前章3 女皇騎士団の光と闇かも

 光の章 ナダル・ラシールの任官・初出仕


女皇歴1188年3月4日


 僕の名はナダル・ラシール。

 今年でようやく20歳になります。

 僕は昨年度まで女性ばかりに囲まれて学んでいました。

 なにを?

 女皇家のエリートガード騎士こと、女皇騎士になるための勉強です。

 元老院議会の認証で決まり、軍籍における少佐相当官でもある女皇正騎士たちは「騎士見習い」こと准騎士が女皇騎士団幹部からの推薦を受けて正騎士昇格します。

 その女皇正騎士に任官されるためには単に物凄く腕が立つだけじゃダメなんです。

 礼儀作法とか社交術とか、それから社交ダンスとかエキュイムとか・・・そうした伝統と格式にまつわる色々なことが出来ないとやっていけない…そうなのです。

 その学校でなく訓練機関は僕みたいな騎士の卵と一緒に宮廷で働く女性たちが学ぶ場所でもありました。

 かくいう僕は14歳のときから5年間そこにお世話になっていましたが、女の子達はもっとずっと早く、早い者で8歳くらいから勉強を始めていました。

 アエリアというゼダ東部の山奥にある寄宿学校です。

 山間の静かなところにあって男手が少ないので僕たちはただの学生じゃなくて、いざとなったら女の子達を守ってあげなくてはいけない男手だと言われていました。

 冬は雪が多くて頭の高さまで積もってしまうので、僕たちは秋の終わり頃から山に入って薪を切り、冬に備えて食料を倉庫に仕舞い、雪が降ったら施設や宿舎の雪下ろしをすることになっていました。

 場所柄、とても静かでとても穏やかな生活・・・では、残念ながらありませんでした。

 女の子達は賑やかでおしゃべり好きで、男が少ないので・・・おっとこれは黙っておくことにします。

 どういうわけか僕は子供の頃からそこそこ騎士の才能があると言われていました。

 僕自身は実はあんまり好きじゃなかったんだけど、どういうわけかそういう才能があったようです。

 でも、将来騎士になるとかなろうとか考えていませんでした。

 どうして?

 ああ、僕は人と争うのも人を傷つけるのも大嫌いなのです。

 幼年学校にいた頃から、僕はまわりからよく苛められていました。

 大人しくて、何を考えているか分からないと言われてきました。

 臆病でズルいので、余計なことは何一つ言いませんでした。

 そうすることで自分を守ってきたんです。

 僕の家族は3人います。

 両親とお姉ちゃんです。

 祖母たちは他界していますが、ほかに遠方に祖父もいるらしいです。

 僕は両親が大嫌いです。

 ええ、それはもう本当に恨んでさえいます。

 お父さん、ちがう、父は、いやこれも違う・・・あのクソオヤジときたら・・・ハゲでスケベで酒好きで、下世話で乱暴で意地汚い、とにかく最低のヤツです。

 家ではいつも酔っぱらって高価なソファーに寝ころんでケツ掻いてます。

 ウチは結構な金持ちなのにそうは見えないのだとしたら、間違いなくクソオヤジのせいでしょう。

 宮廷勤めをしているのですが見るからに小役人といったカンジで、ウチではエラそうなのに外ではペコペコしている、

 そういう性根のいやらしい人です。

 クズです。

 あぶら虫です。

 きっと職場でも女性たちから嫌われているに違いありません。

 いや、絶対そうです。

 デリカシーないから。

 自制心もないから。

 きっとお仕事のお金とか女の子とかに手をつけちゃったりしてるんでしょう。

 いや絶対そうだって。

 お母さん、ちがう、母は、これも違う・・・あのクソビッチババァときたら・・・。

 噂好きで身勝手で気分屋で、よく大声で笑います・・・ウチはパルム中央区の高級住宅街のど真ん中にあるのに。

 どこへ行ってもあけっぴろげで、やることがとにかく派手で、脳天気なんですが、勘がいいのと鼻がきくので・・・いっ、いやなんにもないですよ、なんかバレたとかそういうのは、あわわわわわわわわわわ

 とにかくとっても恥ずかしい人なんです。

 オマケにどエライ若作りなので自分のことを外ではと呼ばせます。

 一緒に歩いていると色々な意味で恥ずかしいです。

 ええ、気まずいったらありゃしないですよ、実際。

 そういう両親から生まれたとは思えないほど、お姉ちゃんは綺麗で優しくて親切であったかくて、美人で、笑顔がとっても素敵で、良い匂いがして、一緒にいるとふわふわする気持ちにさせてくれます。

 お姉ちゃんは体が弱いので学校にも行けなくて家で寝てばかりでした。

 外にもあまり出ません。

 子供の頃から泣き虫だった僕はいじめられるとよくお姉ちゃんのところに行っていました。

 お姉ちゃんの所で、よく本を読んで貰ったりしました。

 だから・・・ウチのクソオヤジがたまーに早く帰ってくるかと思えば、お姉ちゃんと話をしていたりするのが、とってもとってもとっても不愉快でした。

 あんなヤツ早く死んじゃえばいいのにとか思っていました。

 そう、かなり真剣かつ切実に。

 なんだったらこの手で。

 少しずつ大人になっていった僕はいつからかお姉ちゃんを一人の女性として見ていることに気づいてしまいました。

 僕はお姉ちゃんの事が本当に大好きです。

 たとえシスコンの外道と言われようとも。

 ずっと一緒にいたい。

 誰にも渡したくない・・・特に、ウチのオヤジみたいにスケベでガメつくて、お調子者でちょっと可愛い子を見ると追いかけ回してお尻をさわりたがるああゆうダニみたいなヤツらの手には渡したくありません。

 それならいっそのこと・・・あっいや、これも黙っておきます。

 訓練機関に入ったのは早く家を出て大人になりたかったからです。

 そして、大きくなって自分でお金を稼げるようになってあのクソ両親のところからお姉ちゃんを連れ出して、毎日楽しく幸せに暮らしたかったのです。

 だから一生懸命修行に励んで、騎士になることにしました。

 取り敢えずそれが一番手っ取り早く家を出てエラくなる近道だったからです。

 あっ、ごめんなさい、いえ、才能がない奴らには真似できないだろ、バーカバーカとか思ってませんから、多分。

 そんなわけで、女皇騎士の養成機関シルバニア教導団に入ったわけです。

 教導団卒業後の勤務地はパルム以外になることも多かったですし、別の斡旋で他の道に進む同級生も多かったですから、僕は出来ることなら折角離れた実家のあるパルムに戻りたくはありませんでした。

 なのにどうしてなのだか、僕は明日から女皇騎士の見習いとして出仕することになってしまいました。

 市内に部屋を借りたかったのですが、見習いのうちは給料が安いから部屋など借りられないと事務の人から言われてしまい、ほぼ強制的に実家に戻されてしまいました。

 とほほ・・・

 6年ぶりに帰省した僕を、あのクソ両親たちはニヤニヤしながら出迎えてくれました。

 知ってます、ええ知ってますとも、あの笑顔の正体。

 あれはお気に入りのオモチャが戻ってきたっていう正にアレです。

 やっと、アエリアの女の子達から解放されて・・・おっとっとっ・・・。

 まあ、なんにしてもまたお姉ちゃんの側で暮らせるようになったことだけは嬉しいです。

 あれから6年もたってしまいましたが、お姉ちゃんはあのときよりもずっと綺麗にずっと儚げで、ずっと美人になっていました。

 帰省したその日は写真だけでしたけど。

 ボクの見立てに間違いなかった。

 ああ、なんという幸せなのでしょう。

 でも、そんな幸せな日がこの僅か一晩のことだったのだと知るのは・・・。


 さて、騎士見習い初日はまずは上官や同僚たちへのご挨拶から始まります。

 まずは女皇騎士団司令のハニバル・トラベイヨ中将卿。

 この御方はあの天才騎士フィンツ・スタームを育てた師匠で女皇騎士団でも飛び抜けて強くて落ち着きと良識のある素敵な方だと、ふきこまれて・・・あっいや、噂を耳にしてきましたので、お会いできるのをとても楽しみにしていたのですが・・・えっ、留守?

 視察のため出張中?

 行き先ヴェロームですか?

 あっ、なんだ残念。

 続いて・・・というか、まあ順番的に当然なのですが、女皇騎士団の若き副司令トリエル・シェンバッハ大佐卿。

 若手の出世頭として諸方面で名を馳せる有名人なのですが、彼についてはなんだか爬虫類のように油断のならない人だとふきこまれて・・・おっと、伺ってきたのですが・・・ヘビだ。

 背丈ちっちゃいけど、間違いなくヘビだこの人。

 油断したら丸飲みにされてしまいます。

 なんか誰かに似ていると思ったらよく知っているじゃん。

 ウチの近所にいたガキ大将を唆してボクを標的にイジメていたアイツにそっくりなんだ。

 ということは僕はまたこの人にイジメられるのでしょうか。

 ああ、少なくともイジメだけはなかったアエリアでの日々が懐かしいです。

 まあ、あれも一種のイジメでしたし、十分すぎるほど色々とヒドイ目に・・・おっと。

「おっす、よく来たな

 なんすかこのノリは、仮にも僕はの主席卒業者で稀にみる有望な人材って学院長からも太鼓判を押されてここに来たんですが、いや、下っ端なのは認めますけれどね。

 ただもう少し言い方というかなんというか・・・。

 諸々の反証を胸に秘め、びしっと敬礼した僕をなめ回すように副司令は視線を這わせます。

「故郷に錦を飾ってめでたく凱旋っ、つうツラじゃねぇな。なんだよ、そのいかにもしょーがねーなーって辛気くさいツラはぁ」

 どうやら副司令殿はヒドくご機嫌斜めのようです。

 言葉の端々にトゲが見え隠れしています。

 ううっ、なんかおっかないなぁ。

「いえ、そのようなことはありません、シェンバッハ副司令」

「まっ、お前さんはまだだから、万事適当でいいんだけど。あんまり適当にやってっと、アエリアに戻して再教育だってハナシになってると一応伝えておくわ。まあ、性格から言って頑張れって言われなくても頑張っちゃうタイプだから、そのあたりは肩肘はらずにのんびりやってくれ。ほんで、腕磨きたいならフィンツやミラーにシゴかれてくるといいさ、ヒマありゃ俺も相手したる」

「了解しました」

 なんか本当に適当な言い方なんだけど、一応筋は通ってるよな。

 訓辞としちゃ、かなりぶっちゃけてるけど。

 意外とマトモなのかなこの人・・・いやいや、油断大敵。

「ほいでもって、なんかロクでもないことがないように、身のまわりだけは常にキレイにしとけよ、酒と賭け事はからな。女は・・・ああ、いらないんだっけ」

 えっ?ほどほどにしておけじゃなくて、遊ばせてやるってマジすか?

 酒はなぁ・・・このトシでもう酔い潰れたことが何回もあるとかいう駄目な子ですけど。

 だって冬場寒いんだものアエリアは。

 けど、女はいらないって・・・へっ?

「いや、素敵なお姉さんのいるお店とか・・・」

「だーめだ。グエンの野郎と同じ子指名しそうだもの。若いお前のがモテるだろうし、それでヤツに恨まれるのは面白そうだけどパスだ。なにより即日でアルゴの娘の耳に入るぞ。サイアク、同窓生と鉢合わせる」

「はぁ」

 あっぶねぇ。

 そっかそういうことか。

 上限と枠とが決まっている正騎士たちで構成される女皇騎士団以外のシルバニア教導団訓練生たちはどうなるか?

 答えがソレ。

 つまり、諜報員としてパルム各所に配置されたり、国家騎士団に出向したり、女官騎士(スカートナイツ)になったり、近衛騎士隊に入ったりなのだろう。

 しかし、同期で近衛騎士隊に入ったヤツはいない。

 そもそも配属任地は聞かされるが、何処の所属かは「行ってみるまで本人たちは知らない」。

 つまり「シルバニア教導団出身者は表向きの所属は何処だろうが女皇騎士団構成員」。

 欠員が生じた際すぐに補填出来るよう、あらかじめアチコチに配しておくのだ。

 僕の世代はとりわけ騎士因子保持者が多く、教導団も一期あたり50人くらい居た。

 ただし、あくまで「養成訓練」であって「学校」ではない。

 アイツなんざ、3年しか居なかった。

 なんか色々とカラクリがありそうで、そのほとんどにこの目の前のオッサンが関わっていそうだった。

 このオッサンたちも教導団出身者なんだけどね。

「さてと、悪りぃな、ちと立て込んでてお前と遊んでるヒマないんだわ。取り敢えず、アルゴの旦那か、マギー姐さんのとこ行って、真面目な訓示でも聞いてくれや、俺は以上」

 訓辞らしきものを言い終えると副司令は書類に目を落とす。

 どうやら本当に忙しいらしい・・・ラッキー。

「はい、お忙しいところありがとうございました。これから宜しくお願い致します。では、失礼します」

 ほっ、なんとか無事に終わったぞ。

 しかし、これからこういう緊張感を毎日味わうのはちと・・・いや、かなりツライかもなぁ。

「まっ、これからタップリと時間かけてじっくり可愛がってやるから楽しみにしとけよ、

 ニンマリと笑った口元からちろちろと舌がみえてます。

 あわわわわわわわわわわわ

 最後の一言なんですかそりゃ、若手若手と言われ続けて10年ちょい。

 嫁さんも貰わずに悪タレから不良中年街道一直線って言われてきた人の本性っすか。

 カンベンしてください、マジで。

 その時間かけて可愛がるっていったいどういうイミなんでしょ。

 まさかアイツみたいに男好きってわけじゃないよね・・・とほほ。


 さてと、次は気を取り直してアルゴおじさん・・・じゃなかったアルゴ・スレイマン卿の所にご挨拶に伺わないといけませんでしたっけ。

 アルゴおじさんは子供の頃からよくお世話になっていました。

 大きくていかつい見た目とは裏腹にとても優しい家庭的な方です。

 どういうわけなんだか、おじさんはウチのクソオヤジの大親友で、よくお屋敷にお邪魔することが多かったのですが、自分のところに男の子がいないもんで、息子同然に可愛がって頂きました。

 三人の娘さんたちを溺愛されておられるのですが、この娘というのが揃いも揃ってとんでもない跳ねっ返りで・・・いやいや、よしましょうか。

 アイツらの名前を出すとロクなことになりません。

「よくきたな、ナダル坊」

「これからお世話になります」

「いやいや、お前がいなかったこの6年というもの、おじさんは寂しくてなぁ」

 熊みたいなでっかい図体を丸くしてアルゴおじさんは僕を力一杯抱きしめます・・・正直苦しいんですけど。

「いえ、とんでもありません」

「うんうん、ゆくゆくはお前もオヤジの後を継いで」

「はっ?」

 あれっ?「騎士見習い」で来たのに、なんでクソオヤジの後を継ぐことに。

「ん?違うのか」

「あっ、いえ、僕はこのまま女皇騎士として・・・」

 アルゴおじさんの柔和な顔がさっと曇るのを僕は見逃しませんでした。

「そそそそそ、そうだったそうだったなぁ。いや、うっかり別のヤツと勘違いしてたよ。いやはやおじさんもこの年でボケちゃったかな、あはははは」

(なんなんだろういったい・・・)

「ところで、今夜あたりウチの方にも顔を出してくれないかな、女房とウチの娘達が是非会わせてくれとせがんでおってなぁ」

(やっぱりそうきたか。予想通り)

「あっ、すみません。こちらに戻ってまだ日が浅いので色々と荷解きや勉強しなければならないことが多いので申し訳ありませんが、また日を改めてお邪魔させて頂きます」

(すいません、おじさん。真っ赤な嘘です。今のところ急いで勉強しなければならないことなんてありませんし、私物もロクにありません。アエリアで死ぬほど学んできました。卒業後一年間の補習付きで)

「いや、実に殊勝な心がけではある。だが、非常に残念だ。せっかくウチの子が一昨年一人戻ってきたんで、募る昔話もあるだろうと思っていたのだがな」

(ええ、それを重々知っているから丁重にお断りしているんですよ)

「マーニャもすっかり女の子らしくなって見違えましたよ」

 僕は慣れない世辞で誤魔化した。

(ええ、外見だけならね。しっかりと出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んでるけど中身ときたらねぇ・・・アレじゃ貰い手つかんだろ)

「そうか、そう言って貰えると嬉しい限りだ。いっそのことあいつを嫁さんに・・・」

(絶対イヤです。大恩あるおじさんの頼みでもコレばっかりは無理無理無理)

「あっ、そうそうおじさん。以前、お伺いしていたあの本。なんて言いましたっけ、折角こちらに戻ったのですからこの機会に是非勉強がてら読んでおこうと思ったんですが」

「おっ、そうかね。それでは明日にでも用意しておこう。しかし、なんだ。儂も是非男の子が欲しかったもんだが、あいにくと女の子ばかり三人続いてしまってなぁ。やはり、大きくなった息子と一緒に酒を酌み交わして人生のことを語り合うというのが昔からの夢でなぁ。ウチの娘に良い婿さんが来てくれると念願かなったりなのだが、かわりといってはなんだがナダル坊が来てくれるとそれは楽しく過ごせるんだよ。この際、どの娘でもいいから貰ってやって・・・」

(ううっ、やっぱりこの話題から離れてくれないよ)

「はっ、すみませんでした。そういえば、オリビアおばさんのお加減が良くなかったとか伺っていたのに、お見舞いの品も贈らずに。なにしろ、山深いアエリアにいたものですから気の利いたものなど用意できなくて、お宅にもお邪魔できそうにありませんから、帰りがてらにお花などお贈りしませんと」

 オリビアおばさんが寝込んだのは半年も前のことだ。

 それも、どっかのじゃじゃ馬が刑期あけでご帰還したせいでひどく胃を悪くしたとか。

 多分、今頃は頭痛と神経痛にも悩まされているんだろう。

 本当なら花じゃなくて煎じ薬とかの方がいいんだろうけれど、それじゃあまりにも露骨だ。

 はぁ、どうしてこうも子が親に似ないものなのだろう。

 オリビアおばさんってちょっと神経質なとこあるけど、性格は穏やかだし常識的ないい人なのにさ。

「それはオリビアの奴も喜ぶだろうて、それよりちょっとでも良いから顔を見せてやってくれるとなによりの薬になるんだがな。ついでに泊まっていくといい。朝は儂と一緒に出仕すれば」

(げっ、そりゃカンベン)

「あっと、そろそろ次の方のところに伺わなければなりませんでした。すみません、お忙しいところ長々とお邪魔してしまいました。挨拶回りの途中ですのでこれで失礼させて頂きます」

「おっ、そうかそうか。次はマグワイヤ女史のところだったな。遅れたのは私のせいだと伝えておきなさい」

「いえ、そのようなことは。これにて失礼いたします。今後とも宜しくお願い致します」

「おぅ、分からないことがあったらいつでもウチに来なさい」

(いえ、それは絶対にナイです)

「では・・・」

 挨拶を済ませておじさんの執務室を後にする。

 ふぅ危なかった。

 うっかり下手な約束をしてしまおうものなら、あのメガネザルを押しつけられるとこだったよ。

 危ない危ない。

 ちっ

 ん?今なんか聞こえたような気が・・・。

 さて、気を取り直して次はマグワイヤ・デュラン女史のところでしたか。

 時間には厳しい人だって聞いているから急いで行かないとね。

 心証わるくすると後々厄介だし。

 そうそう、帰りに忘れずにオリビアおばさんに花を贈っておかないと、また、妙な言い訳考えなきゃならなくなる。


 マグワイヤ・デュランさんは意外に・・・あっいや、実に若くて綺麗で素敵な女性でした。

 確かウチのクソババとそれほど年は変わらない筈・・・うっ、これ禁句だっけ。

 落ち着きがあって、品が良くて、頭も良さそうだ。

 あっ、医学薬学博士をつかまえて頭が良さそうっていうのはちょっと語弊があったか。

 昔から「パルム一の才女」って言われてて、今でもマドモワゼルマギーって呼ばれていて・・・ってこれも禁句だ。

「あら、あなたがナダル・ラシールくんね?」

「はい、今日からお世話になります」

「そう、大方アルゴのところで捕まってしまったのでしょう。あの人、一度話し出すと止まらないから」

「あっ、いや、実はそうでして、子供の頃からお世話になってきたもので」

「ふぅん、なかなか素直で素敵な男の子じゃない。ところでお母さんは元気かしら?」

 ピクッ

「あっ、母は勿論元気にしております」

(ええ、必要以上に)

「そうなの。それは良かったわ本当に・・・」

 あれっ、心なしか小刻みに指先が震えているような気がするのは気のせい?

