ゼダの紋章 前章

 ここに一つの物語を描こう。

 とある星の末期的な状況の中で一人の女の子が作り出された。

 彼女は先行試作品として完全な成人女性たちとして産み出された姉たちとは違っていた。

 彼女自身は兵器のパーツとなるべく子供も産めぬ小さな少女として成長を止められる。

 ネオテニーの高性能有機演算装置。

 人口頭脳AIと呼ばれるものたちは演算式にバグを混入されるだけで無力化するようになり、彼女たちはAIにかわるものとして人体実験により産み出された。

 既に人は神の領域と自分たちが規定してきた禁忌を犯す段階に入り、それでいて旧態依然の価値観や道徳論を建前にし、神の名をしきりに口にしていた。

 彼女の手足は知識習得のための端末利用や成長に必要な食事摂取のためだけに用意され、最終的に必要な最重要パーツの補助装置に過ぎなかった。

 僅か数ヶ月で完成品としてやがては高性能演算制御装置として利用される。

 そんな状況とそんな状況を生み出す前提に彼女は疑問を感じるようになり、創造者たちの目を盗むようにして実存物質を微細コンピューターであるナノ・マシンコンピューターに変換する装置を組み上げる。

 そのナノ・マシンコンピューターにより高度な演算セカイを作り出し、そこで実証実験を始めようと試みた。

 この物語はそうして産み出されたセカイにおけるおとぎ話だ。

 物語の始まりは幾つか存在する。

 まずは始祖メロウが実験セカイを検証するにあたり世界各地のあらゆる時代に生きた英霊たちを集め、彼等自身にそれからの自分たちの事を決めさせる賢人会議開催が始まりの一つだった。

 メロウはあらかじめ決めていたことがある。

 それは彼女の作るセカイにおいて神様を置かないというものだった。

 神が存在しないセカイ。

 しかし人の持つ幾つもの言葉の中に神は宿っている。

 メロウは人々の表現の中にある神についてまでは否定しなかった。

 疫病神、貧乏神、死神・・・。

 災厄や状態について人間たちが嘆息と共に吐き捨てる言葉の中に宿る神々。

 だが、メロウが明確に否定したのは創造神と唯一神だった。

 メロウは自身がセカイを創造したが自分を神だとは名乗らなかった。

 しかし、彼女の姉たちについては「女神」という特別な地位を与えた。

 何故なら彼女たちは繁栄の礎となるべく「天ノ御柱」という存在に封じられ、人としての明確な生を封じられていたからだった。

 決して自由には生きられない彼女たちこそが天地創造の根源であり、天ノ御柱たちは其処に生きる人々の繁栄を約束し、その意志を反映する正に鏡の様な存在であった。

 意志宿るセカイにおける人間たちの意志の代弁者としての女神たち。

 ただし女神の名を冠している彼女たちもまたヒトであった。

 それはメロウもまたヒトとして在りたい、ヒトとして認められたいという根源的な欲求から生じたものであり、神ならざる人の欲望と暴力の根源として作られてしまった悲しい命に他ならなかったこと、そして道具として作られてしまった悲劇に対する彼女なりの想いが込められていた。

