・ミラー少佐は退避だか先行出撃してきたマリーンを一撃で屠り、それで出入り口に蓋をした。

 マリアンは鍾乳洞窟に通じる狭い出入り口に火の手をあげて中に居た人間全員を燻り殺した。

 あとは数時間後にとなった鍾乳洞窟基地内に残されていたマリーンをアウザールとパエールが無傷で回収した。

 その頃にはビルビット、ティリンス、マリアン、セリーナの4人も《ブラムド・リンク》に撤収し、悠々と飛び去っていた。

 こうして文字通り開戦の狼煙はあがった。

 その狼煙そのものにより「敵」との内通者だった騎士10数名が、最初にトリエルが《虎砲》で殺したマリアスを含め、たった二人の戦死者以外も全員死亡していた。

 戦術戦闘に関しては大陸屈指の実力者トリエル・シェンバッハ大佐はその後もオラトリエスとフェリオ連邦西部戦線において《ブラムド・リンク》と《ロード・ストーン》の二艦と最少人数の部下たちにより、作戦上最大効果を齎すという戦果をあげ続けてオラトリエスを側面支援し続けることになるのだった。

 パエール・フェルメは予定通り店を畳んだ後、愛弟子マリアスの裏切りに責任を感じて、カールに願い出てルートブリッツ騎士団に復帰した。

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