「お母様とはしばらくお会いしていないのだけれども、なにか言っていましたか?」

「いえ、特にはなにも聞いていません」

(いーえ、嘘です)

 どういう知り合いなのかは知らない。

 だけど、ウチのクソババは昔からこのマグワイア・デュランという人を毛嫌いしていた。

 いや、毛嫌いとかいうレベルじゃない。

 はっきりだとみなしていた。

「あの強突張りの行かず後家が、まーだのさばってんのかい、いやだねぇまったく」というのが昨晩耳にしたばかりのウチの母の正直な感想だそうです。

 しまった、一瞬だけど気まずい顔しちゃったかなって

 ピクっピクっ

 うっ、やっぱり見られた。見られちゃったよ・・・。

 マグワイアさんの端正な横顔に青筋が走っちゃってるよ。

 この人怒らせるとマジで怖いってふきこまれてきたってのに・・・。

 うん、この際だからはっきり言っておいた方が良さそうだ。

 今後の良好な関係の為にも。

「正直、僕は昔から母が苦手でして、なにしろあの通り外面ばっかりで、腹は黒いし、見た目が若いのを少しばかり鼻にかけているところもあって・・・」

 あっ「あの女ときたら外面ばっかで、口は悪いし、ちょっと頭がいいのを鼻にかけたところがあって」・・・ってコレ、ウチのクソババの人物評だよ、この人に対してのさ。

 だが、先に「しまった」という顔をしたのはマグワイヤ女史だった。

 居住まいを正して何事もなかったかのようにニッコリと微笑む。

「いまなにか?」

「いえ、なにも」

「ご自宅からの通勤ではなにかと不都合なことも多いでしょう?自立心を養うために家をお出になられるのも良いのではなくて?」

「両親ともしっくりいっていませんし、実はそうしたかったのですが、あいにく僕の頂けるお給金では女皇宮殿近くに部屋を借りることができなくて」

「へっ?はいっ?」

「正騎士任官されればそれなりに頂けるのでしょうけれども、今はとてもとても」

「えーと、キミ、なにいってるのかなぁ?」

 マグワイアさんの頬がピクピク動いている。

「いえ、斡旋があってこちらに赴任する前に、辞令を届けてくださった事務の方からそのように説明されまして、なるべく自宅から通勤しなさいと」

 その瞬間、僕はおぞましい物を目にしてしまった。

 マグワイヤさんの顔がそれはまるでなにかに取り憑かれてしまったかのように・・・。

 鬼だ。

 この人の顔はまさに鬼女・・・。

「あんのハゲ坊主にくそデュイエぇぇ!じぶんの種で自分がハラ痛めて産んだガキまでたばかりよったなぁ!」

 ああ、やっぱりおっかない本性出ちゃいました。

 そうなんです。

 この人、本当に怒らせると怖いんです。

 頭から湯気が出ちゃってます。

 手元の書類がぐちゃぐちゃに。

 しかも、なんかあらぬ方むいて怒鳴り始めちゃったよ。

「おいこらっ、ハゲネズミ!どっかで聞き耳たててんだろうが、まぁよくもこんな恥ずかしい真似してくれちゃって。天下の女皇騎士団が見習いだからって、給金もロクに払えないわけないでしょうが。官舎もあるし、一軒家だって用意できるってのに。息子の給金こっそり、ピンハネしようなんて真似したら、ぜんぶアンタの大嫌いな陛下にチクってやるんだから」

 しばし沈黙。

 いっ、一体なにが起きたんでしょう。

 てゆーか、僕は騙されたのですか?

 クソ両親の差し金で。

 じゃ、あの事務官さんはいったい・・・。

 コンコンとノックの音。

 ウワサのクソオヤジが.へこへこしながら現れる。

「あっ、いやはや、どうもそのようなことは決して・・・」

 一体どこから現れたのだ。

 ついでに聞き耳たてていたと?

「どうだか、デュイエもアンタも昔っから身内だろうが部下だろうが平気で売り渡す鬼畜だったもの。でもまさか、自分の息子にまでって」

「あっ、いや、それは誤解でして、なにぶんにもしばらくぶりに息子が帰ってきてデュイエのやつも寂しがっておりまして・・・」

「そんなわけあるかっ、あのザル女に限って!しかしまさかアエリアにまで調査室員送り込んで自分の息子にまで用意周到な罠を仕掛けるなんて」

「マグワイアさんっ!」

 一瞬だけクソオヤジの目が鋭く光った。

 どエライ剣幕でまくし立てていたマグワイアさんの顔が僅かに青ざめる。

「あっ・・・だけど、なんだってこんなことを?本気で陛下に知らせるわよ」

「それがですね」

 ごにょごにょごにょごにょ

 オヤジはマグワイア女史の耳元でなにか囁く。

 するとマグワイヤさんの表情から毒気がすっかり消え失せた。

 鬼の形相は消え失せ、仏のような元のお顔に戻ってゆく。

「まぁ、そうだったの」

「はい、勿論です。もっとも、本来半分程度は実家におさめるしきたりですし、それはコイツの将来に備えておこうということになっていまして」

「それならなにも言わないわよ」

「では私はこれにて・・・」

 そう言ってクソオヤジは僕を一瞥することもなく部屋を出ていった。

「まったく、あなたも色々と大変ねぇ」

「いえ、生まれてこのかたのことですから、さすがに慣れてますよ」

 両親のヒドイ仕打ちには慣れっこだ。

 なにしろあんなことがあったせいで、僕はパルムにはいられなくなったんだし、折角のいい話も流れてしまった。

 それもこれもウチのクソ両親が・・・。

「こんなのにメゲちゃだめよ。ここは本当に恐ろしいところなんですから」

「はい、よぉく肝に銘じておきます」

「それとあんまり簡単に人を信じない事よ。一皮むけばみんなロクデナシ揃いなんだから」

 はい、もうそれはイヤというほど味わってきましたから。

 なにより貴方を本気で怒らせることがないように十分注意して石橋を渡ることを心がけますよ。

「私の後は・・・そうね、ミラーとフィンツは最後でいいわね。それにサイエス組は今日は誰もこちらに来る予定はないし、ああ、そうよ、地下」

「地下ですか?」

「地下の格納庫に行きなさい。あなたの愛機と彼女にはちゃんと挨拶しておきなさいね」

「あっ、真戦兵。それに紫苑先輩か」

 うっかりというか、完全に失念していた。

 これから真戦騎士になろうって奴がこんな調子で本当にいいんだろうか。

「そうよ。それと、たぶん近くにパベルとイアン。あの二人もいる筈だから。彼らには今後お世話になるだろうからしっかり挨拶しておきなさい」

「わかりました」

「挨拶が終わったらミラーやフィンツに挨拶がてら一緒にお昼に行くといいわ。その後は二人に色々と案内して貰いなさいね。今日のところは、私のところはもういいわ。また明日ここに来て頂戴」

「はい、色々とありがとうございます」

「ほんとっ、あの親に似ず素直で良い子。だけど、よりによって変なのがうろちょろしてるとこにこんな子寄越すなんてアエリアも相当人が悪いわねぇ」

 よく擬人化されてしまうので誤解がないように言っておくと、アエリアというのはシルバニア教導団と併設されたエベロン女学院の置かれた地域名である。

 エベロンも元は女皇家の離宮の一つだったけれど、今は訓練機関として使われている。

 前にも説明した通り、シルバニア教導団が女皇騎士養成施設でエベロン女学院というのが女官養成施設。

 学院長は兼任で白髭アルベオ・スターム学院長先生だ。

 フィンツさんのお爺さん・・・いや、だけどフィンツさんて養子だって聞いているから血縁関係はない筈・・・が僕らの学院長をしていた。

 わりと感じの良い老人でいつもニコニコ朗らか。

 そして、この僕は比較的先生の覚えが良かった。

 だがマテよ、斡旋人事の最終決定権は学院長に一任されているわけだから、人が悪いというのはこの場合アルベオ学院長を指すことになるわけか。

「あのぉ」

「なにかしら、まだなにか聞きたいことでもある?」

「いえ、あちらで大変お世話になった教官のお姉さんがこちらで働いておられると聞いていたのですが、ご挨拶はしなくて宜しいのでしょうか?」

「シルバニア教導団の教官をしているお姉さん?騎士養成コースだから犀辰とはそれほど面識はなさそうだし、どうせ紫苑のところには行くことになるのよね。お姉さんお姉さんっと・・・あ゛っ」

 マグワイヤさんの顔が引きつる。

「なにか問題でも?」

「ティニーいえ、ティリンスならたぶんミラーたちと一緒に自主訓練だろうからお昼のときでいいわね・・・」

「そうでしたか、なんでもとは別人のような出来た方だと伺っていますが?」

「あっ、ええ、そうね、ティリンスは比較的まとも・・・だったわね」

 比較的まともだったわね?

 なんかまたしても聞き捨てならない事を聞いた気が。

「それにしても」とマグワイヤさんが同情に満ちた眼差しを向ける。「あなたってつくづく女運が悪いのね」

 ええ、否定しませんとも。

 だから、せめて悪い女運の中に貴方の名前まで入ることがないよう心から祈っています。


 女皇騎士団本部は女皇宮殿と隣接している。

 豪奢な回廊で隔てたその先が女皇宮殿になる。

 地下に続く階段を探しているうちに僕は不覚にも宮殿近くの回廊に迷い出てしまった。

 あいにく今日はアリョーネ陛下に謁見する機会はない。

「なーんか、ヤな予感がするんだけど」

 うろうろと歩き回っていたそのとき、突然視界がふさがれてしまった。

「ばぁ、だーれだっ」

 げっ。

 僕の背中が瞬時に凍りつく。

「はて、どなたでしょう?女皇陛下もおられる女皇宮殿で非常識な振る舞いをされる方に私はまったくもって心当たりがありませんが?」

「おいっ」とドスの利いた声でその目隠しの主は耳元に息を吹きかける。「あんましナメたこと言ってっと後ろからタマ潰すぞ」

「あっ、陛下だ。きれーだなー」

「えっ、どこどこ?」といって目隠しを外して慌てて見渡す。

「ばーか、いるわけないだろ。こんな時分、こんなところに」

「あっ、騙したなこのやろ」

 マーニャは、マーニャ・スレイマンはそういって僕の向こう脛を高々と蹴り上げた。

「ってぇなぁ、なにすんだよっ」

「あんたこそ、帰ってきたならきたで連絡ぐらい寄越しなさいよ」

「やなこった。どうせ、おじさんから聞いて知ってた癖に」

「なんでか知らないけど、パパは教えてくれなかったよーだ」

「そうなのか?」

 改めてこいつの顔を拝まなくてはならないことに、僕は頭を抱えていた。

「マーニャ、頼むからもう少し大人の振るまいってものを身につけてくれよ。お互いもう子供じゃないんだから」

 って、ムリか。

 しかし、宮内もよくこいつを女官採用する気になったもんだ。

 マーニャはソバカスの目立つ僕の幼馴染みだ。

 今年17歳だが精神年齢は6歳児程度だ。

 ちりちりの赤巻き毛に眼鏡とおよそ見てくれは悪い。

 まあ、それでもやっと女の子らしく出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んだが、なにぶんにも元が悪いからどうしようもない。

 ああ、顔じゃなくて性格ね。

 いやどっちもか。

「ニコは元気か?」

「元気よ、相変わらず幼年学校で暴れ回ってるわ、エレナは?」

「ああ、あいつも騒がしいことこの上なかったよ。まったく、僕はどこにいてもお前達姉妹からは逃げられないらしいな」

 エレナとニコは共にマーニャの妹たちだ。

 エレナはマーニャと入れ替わりにエベロン学院に入った。

 そして、姉と同様に教官達の頭痛の種となっている。

 まだ幼年学校に通うニコも数年後には姉たちに倣って頭痛の種になるだろう。

 まったく、アルゴおじさんとオリビアおばさんの子供だってのにどいつもこいつもじゃじゃ馬揃いなんだから困ったものだ。

 そして、どうやら縁故関係もあって入学を拒否したり、採用を見送ることは出来ないらしい。

 まったくコネ万々歳だな。

「逃げるようなことする方が悪いのよ」

「誰だよ。俺が逃げなきゃならないこと親にチクったのはさ?」

「なに?あたしだって言いたいの?」

「違うのかよ?」

「言うわけないじゃん、格好わるい」

「そっか、そりゃ悪かったな」

 言われてみればそうだ。

 プライドの高いこいつの性格からいって、自分からペラペラと秘密をバラしたりはしない。

 親の弱みを握ってはいても、親に弱みを握られるのは沽券にかかわると思っているクチだ。

 6年前の冬、マーニャから柄にもないラブレターを貰った僕は珍しくコイツに正直な気持ちを話した。

 そのすぐあと、一騒動が起きて、僕はパルムにいられなくなった。

 だから、てっきりマーニャがあのことをウチの両親に話したのだと思っていた。

 でなきゃどうしてあんな恐ろしいことに・・・。

「ずっと誤解してたんだ?」

「当たり前だろ、なにしろあんなにタイミングよく」

 そう、それは正に図ったようなタイミングで巻き起こった。

 丁度、進路のことで学校と相談していた最中だった。

 多分、マーニャは近くにいたせいで僕が薄々考えていたことに気づいてた。

 それで、マーニャもあんな手紙を書いたのだと思う。

「変な奴だと思うだろう?俺は自分の家よりお前んちの方がよっぽど自分の家みたいに思ってたんだ。だから、お前達姉妹のことは自分の妹にしか思えない」

「知ってたよ。だから、少し焦ったんじゃない」

「バカだよな、結局向こうで3年も一緒にいることになったんだぜ」

「あたしはちょっと安心したよ。だってあのままだったら、あんた国家騎士団の入隊試験を受けてた筈だもん。そして教導団を主席で卒業できるあんただから、間違いなく入隊試験に受かってた」

「マーニャ・・・」

「それで今頃は、どっか遠いとこに送られて、宮殿勤めの私とはもう二度と会えなくなってた・・・」

 言いながら、マーニャはポロポロと泣き出した。

 まだ子供なのだ、だから自分に素直なのだ。

 だから、すぐキレるし、すぐに泣き出す。

 こういう娘を憎みきれるような男なんか死んだ方がマシだ。

「泣くなよ、こんなとこで」

「だって」

 幼馴染みという関係はひどく難しい。

 お互いを意識せずにはいられない。

 だけど、どこかで気持ちが擦れ違ってしまう。

 もし、僕が自分の本当の気持ちに気づかずにいたならば、マーニャの好意を受け入れて良好な関係でいられたのだろうか?

 ・・・って、はっ、思わず雰囲気に流されそうになっちゃったけど、それだけは絶対にアリエない。

 ありえないどころか、僕は今よりももっと不幸になっていた。

 だいたいよく考えてもみろ、こいつのお陰で僕はどこに行っても散々な目に遭ってきた。

 幼年学校でもこいつは正に疫病神だった。

 次から次へとトンデモナイことをやらかすし、責任はみんな僕に押しつける。

 僕がイジメられていた原因も、元はと言えばこいつのやんちゃに振り回される弱っちぃ奴という評判が広まったせいじゃないか。

 そしてなにより、教導団に入って人生で一番波風の少なかった一年を過ごした僕が、翌年アエリアにのこのこやって来たこいつの流したウワサのせいでどんな目に遭わされたか。

 確かに僕は幼馴染みのマーニャをフった。

 それは認めよう。

 だが、マーニャは自分のプライドを守るため、他にも5人の女の子から告白されたがむげに断った・・・つまりエベロン中に、この僕が大の女嫌いというウワサを流してくれちゃったのだ。

 マーニャの、自分のフった女の子の名誉を守るために、敢えてそれを否定しなかったことが事態を更に深刻なものにしてしまった。

 そして、僕はエベロン中のありとあらゆる女の子たちから教わらなくてもいいことをすべて教わった。

 あっ、そこなんかおかしな勘違いはすんなよ。

 僕が教わったのは、これでもかというほどの女の本性と生き物としての実態だ。

 というのは乙女の楽園エベロンでは“そいつになにをしても、そいつの前でなにをしてもかまわない”という恐ろしい事を意味していた。

 おかげでいらん雑用は片っ端から押しつけられるわ、パシリまがいのことをさせられるわ、意中の男の子への橋渡し役を依頼されるわ、くだらない恋愛話に朝までつきあわされるわ、夜中にトイレに行くのが怖いからとたたき起こされるわ、とにかく散々だった。

 試験前ともなるとノートは消え失せ、臨時雇いの家庭教師としてあっちゃこっちゃに引っ張り回される。

 よくもまあ、あんな生活をしていて主席がとれたものだ。

 その上、目の前で屁はこくし、ケツもかく。

 生理中だろうが隠しもしないし、下着を見られるのが構わないどころか、汚れた洗濯物まで平気で押しつける。

 まあ、次から次へと女の怖さと厚かましさを見せつけられたものだ。

 そう、卒業までの年月で僕は本物の女嫌いになっていた・・・というのは、ちと言い過ぎだが取り敢えず横に置いておこう。

 同世代の女の子たちだけならまだどうにか許容できた。

 ところが、まだちっちゃくて可愛らしいと信じていたかった女子児童にまで容赦のない仕打ちを浴びせられた。

 良家から集められたお嬢様方は僕を小間使いかなにかと勘違いされていた。

 上級生のお姉様がたでさえ、いわんや私たちをやといわんばかりだった。

 お馬さんごっこに延々と付き合わされて膝小僧がボロボロに擦り剥けたときは、さすがにお尻をひっぱたいてやろうかと思った。

 そう僕は知ったのだ。

 女の子は生まれた瞬間から悪魔の尻尾をはやしている。

 どんなに小さくて可愛らしくても女は魔物だ。

 そして、落ち着いて大人しくなるのではない。

 年経て老獪に自分を隠せるようになっていくのだ。

 化粧やらドレスやら教養やら、すべて邪な本性を隠すための偽装だ。

 僕の評判が広まるにつれて女ばっかりの教官たちも、建前はともかく本音は彼女たちと同類だということがよーく分かった。

 それこそまだ、変態と罵られていたほうが遙かにマシだ。

 同級生の中には変態扱いされて居直ったのがいた。

 そいつは学園生活を十二分に満喫した上で、念願叶って西部にトバされた。

 変態が嫌われないのはなぜか?