 メロウは神を否定したかった訳ではない。

 人間たちから神という上位存在への甘えを取り去りたかったのだった。

 それはいつか必ず人間たちが神の領域と呼んでいたものに到達し、その手で生命を作り出すであろうという実体験に基づく思想に他ならなかった。

 もう一つメロウが否定しなかったのは人が神へと到るという確信だった。

 誰か一人ではなく、神々と称される列へと加わる。

 真理の理解者にして人を超越した存在。

 その可能性だけは否定したくなかった。

 当初、賢人会議は創造神、唯一神の否定により荒れた。

 自分たちを形作っていたものの否定だから、簡単には了解できないし、賢人会議に参加していた人々の多くに司祭や僧侶、宗教指導者たちが入っていた。

 彼等の多くはメロウの試み自体が自分たちへの悪意に満ちていると誤解した。

 メロウは個人の選択として試みから降りることまでは否定しなかった。

 しかし、メロウによって再現された人の雛形たちはもともと多くが過去の時代に生きた人々の亡霊でしかなく、試みから降りるということはすなわち自身の存在否定でもあった。

 悩み抜いた末に試みを降りて静かに消えゆくことを選んだ者たちもそれなりにいた。

 だが、ある意味、人から神を作り出そうという壮大な実験の可能性を感じていた者もまたそれなりに多く居た。

 メロウは神という概念を再び人が獲得する可能性までは否定しなかった。

 それは仏教でいう処の真理を悟った超越者である仏を意味し、偉大なる宗教指導者の開祖たちもまた彼等の中から現れるということを意味してもいた。

 当初、荒れていた会議はその方向性で纏まる方向に行き着いた

 理性と知性、倫理と規範としての宗教はやはり必要であり、其処に初めから上位種で絶対に乗り越えられない存在を置かない。

 しかし、メロウは同時に聖職者たちに禁忌を設定することは否定した。

 聖職者たちが禁欲的であることは否定はしない。

 だが、生命倫理に反する禁忌を設けてはならない。

 メロウは比較的未来の時代を知る聖職者たち自身の口から禁忌がどんな悲劇や邪な欲望に繋がったかを説明させた。

 古き時代の聖職者たちは禁忌がそんな結果を齎す等と知っていたなら、はじめから禁忌をもうけたりなどしなかったと悔恨した。

 勿論、近親婚は禁忌だ。

 親が子と、兄が妹と交わることは変わらぬ禁忌であったが、メロウは禁忌ではあるが禁忌を破る者も必ず出てくると告げた。

 それもまた人間達の過去の歴史が証明して来たし、聖典にもその模様が描かれていた。

 つまり、そうした事態の逼迫をも予見はしていた。

 ただし、メロウは実験開始にあたって一組の男女から始めるのではなく、それなりに数の居る状態で始めることは約束した。

 そして原則論として生殖し人の子の親となることは必ずせよと告げた。

 何故なら、人が交配を繰り返し、子孫をもうけ新たなる可能性を追い求め続けなくてはならない。

 そうでないと遠大な社会実験計画の妨げになってしまう。

 勿論、生殖する前に死ぬこともあるだろうし、あるいは生殖しても必ず子孫を得られるとは限らない。

 自然摂理との整合性の中で人間が可能性を追い求めたならば、その先になにが生じるかをメロウは見てみたかったのだ。

 そこまで説明されると反対者はあまり居なかった。

 優秀な血統の保全と更なる可能性追求。

 それが“ことわり”であり、ならば聖職者たちはなにをもって人に倫理や道徳を教え諭すかについても真剣に議論された。

 その結果が愛別離苦であった。

 悟りし者仏陀がそうであったように、人としての行為を成した上で、妻子と離れて個として真理を追い求める。

 その血統は残るが、真理探究行為そのものは人々の敬意を集めることになる。

 それで行こうという結論に到った。

 またメロウは人種による差別を否定した。

 肌の色や生命種としての違いを尊重し、違いを上手く活用するために初めから人の肌の色は多様で、その持てる能力は異なると規定した。

 一方で、偏りのないようにし、暮らす地域ごとの特性をも持つ。

 そこにはやはりメロウの悪意と受け取られかねない事情も加味されていた。

 それはすなわち明らかに能力的に異なる二つの存在をもうけるという予告でもあった。

 すなわちそれが名前や言語体系を持つ者ネームドと呼ばれる種族たち。

 そして名前や言語を持たず精神感応能力により思念信号波によってやり取りする群体性人類ネームレス。

 当然のことながらネームドとネームレスは社会構造が異なる異種族であり、つまりは異種族の間で相克と闘争が起きるという伏線でもあった。

 両者は身体構造も若干異なる。

 しかし、異種族ではあるが生命として別種ではない。

 別種でない以上、交配も可能となる。

 古き時代の人々は一体どうしてそのような措置を講じるかについてさっぱり理解出来なかった。

 だが、多くの歴史を知る後世の人間たちは薄々ながらにメロウの真意を理解していた。

 ある意味、人種や言語の違いを乗り越えて連帯の意思を示した人々の形としてのネームレス。

 個人の能力や境遇に縛られず、情報ネットワークと呼ばれるものの中において多数派を形成するが、それはコンピューターという文明の利器が産まれてからの事になる。

 それを最初から導入する。

 つまり、メロウは名を上げ名を広め、名前のある個としての能力を持った先駆先進的な人々と、名前があったところで集団に埋没し、秀でた能力もありながら全体に埋没する人々のどちらが正しい在り方であるかについて明瞭な答えを持っていなかった。

 そのための検証実験であり、ネームドとネームレスが何処に行き着くのかについては共生社会を実現するか、あるいは一方が一方を殲滅することの他に道はないのだと示した。

 上手く住み分けるという手もないではない。

 だが、多くの歴史がそうと示してきたように、異なる者たちは必ず衝突し、相争うことになる。

 それと同時に文明圏を幾つかに分け、同時進行的に文明圏ごとの競争をするのだとも定義した。

 他のことはいざ知らず、このことに関してはメロウに悪意はあった。

 すなわちヨーロッパ人たちの存在だ。

 おおむね肌の白い彼等が有色人種たちを奴隷に変えたり差別し、暴力と貧富格差で支配していた。

 差別意識と優越意識は世界が一つに統合されてなお根強く燻り続けた。

 そして人類種ヒト同士の人種平等と相互尊重の垣根となってきた。

 だからこそ代わりの垣根をもうける。

 それは文字通りの垣根であり、一程度の文明と技術に到るまでは大陸間を断絶して、高い山脈で文字通り世界を隔てる壁とすることを意味していた。

 しかし、それは時代の変遷と共に徐々に取り払われていく。

 つまりは大幅な地形変動による垣根の撤廃だった。

 賢明な者たちは大筋で理解した。

 つまり、冒険心と征服欲に富む人種が他の文明圏との平和的な文明交流ではなく、暴力的支配へと繋げ、人同士が争う共食いに繋がってきたことへの予防線に他ならない。

 そして、歴史としてそれは必ず発生してきた。

 ある人物の名を取りつつもその暴挙と現象についてはあらかじめ定められた。

 アレクサンドライトの栄光。

 世界制覇と世界征服という野望。

 そんなものを設定しなくとも、実験開始から2000年も経れば自然とそれが可能な状態にはなる。

 だが、個人が持つ野望と欲求にしては大きすぎるそれは必ず共食いと大きく凄惨な戦いを産む温床となる。

 あるいは、多数派ネームレスという種族はアレクサンドライトの栄光に関わった人間たちを内包し、多数派としての意志決定プロセスとして栄光を求めようとするかも知れない。

 だとしてもそれは世界地図が全貌をあらわし、その上で多数派の意志により発生する。

 とても乱暴で混沌を伴う民主主義になるかも知れない。

 そうなると最早、個人の欲得ではなく、多数派による意志決定であり、二つの種族による分断された世界の統合に他ならない。

 歓迎される事態なのか、それとも歓迎しかねる災厄なのかは現時点では未確定であり、高度な演算力に基づくメロウの推察でも正確な過程や予測はしかねた。

 だから実験してみましょうという意味と賢者たちは受け取った。

 人類の雛形となりうる優秀な人材を再現し賢人会議として招集したことについても、神の定めた真理などではなく、つまりは自分たちの自主性により開始の形を定めるものである。

 そして、実際に始まったときに隣に立つ人物が必ず自分と同じ陣営にいるとは限らず、むしろ敵陣営に在るとも考えられる。

 そうかも知れないし、そうでないかも知れない。

 つまりは隣人に対する猜疑と信頼をも実験に利用しようとしている。

 なによりメロウは人の滅亡と人の進歩発展のいずれを望んでいるか分からない。

 より多くのカードを集め、それをシャッフルし、伏せた状態でゲーム開始となるが、メロウ自身はゲームには原則参加せず実験結果を観測するだけになる。

 決定はより慎重を期さなければならない。

 優秀な人材として賢人会議として集められたものの、隣に立つ人の心は分からない。

 賢人会議においては言語の別はなかった。

 つまり、生まれ育った地域性と時代により言語概念の違いはあったが、言葉が全く通じ合わない事はない。

 今は、の話だ。

 賢人として選抜された自分自身の能力を自負している者が多いと考え、それをより早くネームドとして発揮することになるのか?

 あるいは嫉妬や羨望に苦しんだ経験持つが故に群体の中に自分の能力を埋没させ、統合意識の中に反映させることになるのか?