 女の子全部が変態嫌いというわけではないということ、そして女の中にも変態は少なからずいるってことだ。

 いや、真面目でまともで清純可憐な娘たちもちゃんといるにはいた。

 だが、そういう娘たちから見て、使用済みの下着を洗濯させられたり、女の子たちから後ろからはがいじめにされたり、よってたかって裸にひん剥かれ、ヌードモデルにされたりする男がどんな奴に見えるか。

 答えは簡単。

 サイッテーな奴だ。

 勿論、本気で同情してくれる娘もいたが諸般の事情でそれもうまくいかなかった。

 同性の同級生たちは公然とこの僕をと呼んでいた。

 飢えた悪魔どもの腹を満たすために穴に放り込まれた哀れな羊というわけだ。

 正しく生贄。

 そしてある意味、この世の地獄を見せつけられた。

 この世に幻想はない。

 あるのは幻滅だけだ。

 この年でそう悟った僕にこの先なんの希望があるというのだろう。

 まぁ、さすがにアイツみたいに同性愛者とだけは思われなかった。

 なぜか?

 理由は簡単でそういう気のある奴は狭き門をくぐってわざわざ女皇騎士団を目指したりせず、真っ直ぐ国家騎士団に行くに決まっているという、あられもない偏見だった。

 国家騎士の皆さん本当にごめんなさいってやつだ。

 もっとも、あの最悪の人物が関わりさえしなければ、僕の生活はずっとマシなものになっていた筈だ。

 ああ、名前を思い出すのも身震いする。

 さて、話を元に戻そう。

 僕は目の前でまだぐすぐすやっているマーニャを見捨てられずにいた。

「もういいだろう?気が済んだらさっさと仕事に戻れよ。僕も挨拶まわりの途中なんだから」

「うん、わかった」

「まあ、これからも顔を合わせることはあるだろうけれど、あんまり気にすんなよ。僕も気にしないようにするからさ」

「ありがとう。じゃ、お礼に一つだけいいこと教えてあげるよ」

「なんだよ、いいことって?」

「エベロンじゃ、誰も本気であんたが女嫌いだって信じてなかったのよ。むしろその逆で女好き」

「なにぃ!?」

 だったらあの扱いはなんだ。

 まるで虐待されたペットだったぞ。

「むしろ、あんたはだからなにされても、どういう扱いを受けても、絶対に本気で怒ったりキレたりしないって評判だった。対応も誠実だし、嫌そうにしてても本当に嫌がったりしないって。だから、そういう評判を聞いた偉い人たちがあんたこそ女皇正騎士に相応しいって推したのよ」

 ななななななななななんだってー

 それじゃ、僕はわざわざ墓穴掘ったのか。

 しかも自分の実力と勘違いしてた?

 ボクの青春をかえせぇぇぇぇ!

 心の叫びは晴れ渡る青空に空しく響き渡ったのだった。


 マーニャのおかげですっかり遅れてしまったが、僕はようやく地下に向かった。

 幸いにして、今度のお相手はそれを本気で咎める方ではない。

 アエリアで様々な女性の実態を知った僕だったがそれでも分類不能で理解不能な方々が何人かおられた。

 良い意味で理解できない方がお一人、悪い意味で理解できない奴らが大勢いて特に一人。

 広い格納庫の片隅で似合いのツナギに袖を通し、一人鼻歌を歌いながら嬉々として真戦兵と戯れているこの人こそ僕が良い意味でまったく理解できなかったお方だ。

「お久しぶりです、紫苑先輩」

「おー、ナダっちきたかぁ」

 耀家の紫苑さんは幼馴染みでもあり教導団の一年先輩だ。

 小柄でスリムな体つきで黒くて短い髪と、僕よりもずっと年下に見える。

 だけど、先輩は先輩だった。

 一足先に女皇騎士になっていることは耳にしていたし、着任するや見習い期間を省いて手続きを経て正騎士に任官したことも風のウワサに聞いていた。

 なにしろ彼女には余人には決して真似できない特殊な才能がある。

 今も真戦兵の装甲を一人でバラして再調整していたところだ。

 彼女はまだ20歳そこそこだが、国内にもそう多くないドールマイスターだ。

 ドールマイスターはいわゆる整備士にすぎないメンテナンサーとは格が違う。

 真戦兵を0から設計して完全な形に組み上げる。

 文字通りの人形職人だ。

 道具と時間さえあれば、図面起こしから、素体培養、重量配分から、プラスニュウムの加工、操縦席のレイアウトと・・・文字通りなんでもかんでもこなせる。

 更に加えて、彼女の家は特別だった。

 《耀家》。

 この名を知らない騎士はモグリだ。

 どこの国でも耀家の紋が入った真戦兵を欲しがる。

 王侯貴族たちが金に糸目をつけずに喉から手を出す。

 血なまぐさい話も多いほど、彼女の家は中原世界では有名な存在だ。

 そんな有名な家に生まれついたのにちっとも気取ったところはないし、気さくで誰にでも気易いのでどこにいても人気者だ。

 ひどい仕打ちで悩む僕の愚痴話にも付き合い、相談相手にもなってくれてたし、色々と教わることも多かった。

 教導団でもっとも尊敬していた人。

 だから、先輩はいつまでも僕の先輩だ。

 オマケに超のつく天才ときている。

 マイスターばかりか騎士としてもなかなかに優秀ときている。

 だから、幼い時分からどういう教育を受けるとこういう完全無欠な人が出来上がるのかさっぱり理解できなかった。

 良い意味で理解できないとはそういうことだ。

「もう、ナダっちはいい加減やめてくださいよ」

「なにいってんのー、ここじゃ公のとこ以外ではみんな渾名で呼びあってるよー」

 そうなのか・・・そういえば、副司令は「ヘビ」って呼ばれてるらしいし、マグワイアさんは「マギー姐さん」で通っているらしい。

 アルゴおじさんは「熊さん」で、ミラー先輩は「薄焼きせんべい」、フィンツさんが「坊や」だったっけ。

 なんか、当てこすりも多いみたいだけど・・・

「で、先輩が『油娘』でしたっけ?」

「お前はゆーなっ!」

 軽い抗議と共に、さもおかしそうと言った様子で先輩はころころと笑う。

 まっ、あの素行さえ除けばこの人は本当に可愛らしい。

「はいはい、ところで僕の機体はどれですか」

「まだだよー」

「ああ、まだ届いていないんですか」

「ちがうよー、頼まれたんだけど、まだ作ってない」

「はいっ?」

 なんか今とんでもないことを聞いた気が・・・。

「なにかの冗談ですよね、まだ作ってないって」

「冗談ではないね。まだ図面も引いてないよ」

 図面もってまさか、センパイの気が向くまでの間、僕には自分用の真戦兵ナシってことなのか・・・

 そうそう、唯一の欠点が万事ズボラなのだ。

 風呂にもちゃんと入らないし、食事もロクにとらない。

 そのせいでいつまでたっても体は大きくならないし、近寄るとちょっとクサイ。

「あらっ、丁度良かったわ」

 その人は音もなくすっと現れ、僕と先輩の間に割って入った。

 格納庫には似つかわしくない地味なメイド服スカート姿だったので、僕は一瞬幽霊でも現れたのかとビビった。

「紫苑、頼んでいたものは出来ている?」

「えーっと、あと二、三日ってとこですね」

 柱にぶら下がった作業工程表に目を通してからこともなげに応じる。

「あのっ、先輩この方は?」

 先輩が答えるより先にその女性はすっと前に進み出た。

「私はマリアン・ラムジーよ。陛下の筆頭女官頭をしています。以後お見知りおきを」

 40絡みの麗人だが、年よりも若作りに見えてしまう。

 クソビッチな母と同世代だろうが、この人は「綺麗なお姉さん」で本当に通用してしまいそうだ。

「ナダル・ラシールです。今日から騎士見習いとして配属されました」

「ええ、伺っているわ。よろしくね」

 いともあっさりとした挨拶が済むとその人は手招きで僕を呼び寄せた。

 どうにも万事卒がないらしい。

「紫苑も一緒にきて」

「はーい」

 僕らは連れ立って格納庫を歩き出した。

 きびきびと前を行くマリアンさんの後ろから僕と先輩はのろくさと歩いていく。

 女皇騎士団本部は地上の建物よりも地下施設の方が遙かに広くて大きい。

 一部は宮殿の地下通路と直結しており、そこから更にドラウの大運河に続いている。

 天井までゆうに20メルテはあろうかという広い格納庫にはそこかしこに真戦兵が並んでいる。

 奥行きがありすぎて向こう側が見えないほど広い。

 オマケにかなり寒かった。

「うわ、すごいなまるで博覧会だ」

「現役騎士のものと、引退した人の保管品とで今は全部で80機くらいかな」

 そのほとんどがワンオフ。

 つまりはこの世にたった一機しか作られない各騎士専用のカスタム機だ。

 ほとんどの真戦兵は量産を想定して設計されている。

 数が少ないものでも5、6機は同型機が作られる。

 そうでないとせっかくの良い設計が無駄になってしまうし、構造が異なれば整備に手間もかかる。

 それにそこそこの腕しか持たない一般騎士でも扱い易いものの方が好んで使われる。

「でも、さっきからメンテナンサーの姿がまったく見あたらないんだけど?」

 だだっ広い空間で僕が出会ったのは先輩とマリアンさんだけだ。

 これだけの規模の施設にしては誰とも擦れ違わないのはひどくおかしい。

「みんな自分の機体の整備は自分でやってるし、忙しい人たちのはアタシがやることになってるから」

「そうなんですか?」

「予算縮小の一環ね。もともとあなた方は基本的には真戦兵を普段から必要にするような仕事じゃないもの」

「確かにそうですね」

 過去には大勢の人がいた形跡がみてとれる。

 休憩用の椅子や工具棚は先輩が一人で使うには数が多すぎる。

 プレハブの作業小屋なんかもある。

 以前はかなり賑やかな場所だったのだろうと思われた。

「あっ、あのカバーがかかっているのはなんですか、結構数があるみたいですけれど?」

 格納庫の一角を埋め尽くす覆われた巨人の群。

 いかついシルエットがカバー越しに浮かび上がっている。

「あれは儀仗用の真戦兵ダーイン・アルシェイウス。予備機が2機と正騎士の人数分よ」

 わーいダーイン・アルシェイウスだってぇ!

 僕の心は子供のように高鳴った。

「うわっ、あれがそうなんですか?へぇー、なるほど、公式行事のあるときはパレードに引っ張り出されて人目にもつくから、汚れないようにカバーがかかってるんですね」

 僕はおそるおそる近寄ってカバーをめくった。

 真っ白な装甲の胸には女皇騎士団の紋章が刻まれている。

 皇室行事の際には旗と槍を構えてパルム市内を颯爽と闊歩する。

 重装甲かつ長身のため実戦ではほぼ役に立たない。

 だが、見栄えがする。

 子供心にパレードを眺めていて強い憧れを抱いたが、まさかもうすぐ自分がアレに乗ることになるとは考えてもみなかった。

「そう、だから行事前は大変よ。事前にみんな調整して準備しとかないといけないんだもの。ただ数は多いけれど、戦闘装備じゃない分楽なんだ」

 紫苑先輩の横でマリアンさんが怖い顔で睨んでいた。

「びっくりしたなぁ、マリアンっ」

「ダーイン・アルシェイウスは抜かずの剣たる女皇騎士団の象徴です。結団以来の伝統と共にずっと守り受け継がれてきた機体ですからとりわけ大事に扱いますのよ」

 先輩の抗議を受け流し、マリアンさんはさらりと答えた。

 ある意味、紫苑先輩よりもマリアンさんの方が物腰、落ち着き共によっぽど女皇正騎士らしい。

 ただし、筆頭女官頭という地位は女皇宮殿の4つある塔のどこかを任されている要職者だ。

 位の上で彼女の上に立つのは女官長と官房長しかいない。

 そのどちらも経験を重ねた年寄りが就任するいわば名誉職だから、マリアンさんの年齢を考えれば考え得る最高位にあるというわけか。

 優秀な若手の出世頭・・・はてどっかで聞いたことがあるような響きだけど?

「あの子たちが汚れることはあってはならないの」

 紫苑先輩はそこで声のトーンを落とす。

「だからかわりにあたし達が自分の手を汚していく、陛下のため皇家のために」

「はあ、大変なんですねぇ先輩も」

「えっ?」

「だって、手が汚れるって、潤滑油でしょ?ああだから『油娘』なんてヘンな渾名がついちゃったんだ」

「そうなのよ、紫苑ったら汚らしいツナギ姿のまま本部や宮殿を平気でうろうろするんだもの」

「ひどいなー、あたしそんなになんどもやってないのにぃ」

「いや僕はてっきり、黒くて小さくて頭テカテカしててチョロチョロしてるんでその渾名がついたんだと思ってました」

 なんのことかって、そりゃやっぱりゴキ・・・。

「おい、ナダっち!その減らず口をスパナで叩いて修正すっぞ」

「すいません」

 ああ、忘れてた。

 普段は陽気で温厚なこの人も本気で怒らせるとおっかない。

「さて、ついたわよ」

 マリアンさんは格納庫の片隅に置かれた見慣れない機体の前に立った。

「あなたの機体が完成するまではこれを使って」

 おー、これは・・・。

 極限まで削ぎ落とされたしなやかなライン、ずんぐりとした背中、そして赤黒く揺れるその装甲。

 戦技訓練用の軽真戦兵より更に一回り小さいサイズ。

 歩兵駆逐用?いや、このサイズだとそれですらない。

 隣に重装甲真戦兵を並べると、まるで子供と大人ほどの差がある。

「うわっ、すごいな。装甲が糸を引くみたいでつなぎ目もないし・・・でも、変だなプラスニュウム特有の照り返しがないや。ここが薄暗いせいじゃないよな?」

「さすがにいい目をしてるわね。そうよ、これがダーイン・クレシェンス《紅丸》(くれないまる)、またの名をシャドー・ダーイン」

「シャドー・ダーイン?」

「大切な人からの預かり物ですが、その方の許可が頂けたのであなたにお貸しします」

「えっ、ちょっと本当にいいの?」

「いいのよ、紫苑」とマリアンさんは柔らかに遮った。「もし使う場合には人形番の紫苑に許可申請をしてね。ただ、完熟訓練をするのなら練兵場でなくこの施設内だけにしておいてね」

 部外秘ってことは機体の存在自体が極秘扱いってことか。

 真戦兵の装甲形状やデザインはその使用目的を示している。

 重装真戦兵は拠点防衛および前線構築用だし、軽真戦兵は戦技訓練や斥候、先行駆逐用だ。

 特異な特徴を持つ機体ほど、特殊な役割を担うのが普通。

 そう考えればこの機体にもなにか僕の知らない目的や使命が与えられているのだろう。

 でもそんな大事な機体を僕みたいなぺーぺーに預けてしまって大丈夫なんでしょか?。

「ありがとうございます大切に使います・・・と言いたいところですが、しばらくは教導団でも使っていたレジスタになるでしょうね。あっちに沢山あったの訓練用で自由に使っていいんですよね?ああ、もちろん整備はちゃんと自分でやりますよ」

「うんそだよ、ちゃんと見るとこ見てんじゃん。さっすが抜け目ないナダっちだ」

「あら、でもどうしてレジスタなの?」

「機種転換訓練がまだですし、それに」

「それに?」

「いまのうちに腕磨いておきたいんですよ、折角フィンツさんもいることだから」

「あぁ、そうなんだ」

 紫苑先輩はちょっと微妙な顔をする。

「とても良い心がけだわ。それでこそ大切なものを託すに値するというもの」

「いいえ、当然です。早く一人前になりたいですから。でないとやっていける自信なくしそうだし」

「ここ一年ぐらいが踏ん張りどころよ。十分な能力があると判断されて騎士見習い・・・いえ、准騎士に昇格したのです。胸を張りなさい」

「だいじょーぶだよ、ナダっちにはあたしもついてるし、ティニーもいるし」

 ティニー?はて誰だろう。

「それじゃ頑張ってね見習いさん。あなたが正騎士になる日が待ち遠しいわ」

「本当にありがとうございます、ラムジー筆頭女官頭」

 ふーん、なるほど。ああした奥ゆかしくて、折り目正しくて、万事に卒の無いよく出来た女性もこの世の中にはいるんだ。

 まだ捨てたもんじゃないなぁなどと思わず感心してしまう。

「マリアンは特別だよ。彼女が正騎士になれない理由はたった一つだもの」

「たった一つってなんなんです一体?」

「そのうちイヤでも分かるよ、あたしらの学校でよくナダっちが言われてたって言葉のイミもね」

 どういうことなんだろう?