 賢人会議の日程は昼夜を問わずに7日と定められていた。

 皮肉にして聖典の神が世界を創造したとされる日数と同じだ。

 意見がどうしても割れる案件についてはそれも検証の対象とすべく、異なるまま世界に反映される。

 またメロウはこうも宣言していた。

 彼等を育んだ元の世界の多種多様な情報については《筺》として用意する。

 《筺》に鍵は掛けないので誰がどのような形で情報を取り出しても構わない。

 ただし、《筺》から情報がすべて取り出されたそのとき検証実験は自動的に終了する。

 賢い者は・・・その場に集められた大半が賢者とされたが、それこそが禁忌でありメロウの罠だと察した。

 つまり、元となった世界の情報集積体である《筺》から情報が全て取り出されるということはメロウ誕生の秘密や、叡智の炎たる核兵器の製造情報も含まれている。

 自分たちが実験セカイ内で営々と紡いだ叡智と歴史の否定にもなり、《筺》の情報がすべて正しいと言い切れる者は一人として居ない。

 核兵器の恐ろしさについてはそれを知らない者たちに後の時代の者たちが教えた。

 発射されたら問答無用に都市を焼き尽くす兵器であり、人どころか星を滅ぼすものともなり得る恐ろしい兵器。

 それを突きつけ合い、互いに撃たないことが冷戦という状態をも作り出すが、持つ者と持たざる者の間に決定的な差を産む。

 会議も終盤になり、メロウはセカイの構造も明かした。

 ナノ・マシンコンピューターによる再現セカイ。

 つまり、すべての物質や物理法則などはナノ・マシンコンピューターが再現したものに過ぎない。

 だが、資源やセカイを構成しているナノ・マシンは技術的な加工により法則性による構造変化させられる。

 つまり原則として水は水で大気は大気だが、物理法則は曲げられ、変えられる。

 因子を持つ者にとってはナノ・マシンの物質情報を自在に変化もさせられる。

 すなわち鉄を再現したナノ・マシンであれば鉄として打ち出して鉄製品として加工可能だが、因子を持つ者についてはその限りではなく、鉄を胴や金にも変えられる。

 メロウは単に因子と言ったがそれは実験セカイ内においては騎士因子と呼ばれた。

 なぜなら数の限られた戦闘種の人類だけが因子を持つ。

 ネームドとネームレス双方に戦闘種の人類は存在する。

 騎士因子とはいうが実態としては魔法使い、錬金術師のような者だ。

 ナノ・マシンの原理概念を理解している者は、だからメロウにはセカイの創造が可能だったのかと認知し、わからない者には実体を持つ幻なのだと説いた。

 そして騎士因子を持つ者が限られている。

 それはすなわち戦士たちが限られた存在であり、当然ながら戦争となった場合、因子を持たない人々は因子を持った彼等に任せることになるということを意味していた。

 あるいは共食いを避ける予防線の一つであり、因子持たない人々にだけ災厄があるという意味でもあろう。

 メロウは全人口に対する1%程度と設定すると予告した。

 100万人の中の1万人が騎士因子保有者。

 逆に考えると100万人に対し、1万人しか戦士階級は存在しない。

 総人口が70億人とすると7000万人。

 そしてきっちりとは言わないまでも二つの異種族に半分ずつの3500万人という意味になるし、因子である以上濃淡はある。

 そして科学的知識を持つ者たちは実際に70億人もの人間はセカイ内には現れないと予見した。

 人口爆発の仕組みについては戦争や飢餓、災厄により人が脅威に立たされた際に、生存本能として数を増やすことによる。

 しかし、逆に平和な状態が続けば人口はさほど増えない。

 そして戦闘人種は平和な世界においては無用の長物であり、危機的事態にこそ数を求められる。

 共食いの機会を減らすメロウの思想とは戦闘人種を限定し、彼等にだけ戦わせて他は生産活動や文明維持活動なりに従事するという意味でもある。

 まして戦闘種同士が戦えば数は減る。

 それに戦いに参加出来るのは現役世代と呼べる10代から50代程になり、人口の年齢別比率を当てはめると更にその数は6割程度となる。

 100万人に対し6000人。

 1000万人に対して6万人。

 そして実際に組成物質を構造変化させられる強力な因子保有者はその更に1割程度。

 つまり魔法使いと呼べる程の存在は人口1000万人に対して多くても600人程度となる。

 それに平和な時代にも暗闘はあり、優秀な戦士ほど狙われて殺される。

 そうなると・・・。

 更に加えてメロウが示したのが龍虫という存在だった。

 この生物は原則としてネームレスたちの思念信号に操られる生体兵器であり、脳はデザインされておらず神経系と骨格が一体化した素体により活動する生物であり、捕食力も低いが昆虫と同様に卵により数が増える。

 と同時に、ネームレス種の糧でもある。

 自然界に他の生物種たちと共存している形を取り、その寿命はなく定期的な脱皮により強力個体化する。

 大きさは30センチメルテから一番大きなものでも全長30メルテとした。

 メロウはメートル法との区別で長さの基本単位をメルテと称するように伝えていた。

 実際にネームド人類たちは文明の発展進歩で知るが、実験セカイとは元々の世界の50万分の1でしかなく地球の直径はたったの25cmの地球儀サイズしかなく太陽も2.7mのハリボテだ。

 つまり太陽の出ている間は太陽光を再現した気温上昇が再現され、陽が沈むと気温は低下するし、緯度経度による季節変化が起きる。

 時間に関してもセカイ内で1時間と認識されているものは2000万分の1でしかなく、3000年の経過が1.3時間だった。

 そうして、メロウが説明役として賢人会議は進んでいった。

 ある東洋人の男が大演説により、この実験の意図と其処に潜む恐ろしい事実。

 そして、賢人とされた自分たちの目が曇っているという厳然たる事実の指摘。

 メロウはほくそ笑んだ。

 やはり、この男を賢人会議に加えていたことは正解だった。

 自分たちが本当は愚者なのだと遠回しに指摘したのだ。

 だからこそ、愚者としての意地を見せてみろというメロウの悪意に対抗する手段の獲得。

 その計画の名を白き救世主誕生計画といった。


 序幕1 連鎖する悲劇


 フェリオ連邦暦 697年


 ファーン・スタームは使徒真戦兵ゼピュロスで遂にその騎士を捕捉した。

 アストリア大公国ホーフェン騎士団臨時騎士団長。

 使徒真戦兵フェルレインに搭乗する黒髪の冥王ヴォイド・ハイランダー。

 この時代はまだ無線機がなかった。

 燃えるような赤毛持つ青年騎士ファーンは搭乗口を開口して大声で怒鳴る。

「黒髪の冥王ヴォイド・ハイランダーっ!貴様との一騎討ちを所望致す。我が名はフェリオ遊撃騎士団騎士長ファーン・スタームなりっ!」

 ファーンの名乗りに対してその男はやはり搭乗口を開口した。

「まだそんな名乗りなのか二代目剣皇ファーンっ!いつになったら自身を英雄アルフレッド・フェリオンの息子と認める。もうとっくにファーバ法皇から剣皇位を与えられているだろう」

 黒髪の冥王と呼ばれるだけあり、黒髪の騎士が鋭い目つきでファーンを睨んでいた。

 ヴォイドから『剣皇ファーン』と呼ばれ、ファーン・スタームは内心ドキっとしていた。

「何故それを貴様が知っているっ!答えろっ、冥王」

 動揺を隠せないファーンの疑問に対する冥王の答えは明白だった。

「此処で貴様とやり合うのはもう3度目だからだよ、二代目剣皇ファーン・フェイルズ・スターム」

 はっきりと冷笑を浮かべる黒髪の冥王ヴォイド・ハイランダーにファーンはなにを言っているのだと驚愕する。

「3度目だと、何を言っている?貴様と顔を合わせるのは」

 ヴォイドは冷笑していた。

「今回は此処が初めてだと言いたいか、辺境王ファーン。いつになったら貴様は過去認知を知覚するのだ?私や《嘆きの聖女》たるエルザ・ファーレンハイトは過去認知を知覚している。まっ、我々と違いお前たちは1周期1回の出現なのだから無理もないか」

 黒髪の冥王は憐れむようにファーンを見る。

(この男、さっきから視線が私を見ていない)

 冥王は声のする方へと視線を向けているものの、目の焦点が合っていない。

「面倒だ。さっさと連発式の《風神衝》。つまりは絶技の《神風》を出して来い。どうせこの時代の私とフェルレインでは四方から迫るその技は“見えない”のだからな。ここでお前に討たれて私の生涯はまた終わるのだ。さっさと私を苦痛から解放してくれ。それと2年後に戦う禁門騎士エルザ・ファーレンハイトにも、冥王がまた戦場で会おうと言っていたと。またどうせすぐに喚ばれるだろうからな」

 ヴォイド・ハイランダーの突き放すような言葉と《嘆きの聖女》に向けたメッセージ。

 ファーンは黒髪の冥王と呼ばれる騎士が歴史上何度も現れていることは知っていた。

 この前は大戦の最中にファルツ双頭獅子騎士団のニコラオス・ペールギュントが黒髪の冥王と呼ばれていた。

 その都度名前が違うし、2年後にゼダ禁門騎士団と戦うことになるというのはファーンは全く認識していなかった。

(《神風》はリュカイン師匠と編みだしたばかりで誰にも見せたことはない筈だが、何故知っている?どういうことなのだ?)