 さっきから先輩の言葉の端々にトゲのような物を感じていた。

 先輩はあんまり僕を歓迎していないみたいだ。

 どうしてだろう?教導団にいたときはあんなに仲が良くて、僕が身の回りの世話をするかわりに、先輩は相談にのってくれたり整備の勉強を教えてくれたりしてた。

 だから、関係としては対等に近かった。

 なのに、今の先輩は本当に先輩として振る舞おうとしてるみたいに思える。

 なんだろう。

 ひどく胸騒ぎがする。


 いそいそと仕事に戻ったマリアン・ラムジー女史に別れを告げて僕は先輩と一緒に格納庫の最奥へと進んだ。

「なんかたっぷり1㎞(キロメルテ)くらい歩いた気がします」

「そーね、それ位はあるかもー」

「すいませんね、なんか付き合わせたみたいで」

「いいのぉ、アタシもに用があるから」

 お爺と呼ばれた初老の男性は煌々と照らし出される格納庫の一角に陣取ってのんびりとお茶をすすっていた。

 作業用のツナギ姿だがどこか威厳が漂う。

 髪も髭も真っ白。

 柔和で皺深い顔つきをしている。

 好々爺という言葉が咄嗟に浮かんだ。

 このあまりに巨大する一角が他と明らかに違うのはたった一人で作業をしていた紫苑先輩のところと違い、大勢の作業員が忙しく立ち働いているところだろう。

 だが、一人として近くにいる者はいない。

「おやおや、お嬢がここまでお出ましとは珍しいな」

「やっほー、お爺。元気してた?」

「元気は元気じゃが、ヒマでヒマでしょうがない」

 そう言ってお爺ことパベル・ラザフォード卿はお茶をすすった。

「まあ、お爺は張り切りすぎてムリしちゃうから、若いみんなが頑張るくらいが丁度良いよ」

「こっちの作業が一段落ついたら、ウチの連中をお嬢の手伝いに行かせるよって」

「ありがとう。突貫作業があるから手伝って貰わないとちょっと間に合わないかもって思ってたんだ。だから、忙しいの分かっててお願いしにきた」

「そうかね、ウチの連中もお嬢の大ファンばかりじゃから是非にというのがゴロゴロおるわい」

 紫苑先輩は高所で整備をしている若い作業員たちに大きく手を振った。

 気づいた何人かがニコニコしながら手を振りかえしている。

 さすがは先輩ここでも人気者らしい。

「ねっ、ナダっち、見てよ。さすがにこればっかりは人員削減なんて出来ないでしょ?」

「ええ、確かにこれはすごいや・・・」

 僕はひゅーと息を呑んだ。

 女皇騎士団旗艦ロード・ストーン。

 全長68メルテ。

 全高22メルテ。

 白く塗られた巨大な船体は文字通りの意味で天翔る浮舟だ。

 飛空戦艦。

 こんなものを作り出す技術をかつて僕らは持っていたという。

 中原一の大国であるゼダ国内でさえ、飛空戦艦はロード・ストーンを含めて僅かに20隻程度しか存在しない。

「これだけの巨大な船は中原世界でもここくらいにしか現存していない」

「失われた文明の遺産ですか」

「そういうことじゃ。ところでお主は?」

「あっ、すいません。今日からお世話になることになった騎士見習いのナダル・ラシールです」

「おぉ、グエンのせがれか」

 パベル爺さんは相好を崩した。

 立ち上がり手を差し出す。

 僕は皺深いその手を握った。

「デュイエ嬢ちゃんは元気にしとるか?」

「ええ、ってどうしてあなたまで母のことを?」

「そりゃ、もう昔は色々とな」

 パベル爺さんはなにやら不気味な笑みを浮かべた。

 実際のところ、つかみ所のない御仁だ。

 どうにも上品そうな容貌と物腰の裏に邪な性格が垣間見える気がするのは気のせいだろうか?

 なんか食えない人だという印象を抱いてしまう。

 作業甲板からすらりと背の高い美人が現れたので思わず会釈する。

 彼女は会釈ではなく敬礼を返した。

「ラザフォード艦長、計器の点検が終わりました。フューリー卿がお呼びです」

「ふむ、わかった早速出向くとしよう」

「こちらの方は?」

 彼女は突然向き直り、びしっと敬礼をした。

「旗艦ロード・ストーン副長のフレイア・ラディアスです、准騎士殿」

「騎士団艦隊部門のナンバー3。儂直属の部下じゃ」

「階級は特務大尉です。以後お見知りおきを」

 歯切れが良く、背筋もピンと張っている。

 いかにも軍属といった印象を受ける。

「ナダル・ラシールですよろしくお願いします。フレイア副長」

「彼女はゼダ国軍からの出向なの」と先輩がこっそり耳打ちしてくれる。

「なるほどそれでしっかりしてるんだ」

 横合いで噂しているのを知ってか知らずか、彼女はクリップボードを手に事務的な口調で作業の進捗状況を事細かに説明している。

 ラザフォード卿は委細なく視線を走らせながら報告に耳を傾けている。

 しっかりしているとは堅物だという意味。

 副司令以下、わりとくだけた人の多い女皇騎士団からすると彼女はマリアン女史と同様の別人種のように真面目で筋目がしっかりしている。

 教導団でもあまり見掛けないタイプの人だ。

 それだけに自然興味がわく。

「おい坊主も来い、嬢ちゃんはフレイアと作業の打ち合わせをしてくれ」

「あーい」

「ご一緒させて頂きます」

「では行こうか」

 しゃきしゃきと歩くその姿はまったく年齢を感じさせない。

 紫苑先輩が人形番というなら、このご老人はお船番といったところか?

 やっと騎士団らしい人に出会った。

 そう思った次の瞬間、僕はその認識を後悔した。

「で、お主は紫苑の嬢ちゃんとはどこまでの関係なんじゃ?」

 前言撤回。

 なんかスケベったらしい目でじろじろと見ているし、この下世話な質問ときたら・・・。

「あいにくとご想像のような関係ではありません」

「なんじゃ、面白くないのぉ、やっぱり嬢ちゃんの本命はフィンツ坊やかい」

 この人も間違いなく変人の巣窟、女皇騎士団の一員だ。

 ん?先輩の本命っていったいナニ?

 えーっ、まさかあの先輩に限って意中の男性がしっかりいて、しかもあのフィンツ・スターム?まっさかー。


 艦橋につくまでの間、パベル爺さんは四方山話に花を咲かせた。

 昔はあーだったの、今の連中はどうだの。

 正直そんな話、僕にはどうでもいいのですがまあ一応、ご老人の話は聞いておかないと。

 だが、さすがに艦橋区画に入れば終わるかと思いきや・・・。

「・・・だから、儂は言ってやったのじゃよ。お前は建前ばかりを口にしとるが誠がなっとらん。普段、いい加減にしていてもここぞというときには頼りにならぬのではいないより悪いとな」

「はぁ」

 艦橋区画には豪華客船さながらに赤絨毯が引かれている。

 扉や窓枠といった調度にも念が入っている。

 なるほど、確かに女皇陛下の座乗艦に相応しい作りというわけだ。

「そんなに珍しいか?」

「はい、それはもう」

「まっ近いうちに嫌でも乗ることになるさ」

 そう言ったパベル爺さんの目は笑っていなかった。

 艦橋に入るなり、爺さんは大声で怒鳴った。

「おい、イアン出向いてやったぞ」

 見ると艦長席に寝そべって居眠りをしている不届き者がいるらしい。

「まったく、お前にゃその席はまだ早いわ」

「ううん?」寝ぼけた様子でその人物はのろくさと顔を上げた。「ありゃ、お早いお着きで」

 作業ツナギもだらしないこのおっさんは指揮机に長い脚をなげだして大きく伸びをした。

「今日から見習い騎士として着任したナダル・ラシールです」

「あー、よろしくね」

 気のない返事を残して居眠りの続きをしようとしたおっさんをパベル爺さんはこづいた。

「あいたー」

「だから、呼びつけたのはお主じゃろ?」

「あー、そうでしたね。でも」と言ってそのおっさんは僕を指さした。「聞かれてもいいんですか?」

「構わん。どうせわかりゃしない」

「へーい、んじゃ早速」

 ちょっと待ってよと思った僕はおっさんに声をかけた。

「あの失礼ですが、あなたは?」

「ん?わたし・・・」と言ったきり、おっさんは視線をあちこちに漂わせた。「あー、自己紹介してなかったか、私はイアン・フューリー。あっちに見える輸送艦バルハラの艦長で一応正騎士だよ」

 窓の外にはロード・ストーンよりも一回りは小さい飛空戦艦が停留している。

 イアン・フューリー?

 いや、もちろん名前は存じ上げていますがね。

 なんか聞いていた話とかなり印象が違う・・・というより、違いすぎる。

 若年ながら卓越した戦術理論で教官達をへこませ、教科書に書いた落書きがそのまま翌年度から正式採用されたっていう伝説的逸話を持つ教導団きっての天才戦術家。

 国軍、国家騎士団と合同の頭上演習でも並み居る参謀官たちを唖然とさせる見事な作戦で勝利し、かつて女皇騎士団にその人ありと言われた“百識”ベックスの再来と呼ばれた男。

 そのイアン・フューリーがこのぼーっとした冴えないおっさんだって?

 いや、考えてみれば今日会ってきた人たちってみんなこういう人ばっかだった。

 ヘビ中年の副司令に、娘にも手を焼く熊おじさん。

 ヒス持ちのマギー女史に、小動物さながらの先輩。

 スケベ爺さんに、居眠り大好きなおっさん。

 確かによくもまあ集めたと言わんばかりのロクデナシ揃いだ。

 どうやら来る所を間違えたらしいという気になる。

「小僧はそのあたりを適当に見終わったら勝手に戻っていいぞ」

「あっ、整備終わったばっかりだから計器の類には触らないでね」

「はい」

 それだけ言い残すや、爺さんとイアンのおっさんは僕の存在に構うことなく絵図面を広げた。

「これが連絡員の入手した展開図。4日前のものです」

「ふむ、水も漏らさぬ軟包囲網というわけか。しかし、陛下も無茶を言われるな。確かに乗りかかった船ではあるし、愚王への約束もある。陛下の性格から言って見殺しにはできまいて」

「はい、連絡員からの報告ではファルマスは依然として士気練度共に高い。東征軍が消耗を避けるために外堀を埋めて兵糧責めに切り替えたのもうなづけます」

「どうにかしてやりたいところじゃな、なんとしてでも」

「しかし、これだけ戦場を広く取られていては手持ちの僅かな戦力では突破口を見出すのは不可能です。言いたくはないですが、黒十字どもがああも脆く返り討ちにされたことがすべての原因。せめて国境線の一部でもどうにか維持してくれればこちらとしても大いに助かったんですがね・・・」

「国境線を越えるどころか、押し返されてウェルリの喉元まで入り込まれておるからのぉ。最悪の場合、愚王だけでもロードで救出せよと命じられたわい。だが、そんなことになれば、もはや東部戦線を維持できまい。ファルマスが陥落すれば、国内で完全に孤立した弟君も逃げを打たざるを得まい。占領地の一部返還を条件に黒十字は和睦を申し入れる。国騎の高笑いが聞こえるようじゃて」

「テリーもここが粘りどころとみているようです。ファルマスがあれほど手堅く戦力を維持できたのも、愚王の指揮能力が思いの外高いからこそです。長引いてしまった分、物資食料の方が相当キツくなってしまいましたがね。弟君の方は北海を完全掌握して海上では連中に相当の痛手を与えています。東征軍にも補給面での焦りがみられはじめた。リスクを犯して強引な侵攻作戦を取らざるを得ないのもそれだけ厄介と考えているからでしょう?それに黒十字もやられっぱなしではいられませんから、《疾風の剣聖》擁する虎の子の特選隊を繰り出してモーリス渓谷だけでも奪回しようと考えているようですね」

「ここが正しく切所じゃな?この難局を乗り切りさえすれば十二分に情勢をひっくり返せる」

「そのためには最高の一手が必要ですが、それがなかなか見つかりません」

 イアンさんは険しい表情で絵図面を穴があくほど睨んでいる。

 耳慣れない単語と地名が飛び交い僕はすっかり困惑した。

 ファルマス、愚王、弟君、国騎、黒十字、東征軍、それに疾風の剣聖だってぇ?

 なんだかよくは分からないが要するに前線で孤立した味方のために補給を行いたいが、厳重に包囲されていて難しいという内容か?

「季節は春、険しい山岳地帯、水・・・そうか水だ」

「なに?」

「手近な物資集積所はここか・・・行けるな」

「むっ、お主なにかひらめいたか?」

「ええ、まずはこことこことに爆薬を仕掛け、二つの堰を切ります。今は雪解け水で水量が多いですから付近一帯は水浸しになります」

「ほうほう、すり鉢状の地形からするとこの辺りまで水浸しになるのぉ」

「ええ、加えて夜間は氷点下まで気温が下がりますから流れ出した土砂が凍結する。すると高台にあたるファルマスの正面地点が完全に孤立します」

「ふむ、そこを強襲揚陸すれば一手で詰められる。集積物資を奪って愚王に献上すれば更に粘れるというわけか?」

「これでいきましょう。ええ、これならいける筈」

「それでは連絡員をあやつのところにも向かわせるか?」

「いえ、フィンツでいいでしょう。明日は大学に顔を出す日のようですから」

 爛々と瞳を輝かせたイアン・フューリーはなんだか別人のように輝いて見える。

 なるほど、確かに普段はぼーっとしていそうだが、ここぞというときはやってくれそうな人・・・なのかも知れない。

 そして、このときはなんのことだかさっぱり分からなかった二人の会話が僕にとって重大な意味を持つことになるとは、まったくもって分からなかった。

 二人の議論は更に白熱する様子だったので僕は言われた通り引き上げることにした。

 艦をおりて格納庫に戻る。

 紫苑先輩は既に作業に戻っていた。

 邪魔すると悪いので挨拶もせずに地上に戻る。


 さて、やっと待望のフィンツ・スターム卿にお会いできる。

 僕は彼に会えることをなによりの楽しみにしていた。

 フィンツ・スタームは教導団の出身ではない極めて異例の存在だった。

 8歳から出仕しているのでわざわざ教導団で訓練する必要がなかったらしい。

 かわりに現役騎士たちの手で養育されたのでどの能力をとっても一級品だと言われている。

 中でも凄まじいのが、手合いで200戦無敗といわれる天才的な真戦騎士としての腕前だ。

 年齢こそ僕と1つしか変わらず、紫苑先輩と同い年の彼が、ゼダ全土はおろか中原世界でも広く名前を知られるのはその為だ。

 6年前のエドナ杯では見事完全優勝を果たした。

 対戦相手が逃げてしまう恐れがあったのでわざわざ偽名で出場したと聞いている。

 名のある騎士団に自分の名前を売り込むために用意された大会でわざわざ偽名を使って出場するというところからして、もう普通ではない。

 あっ、僕ですか?いえ、僕はエドナ杯には出ていません。

 6年前のときはまだまだ未熟なひよっこでしたし、今となっては出てもあまり意味がありません。

 そもそも教導団や士官養成学校みたいな訓練機関にいる者にとって大会出場は腕試しか思い出づくりにしかならないんです。

 それこそフィンツさんみたいに出れば確実に優勝できるというのなら考えないでもないですが、まっいいとこ本選出場どまりではないかと。

 行き先を聞くつもりで詰め所まで戻ってみたら、それらしい二人連れに出くわした。

「すみません、今日からお世話になっているナダル・ラシールですが?」

「あっ、君が・・・ねっ・・・」

「ふーん、なるほどね」

 長身で銀髪が目映い美男子と黒髪で痩せぎすの人。

 多分、銀髪なのがビルビット・ミラー少佐。

 僕と同じく教導団を主席で卒業して正騎士になった御方で、黒髪が噂の・・・

「フィンツ・スタームです」

「ビルビット・ミラーだ。よろしくな」

「よろしくお願いします」

「ところで・・・」

 二人は興味津々といった目で僕に詰め寄った。

「愛しのお姉さんは元気かい?」

 ちょっ?なんすかそりゃ。

 ほんと最悪だ。

 なんでこの二人が揃って姉さんのことを知ってるんだか。

「セリーナさんっていうんだよね、お姉さん?」

「どうも絶世の美人だって噂には聞いてるんだけど、グエンのおっさんはなかなか話してくれないしね」

「はぁ、そうなんですか?」

 僕は頭を掻くしかない。

 どうも、クソオヤジは職場では姉さんの話題に触れたがらないらしい。

「まあ、いくら美人だからって実のお姉さんはマズイでしょ」

「そうそう、折角教導団にいたんだから可愛い娘がぞろぞろいただろうにね」

「はぁ、そうかも知れませんね」

 なんだか二人とも色々と事情を知っていそうな雰囲気だ。

「熊おやじの娘さんを袖にしたって話も聞いたよ」

「いやはや、そっちはよーくわかる」

「可愛いんだけどね、マーニャちゃんだっけ?」

「うん、みてくれは結構。だけどあの性格と出自はちょっとヒクね」

 なぜ?

 なんでそこまで詳しく知ってるの?

 今日の挨拶回りで度々引っかかっていたその事を僕が聞こうとしたときだった。

「あらっ、皆さんお揃いで」

「やあ、ティリンス。お待ちかねの後輩が来たみたいだよ」

 そこには“あの人”そっくりな女性が立っていた。

 長身で肩幅も広い。

 しかも筋肉質でいかにも女性騎士といった印象のその人の姿にはよーく見覚えがあった。

「ふーん、この子が妹のお気に入りだっていう子ね」

「なんかこっちに来るたんびに噂してたんで初めて会ったって気がしないよね」

 そうかそういうことか、なるほどあの人ならやりそうだ。

 どこに行っても余計な話が筒抜けになっているのはあの人の仕業だったか。

 はあ、せっかく離れたっていうのにあの人の影がこうもつきまとうとは・・・。

 おやっ?ミラーさんがさっきから黙り込んでいる。

 フィンツさんとなごやかに談笑するその女性をまじまじと見つめるミラーさんの表情が次第に険しくなる。

「お前っ、アニーだろっ?」

 げっ、アニーってまさか・・・

「くっくっくっくっ、バレちゃしょうがない」

「だぁ、またやりやがったな、コイツ!」

「あああああ、アルセニア教官・・・」

 僕が6年かけてもまったく理解できなかった人。

 それこそが・・・

「やー、寂しくなるんでついてきちゃったよ。会いたかったよー、ナダっちぃ」

 ギャー

 逃げようとするところを取り押さえられて羽交い締めにされる。

「かかかか、カンベンしてください教官」

「つれないねー、あんなに可愛がってやったのに」

「あー、もうそんな時期だったか」

 なんすかその時期って?

「あー、多分しらないだろうから教えておくわ」

 ミラーさんが僕の肩にぽんと手を置き、憐憫の視線を向ける。

「アニーことアルセニアと、ティニーことティリンス。二人は定期的に入れ替って女皇正騎士ティリンス・オーガスタを演じているんだ」

「へっ、ということは?」

「まっ、中身はどっちもお前がよぉく知っているアルセニア教官だってことだよ」

 えっえええええええええええええええええ

 そんなー、やっとあの人から解放されることだけが唯一の希望だったのに。

「もー、ナダっちは案外ニブいから自分で言わない限り、絶対に気づかれないと思ってたのにさぁ」と教官。

「いや、普通は気づかないって。二人を並べてみる機会なんてそうそうないもの」とミラー少佐。

「ビリーの他には陛下くらいだよね、ちゃんと見分けがついてるのって」とフィンツさん。

 アルセニア教官には数々の武勇伝が残っている。

 シルバニア教導団在席の学生時代、オーガスタ姉妹はミラー先輩と同期だった。

 姉妹揃って格闘技、剣技、真戦兵操縦技術すべて特Aクラス。

 だけどそれ以外の教科はさっぱりダメ。

 さすがにそれでは正騎士には出来ないので、マリアン女史やマーニャと同じスカートナイツに採用されたそうなのだが、僅か3日でクビになり教導団に戻されたという。

 これも二人揃って。

 その三日間でダメにした皿の枚数は200枚を越え、僕らの給金では一生かかっても弁償できない美術品を幾つもぶちこわし。洗濯させればシーツを50枚も再起不能にしたと言われている。

 伝説の反面教師「破壊王シスターズ」としてエベロン女学院では彼女たちの名前が時折引き合いに出される。

 学生時代も教官たちの頭痛の種だった彼女がどういう経緯を経てシルバニア教導団の格闘技教官になったかについてはアエリア最大の謎と言われていた。

 なんでも有力な説としては、前の格闘技教官が彼女の育成を誤ったのは自分に責任があると職を辞し、その後釜に当の本人が居座ったと言われている。

 更に謎だったのは姉妹の姉ティリンス・オーガスタが女皇正騎士に抜擢されたことだろう。

 当時はシルバニア教導団始まって以来の珍事とさえ言われていたそうである。

 とにもかくにも、アルセニア教官の授業は滅茶苦茶だった。

 ロクな訓練もしないまま、いきなり実戦訓練。

 おかげで怪我人続出。

 男女総勢50人の訓練生が彼女一人に血祭りにあげられた。

 無論、僕もその一人だ。

 おまけに思いつきだけで厳冬期の冬山登山をさせられて遭難者が相次いだ。

 訓練は途中で中止。

 幸いにして全員が無事救助されたが危うく死人を出すところだった。

 かくいうこの僕もブリザードが吹きすさぶ洞窟内で仲間たちと身を寄せ合って共に一夜を過ごす羽目になり凍傷で手足を失いかけた。

 完全に直るまではペンもろくに持てなかった。

 さすがにこの一件では大目玉を食ったらしく、しばらく大人しくしているかと思いきや、それはとんでもない楽観だった。

 彼女はお気に入りのオモチャを見つけて夢中になっただけの話だった。

 そう僕が“人身御供”と言われだした最初のきっかけはアルセニア教官に目をつけられた事からだ。

 他の学生たちへの理不尽な振る舞いが減ったかわりに僕に集中するようになったのだ。

 卒業までに絞め技で落とされたことが8回。

 そのうち3回で失禁してしまったが、毎回誰かしらやられていたので、訓練生たちの間では恥ずかしいことでさえなかった。

 3回で意識が戻らず懸命の蘇生措置で辛うじて命を取り留めた。

 強烈な心臓マッサージのせいで意識が戻るかわりに肋骨を折ったこともあった。

 骨折脱臼させられたのが都合17回。

 一番酷かったのが左腕の骨折で全治3ヶ月。

 その他、打ち身捻挫の類はもはや計測不能。

 物理的な被害でもこれだけの数。

 精神的な被害はもっと深刻だ。

 なにしろ教官こそが実質的にあの理不尽な扱いの中心にいた。

 洗濯物は押しつけられ、部屋の掃除はやらされる。

 買い出しということで30キロ先の村までお使いに行かされ、セクハラの類はほぼ毎日。

 僕をナダっちと呼び始めたのは本当に親しい紫苑先輩が最初だったが、それを聞いたアルセニア教官が真似し始めたせいでアエリアの全訓練生たちに浸透した。

 おかげで僕の顔はアエリアにいる誰もが知っているのに、フルネームを知っている人はごく僅かで、久しくラシールと呼ばれたことはない。

 毎月の恒例行事として制限時間内に学院の敷地内を逃げ回る僕を真っ先に捕まえた人が僕の優先使用権を手にするという通称“ナダル杯”。

 これを発案したのが教官だ。

 捕まえた人は別の誰かに権利を売っていいことになっていたので、訓練生ほぼ全員から追い回された。

 6回目あたりから面白がった他の教官たちまで参加。

 15回目あたりから学院の恒例行事と認可されて賞品が出るようになり、参加者の目の色が変わった。

 最終的には参加者があまりにも多いせいでグループ対抗戦になった。

 僕が逃げ切った場合には、格闘技の訓練を免除してA判定が貰えることになっていたので、文字通り命懸けで逃げ回った。

 おかげさまで逃げ足と隠れるのだけは他の誰よりも上手になった。

 “ナダル杯”は僕の卒業までに全30回ほど実施されたが、うち5回完全逃走に成功し、6回は教官本人に捕まって以後1ヶ月は地獄をみた。

 本当によくまあ逃げ出さなかったもんだと我ながら感心したものだ。

 大体、先日、パルムへの斡旋が決まって、子供みたいに泣きながら送り出した張本人がどうしてここにいるんだか・・・って待てよ?

 定期的に入れ替わっていたってことは・・・もしかしてどっちからも同じだけ被害を受けてたってこと?

「えーっと、全員血祭り事件ってアルセニア教官の仕業ですか?」

「それはティニーだね」

「では、冬山遭難事件は?」

「それはあたしだ」

「“ナダル杯”を発案したのは」

「うーんと、発案したのはティニー。捕まえた回数が多いのはあたし」

「それで、主に“可愛がって”くださったのは」

「そんなの決まってるじゃない」とクスクス笑っている。

「両方だ」

 ミラーさんが心底同情したというようにポンと肩を叩いた。

「お前はまだいい、まだマシだ。なにしろ俺なんか二人同時に相手にしてたんだぞ、3年間毎日な」

「あはははははははははは」

 一人だけでも相当大変だった。

 それが二人同時だったとしたら・・・僕は3日も耐えられない。

 僕はたったそれだけのことで“人間薄焼きせんべい”ことミラー先輩には一生ついて行こうと決心した。


 僕は昼食に強制連行させられた。

 フィンツさんやミラー大先輩といった同僚たちがいる前では、さすがに無茶な振る舞いはないだろうと思ったのだが甘かった。

 僕は首根っこを捕まれたまま騎士団本部の廊下を連れ回され、目抜き通りのレストランに押し込まれた。

 ああ、数日もすれば付近一帯で有名人になっていることだろう。

 ランチをつつきながら切り出したのはフィンツさんだった。

「だけど分かる気がしますよ、みんながナダルくんを可愛がるの」

「でしょ。だってこいつ本当に可愛いもの」

 あだだだだだだだ

 僕の左腕に関節技をキメながらアルセニア教官はにこやかに笑う。

 本当に可愛がってるなら、痛めつけるのもうやめてくださいって。

「まっ、おまえら姉妹だけじゃなく、紫苑の奴も相当お気に入りだったっていうし、わかるっちゃあわかるけどさ。こいつがあのグエン室長の息子ってことだけがいまいち理解できん」

「たしかに言えてますよね」

「父親似だと将来ハゲちゃうのかな。グエン室長ってあの通りだし」

 僕の髪を確かめるようにひっぱりながら、元教官は面白がる。

 やめてー、気にしてるんだからほんとやめてー。

 それはさておき、僕は先程来ひどく気になっていた事を尋ねた。

「それより、室長ってなんですか?」

 クソオヤジの具体的な職務について、僕は一切知らない。

 今までまったく興味がなかったし、どうせ適当な仕事ぶりなのだろうと考えることさえ放棄してきた。

「女皇騎士団監察部調査室室長。君のお父さんの肩書きだよ」

「泣く子も黙って正座する鬼の室長って有名なんだよ」

 意外だった。

 クソオヤジのこったからもうハゲネズミとか、見た目そのままで通っているかと思っていた。

 ああ、一部では通じるか。

 監察部?勤務評価や実態把握の部署だろうか。

「まあ、室長は先代の司令だし・・・って言っても僕らの子供の頃の話かな?」

 えっ?初耳だ。

 そもそもオヤジって女皇正騎士だったのかよ。

 しかも司令ってそんな馬鹿な。

「勇退が随分はやいな?確か室長ってまだ50前だったよな」

「なんでも事件があって、新部署の立ち上げ準備の為に職を辞したって話だよ」

「10年くらい前のその時期に起きた事件と創設された部署って・・・げっ」

 なにかに気づいた様子のミラー先輩の顔が青ざめる。

「あっ、そういうことか」

 フィンツ先輩もうなづく。

「どうしたの二人とも?」

 アニー教官だけがなんのことか分からないといった様子で小首を傾げる。

「この話題やめよう。俺は命が惜しい」とミラー先輩。

「そうです、世の中には知らない方がいいことも多いですから」とフィンツさんも青くなっている。

 なんなんだろういったい・・・



闇の章 ナダルの深き業と闇


「アレっ、ナダルくん何処に行ったんだろう?」

 フィンツの指摘にアルセニアは一瞬だけきょとんとした後にチッと小さく舌打ちした。

「やられたっ、というかアイツの特技よ」

「ほぅ?やるじゃんアイツ」

 つい数分前までアルセニアから関節技をキメられていたナダルの姿は付近1ブロックにまったく見当たらなかった。

「ヤな予感がするんだけど」

 フィンツの言うヤな予感は100%的中する。

 経験則でビリーとアニーはそれを知っていた。

「同感だ、フィンツ。配属初日だから今日ぐらいは大人しくしているのだと思っていたんだが・・・」

「アイツ・・・マジでやらかす気かっ!」

 アルセニア・オーガスタは更に険しい表情を浮かべた。

「ヤバいよ、フィンツ。アイツは親父さんやアンタたちより遙かにタチ悪いよ」

 アルセニアの言葉にフィンツとビルビットは視線を交わした後に頷き合った。

「ふむっ、どうやらナダルくんもボクやビリーと同じく《覚醒騎士》ってことのようですね?」

 だが、アルセニアは否定した。

「いいえ、目覚める寸前だった筈。わたしたちはナダルを《微睡みの刻》に封じていた。適度なストレスと刺激的な生活。それはナダルにとって全部が全部苦い思い出なんかじゃない。アタシたちみんなの注いだ愛の結晶。だからあの子はわたしとティニーを恨んでいないし、紫苑やマーニャたちの事だって憎からず思っている。それこそ、アエリアで大事に育ていた“金の卵”。ハルファでそうして育てられた“ディーン”、セスタで育てられた“ベルベット”なら、アタシたちの仕打ちの正体がわかるでしょう?」

「ああ」

 ベルベットことビルビット・ミラーは苦りきった顔で答えた。

「時として人を超えてしまう覚醒騎士に植え付けられる《愛のトラウマ》。この世に人としての姿を留めておくため必要な措置。過去に何度も覚醒騎士は“人の形に戻ってこられなくなった”」

 ディーンことフィンツ・スタームも“今”はすべてを理解している。

 硬直し、老成しすぎていたディーンはいちど完全に破壊された後、《愛のトラウマ》により再度覚醒した。

 だが、それは結果であって最初からの狙いではない。

 お互いしか理解しあえず、愛するのも傷つけるのも罵るのも腹蔵なく信じることが出来るのも、鏡写しのような似た者同士だけだったせいだった。

 遠縁だというのに実の姉妹以上に似ている二人を、心ない大人たちは傷つきやすい彼女たちを《対の怪物》と蔑んでいた。

 その腹いせに彼女たちがディーンに《愛のトラウマ》を与えて大陸一の騎士に仕立て上げたのだ。

 ディーンにはわかっていた。

 覚醒するとわかっている騎士を育てることは容易ではない。

 もともと騎士覚醒とは、生命の危機に追い込まれた騎士が発揮する“火事場の馬鹿力”だった。

 脳が暴走をはじめ、人格の崩壊がはじまり、認知認識の崩壊がはじまる。

 そうした中で心の内を埋め尽くすまでの強い動機と衝動こそが騎士覚醒の原理だ。

 ベクトルがひとつに集約されたときに奇跡とも呼ぶべき力を発揮することになる。

 それがこのセカイでのみ可能なる力だ。

 誕生と同時に覚醒しており、極めて硬直した存在と不安定な存在だった兄妹。

 天才と謳われるその両親たちをしても育成出来ず、人手に委ねざるを得なかった。

 そのこと、その方法について20年以上前に“ある女性たち”について考察し、育成理論を提唱した天才的教育学者がいた。

 大陸一の名門エルシニエの大学院卒。

 教育学のエキスパートであり、《愛のトラウマ》提唱理論で博士号を取った俊英。

 フェリオン候都ウェルリ大学への留学を経た後、エルシニエで帝王教育学の教鞭をとると期待されていた人物。

 緊急帰国した彼を待っていたのは最も難解な役回りだった。

 毛並みだけを判断材料に、経歴を一顧だにしなかった元老院議会において、人となりを知り、適正を知り、あるいは最適任者だと賛成票を投じた人物がいた。

 それがために身を置く組織の同胞たちからは“裏切り者”の烙印を押された。

 だが、現状を見た者はどう思うか?

 いちど覚醒した状態で再度覚醒した実体験者たるディーンには《愛のトラウマ》がよくわかる。

 愛憎がひっくり返っても、対象に対するこだわりとしがらみが、心を繋ぎ止めるのだ。

 そして、と感じる。

 同じ言葉を彼女からも聞いた。

 だからこそ、悔やまれる。

 三人ともの庇護下にあったなら、あるいは?と。

 《愛のトラウマ》。

 人は誰しも愛され傷つけられる。

 そして心に傷が残る。

 だが、その傷は時にその人間を構成する強烈なペルソナとして人格を強固に確立する。

 トラウマは人生を破綻させる原因ともなりうるでもある。

 だが、その心の弱さこそが優しさなのだ。

 優しい人間でない者に覚醒騎士は務まらない。

 その意味でいまはオーガスタを名乗る双子姉妹はディーンとベルベットは間違いなく《愛のトラウマ》理論を実証しただと見做していた。

 不動の心と他者への労り、なにより騎士としての己を決して誇らず、すべての騎士に成長の道を示す。

 そして、「だからこそ、人としてなにかを成したい」という強烈な衝動と欲求とが、隠れていた別の才能をこじ開ける。

 “天は二物を与える”というのは、嫉妬に目が曇ってなにもわかっていない人間の言葉だ。

 “天才を授かった者はもう一つの扉をもこじ開ける”のだ。

 天才とは逃れがたい宿命。

 だからこそ、逃げ道が必要なのだ。

 ディーンの場合が学問であり、もともとの素質の高さを証明してみせた。

 親が親だけに半端ではない。

 ベルベットの場合は大陸一のエキュイム名手。

 もともと騎士としてあらゆる状況と可能性を瞬時に追い求めるその頭脳は盤上競技でも通用する。

 あるいはすべての時間軸においてベルベット以上の打ち手はいないのかも知れない。

 そうして牙と爪を隠すのだ。

 その必要に迫られるまで。

「パルムに戻ったナダルの心の中でなにかが決定的に引き金を引いた?」

 とはいえ一昼夜だ。

「“愛しのお姉ちゃん”絡みかな?」とビリー。

「いやそれもない。セリーナは此処に居ないし、到着は今夜半」

 現在のセリーナは《蘭丸》と共にまさかの鉄道便で帰還中の筈だ。

 トリエル直下のセリーナ・ラシールは大陸東でやりたい放題していた。

 その作戦計画を担っている学生バイトの参謀と共に、アリョーネたちは想定外の戦力がいたものだとあきれ返った。

 いっそ、最初の一手で詰めたくなるほどに。

 セリーナ・ラシールはなにしろ札付きの怪物娘だ。

 やることなすこと規格外なせいでナダルとマーニャは完全な被害者だ。

 マーニャはスレイマン家次期当主となった。

 実を言えばビルビットとフィンツがマーニャ・スレイマンを良く思っていないのは、《執行者》たる二人に残酷なオーダーを出す側だったからだ。

 過去形なのはナダルが呼ばれたことで、執行機会が大幅に減るということだ。

 だが、マーニャ・スレイマンは分別と節度を弁えている。

 母オリビア・スレイマンに徹底的に叩き込まれてアエリアに送られたマーニャが先に戻れたのも、ナダルよりもマーニャの完成が早かったせいだ。

 だとすると・・・。

「アタシ、わかっちゃった。紫苑だ」

「どういうこと?」とフィンツ。

「ホント、紫苑も最近不安定なんでさ、わけのわかんないことを言い出したってティニーから聞いていたから、初恋の人がフィンツだとか」

「嘘でしょ?」とフィンツ。

 そもそも本当の事情を知っているフィンツ・スターム自身からしたら絶対にありえない。

 アルセニアにもそれはわかっている。

 なにしろなのはフィンツの正騎士任官以来だったし、任官後の紫苑本人から「正気の沙汰だとは思えない」とからかわれてもいる。

 それ以上に現状の何処に好意を抱く要素があるというのだ。

 紫苑が丹精込めて整備した真戦兵を毎度ボロボロにするフィンツの事を恨んではいても、その逆はない。

 再三再四、「手加減して」「大事に扱って」と言われながら、現行機で満足のいく作りの機体がなく素体の老朽化も手伝って、フィンツは任務のたびに素体を駄目にしてしまう。

 真戦兵への愛がひとかたならない紫苑にしたら、まさに“悪質な破壊王”だった。

 プラスニュウム装甲の損傷はすぐ直せるが、素体がズタズタなのではたまったものではない。

 だいいち本当にフィンツが初恋の相手だとか言うのならそれは何十年も前の話になる。

 なにしろ、フィンツも紫苑も幼少期から女皇宮殿を遊び場に育った仲なのだ。

「ラザフォード提督から聞いたときはたまげたけど、フランベルジュの件で紫苑もプレッシャーキツいだろうし、現状孤立していてストレスだって相当溜まってる。だからこそ、陛下やアルベオ学院長も気づいていて、慰めになればと仲の良かったナダルを寄越したのだと」

 実際のところ様々な問題は起こしていても、指導教官としてある種の信頼を置かれるオーガスタ姉妹はエベロン、シルバニアの両学院にて頼りにされている。

 なにしろなんらかのアクシデントで騎士覚醒が起きたときのために常時駐在していた。

 ナダルの在学中はアエリア教育施設群は極めて安定していた。

 ナダルが“人身御供”になってくれたお陰で、“覚醒事故”は極めて少なく済んだし、アルベオ・スターム学院長がナダルの祖父で盟友たるアランハス・ラシールから託されていた養育も進んだ。

 はじめからナダルは父祖と同様に表向きは女皇正騎士として、実態は隠密機動部隊の指揮官たるために教導団で大切に育てられた。

 現在、女皇騎士団内には二つの諜報部隊がある。

 グエン・ラシール元司令の女皇騎士団調査室。

 宮殿内や要人宅といった皇都パルムの重要施設を監視するための部隊。

 そして、トリエル・メイル副司令の直轄部隊でラシール家やマリアン・ラムジー女官頭たちも含む女皇騎士団隠密機動部隊。

 こちらは女皇の求めに応じ、様々な情報収集を行う。

 ときに暗殺や破壊工作、要人救出や警護も含め、相当物騒な真似もする。

 現在は国家騎士団が東方外征中のオラトリエスとフェリオ国内での危険な諜報任務に従事している。

 ナダルの“愛しの姉さん”ことセリーナ・ラシールはとりわけ優秀だし、グエンもデュイエも諜報戦のエキスパート。

 ナダルが多分に漏れるはずがなかった。

 アエリアという僻地ではホームシックや同級生からのイジメといった要因からストレス爆発を伴った騎士覚醒のトリガーになりやすい。

 なにしろ門閥貴族の子弟で騎士因子を持たない人間の方が希有だった。

 ナダル杯というのはナダルを優秀な隠密にするため、逆に要人警護のエキスパートたる女官や女皇騎士、近衛隊育成のため実施されていた。

 体裁は鬼ごっこだが、元離宮であるエベロンはその格好の訓練の場だった。

「いや。話に聞く《覚醒連鎖》かも知れない。騎士覚醒は連鎖するんだ。つまり、不安定な紫苑に促されてナダルまで巻き込まれた」

 フィンツ・スタームはその師から戦場での衝突で多くの血が流れるとき、決まって命の危機に立たされた騎士達の暴走劇があると教えられてきた。

「だとすると、こんなとこでのんびりおしゃべりしている場合じゃねぇ。地下格納庫内もひろいぞ」とビルビット・ミラーは席を立った。

 さすがにナダルと紫苑の二人が殺し合いになることはない。

 だが、イヤなウワサはフィンツとビルビットは耳にしていた。

「ナダルがナダル杯で完全逃走に成功したとき、アイツの力のせいで危うく死人が出るところだった。その回からナダル杯での真戦兵の使用は禁止されたの。けど教導団は正式な報告をあげていない」