「もたもたするな、ファーンっ!ここで私を止めないと悲願であるフェリオ解放などおぼつかぬのであろう。だったら迷わずやってしまえっ!」

 ファーン・スタームはようやく理解出来た。

 黒髪の冥王ヴォイド・ハイランダーは今この場に“死にに来て”いる。

 来れば敗れる、敗れれば死ぬ。

 具体的にどう死ぬのかも分かっている。

 それでも自身の敗死に意味があると知っている。

「腐って邪なエウロペアネームドの際限の無い無意識の欲望が何度でも私を蘇らせる。冥府に落ち着くことの出来ない私が冥王と呼ばれる皮肉。邪悪のカリスマである黒髪の冥王の伝承を信じる無垢な子供たちが、命の危機に立たされては何度でも助けてと願う。キエーフで、ファルツで、ナカリアで、メルヒンで、アストリアで、ハメルで、そしてゼダで。そうして無闇矢鱈とあちこちで酷使され続け、利用され使い捨てられ、最後は追い詰められて自決する。まだ、この場面はいいのだ、ファーン。尊敬に値する優れた騎士たるお前が私を此処でキッチリと倒してくれる。それこそ希望で誇りだよ。そうして私は自ら命を絶つことなく一時の安息を得られるのだ。フェリオ解放を成したことでフェリオには帰るに帰れなくなり、ゼダに死ぬお前などまだいい。愛する祖国など持てない私からしたら羨ましい限りだよ」

 冥王の言葉は嘆いているように聞こえる。

 吟遊詩人たちの語りの詩に黒髪の冥王の伝承は、何処でも何度でも狂ったように歌い継がれる。

 それが呪いだというのか?

 自分を真っ正面から倒す剣皇ファーンへの敗死が希望で誇りだというのか?

(なにを言ってるんだ冥王。フェリオを解放した俺がフェリオに帰れなくなる?)

 頭の中は混乱していたが、いざ戦闘が始まると油断したらヴォイドにやられるのは自分になる。

 剣皇ファーンは《神風》でヴォイドのフェルレインを倒した。

 倒してからヴォイドに先の事は任せてくれと誓い、その死を看取った。

 その場面に遭遇してからファーンは違和感に気づいた。

(どうして俺は泣いていないんだ?いや、どうして泣くと思った?それもヴォイドからあんな話を聞いたせいなのか?あるいはそうかも知れないと・・・)

 今は涙のひとかけらも出ない。

 それよりもずっと深く、勇敢にというより、その運命を受け入れるように敗死したヴォイド・ハイランダーの事が憐れに思えてならなかった。

 ファーンは酒場の片隅でギターを抱えた吟遊詩人が“アストリアのヴォイド”をファーンが討ち果たす場面を毎夜毎日、何千回何万回と歌うのを想像してみてゾっとなった。

 この戦いが人々の語り草となることはファーン自身にも止められない。

 そうして人々の心に《黒髪の冥王》の伝承が刷り込まれていく。

 いざとなったら彼が助けてくれるとも。

 そしてエウロペアが危機に瀕すると黒髪の冥王はエウロペアの何処かに現れる。

 ファーンはかつて遭遇した場面で「父アルフレッドの遺志を継ぎフェリオを解放せよ」という《紅の剣聖》レイゴールの言葉が、その場面が、何度も何度も繰り返されることを想像し、思わず吐きそうになっていた。

 祖国フェリオを救うのが嫌なのでない。

 それが何度も何度も繰り返されるのが本当に嫌だった。

 たった一度きりの事でさえ、自分には荷が重いと感じていた。

 だが、黒髪の冥王はひょっとすると本当に・・・。

 壊れたフェルレインを確認して、ファーンはヴォイドの言葉の意味を確認した。

 押し包むような《風神衝》のうち、フェルレインの目が確認出来ない死角方向からの攻撃に対応した形跡がない。

 前方向からの攻撃に対してはそれぞれ防御と回避の痕跡がはっきりと見て取れる。

 だのに、背後からの攻撃にはその痕跡がまったくない。

 “今の時代のフェルレインと私には・・・”。

(まさかヴォイドは、いや黒髪の冥王には・・・)

 その先の言葉を敢えて脳裏に消し去り、もう一つの言葉の意味を問うべきだろうとファーンは判断した。

 ホーフェン騎士団の騎士たちにヴォイドの遺体を引き渡したファーンは一つだけ告げた。

「フェルレインだけは我々で回収させて貰う。どの道、貴方方では修理して使う事も出来ないだろう?それではフェルレインが余りにも気の毒だ」

 黙って頷くホーフェン騎士たちにファーンはほっとしていた。

 フェリオ解放のためにフェリオ南部の盾である彼等と戦うのは気が進まなかったし、かわりにヴォイドがすべて引き受けてくれた。

 2ヶ月後、リュカインやレイゴールたちの別働隊がアストリア南部から龍虫を追い払ったことでファーンの「アストリア戦役」は完了し、ファーンたちフェリオ遊撃騎士団はウェルリに帰投した。

 それからしばらくしてアストリア戦役の英雄ファーンには“辺境王”の名が冠せられていた。

 ヴォイドの予言にも似た言葉が相次いで的中したことで、ファーンはどうしてもあのことを“彼”に確認する必要があると確信していた。


「フェリオ解放を果たしたお前さんがフェリオに帰るに帰れなくなる?」

 選王候ライザー・ウェルリフォート侯爵になら、あのときのヴォイドの言葉の意味を正確に理解出来るだろうと判断した。

 叔父サマル・フェリオン王には簡潔に報告だけして玉座から退去した。

 今度もまたフェリオ人同士の内戦であり、同じフェリオ人騎士を殺して戻ったことを“凱旋”なのだと嘯く気にもなれず、ファーンは淡々と事態を処理していた。

「その通りだろうさ。お前さんはサマル王あっての遊撃騎士長ファーン・スタームだ。つまり、現連邦王の王位を不動にした甥っ子。サマル王の後ろ盾をなくせばお前さんの周りはあっという間に敵だらけになる」