「危険極まりないな」とビルビット。

 “教官”としてのアルセニアの本能が察知していた。

 覚醒騎士の恐ろしさをアルセニアが目の当たりにしたのはそれが初めてではない。

 むしろその逆だった。

 覚醒騎士への対処を知る者としてオーガスタ姉妹がナダルの“監視役”を請け合っていた。

 神経をすり減らして“監視役”たることが余りにも負担が大きく辛いため、姉妹は二人で一人を演じてきた。

 監視役に比べたら女皇正騎士など、軽い息抜きと休養だった。

 幼馴染みであるビルビットがフィンツと同様に自らの本名を名乗らないその理由。

 “名に呪われた騎士”として自分をひらべったく蔑み、「薄焼きせんべい」の異名を甘んじて受け入れているその理由。

 オーガスタ姉妹が共にビルビットを愛しながら、愛するが故に“呪い”の秘密を守り、女皇騎士団の幹部たちにも少しも悟らせないその理由。

 騎士喰らい、ナイトイーター、騎士の本懐を知る者・・・あるいはヒト型龍虫・・・呼称は様々だがそうした“災厄”と言える騎士は歴史上少なからず居た。

 実際に預言の日が近付くにつれて覚醒騎士たちはその本懐を遂げるために目覚めていくのだ。

 そして、その事実を最もよく知る人物たちに怪物たる愛息を預けた母親の心中を察するとアルセニアは自然涙ぐんでしまう。

 自分たちオーガスタ姉妹も全く同じだからだった。

(頼むから怒らないで、頼むから憎まないで・・・) 

 残酷な真実よりも出鱈目な虚構に救われる人間たちがいる。

 誰かが目の前で道化をやらかしてくれるせいで、他人に振り回されているせいで、あるいは別の何かに夢中になることで・・・怪物は己を律して自制心を保てる。

 ディーンが生き急ぐようにして名門大学生と女皇正騎士の二重生活を送り、論文執筆に血の滲む努力を注ぐ理由と、大陸随一のエキュイム名手としてむしろその名を知られているビルビット。

 高級エキュイムサロンに通い詰めて独自の人脈を作り、結果的に女皇正騎士の職務が疎かになろうが、お構いなしに放置される理由は本質的には同じだった。

 ヒトとして生まれた以上、怪物としての本性で徒な血を流すよりも、人間性を認められ、別の道の達人としてその名と共に自分がこの世に生きた証を残すことの大切さ・・・それこそがファーバ教団が持てる組織力を行使して“ナコト写本”を守り、“生贄”として秘密を秘匿する法皇だけが正確な事実を知る“覚醒騎士たちの本懐”だった。

 3人はおそらくナダルが向かった場所とこれから行おうとしていることを察知して席を立ち、急ぎ地下格納庫に向かった。

 半ば時既に遅いし、最終的に向かうであろう場所に先回りすることが正しいのか?

 それともナダルを止めるために必要な道具の確保に向かうのが正しい選択なのかを煩悶しながら・・・。


 女皇正騎士として若年ながら実力で群を抜く3人の正騎士たちがナダルの阻止に向かっているとは知らずに、ナダルはおそらくは今も地下施設において作業中で昼食を必要としているであろう耀紫苑のもとに評判のパン屋で昼食を買った後、悠々かつ生き生きとして向かっていた。

(先輩にお昼を届けないとねぇ、その後は待望の種明かしの時間だっ)

 ナダルは微笑みを浮かべ、誰よりも紳士たれという自らの信念に基づき悪びれずに行動していた。

 あるいは、そもそもアルベオ・スターム学院長によるナダルの騎士見習い派遣の本来の目的は、あるいはコレなのではないかとナダルは半ば確信していた。

 なにより昨年度に卒業しているのにアエリアに“待機”させられていた。

 マーニャが目隠しの際にこっそり隊服のポケットに手紙を入れたことにはすぐ気づいた。

 内容の確認をしたのは地下施設を探す合間だった。

 そして、なによりマーニャ・スレイマンがというキーワードを口にしたのが合図だった。

 ナダルが男として紳士としてあるのは“当然のこと”だった。

 真性のフェミュニストでなければ、ナダルの思い描く理想の女性たちを護るナイトたれない。

 その女性はナダルにとって至上の存在、至高の存在だった。

 姉であって実の姉ではないセリーナ・ラシール。

 黒い瞳と流れるような黒髪もつ絶世の美少女。

 彼女の“本当の両親”との邂逅を果たして推察は確信に変わった。

(今日はじめて会った人たちの中で誰が一番の嘘つきだったかを考えればおのずと答えは出る。グエン・ラシールの息子だからと警戒して本心も本性も垣間見せなかった二人。共にアリョーネ陛下への絶対的な忠誠を約束生贄の二人だ)

 愛する我が子をグエン・ラシールみたいなゲスなクソ野郎に預けなければならなかった無念を察し、姉セリーナの腹黒さと高潔さが誰から齎されたかを思い描いてむしろストンと胸の奥に納得がいった。

 イジメっ子たちを裏で唆していたのはセリーナだった。

 そうすることで弟のナダルを自分の思い通りに操縦出来る。

 なにが若手の出世頭だ。

 むしろ針の筵で正座させられて、常に人目につくところに祭り上げられている。

 “人身御供”という不穏当な言葉がアエリアで最初に用いられたのはナダルの知る限り20年前のことだ。

 その二人は前代未聞の醜聞事件により、強制的にエベロン離宮に連行された。

 同じく厄介払いと制裁により、当時から学院長だった女皇騎士団元司令のアルベオ・スタームは二人を前にして言い放った。

「なにをしようが自由だが次に過ちを犯せばタダでは済ませない。血をもった償いが必要になる。娘まで“人身御供”にされたいのなら、自由に、勝手気儘に振る舞うといいさ。私も“人身御供”として此処に置かれた単なる置物だ」

 其処から凄惨な洗脳教育が叩き込まれ、数年後にパルムに戻った二人は別人に成り果てていた。

 女皇のための理想的な性格に矯正された二人は互いに目を合わせることさえせずにそれぞれの持ち場についた。

 そして今に到る。

 ナダルが自らに課したのは「他の如何なる誰よりも紳士たれ」。

 紳士たるもの真実を見抜く慧眼と力劣る人々の「助けて」という叫びに敏感でなくてはならない。

 アルゴとオリビアのスレイマン夫妻は幼い頃からナダルをそのように教育したし、マーニャたち三姉妹もすべて承知の上でというキーワードを使うことでナダルを《執行者》に変える権限を与えられている。 

 スレイマン家の人間がナダルにという言葉を使うのは実際に助けを求める人がいるという明らかなサインだ。

 アエリアにあるエベロン女学院とシルバニア教導団で最初に教えられるのは「なにか助けて欲しいことや、困ったことが生じたら、スレイマンの姓を持つ人にだけ真実を包み隠さず告白しなさい。それで全ては済みます」ということだった。

 大半の若人がその意味することを知らない。

 知る必要がないからだし、実際にそうしなければならないほど切羽詰まることも少ない。

 何故にスレイマン家だけにその様な特権が与えられたか?

 実に簡単な話で、爵位持ちや事情通ならば、“誰でも知っている話”だ。

 スレイマン家は爵位こそないがゼダ皇分家の一つだ。

 つまりはゼダ女皇家の縁戚でその血が濃いのだった。

 それはゼダの国民なら当たり前のこととして知っている事実と符合し、アルゴとオリビアはどんなに望んでも男の子を得られない。

 むしろ男の子が誕生したら、その事自体が不吉の予兆だ。

 実際に四大公爵家は全て女系一族だが、逆に劣性遺伝の結果として約1200年間で4人の男子が誕生したことの痕跡だ。

 ゼダで女系一族なのはむしろ「高貴の血が濃い」という誇らしいことだった。

 アルゴはスレイマン家の婿養子だ。

 だが、《執行者》ではない。

 教育能力の高さを買われてエベロン女学院の教官から抜擢されてスレイマン家に入り婿し、正騎士になった。

 そして、もともと他人になにかを教えるのが得意ではないナダルの両親はその実、実力行使でしか事態を解決出来ない脳筋体質だった。

 結果的に二人の実子さえ産まれながらに「人身御供」にさせられた。

 そして、事実上の養育に関してはスレイマン家に委ねられた。

 アルゴが三姉妹の誰でもいいから嫁にする気になったらとしきりに問うていたのは、ナダルが覚醒騎士にならなかったら、「自らの放逐」という事態を理解した「普通の騎士」に落ち着いたという意味で、年齢の釣り合うマーニャを娶って、アルゴの後継者たるナダル・スレイマンになるということを意味していた。

 マーニャ・スレイマンはその実、スレイマン家の次期女当主であり、普通の騎士であれば入り婿を強制されると知っていて、それでも栄誉だと考える。

 なぜならアルゴは次期女皇騎士団司令に内定している。

 ナダルがアルゴと同じ道を選べば、必然的にアルゴと同じ開かれた出世コースを辿る。

 しかし、残念ながらそうはならず、予定調和の結果としてナダルは「人身御供」かつ新たなる《執行者》となってしまった。

 スレイマン家と《執行者》とのあいだには不文律が存在し、表立っての接触は禁じられている。

 すべては公の場である女皇宮殿ないしは女皇騎士団関連施設においてなされねばならない。

 私邸で会うなどはもっての他だ。

 最大の皮肉にして、現在「監視」の役割を担うのは宮殿内や女皇騎士団本部のあらゆる場所に部下を配しているナダルの実父、グエン・ラシール調査室長だった。

 つまるところ、ナダルは一番くつろげる「本来の実家」の敷居を跨げない存在となり、実父から厳重監視対象となった。

 当然ながらスレイマン家の女当主たるオリビア・スレイマンに会える機会もまたごくごく限られてしまった。

 それこそ、なんらかの事情で極秘裏に《アリョーネ女皇》が女皇宮殿を不在にする間だけ、オリビア・スレイマンが女皇の影武者となる。

 当然、エンプレスガード・・・“女皇陛下の最側近の騎士”は現在においてはマグワイヤ・デュランが担い、影武者としてオリビアが《アリョーネ女皇》を演じる間だけ夫のアルゴ・スレイマンがその役を担うのだ。

 ナダルが挨拶を終えて部屋を出た後にアルゴが大きく舌打ちしたのは親友グエンの“業”の深さに失望したからだ。

 またしつこく私邸に来るように誘いをかけたのは、ナダルが《執行者》としての分を弁えているかを丁寧に確認するためだった。

 さてマーニャはナダルに符丁を使った。

 つまり、《執行者》の力を必要とする事態になったというSOSだ。

 その内容については手紙にしたためて、ナダルのポケットに放り込んだ。

 5日前のことだ、スカートナイツの一人が真戦兵戦技訓練場で現役の国家騎士たち複数名から狼藉を受けた。

 その子はあらかじめ定められた通りに同僚のマーニャ・スレイマンにだけ事実を打ち明けると、身辺整理を済ませた数時間後に自ら命を絶った。

 やがてドラウ大運河に遺体があがった。

 単刀直入に表現すると戦技訓練を終えて着替えていたところを待ち伏せされて、男性騎士6人がかりでよってたかって輪姦されたのだ。

 女皇家に仕える騎士としてあってはならないことだった。

 その娘は涙ながらにマーニャに無念を訴え、自分の迂闊さを責めた。

 本来ならパルム中央軍所属の国家騎士たちは品性や品格を備えたナダルよりも年季の入った紳士たちであるし、爵位持ちも多い。

 安易な欲望を満たすよりも名誉と誇り、潔癖を旨とした方が回り回って得をすると徹底教育されたエリートたちだった。

 しかし、東方外征が始まり、本来ならパルムを護るエリート国家騎士たちはゴッソリと動員された。

 その穴埋めとしてゼダの各地から半端者が集められる。

 そうした人事の悪い結果が今回の狼藉事件だった。

 更に悪いことにその日に限って国家騎士団宮殿支部を任されるウィリー・ヒューズ大尉が騎士団本部で東方外征の現状報告会議に出席していた。

 また、更に悪いことにスカートナイツの同僚たちが交替時間やら私用の関係で一緒に訓練に参加出来なかった。

 しかし、人数が増えれば犠牲者が増えただけだったかも知れない。

 国家騎士にはピンからキリまでいる。

 キリに相当する輩は不行状、不心得を理由に《執行者》が片づける。

 そのために喧伝されていた前の《執行者》フィンツ・スタームの手合い200戦無敗だった。

 実際のところ、それが喧伝された時点で200戦は消化していなかったが、今やその数字などとうに超えている。

 それは国家騎士たちが私的制裁されたのが200件あったという意味ではない。

 それほどの凄腕だから腕に覚えのある者は、いつでもいかなるときでも、彼に挑んでも構わないという意味だった。

 そして、フィンツはいついかなる場合も「手合い」を断ったことがない。

 ピンからキリのピンに相当する国家騎士たちやエリートガードである女皇正騎士は挑んだ結果としての実りのある敗戦で己の実力不足を痛感し、更なる研鑽を重ねる。

 結果的に怪物フィンツとの手合いは己を高める。

 実際のところ、負けた回数が多い騎士たちほど影で賞賛される。

 よしんば膝をつかせれば、若くして分不相応なまでの栄誉が与えられる。

 実際にそれを達成した人物は

 国家騎士団の現トップエースたるシモン・ラファールは敗戦をかさねながら、時間切れ引き分けの域にまで到達した。

 そして、実際に剣聖級として讃えられ、ビルビットやオーガスタ姉妹と同い年の26歳にして国家騎士団「大佐」に昇進している。

 議会で認証される女皇正騎士たちが少佐相当官なので、つまりはそれよりふたつも格上だった。

 東方外征の働き次第では異例の20代将官となる可能性さえ示唆されている。

 「黒騎士隊の双璧」と並び称されるアリオン・フェレメイフ大尉とマイオドール・ウルベイン中佐も同様だった。

 アリオン・フェレメイフに至っては騎士の登竜門と言われるエドナ杯の決勝で偽名で参加していたフィンツ・スタームと一瞬の攻防で敗戦して準優勝に終わって以来、《刹那の衝撃》という生きた伝説となった。

 その後もアリオンは機会が得られればフィンツに挑んでは敗れて黒星は増え続けたがそれ自体が異常だと言われている。

 なにしろ、アリオン大尉はシモン大佐にもマイオドール中佐にも負けたことがなく、数は少ないが二人に勝っている。

 ゆえに《氷の貴公子》との二つ名を持つ歴とした「剣聖」だ。

 しかし、任地が北部方面軍ということもあって、なかなかフィンツとの再戦実現の機会がない。

 それを惜しむ声も一部にはあるが、国家騎士団北部方面軍の戦略的重要性を鑑みれば《黒騎士隊》のエースと大尉という処遇は18歳のその身に余る栄達だった。

 大尉止まりで佐官になっていないのは単に年齢が足りないからだ。

 だが、キリに相当する不貞の輩はフィンツという怪物を前にして悪夢を存分に味わった上で公開処刑される。

 敗戦事実は新聞報道されても敗死の事実は公にされないだけの話だった。


 ナダル・ラシールは予想通りに「人形番」という自らの使命に没頭して、寝食を忘れている耀紫苑にまだぬくもりの十分に残る昼食を差し出した。

「先輩っ、あまり根を詰めちゃダメですよ。健康あっての女皇正騎士じゃないですか」

 一瞬だけ面食らった紫苑はナダルの差し出した昼食を受け取った。

「ありがとうナダっち、フィンツやビリーに会えたのね?」

「ええ。ご挨拶は済ませましたよ」と言ってから不敵に微笑んだ。

「ところで紫苑先輩、アレは誰なんですか?あのフィンツ・スタームは別人ですよね?先輩もボクも知っているじゃない」

 耀紫苑はギクっと硬直して手にしていたスパナをとり落とした。

 そう、紫苑やナダルが幼少期から知っていた「フィンツ坊や」はもっと繊細で、誰に対しても警戒心を抱く気弱な少年だった。

 だが、今のフィンツ・スタームは傲慢なほど、ふてぶてしいほどの尊大さと底の知れぬ実力を備えた怪物だ。

 あるいは「私の可愛いフィンツ坊や」と呼ぶアリョーネ女皇自身が、別人だと知っていてわざと彼を牽制しているかのようであることに、アエリアから戻った紫苑は驚いた。

「いったいいつから女皇騎士団は怪物や得体の知れない連中を迎え入れるようになったのです?その答えはボクもマーニャも先輩もパルムにいなかった間の話ですよね?」

 紫苑はその答えを知らない。

 知らされていない。

 そして、今は現実としてフィンツ・スタームという怪物に父祖達の作った大事な真戦兵たちを次々に殺されている。

「ナダっち、いいえ、准騎士ナダル・ラシールっ!貴方はまだ正騎士ではないのよ、言葉に気をつけなさいっ!」

「そうですね。正に若輩者です。フィンツやミラーと相対したこともない思い上がった若造扱いでも、ボクは一向に構いませんよぉ」

 紫苑は戦慄していた。

 ナダルが自分の知っている範疇のナダルではない。

 漂わせる雰囲気もその言葉も明らかに異なる存在だった。

「自分がなにを言っている分かっているの?」

 紫苑は受け取ったばかりの昼食を放り棄て、再度手にしたスパナを握り直した。

「あの二人がどういう存在なのだか分かった上での発言なら、所詮は次代人形番に指名されたアタシなんかがどうこう言える立場ではないわっ、でも愚弄する危険を分かっているの?」

 真剣な眼差しでナダルを睨む紫苑にナダルは傲岸不遜そのものだった。

「イヤだなぁ、先輩っ。ボクはね、昔から貴方のことが大好きなんですよ」

 ナダルは紫苑が放り出した昼食の袋を恭しく拾い上げて埃を払った。

「ダメですよぉ、先輩。後輩の、特にボクの好意は素直に受け止めてくださいよぉ。ボクは貴方のことが特別好きでもなければ、愛するセリーナ姉様と比べたら『油娘』なんて揶揄されちゃう貴方のことなんかぶっちゃけてどうでも良かったんです。けれども、スレイマン家の符丁には逆らえない。だから、マーニャの指示で貴方をアエリアでの孤立から救うためになら、掃除でも洗濯でもなんでもしたでしょう。それこそ、望むなら『夜のお相手』でもね。ボクという存在が『手の掛かる後輩』だと勘違いされたあなたはボクの存在のもたらす孤独からの救済にまさしく救われた筈ですよねぇ?」

「・・・そうかも知れない」と紫苑は唇を噛んだ。

 実際に耀紫苑はシルバニア教導団内で“孤立していた”。

 耀家の名を聞けば誰もが取り巻くか、距離を置いた。

 取り巻く人は円滑な関係構築をして彼女の心象を良くしたい連中で、距離を置くのは所詮は技術者に過ぎないという軽蔑の念からだった。

 紫苑の父、犀辰も人々の間では孤独だった。

 それだけに娘には優しく可能な限り一緒に居てくれる父親だった。

 二人は共通の痛みにより、親娘の絆が一層に深まった。

「ゴメンね、先輩っ。ラムジーさんがボクの専用機である《紅丸》を用意してしまった。だからボクにとって貴方の出番なんて永久にない。無駄な仕事なんてしなくてもいいんですよぉ」

「アタシを愚弄するのは構わないけれど、どうしてマリアンの名前を引き合いに出すのよ?」

「それは勿論、マリアン・ラムジー女官頭が自分の腹を痛めて産み落とした娘のセリーナ姉様にとって、ボクが運命で約束されたパートナーなんだと認めた証ですからぁ。譲渡ではなく貸与。けれども、あの人の真意が、無残に打ち砕かれたトリエル・メイル・ゼダ皇子ことシェンバッハ副司令との“正式な婚姻”に対する執着。それさえも、認めなかったマグワイア女史たち女皇騎士団幹部に対する当てつけで、ウチのクソババことデュイエ・ラシール元女官頭に頭を下げてまでダーイン・クレッシェンス・紅丸の貸与という約束をとりつけたんですからぁ」

 不敵だが的確すぎるナダルの指摘の言葉に紫苑は凍り付いた。

 つい数時間前の出来事でナダル・ラシールはマリアン・ラムジーの言葉ですべてを察した。

 じっさい女皇騎士団には複雑な人間関係がある。

 そもそもナダルはあの鬼の室長グエンの一人息子だ。

 調査室の監視は行き届いている。

 正騎士たる紫苑を前に准騎士のナダルが愚弄していれば、室長とその部下とが駆けつける筈だが、来ない。

 まったく来る気配が感じられない。

 あらかじめ、ナダルが宮殿内に配置されたグエンの部下たちをすべて昏倒させてきたからだ。

 父母を蛇蝎のごとく嫌っていようがコイツが只者であるわけがない。

 迂闊だったのはむしろ自分の方だった。

 紫苑は目の前で交わされていた言葉の持つ深い意味にさえ気づけなかった。

「アレを使う気なの?」

 シャドー・ダーイン・紅丸。

 あのサイズの真戦兵ならば女皇宮殿内だろうが機敏に動くことが出来る。

「イヤですね。クソババの化粧の匂いの残った紅丸は要人暗殺とパルムのような密集市街地戦闘を想定した機体ですよ。そんな物騒な機体の出番なんてもっと後だっていい。まだ今のボクには必要ないです」

(目的も用途も一瞬で見抜いた。なんて子なの・・・)

 紫苑はツバをゴクリと飲んだ。

「だったらなんで・・・なんでアタシに告げるのよ、ナダル?」

「先輩がなーんにもわかっちゃいないからですよ。大体、あのフィンツ・スタームも覚醒騎士なら一目惚れで自分のパートナーをとっくに見極めていますよぉだ。未来の自分さえも客観的に見通す慧眼。その前には先輩の入り込む余地なんて1mmもないんですよぉ」

 たしかにその通りだった。

 技術者としてフィンツの実力。

 それ以上に整備時に真戦兵を扱う際の丁寧さと整備や設計に携わる技術者たちへの深い敬意。

 それがあった上で「次々と殺してしまう」ことをとても嫌っていた。

 それは自身が騎士たることの否定にも繋がりかねない。

 あるいは自分が技術者として高く評価されることで紫苑はだと勘違いを犯してしまったのかも知れない。

 あるいはその逆。

 心から軽蔑し憎悪してさえいる。

 紫苑は自分自身の心がわからなくなっていた。

「ヒドいよナダっち、淡い憧れさえ許さないほどキミは傲慢なの?」

 紫苑が涙目になっていることに、ナダルは憐憫の眼差しを向けた。

「フェミュニストたることを自らに課して、周囲の嘲笑も厭わず我が姉セリーナに全てを捧げるという、アルゴおじさんの優しさに満ちた申し出と、初等学校の最後に勇気と真意とを振り絞ったマーニャの偽らざる想い。それさえも、全部理解した上で敢えて踏みにじって、宿業を背負って前に進むしかなかったボクに傲慢と言いますか?国家騎士団入隊を阻止するため、姉さんは本気で愛してもいないボクを誘惑して肉体関係を持った。その事実を知っているのはマーニャと姉さんだけだった筈なのに、両親から絶望するほど叱責されてアエリア送りにされた。耀家ってどんだけエラいんですか?正直見損ないましたよ。いいえ、自分自身に無関係だと無理に思おうとしている」と言ってから、ナダルは静かに言い放った。

「先輩だって人形番たる以前に騎士でしょう?覚醒のときが近付いて心が不安定に揺れている。まったく見ていられない」

「・・・・・・」

 騎士覚醒。

 勿論、知ってはいたがコレがそうだとは・・・。

「ボクはねぇ、先輩とはじめて出会ったあの頃から何一つ変わってはいないのですよぉ。いまは単に極度のストレスから、あるいは他の要因から騎士として“目覚めた”だけ。それが結果的にアルゴおじさんや、次期スレイマン家女当主たるマーニャを失望させる結果になったとしても、先輩から蛇蝎の如く軽蔑されても、ボクの辿る道はエベロンにトバされる前に全部決まっていたのですから・・・」

 ナダルの異常な言動も、自分の異常な心理状態も騎士覚醒だというなら説明がつく。

 《覚醒連鎖》。

 誰かがナダルの騎士覚醒をギリギリに押し留めていた。

 引き金を引いたのは誰あろう自分自身・・・。

「人身御供、生贄、サクリファイスというのは徹底的に汚れるか、人格を壊されるか、真っ先に死ぬ羽目になるか・・・生殺与奪の権限を剥奪されて国家や組織や人類全体に奉仕し、文字通りその身を捧げる者たちのことです。ボクも、副司令も、マリアン女史も、ミラーさんも、あのフィンツも・・・それにナファド法皇猊下も、姉のセリーナもみんなサクリファイスっていう共通項で繋がっているんです。でも、耀家の人間はそうではないでしょうが?」

「だからなんだっていうのよっ、お願いだからアタシの知っている可愛げのあるナダっちに戻って、今までの言葉を取り消してよっ!」

 悪夢なら醒めて欲しい。

 嘘だったと取り消して欲しい。

 無駄だとわかっていても紫苑は叫んでいた。

 パンドラの筺を開けたのは自分でナダルは巻き込まれた。

 しかし、「紳士」たるナダル・ラシールは女性にはっきりとは嘘をつかないし、決して自分を偽らない。

「それが先輩の本心だとしてもサクリファイスの《執行者》たるボクの心にはそよ風程度なんです」

 表情を変えずに静かに落涙するナダルに紫苑は心の底から怯えた。

 そうとも確かに心が揺れている。

 あんなに可愛がっていたナダルが醜悪に見えてしまった。

 その姿の向こうにグエン調査室長のニヤけた笑みが透けて見え、ただただ憎い、穢らわしいという実感が拭えなかった。

 あるいは逆だ。

 狂おしいほどナダルを愛している。

 教導団時代で思い出すのは、夜中でもいつまでも話相手になってくれるナダルの優しく、少し寂しそうな顔だけだ。

 事実を誤認している?

 そうだったアタシの初恋は終わっていた。

 ナダルが無性に愛おしかった。

 その事をマーニャ・スレイマンに打ち明けた。

 4年も前の話だ。

 そして無情に宣告された。

「アイツの目にはセリーナしか見えない。既に心は彼女に支配されている。“紳士たる”からわたしたちを傷つけないように、つかず離れずに居る。けれどそれはアイツなりの誠意と覚悟、そして抗えない宿命なのよ」

 その言葉はマーニャが自身に向けたものでもあった。

 10代で色恋の関係は終わり、お互いの青年期は命令者と執行者という決して交わらない関係となった。

 避ける努力と抵抗は全身全霊でしたが、無駄な悪あがきだった。

 その後、マーニャはスレイマン皇分家の次期当主たる自身の誠意の証として紫苑の母の身に起きた悲劇を語った。

 耀多里亜は《アイラス要塞》への出張中に事件に巻き込まれ、警護騎士のルカ・クレンティエンと共に命絶たれた。

 多里亜もルカも愛娘と夫とを残し、先に若くして逝ってしまった。

 それがゼダ中央政府さえ秘匿する機密である《アイラスの悲劇》だ。

 傭兵騎士団エルミタージュの陽動作戦によりもぬけの空にされたアイラス要塞内で非戦闘員も含む全員が惨殺された。

 要塞司令たるエイブ・ラファール准将の不在の隙を突かれ、要塞守備隊たる黒騎士隊も当時はまだ精強ではなかった。

 ルカ・クレンティエンと多里亜も激しい戦闘を戦った形跡は残っており、二人ともボロ雑巾のようにされた半ば次期主力機たるトリケロス型に改修されたベルグ・ダーインの中で息絶えていた。

 事件のあと女皇アリョーネは女皇騎士団外殻部隊エルミタージュを秘密裏に組織し、事件の真相を血眼になって追い求めている。

 トリエル主導の東征妨害作戦は戦場に必ず現れる傭兵騎士団エルミタージュを炙り出し、痛打を与えるためのものだ。

 個としては優れたフィンツ・スタームもビルビット・ミラーも、対騎士戦闘で連携のとれたエルミタージュとの戦闘では油断出来ない。

 フィンツも手加減など出来ないからこそ、殺して殺して殺した末に乗機をも殺してしまう。

 平和な時代が続きすぎ、生体兵器たる真戦兵たちも経年劣化が酷いのだ。

 だから、格納庫内に真戦兵は多いが実戦の連続使用に耐えられない。

 本当は紫苑もわかっている。

 なにより紫苑自身の抱く、愛する母を殺めた傭兵騎士たちへの復讐心が最大のストレスになっていた。

 何食わぬ顔をしてろくでなしを装い、日常勤務に当たる女皇正騎士たちはそのほとんどが肉親や大切な人を不条理に殺された苦い過去と共にある。

 ハニバル・トラベイヨは最初の妻を、パベル・ラザフォードは一人息子を、トリエル・シェンバッハは姉たちを、紫苑と犀辰は多里亜を、フィンツ・スタームは弟を、それぞれ公に出来ない事件で殺害されていた。

 それでもまだ姉の死をいまだ知らされていないマグワイア・デュランよりは遙かにマシだった。

 彼女の姉エリーヌは皇女アラウネとして死に、いまだ騎士団は「失踪扱い」に留めている。

 ロレイン・サイフィール侯爵を護って戦死した二人の父親バートラム・デュラン卿の方がまだマシな扱いだった。

 そして、誰より女皇アリョーネが多くを喪い過ぎていた。

「“騎士は紳士たれ、力無き弱者にとっての希望たれ”とアルゴおじさんとオリビアおばさんからそのように洗脳教育されたボクは養父母たちの意志を最大限に尊重する陛下の《執行者》の道を歩むしかなかった。他の誰よりもボク自身は先輩にとっていつまでも可愛げがある後輩のナダっちでいたかった・・・」

「・・・アタシは人形番として、耀家のドールマイスターとして、貴方の機体だけはゼッタイになにがあっても作らないし、整備しないわよっ!」

「それで構いませんよ。“人形番”には自由意志がある。それに必要ないですから。ボクに割かなかった分だけ、アルゴおじさんの機体に心血を注いでやって下さい。ボクの“騎士の本懐”はそれで遂げられる」

 そう宣告したナダルはパチンと指を鳴らした。

 紫苑にとっては耳慣れた駆動音が発する。

 それも複数体。

 外部からの真戦兵起動は並の騎士には不可能なことだ。

 ただ呪われた業知る一部の覚醒騎士たちにだけそれが出来てしまう。

 真戦兵の本質に気づいて“目覚めた”騎士たちだけが不可能を可能にしてしまう。

「おいでレジスタたち。ボクはこれから無慈悲な《執行者》となる。ボクが姉さん、スレイマン一族皆の次に愛する紫苑先輩との永遠の決別はコレで果たせた。誰かがボクをアリエアに戻したところで、同じくサクリファイスのアルベオ学院長に太鼓判を押されて認められているので無駄だし、遠からずボクは女皇正騎士で耀紫苑の同僚になる。これからは対等ですよ」

 そしてナダル・ラシールは悲しげに微笑んだ。

「先輩、サヨナラ。ボクは心ならずも幼年期の終わりに達した。だから、預言します。貴方は崇拝する父、犀辰さんと共に、メルヒンの耀家で耀家の最終到達点たる天才・耀公明が設計し、“あのフィンツ”とそのパートナーの無二の相棒となるフレアール、エリシオンの完成と量産に手を貸すことになり、いずれ同族の公明に心惹かれるようになる。先輩の騎士覚醒がなんのためかといえば、使徒搭載機フランベルジュ・ダーインの完成のため。結果がどうであれ、それが“人形番”という宿業を背負った先輩の運命なんです・・・」

「だからなんだっていうのよっ!?」と紫苑は心のままに叫んだ。

「抗いたいなら抗ってください。戦いたいなら戦って下さい。むしろ、ボクらのようなサクリファイスの覚醒騎士たちは運命に抗う人間たちを愛して、せめてそのまごころと誠実さに応えたい、その力になりたいと願う」

 一筋の涙を溢しながら紫苑は尚もナダルに抗おうとした。

「・・・それは預言者たちの傲慢なの?」

「いいえ、今回に限ってナコト預言の日の先に待つ結果はまだ定まっていない。だからこそ抗えるだけ抗い、人としての想いを偽ることなくぶつけてください。それが集まれば集まっただけ、人という種の存続を約束する福音となるのですから」

 目を離したつもりはなかった筈なのに紫苑の前からナダルとナダルが起動させたレジスタたちの姿は消えていた。


 それからほどなくして共同練兵場で事件が起きた。

 ナダルの挑発に乗った国家騎士たち6人が訓練と称するリンチを行った。

 レジスタ1機で6機を相手に奮闘したが、結果的に7機すべてが擱座していた。

 フィンツとビリーが到着したときにはすべてが終わっていた。

「やっぱり手遅れだったというか、なんというか・・・」

「予想通りの結果でしたね」

 フィンツとミラーはボロ雑巾のようにズタズタにされた7機のレジスタを眺めた。

「どうする?助けるかい?」

「もう手遅れですし、国家騎士団がやってくれています。それにナダルならとっくに逃げてますよ」

「そうだね、そしてアニーは追跡を断念して地下格納庫で動揺している紫苑を慰めている。旧エベロン離宮内の限られた敷地でさえも簡単には捕まえられないようなヤツが広いパルムの何処に潜伏したかなんて追うだけ無駄だ」とビリーは伏し目になる。

「だいいち、ヤツは明日も何食わぬ顔で出仕する筈です。そして、明日にも元老院議会に正騎士推薦される。准騎士扱いは元老院の決議待ちの間だけ」

「とんだ後輩騎士もいたもんだ。マイオの苦労が少しわかっちゃったよ。お前は端っから“優等生”だったもの」

「どうも形だけでも詫びを入れるのがボクらの役割のようです。ほらっ、向こうからきなさった」

「ウィリー大尉か。丁度いいのが来てくれた」

 国家騎士団の黒軍服を身に纏った背の高い男が部下二人を伴い二人の許へと歩み寄った。

 ウィリー・ヒューズ大尉がフィンツとビルビットに語りかける。

「とんだことをしてくれましたな」

「まっ、お互い様でしょう」

 ナダルと国家騎士たちの「手合い」が「6機がかりのリンチ」に発展した段階で非も不名誉も向こうにある。

「それでそちらは何人死にました?」

「5人だ。そして驚いたことに他に怪我人は一人もいない」

 不謹慎だと承知しつつ、フィンツは口元を歪め笑みを浮かべた。

 対するヒューズも人の悪い笑みを浮かべている。

 死んだヤツらは自業自得だ。

「それでどうします?上への報告は?」

「聞くまでもないことよ」

「“集団脱走”?」

「ああ、そんなところさ」

 女皇騎士団と国家騎士団。

 二つの騎士団の間に起きた衝突による事故死者は事実と異なる扱いを受けるのが通例だ。

 なぜなら、事実が公表されれば内外に両者の根深い対立構造を喧伝するようなもので、それは双方にとって不利益をもたらす。

 ゆえに「転任」もしくは「失踪」扱いとされる。

 要するに現場から「いなくなった」ことにされるのだが、内容は露骨に異なる。

 つまり、正当な手合いによる名誉の戦死ならば転任先で「事故」に遭ったか、現在のように外征中ならば遠征先での「戦死」として扱われる。

 今回のように他聞を憚られる場合ならば、「集団脱走」あるいは「失踪」扱いとされる。

 つまり、勤務地から「逃げた」とされるのだ。

 「戦死」または「事故死」ならば遺された遺族は保障される。

 しかし、「失踪」ならば不名誉除隊として職籍を抹消され、一切遺族補償はない。

 根深い対立関係にある両者にとって、対立を利用して己の欲求や欲望を満たす「ろくでなし」には相応の罰がくだされる。

 無論、両騎士団内部でも口外されず、幹部のみが知る事実に他ならない。

 聡明な読者にはもう既におわかりのように、国家騎士団は、少なくともウィリー・ヒューズ宮殿支部長大尉は6人の騎士による集団暴行の事実をとっくに認めている。

 だが、事実を公にすれば辱めを受けた女官騎士スカートナイトの女性騎士の名前が晒されることになり、当然加害者側の名前や出身地も公表される。

 そして、不心得者を皇都パルムに入れた人事権を持つトゥドゥール・カロリファル国家騎士団副総帥以下、騎士団幹部たちの責任が問われることになってしまう。

 自らが直接手を下すことなく頭痛の種を体よく葬り去る手段として国家騎士団も女皇騎士団を利用したのだ。

 逆もまたしかりであるのだが、女皇騎士団は正騎士所属員全員が少佐相当官という幹部扱いであり、責任ある立場の彼らが露骨な不正や不行状を働くことはまずない。

 徹底教育され、議会承認されたトップエリートたちなのだ。

 行うとするなら、誰にも分からぬ巧妙な不正であったり、不行状だということになる。

 だが、これらは国家騎士団の手を借りるまでもなく、調査室により処理される。

「しかし、とんでもないルーキーが加わるところだったようだが残念なことをしたな」

「いいえ、あのレジスタの中身はおそらくは・・・」

「まさか・・・?」

 攫座したレジスタの操縦席から引きずり出された遺体は案の定、ナダルのものではなかった。

 暴行に加わった6人目の騎士が見るも無惨な姿で引きずり出される。

「いったい、いつの間に?」

「おそらく組み合った瞬間かそれ以前にでしょう。こちらからはまったく確認できなかった」

「アンタらの目をしてもか?」

 ウィリー・ヒューズ大尉はフィンツとビリーの力量もさることながら、その慧眼ぶりを最も認めていた。

 フィンツやミラーの慧眼をしてナダルの行為はなにも確認出来なかった。

 その時点でフィンツは可能性が一つしかないと見極めた。

 だから阻止もなにも、余計な事は一切しなかった。

「まるで手品だな。それこそスターム卿、あんたと五分五分じゃないのかね?」

「それはどうでしょうね。彼とは全くタイプが違いますので」

 フィンツがニヤリと笑みを浮かべる。

 このウィリー・ヒューズもまたフィンツの実績の200分の6に相当する。

 だから、三十路手前のこの年齢で「大尉」なのだ。

「それで、そっちはなんにもお咎めなしってとこかい?6人も殺しておいてまったく理不尽な話だがね」

「あなた方の立場と名誉を守るためですよ。理由を持ち出すとややこしくなる。けれども、理由なく処分を下したとなれば、いらぬ憶測を呼ぶことになります。個人的には“お灸を据える”意味でもなんらかの処分を下したいところです」とフィンツは言い切る。