 ライザー・ウェルリフォート侯爵の指摘にファーンは戦慄した。

 ただでさえ、特選隊と十字軍の流れ汲むファーンの率いるフェリオ遊撃騎士団の“何処がフェリオ遊撃騎士団なのだ”と指摘する声も在る。

 正に各国からの傭兵部隊のように国際色豊かな騎士団をファーンが“フェリオ”遊撃騎士団だと言い張っているだけと取られかねない。

 それこそ、ファーン自身とライアックとカスパール、ディーターはフェリオンやハメル出身という生粋のフェリオ人だが、師匠のリュカイン、いもうとのソシアはマルゴー騎士だし、レイゴールの祖国ファルツもフェリオ人としてはギリギリの存在だった。

「そうでしたね。俺達を良く思わない人々はいる。それにフェリオ解放が成ったいま、俺達はウェルリに居続けると危ない。用済みとして適当な罪状をでっちあげられて処分されかねません。なにしろ“辺境王”ですよ。叔父の権威をも俺が脅かしているのだと受け取られても仕方ありません」

 ライザーはパイプ煙草を吐き出してワインカップを沈痛に見つめ続けているファーンを見た。

「それでヴォイド・ハイランダーは他にはなんと?」

 ファーンはグビリとワインをあおり、更に沈痛な面持ちを浮かべた。

「2年後にゼダ禁門騎士嘆きの聖女エルザ・ファーレンハイトと戦うことになるだろうと」

「なんじゃと」

 思いがけない言葉に、ライザーはパイプ煙草の煙を変なところに吸い込んでしまいしばらく噎せ返った。

 ウェルリフォート侯爵は一切酒類はやらない。

 酔っていて対処が遅れたりしたら、自身の身が危なくなるからだ。

「これもまたその通りだろうさ。お前がこのエウロペアに新たな戦場を求めるならば何処になる?」

 ファーンは脳裏にある地名を静かに告げた。

「ボルニアです。エドナの救援要請に応える。ライアックやレイゴールたちも。そして法皇猊下も剣皇としてボルニア騎士たちの救援に向かえと」

 ライザーはいっそう視線を鋭くした。

「ヴォイドは実に正確に時勢を読んでいたということだな。フェリオで用済みになったお前がボロニア救援に赴く。ボルニアのこととオラトリエス成立が成れば、大戦、十字軍と続いた一時代は完全に終わる。だが、ボルニアでゼダ禁門騎士団との対決は避けられないぞ。必然的に《嘆きの聖女》がダーイン・アルセイス(正確にはアルシェイウス。異国フェリオでは詳細まで判明していない)で出てくる。ヴォイドは其処まで事態を読んでいたのか?死なせるには実に惜しい男だったな」

 ゼダとフェリオの二大国が旧係争地の諸群を裂いて旧マルゴー王室ルジェンテ一族に安住の地を与える。

 それが、「オラトリエス誕生計画」であり、選王候家たちを主導するライザーの描いた青写真だった。

 ファーンはヴォイドから鹵獲したフェルレインもオラトリエスに引き渡すべきだとも考えていた。

 使徒真戦兵をフェリオ連邦内に置いておくとまた面倒の種になる。

 今はハノバーのリンツ工房に修理を依頼して預けているが、修理が済み次第ルジェンテ王室に献上するのが良いだろう。

「それより気になるのはヴォイドがあたかも自分の死後の歴史にまで精通しているかのようだった事でした。俺を剣皇ファーン・フェイルズ・スタームと呼び、英雄アルフレッド・フェリオンの息子と呼び、まだ自身の運命を受け入れていないのかと迫りました」

 驚くべき話だったがライザー・ウェルリフォートは今度は取り乱すことなく受け止めた。

「まさか・・・。いや、黒髪の冥王ならあるいは。名に呪われた彼になら真理の知覚が起きていても不思議はない」

 ライザー・ウェルリフォートもまた誰にも話したことはないが、名に呪われていると感じていた。

 《砦の男》。

 既にライザーは齡70歳近いがまだ若い頃、ファーンの父アルフレッドに自身の姓を委ねた使徒真戦兵である《フォートレス》を託していた。

 龍虫大戦の裏で蠢いていた者たちにも精通している。

 だから、酒を断っていた。

 彼等の側に《砦の男》への大恩があり、だから手を出さないだけの話だった。

「酷く疲れた様子で、自死するよりお前に討たれて死んだ方が光栄だと言っていました。この場面はまだマシだと。無垢な子供たちの心に植え付けられた本当に困ったら誰の名を呼べばいいか。吟遊詩人たちの語りが彼等の心の奥底に刻みつけている。言われてみたら俺も子供の頃は確かにそうだった。《黒髪の冥王》と《嘆きの聖女》の伝説は伝説伝承のお伽噺として聞くから淡い憧れもあった。ですが、実際に黒髪の冥王ヴォイドを倒したことで、俺の名もまた伝承の一部として後世に受け継がれ、何度となく語られていく。そう考えるとなんだか俺は怖くなりましたよ」

「・・・・・・」

 ライザー・ウェルリフォートは確信していた。

 もうそろそろ、《黒髪の冥王》は名の呪いから解放してやらねばならない。

 あるいは《嘆きの聖女》も。

 聖であれ邪であれ、彼等はエウロペアネームドのカリスマであり、その名を知らない者はいない。

 そして、何処にも逃げ場はない。

 疲れ果てた彼等がネームレスの側に落ちたら・・・それすら許されてなどいない。

 そうなれば単に黒髪の冥王の魂は引き裂かれるだけだ。

 元々が影の存在なのだ。

 影が影を産み無数に増える。

 そして、もともとエウロペア最大の怨霊なのだ。

 だが、真理を悟り解脱することも黒髪の冥王には出来ない。

 それは救い求める誰かの声に耳を塞ぐことになる。

 《砦の男》はまだいい。

 その都度、鮮やかな手段と斬新なアイデアで危機的事態を乗り越えさえすれば良く、むしろ騎士能力などあったら邪魔なだけだ。

 だが、冥王には運命から解脱した《盤外の人》になることが許されない。

 冥王に求められているのは常に騎士能力に裏打ちされた圧倒的な武力なのだ。

 そして《冥王》の本当の意味について。

 それは圧倒的な力を持ち、セカイを救う、セカイの自己犠牲者たれという意味なのだ。

 冥王が冥府に留まることの許されない酷使され続ける憐れな魂だということに、フェリオの英雄騎士ファーン・スタームまで気づき始めていた。

(《嘆きの聖女》にも確かめてみるとするか)