 前任の《執行者》としてフィンツは極めてスマートだった。

 それとは誰にも全く悟らせなかった。

 どんな不心得者にも自分のような怪物に挑んで敗死したという名誉だけは与えている。

「むしろあなた方の方で意趣返しなどと馬鹿なことは考えないでください。それこそ、徒な血が流れることになり、カロリファル公爵が憂慮される事態となるでしょう」

「それが妥当というのに些か腹が立たぬでもないが、部下の管理が行き届かなかったのは事実。まっ、それも東方外征で中央から事情と分別をわきまえたマトモな騎士たちがごっそり引き抜かれて、各地方からトバされてきた有象無象の連中が多く入り込んだからでもあるのだし、それも東方外征を決めたカロリファル公爵たち上層部の決定が原因だからね」

 その上で名のある実力者であるウィリー・ヒューズ大尉を敢えて皇都に残している事にも深い意味があった。

 国家騎士団副総帥の若きトゥドゥール・カロリファルが、絶対的に信頼しているのがリチャード・アイゼン中尉であり、エイブ・ラファール少将であり、ウィリー・ヒューズ大尉だった。

「まっ、次回の対抗戦では奴を先鋒に立てますから、腕に覚えのあるのをぶつけて溜飲をさげて下さいな」

「ふっ、逆にあれを見てまだ突っかかろうという骨のあるヤツがいると良いのだがね」

「貴方が立たれては?」

「やめておくよ。これでも命は惜しい。キミやミラー卿のように私の実力に合わせた手加減をしてくれるとは、未熟者の彼には到底期待できないものな」

「では、国家騎士団で上に立たれることです」

「それも十分だよ。キミたちのお陰で私もこの年齢で大尉に昇進できたのだし、《ナイトイーター》の本質について知っているから今の役職も務まる。それにあまり昇進すると地方に栄転となったり、外征に送り込まれて実戦を戦うことになる。余人は知らないが私は単に都人たちを護る騎士たりたい。そしてむしろ上が期待しているのは、お目付役とキミたちとの交渉役だと思うね」と言って言葉を切りウィリー大尉は空を見上げた。「しかしね、もしキミたちが本気で戦う事態となったなら、私も喜んでキミたちと並んで共に戦うよ。それを期待して私を鍛えてくれているのだろうし、なにより私の真意に適う」

「それもそう遠くはない話になるかも知れないですね・・・」とフィンツも遠い目をする。

「我々はそのためにこの時代に生まれてきたのかも知れないな」とミラーも苦笑する。「そして、大尉みたいに立派で殊勝な心がけを持った騎士達をむざむざ死なせたくはないよ。そういう役割はサクリファイスたる僕等が引き受けるべきことで、大尉だったらこの国が形を変えようが、真戦兵が使用停止になろうが、戦う術を知らない人々を護るというその心がけだけで未来を紡げるさ」

「その期待には是非とも応えたいですね、人事を尽くして天命を待つことにしましょう」

 預言の日は間近に迫っていた。

 事態はフィンツ・スタームの予想より早く、最悪の形で進行する。

 この日から僅か1ヶ月後にフィンツは東方外征ではなく、本当に彼の力を必要とする苛酷な最前線に立つことになる。

 そして、ヒューズやミラー、オーガスタ姉妹、マグワイヤ・デュランたちも随時その戦いに加わることになる。

 勿論、ナダル・ラシールも戦争を左右する重要なポジションを担う。

 後に「女皇戦争」と呼ばれることになる苛酷なる戦いは既に始まっていたのかも知れないのだった。


 エピローグ ナダルとハニバル


「初任務、ご苦労。お見事だった」

 ヴェロームから戻り、執務室で対面したハニバル・トラベイヨ司令は穏やかな顔で新人のナダル・ラシールに告げた。

 ナダルは第一印象としてハニバルはアルベオ学院長に似ていると感じた。

「司令。結局、私は私のやり方でしか事を成せませんでした」

「それでいい。紫苑の覚醒に《共鳴》して心乱されながらも、やるべきはやり遂げた。さすがはアランハス卿の孫にして、ラシールとノヴァの血の集大成とトリエル“殿下”が感心されていた」

 代々隠密機動を輩出してきたラシール家跡取りのやり方。

 マーニャから受け取った指令は「栄えある国家騎士を“僭称”し、狼藉事件を起こした6人の騎士を排除する」というそれだけの話だ。

 上官だった宮殿支部長のウィリー・ヒーズ大尉すら知らない。

 いや、トゥドゥール・カロリファル副総帥も知らない。

 出征した中央所属のヒューズ子飼の騎士たちにかわり、晴れてパルムに招聘された国家騎士たちは有象無象でなどなかった。

 働き次第で留め置かれる可能性もあるので、野心と功名心に満ちたやる気と節度のある若手騎士たちだった。

 しかし、彼等はもう既にこの世には居ない。

 おのおのの在職地から辞令を手にパルムに向かう途中で「騎士狩り」たちに闇討ちされていた。

 そして彼等の遺体が発見された際、各個に捜査と後処理されていた。

 つまり、ウィリー・ヒューズが着任を確認した時点で6人の騎士たちはそっくり別人に入れ替わっていた。

 入れ替わった騎士たちは計画通りに女官騎士を陵辱の上で脅迫し、それを材料に女皇宮殿塔内に入り込もうとしていた。

 無論、その目的はアリョーネ女皇を亡き者にせんという企みだ。

 それぞれが傭兵騎士エルミタージュの腕利きたちだ。

 真正面から宮殿内に入り込まれたなら、スカートナイツたち、あるいは女皇正騎士に多くの死傷者が出ていただろう。

 フィンツやミラーのような回りくどいやり方では一網打尽に出来ないと踏んだマーニャ・スレイマンが、アリョーネ女皇、アルベオ学院長を通じてアエリアからナダルを緊急招聘した。

 ナダルならば一人ずつ闇討ちして仕留めた上で、遺体を格納庫のレジスタに放り込み《傀儡回し》によりいちどに返り討った茶番劇にも仕立て上げられるとマーニャは判断した。

 惚れた男の凄まじさは「知り尽くした上で使いこなす」というのがマーニャに与えられた苛酷な使命だ。

 《傀儡回し》。

 つまりは真戦兵を外部操作であたかも誰かが乗っているかの如く振る舞わせる闇の奥義。

 正に呪われた騎士たちだけが用いる禁断の業だ。

 そう、誰も6人の騎士とナダルの諍いを見た者はいない。

 そんなものは

 《執行者》ナダルはマーニャの命令を受け、パベル、イアンと別れてから僅か一時間足らずで6人全員を各個に捕捉して始末した。

 日中宮殿支部に出入りしているのだと判っているのだから、探す手間もなにもない。

 潜入、変装、闇討ち。

 いずれもナダルにとって造作もない。

 それぞれが一人になる機をとらえて一瞬で始末するだけの話だ。

 6人の遺体をレジスタに押し込めてから、何食わぬ顔でフィンツやミラーたちと合流した。

 誤算だったのは近場に遺体を大量に置いたことで紫苑の覚醒ストレスが加速してしまい、自身まで影響を受けたことだ。

 だが、それも割合穏便に済ませた。

 に警戒されずに事を為すためには存在そのものが知られていない方がいい。

 ナダルが官舎でなく実家に戻されたのも、に帰参を悟られないための措置だった。

 つまり、女皇アリョーネもマーニャ・スレイマンから報告を受けて段取りをすべて知っていた。

 マグワイアがグエンに確認したのはナダルを実家に帰参させた本当の事情についての事だった。

 に察知されたくない。

 だからこそ、ナダルを正式な手続きで呼び寄せつつも、実家に戻らせていた。

 アランハスの孫たるナダルについてはもよく熟知しており、厳重にマークしている。

 だから、アエリア出立時にナダルの行き先は東方外征の進行している東部戦線だった。

 だが、辞令書に同封されていたチケットはパルム中央駅行き。

 厳重な身元調査が行われていてもアエリアに間者が居る可能性をアルベオは捨てていなかった。

 実際、居た。

 そして急報した。

 いよいよ、隠密機動が“もう一人追加投入される”と東部戦線のエルミタージュ幹部たちは警戒し、念のためパルムも警戒したがナダル受け入れの準備は

 だから、極秘任務中の連中に報告が届くことはなかった。

「事の深刻さと重大さを知るのは陛下と我々女皇騎士団幹部、そしてスレイマン皇分家筋と《執行者》本人だけでいい。お前はその任に立派に応えた。引き続き紫苑とスレイマン嬢を護り、パルムの治安維持につとめて欲しい。二人のエンプレスガードであり、女皇家隠密機動隊員。お前の祖父アランハスやグエン、デュイエが求められてきたこと。それが女皇騎士団がお前に求める役目。そしてトリエル殿下の直下に入り、セリーナと同様にヤツの指示を受けろ」

 ナダルは精悍な顔つきでハニバルの訓示を受けた。

 光の章と闇の章それぞれで見せていたナダルの性格と言動は覚醒騎士化の齎す混迷に影響されたところはあったが、とは隠密機動として自分自身の感情や思考を殺し、要人警護を全面的に任される矜持に身も心も引き締まらせたタフガイだ。

 祖父のように大胆不敵でもないし、父のように性根の腐った悪漢でもない。

 言葉少なく慎重で臆病だ。

 矛盾しているが厳しい鍛錬の末に業を極めているからこそ、ひどく慎重なペシミストなのだ。

 奢りが祖父からなにを奪い、奢りが父をどんな人間に変えたかをよく知っている。

 だから、自身の奢りで「大切な誰かを喪う」ことを誰よりも怖れている。

 愛が深すぎ、守りたい者と考える者たちが多すぎる。

 しかし、それではあまりに可愛げがなさ過ぎるし、から警戒されるばかりなので、本音の存在として普段は光の章で見せた何処か可愛げある男を演じている。

 両親が嫌いなのも事実だし、お姉ちゃん大好きな重度のシスコンなのも事実。

 マーニャや紫苑が好きなのも事実で、基本的に女好きなのも事実。

 なにより真性のフェミニストでたるのも事実だ。

 だからそれに相応しい仕事をすることになる。

「畏まりました。引き続き全身全霊でその任にあたります」

 ナダル・ラシールは基本的に女皇や騎士団幹部の真意に忠実な男だ。

 まっ、そのせいで後に「ワンコ2ごう」とか「忍者くん」とか変なアダ名がつくのもご愛敬だ。

「私とトリエル皇子の名で正騎士昇格を推薦しておいた。さすがに司令格でもグエンは実の父親ゆえに連名推薦人としては憚られるので遠慮願った。近々、議決されるだろう。さすがに全会一致とはなるまいが、可決はされるだろうさ」

(いや、むしろなくていいです。クソ親父の推薦なんて絶対ヤダ)

 全会一致可決の大例外はフィンツ・スタームの正騎士昇格時をおいてない。

 ヴェルナール・シェリフィス元議長がフィンツ・スタームの一言で素性を誤解したが故の事だった。

 でなければ、そんな奇跡など起きる筈がない。

 そのヴェルナールも故人となり、今は元老院議員たちも誰がどの派閥なのやら、誰とつるんでいるやら、表向きは皆目わからない。

 はっきりしているのは、皇室政治顧問のライゼル・ヴァンフォート伯爵が生粋のアリョーネ派であること。

 そして、ヴェルナール元議長の娘婿たるフェルディナンド・シェリフィス議員が数少ない元老院左派で非戦派だということ。

「構いません。あまり目立った新聞報道されるのも困りますから」

 適度に賛成者がいて適度に反対者がいる。

 そうして正騎士に承認されても民衆にとってはさしたる意味も持たず、注視もされない。

 もともと隠密機動としての習性が板についているナダルは目立つことをとことん嫌う。

 影として生き、影として死ぬ。

 それがラシール家に生まれた者のつとめでさだめだ。

「やはりあのフィンツについて気になったか?」

「ええ、はいったい誰なのです?」

 ハニバルは既に紫苑からも報告を受けている。

 女皇宮殿を遊び場に育った仲である紫苑もマーニャもナダルも、フィンツ・スタームとは幼馴染みであるので、現在のフィンツについて疑念を抱いている。

 もっとわからないのが偽フィンツに注がれる女皇アリョーネの寵愛だ。

 ナダルたちは本物のフィンツ・エクセイルまたはスタームがアリョーネの実子なのだと薄々気づいていた。

 実の母親だというのにを溺愛する理由がさっぱり理解出来ない。

「あの男は亡きアラウネ殿下の遺児ディーン。表向きはオーギュスト・スターム元司令の長子であり、アリョーネ陛下の甥御。私の二人の子たちの乳兄弟であり、もしアラウネ殿下が即位されていたならばトリエル殿下と同様にディーン・メイル殿下と呼ばれたかも知れない青年だよ。正に我々の秘蔵っ子。いずれディーン・スタームと名乗るかも知れないがセスタスターム家との直接の繋がりはない。なにより、いざというときの切り札とでもいうべきかな」

 嘯くように呟いてハニバルは微笑んだ。

「つまりは女皇家連枝の皇子ですか?そうした手合いがハルファで祖父たちに育成されていたという噂は耳にしていました」

 ハルファ離宮極秘訓練施設がアエリアでは手を焼く連中の虎の穴だとナダルは聞いていたし、ナダルは危うくハルファ送りになりかけた。

 ナダルの父方祖父アランハス・ラシールはいまだ健在だ。

 そしてもう一人、《剣鬼》と怖れられる人物がハルファにいるという。

 ウワサの《対の怪物たち》さえこの人物には勝てない。

 当然だが《対の怪物たち》にも勝てないディーンもこの人物には勝てない。

 アランハス・ラシールはメロウィン先皇の夫で皇族外交官だったロレイン・サイフィール侯爵が客死した《タッスル事件》、摂政皇女のアラウネがオラトリエスとの祝賀行事の最中に毒殺された《アラウネ事件》での引責により表舞台を去って以来、パルムには居ない。

 隠密機動として比肩する者なき祖父ゆえ、ナダルもまた女皇家に重用される隠密機動となる宿命であり、知らなかったのは当人だけだった。

 だが、それも6年前の出来事で思い知らされた。

「ああそうだ。アランハス卿とあの御方の愛弟子。そして、五公爵家筆頭エクセイル家の跡取りディーン・エクセイル新公爵だ。陛下の意向で義弟たるフィンツ・エクセイルの名を継ぎ、怪物女皇騎士としての健在ぶりをアピールするため偽っている。粗相のないように・・・と言いたいところだが、決して勘付かれるな。ディーンはその立場上なんでも知っている。なにより、お前の愛するセリーナ・ラシールの実兄でもある」

「・・・・・・」

 ナダルは絶句してハニバルの顔を凝視した。

 おそらくナダルとセリーナ本人たちもトリエル夫婦も知らない真実だ。

 初対面でナダルもなんとなく気づいていた。

 表向きセリーナはトリエルとマリアンの実子であり、二人もそうだと信じている。

 だが、ナダルだから気づいた。

 そう思われてもおかしくないのはアリョーネたち皇家姉妹の姪御だから。

 末弟のトリエルにとっても姪っ子だ。

 兄妹そっくりの黒髪。

 傲慢とさえうつる自信に満ちた眼差し、なにより底の知れない規格外の力。

 なんでも抑制する兄となんにも抑制しない妹。

 殺戮衝動も目覚めた性欲も丸出しだった姉セリーナにナダルはその童貞とともに、ラシール家を捨て、マーニャの夫、アルゴとオリビアの義息むすことしてスレイマン家の婿になり、いずれは目の前にいるハニバルの後任司令になるという選択肢や、女皇騎士でなく国家騎士として国家全体に奉仕するという夢や希望といった選択肢をナダルはなにもかも喪失した。

 そもそも姉でありながらセリーナはナダルを一度も弟として見たことがないと閨で本人から告げられた。

 さいしょから決まっていた自分のオトコ。

 極上の味わい深い隠密機動の名門ラシール家の集大成。

 そうして美味しく頂かれた。

 だからこそ、ナダルはその時点で、あるいはそれよりずっと前からセリーナからの精神的支配を受けるようになった。

 愛がないといえば嘘になる。

 だが、認めたくはない屈辱的隷属関係。

「あの兄妹に関しては詮索無用だ。下手に色々勘付かれると避けられるぞ。ディーンもセリーナも、それぞれの理由でラシール家を毛嫌いしている。確かにずっと監視対象なのだからな、嫌われていて当たり前だが、ディーンは身綺麗にしている。セリーナはそれがわかっていて面白がっている」

「わかりました。そして、わかっていますとも。なにも知らないフリを通しましょう」

 ディーンが「フィンツ・スターム」を名乗っている以上、本当にそうだと思っておいた方がいい。

 ナダル、マーニャ、紫苑がアエリアに居たパルム不在の間にまた公には出来ないなにかが起きたのだ。

 最重要機密に相当する《アイラスの悲劇》の顛末さえ知るマーニャ・スレイマンすら知らないということは、いまだ分かっていないことが多すぎて機密にすらなり得ないということだ。

 フィンツがその必要がないとわかっていてさえ、ナダルたちと同時期にアエリアに赴いていたならこんなことになっていなかった。

 紫苑の本当の初恋の相手とはだった。

 ナダルとマーニャはそれを知っていた。

 実の従姉弟という関係故に適切でないし、紫苑の孤独は愛する母を喪い、初恋の少年とも引き離された故の心の痛みだ。

 ナダルたち幼馴染みの知っていた“気弱で温和で神童と呼ばれた博識で、その実、正義感に満ちたフィンツ・スターム”はもうこの世にいないのだと思っていい。

 それだけに邪推は禁物だ。

 手合いにこと寄せてナダル自身がディーン本人に始末されかねない。

 伊達に不敗神話を継続させてはいまい。

 アリョーネが溺愛を装うほど信頼を寄せているなら、なにかまだ他にも理由がありそうだ。

「とにかく女皇騎士団は一枚岩にはほど遠い。それぞれ真意と正体とを隠しているし、それぞれに複雑な事情と晴らせぬ憎悪を抱えている。だからこそ、ナダル。いちばんしがらみの少ないお前を皆が頼りにしている。そして、《紅丸》と共に己が切り札の一人だと理解しておけ」

 愛憎渦巻く女皇宮殿。

 アリョーネ女皇最後のカードとしてナダル・ラシールは万を辞して喚ばれたのだ。

「御意のままに」

 それが、それこそが最後の女皇正騎士ナダル・ラシールの本音であり、真意だった。

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