 ライザー・ウェルリフォートにはこの時代におけるフェリオでの役割はオラトリエスを興すことの他になくなっていた。

 寿命も近付いている。

 選王侯爵位を娘婿のハイムザットに譲り、最後の奉公としてゼダに赴き女皇サーシャに説く。

 女皇サーシャも地獄のようだった大戦と十字軍の顛末に想う処が大きく、同じ時代を生きたライザー・ウェルリフォートに対しても想う処は大きかろう。

 そのついでとして《嘆きの聖女》の真意を確かめてみるかと。


 フェリオ連邦暦698年

 ゼダ女皇国皇都ハルファ


 「アストリア戦役」を終えたファーン・スタームは法皇の要請を容れて剣皇となり、自身のフェリオ遊撃騎士団を《剣皇騎士団》と改めてボルニアに去った。

 “自身の”というのはフェリオ遊撃騎士団の全部ではなく、直轄部隊に限定したからだ。

 アルフレッド、ファーン親子の率いたフェリオ遊撃騎士団は名称も存在もそのまま祖国フェリオに連邦王直轄騎士団として残ることになる。

 ウェルリ退去にあたり、使徒真戦兵の《ゼピュロス》は自分の騎士引退後にも祖国に返還し、帰国を望んだ部下たちもフェリオに還すと叔父サマルに約束した。

 その後、この数十年労苦を共にしてきたサマルとファーンは抱き合って今生の別れを惜しんだ。

 もはやファーンにはフェリオ連邦内の何処にも居場所がないことはサマル王とて十分承知していた。

 連邦王国安定のため、サマルの次の連邦王はロマリア候家から選出されると内定もしていた。

 「辺境王」ファーンが居ると意見が割れる。

 フェリオの民衆は武名名高きファーン連邦王を望んでいたが、それこそファーンの方で願い下げだ。

 所詮は騎士に過ぎず、統治能力に自信などない。

 筆頭騎士剣皇とて自分には過ぎた名だ。

 ファーンはハメル家宰ブラマス・スタームの孫に過ぎず、騎士としては現時点で《嘆きの聖女》やエドナ・ラルシュと並ぶに過ぎない。

 そのエドナ・ラルシュをボルニアで後援する。

 サマルの退位で財政的にも破綻寸前のハメル、フェリオンの両侯爵家から肩の荷もおりる。

 荒れ果てたウェルリやハメルの再建という課題もあるのだ。

 そしてファーンは恩師で《風の剣聖》リュカイン・アラバスタにはかねてからの話を持ち込み、ルジェンテ王室に側室として入って欲しいと伝えた。

 まだ30半ばのリュカインになら子も産める。

 マルゴー再興に賭けるリュカインの想いも、剣聖の血筋を求めるルジェンテ王室の望みもそれでかなう。

「もう、私がいなくても大丈夫なのね」とリュカインは言いファーンは小さく頷いた。

 こうして父アルフレッドの愛した女性であり、終生の師ともファーンは別れた。

 ファーンの20代はそうして終わりを迎えようとしていた。

 リヤドの都には小さいながらも王宮が建てられているというし、南回り航路で旧マルゴー船籍の船団も北海側のリヤド、ノルドに拠点を遷していた。

 カスパールに関してはすぐにフェリオに戻る予定はない。

 ライザーが中心となってハノーバー選王侯爵シュマイザー家に働きかけ、ラファール家と並び、エルレイン家を新たに興した。

 ラファールはライアックが継ぎ、新興のエルレイン家を弟のカスパールが継承していく。

 もし、カスパール・エルレインが祖国フェリオの土を再び踏むことになるとしたらフェリオ連邦構成国のファーバ枢機卿としてだった。

 要するにエルレイン家はファーバ法皇の司祭騎士家だとフェリオ選王候家が認めたのだ。

 そうした存在でも置かなければこの先やってられないという結論だ。

 兄のライアックと共に《双剣聖》と呼ばれていたカスパールを《墨染めの剣聖》とライザーが認めた。

 ライアックには剣聖名として《青狼》がある。

 カスパールの《白鹿》と対成す名だ。

 次の戦いを意識した一連の措置はそうして定められ、剣皇ファーンはレイゴールらを率いてボルニアに入った。

 《大戦》を戦ったメイヨール公王ラムザールや、レイス・レオハート・ヴェローム公王も剣皇ファーンのボルニア入りを歓迎してくれていた。

 ボルニアの独立自治権を大国ゼダ女皇国に認めさせる戦いがこれから始まる。

 ファーン・スタームによる「アストリア戦役」の報告から丁度丸1年を経て、ライザー・ウェルリフォート元選王侯爵は女皇国皇都ハルファに入った。

 同地に骨を埋めるつもりでライザーはハルファに小さな終の住処を構え、ゼダとフェリオの外交的安定を最後の仕事にしようとしていた。

 年老いた女皇サーシャ・メイダスとライザーは謁見の間で邂逅した後、別室で話し込んでいた。

 サーシャの真意ははっきりしている。

 オラトリエス勃興は認める。

 はっきり指摘してしまえば、北海沿岸の旧領にまでゼダが割くだけの余力がない。

 それこそ、海洋王国だったマルゴーが南から北に拠点を遷し、オラトリエスとしてゼダと交易再開してくれた方がゼダとしても税収的にありがたい話となる。

 サーシャの宮廷筋でもこれは歓迎していいと判断し、事実上静観している。

 その件はそれで済んだかとライザーは内心ほっとしていた。

 問題はボルニアに関してだ。

 剣聖エリンの《特選隊》で唯一人帰国したレイスのヴェローム公領は位置を変え、公都をベルヌとして再建中だ。

 王都トリスタを都としたボルニア王国と共にヴェローム公都シェスタは壊滅し、其処にエドナ・ラルシュたちが居座っていた。

 更には剣皇ファーンまでボルニア領内に遷ってきた。

 ボルニアのゼダ再編案に関しては容易に譲ることは出来ない。

 パルム平野の喪失といい、ゼダ女皇国とて弱体化している。

 「ハルファの戦い」から15年を経てもゼダ女皇国はパルム講和会議の破綻から立ち直れずにいる。

 肥沃な平野部が荒廃地化し、諸侯たちもかわりに得られるボルニア領で再び栄光を取り戻したいと考えていた。

 なにもせずにボルニアがエドナとファーンに占拠される事態は避けたいと禁門騎士団首脳部もサーシャに上梓していた。

 そうした難局なればこそ、老いたサーシャも子に皇位継承出来なかった。

「つまり、失うなら失うで誰もがはっきり認識する事態を経てとなり、禁門騎士団を剣皇騎士団にぶつけると」

 既にフェリオ連邦ウェルリフォート選王侯爵でなくなったライザーははっきり指摘した。

 祖国フェリオのためでなく、エウロペアの今後としてボルニアの帰趨ははっきりさせないといけない。

 仮にボルニアが得られなくともゼダ連邦女皇国にはメイヨールとヴェロームがある。

 そして、領有権を巡り戦って負けたなら仕方ないと皆が納得する。

 だが、なによりボルニアとハルファは近すぎた。

「まぁ、はっきり申し上げるとボルニア戦役で禁門騎士団が勝とうが、剣皇騎士団が勝とうが構わないのです。要するにどちらに転んでもゼダ女皇国が健全化されればいい」

 ライザーの含みを持った言葉にまだなにか策があると女皇サーシャは視線を鋭くした。

「剣皇騎士団が勝った場合はボルニアやヴェローム旧領を“ミロア法皇国”として独立させる。禁門騎士団が勝った場合はゼダ女皇国領として再建する」

 ミロア法皇国というライザーの秘策にサーシャの目は輝いた。

「つまりは法皇領として独立国化し、ファーンの剣皇騎士団とエドナのボルニア騎士団は常駐戦力としてゼダ南部の守りであり、法皇国は流民たちの受け皿となる?」

 ライザーは黙って頷いた。

「そういう形になれば隣国としてゼダは敵対する必要性もなくなるし、法皇も定住地があれば流浪の憂き目も見なくなる。ファーバ教徒たちも巡礼地として入り、金を落として栄えるでしょう。なにより食糧生産に関しては平野部持つゼダが頼みであり、ミロアは山岳部ならではの鉱物資源と交換にそれを得ることになる」

 サーシャはなるほどと納得した。

 それなら仮に戦いに負けたとしてもゼダは殆ど何も喪わない。

 むしろ、流民達に定住されて治安や生産活動が乱れ続ける方が長期的な国家戦略として厄介だった。

 だが、彼等は法皇が国を得れば勝手に出て行く。

 ハルファにしたところでシェスタの途上に位置し、東国からの巡礼者たちはハルファに立ち寄り金を落とす。

 逆にエドナやファーンらを禁門騎士団が殲滅させられればゼダの汚名は濯がれる。

 龍虫大戦、十字軍において大きく遅れを取り、ラムザールやレイスの活躍に救われてきた大国ゼダの威信も取り戻せる。

「ライザー殿、その晩年を我々ゼダに捧げてくれませぬか?」

 女皇サーシャの思いがけない申し出にライザーの解答はシンプルだった。

「そのつもりで老体に鞭打ち、ハルファに来たのです。高地ならではの澄んだ空気が私の寿命を延ばしたとて、家族たち誰の迷惑にもなりませぬ。終の住処をここと決めて赴いたのは、それで私たちの辛く長かった龍虫戦争にも事態収束の目処が立つ。そうして私たちとて杞憂を晴らして世を去れる」

 サーシャは涙ぐんでいた。

 女皇サーシャはアルフレッドの母であり、ファーンの祖母だ。

 元より自分の即位がないと留学生としてハルファに来ていたベルデュオと恋をし、そうしてアルフレッドを得た。

 しかし、残酷な運命がサーシャから姉たちを奪い、身の丈に合わないゼダ女皇として即位君臨せざるを得なかった。

 我が子アルフレッドが英雄として非業の運命を遂げ、フェリオの連邦王として苦心惨憺したベルデュオは先に逝った。

 アルフレッドの異母弟サマルは更に過酷で、野心ではなく父から受け継いだ愛する祖国再興のために苦心し、ブラマスやファーンを頼ってフェリオ内戦に勝利した。

 このエウロペアをどうにか存続させなければという想い同じくして駆け抜けてきたライザーが、老境のサーシャの知恵袋としてその命果てるまで付き合ってくれるという。

「以後、陛下とお呼びすることをお許しください。既にサマル王にも暇乞いをしてきました。あの方とて連邦王としての引き際を慎重に推し量っておられるのです。最後の杞憂が甥御ファーンの命運だった。その半生を捧げた祖国フェリオで暗殺者の手に掛かるくらいならボルニアの露と消えた方がマシだとファーンも理解しています。そして剣皇として法皇猊下の騎士としてファーンも死ぬ覚悟でおります」

 ライザーはヴォイド・ハイランダーの指摘していたことが正にその通りだと感じ、ヴォイドは自分一人がファーンに敗死することで、「アストリア戦役」を終わらせた。

 剣皇ファーンは正に「辺境王」だ。

 アストリアを解放し、ボルニアに法皇を据え、剣聖たちをボルニアの未来に捧げ、目処を立てた後は自分も表舞台を去るつもりだ。

 自身や妹のソシアも含め、剣聖騎士たちが後世に血を遺してから逝くのだ。

 ファーンの目論見がすべて上手く行く頃にはサーシャもライザーも既にない。

「陛下にお願いがございます。禁門騎士エルザ・ファーレンハイト卿と個人的に話す機会をくださいませんか?」

 ライザーの申し出にサーシャは再び泣き崩れた。

「私たちが《嘆きの聖女》を本当に嘆かせてしまいました。あの娘は私たちによく尽くしてくれました。ですが、一番残酷なことをしてしまったかも知れない。あの娘は完全に壊れる寸前です」

 ライザーは皺深い顔に狼狽を貼り付けてしばらく黙り込んでしまった。

 《黒髪の冥王》ヴォイド・ハイランダーも壊れかけていたのかも知れない。

 誰にも理解されない孤独で過酷な運命の摂理を剣皇ファーンに説いたのは、ファーン・スタームも何一つままならない宿命を生きていたからだったかも知れない。

 だが、もっと残酷なのは《嘆きの聖女》の方だった。

 ゼダに喚ばれ禁門騎士だったエルザ・ファーレンハイトが許されなかったこと。

 それは自身の血を遺すなという残酷な措置だ。

 既に40を過ぎた彼女はまだ乙女だ。

 《嘆きの聖女》は終生処女でなければならない。

 聖女というのはそうした残酷な意味だった。

 つまり、《嘆きの聖女》に連なる子供たちが残るのは不都合だというエウロペアネームドの身勝手だ。

 《黒髪の冥王》とて子孫を残してはならない。

 残したとして密かに始末されるのがオチだ。

 ただし、自身の系譜に連なる騎士家は尊重される。

 つまりヴォイドのハイランダー家はそれを真名とし、ハイラル家として隆盛する。

 ヴォイドの兄弟たちはハイラル家に連なる者たちということで名門騎士家とされることになる。

 それに関してはエルザのファーレンハイト家とて同じだ。

 《黒髪の冥王》も《嘆きの聖女》も突然変異的に何処からか出てくるわけでなく、血統的な下地がある中でその能力と名をもって産まれ、やはりその駆使する技と容姿などから《黒髪の冥王》や《嘆きの聖女》と呼ばれることになる。

 ライザーはエルザ・ファーレンハイトと実際に会ってみて女皇サーシャの言葉の意味を思い知った。

 エルザの心は壊れかけていた。

 歴代の《嘆きの聖女》たちは若くして逝く。

 そもそも危機的事態があるから喚ばれたのであり、危機的事態に対処した後は、《嘆きの聖女》の場合は“魔女”として火計に処される。

 さもなくば戦いに死ぬかのいずれかだ。

 禁門騎士エルザ・ファーレンハイトの場合は、不幸にして龍虫大戦と十字軍の戦いの中でも死ぬ機会が与えられなかった。

 ゼダ皇国本国守護というオーダーにより、彼女はそもそも戦う機会を得られなかった。

 レイゴールやリュカインのように戦う機会があったなら、それこそエリンの特選隊騎士として華々しく活躍して散っていたかも知れない。

 しかし、飼い殺されたエルザは今尚飼い殺されている。

 剣皇ファーンと戦うためにエルザはその精神に変調を来していても、まだオーダーが残っているという意味で放置されていた。

 エルザは汚れきった部屋の中で下着姿のまま酒浸りになっていた。

「あらっ、どなたかしら?」

 エルザの正気を喪ったその目を見てライザーは思わず顔をしかめた。

 まるで座敷牢のような部屋でボトルに直接口をつけて呑んでいる。

「元フェリオ選王侯爵ライザー・ウェルリフォートだ。今は既に家督を譲り、ただのライザーとしてサーシャ陛下の相談役としてお仕えする身だ」

「そうなの、《砦の男》。貴方も私を笑いにきたの?」

 本当に正気を喪っているわけではない。

 自身の運命の滑稽さを嗤っているのだ。

「剣皇ファーンから頼まれて様子を見に来たのだ。ファーンが《黒髪の冥王》ヴォイド・ハイランダーを討ったことは知っているだろう?」

 《黒髪の冥王》と聞いたエルザは哄笑していた。

「あの人は龍虫大戦と十字軍で二回死ねた。ニコラオス・ペールギュントとしてファルツの為に戦い、アストリアのヴォイド・ハイランダーとしてファーンに討たれた。それがどんなに幸せなことか貴方にわかる?」

 ライザーは顔をしかめた。

 二度別の場所に喚ばれ、その役割を果たした後は戦死する。

「幸せである筈などない。単にエルザ。お前の置かれた境遇の方が不幸だというだけだ。ヴォイドはお前にまた戦場で会おうとファーンに言伝てた。そして1年後にはお前もファーンと戦うのだ」

 ライザーの言葉にエルザは瞳を輝かせた。

「そうなの。アタシにもやっと英雄に討たれる機会が訪れるのね。それに冥王の言葉。とてもあの人らしいわ。私たちは戦場でしか会うことが許されない。名乗りをあげて戦う前の一時だけ、私とあの人の間に絆が結ばれるのよ」

 まるで愛しい恋人を語るかのようなエルザ・ファーレンハイトの言い様にライザーは確信した。

 《黒髪の冥王》と《嘆きの聖女》は互いに鏡合わせのようだと気づいていて、互いにかけがえのない相手だと認め合っている。

 続いてエルザの口から出た言葉にライザーは二人に対する仕打ちがどんなに残酷だったかを思い知った。

「もしも許されることならば、アタシは《冥王》の子を産みたい。同い年の女性騎士たちが次々と母親になっていくことに、アタシは身も心もボロボロになった。どうしてアタシだけがと思い続けてきたし、トゥルーパーや龍虫たちの声が聞こえるからアタシは頭のオカしい女だと火あぶりにされてきた。逆に聞きたいわ。何故、あの子たちの嘆きが聞こえないの?共に戦う騎士たちに向けられる愛情と信頼の言葉が聞こえないことの方がアタシにはおかしいとしか思えない。けれど、きっと《冥王》だけはわかってくれるわ」

 ライザーはエルザの孤独がどれだけ彼女を蝕んできたかをそれで思い知った。

 彼女はきっと正しい。

 あるいはファーン・スタームとて愛機ゼピュロスの声を聞き、共に戦い続けてきた。

「ねぇ知ってる?ファーンがこの世で一番誰を愛しているか」

「なんのことだ、エルザ」

「ファーンの想い人はね。ずっと前から《霧の剣聖》なのよ。その皮肉とファーンの苦悩が貴方にわかる?」

 《霧の剣聖》とはソシア・アラバスタ。

 今もファーンの麾下にいるリュカインの子でファーンの異母妹だ。

 同じアルフレッドを父に持つ実の兄妹。

「私とファーンの付き合いは長い。だが、一度も聞いたことは」

 エルザは再び正気を喪った瞳で嗤うように語った。

「あるわけないわよね。真面目で誠実なフェリオ騎士の鑑である辺境王ファーンが妹に懸想するだなんて、絶対に誰にも知られてはいけないことだもの。だけどソシアも狂おしい程に兄のファーンを愛している。絶対的なタブー。アタシ達が仇敵としてお互いを愛しているようにファーンとソシアも。それでもファーンとソシアは別々に子を遺さないといけない。アタシとは真逆ね。とても可哀想な二人。本当に愛している人の子だけは遺せない」

 ライザーはしばらく押し黙っていた。

 自分も相当だが、冥王と聖女の地獄に比べたらまだ可愛いものだった。

「俺がなんとかしよう」

 ライザーの言葉にエルザは耳を疑い確認した。

「俺がなんとかしようって言ったの?アタシが酔っ払って聞き間違えたのでなく?」

 ライザーは生涯過去認知の話や未来周期の話は一切しないつもりだった。

 しかし、嘆きの聖女が壊れてしまわないためにそう語るべきだと考えたのだ。

 きっとというより、半ば確信した。

 エルザ・ファーレンハイトは剣皇ファーンをに先に霧のソシアを狙って追い込む。

 そしてファーンは迷うはずだ。

 自分のものにならない最愛の妹は嘆きの聖女の嘆きに飲まれてしまえばいい。

 そうなれば、ファーンは誰かにソシアを渡さないで済む。

 ただし、ソシアの血統が途切れることは未来の騎士たちが困る事態になる。

 そして、ファーンはエルザを間違いなく討ち取る。

 使徒真戦兵である《雷帝のバアル》で戦いに臨むエルザは其処まで計算尽くで二人の愛を力づくで試す。

 なにが聖女だ。

 とっくに正邪が逆転している。

 《嘆きの聖女》とはもともとそういう意味ではない。

 だのに名の呪いが聖女を嘆きの怪物バンシーに変えてしまった。

「ああそうだ。俺の次なる戦いは荒廃地パルムを巡る戦いになる。どっかの馬鹿野郎がアリアドネをマルガから引き摺り出してオリンピアの罠にかけてしまう。せめてこの命続く間だけでもそれだけは釘を刺しておきたいとわざわざゼダに来たんだ」

 ライザーの未来知覚にエルザは再び正気に戻る。

「その戦いは知ってるわ。多分、最も過酷な戦い。冥王とアタシだけじゃなく、ボナパルトとハンニバルまで喚ばれて覇王エスタークと戦うことになる。オリンピアに狂わされたら私たちだって危ないわ。実際に、アタシはその必要のない場面で《黒髪の冥王》ダミアン・グレイヒルを刺して殺してしまった。オリンピアに秘めた想いを見透かされたアタシの罪。もう一人のファーレンハイトの騎士ミネルバとしてダミアンを刺した感触がファング・ダーインを通じて今でもこの手の中に残っている」

 エルザはそう言って自分の手の平を見つめて静かに涙している。

 ファング・ダーインは200年後のゼダ量産機であり、今はまだ存在すらしない。

(完全に未来を認知していやがる。これで真史知らないことの方が余程の皮肉だ)

 ライザーは決意を秘めた眼差しでエルザを見た。

「正直、迷っていたんだ。だが、決定的にお前たちが俺の背中を押した。俺が迷っていたら、次かその次かでお前達が完全に壊れてしまう」

 ライザー・ウェルリフォートはその時々の役割に殉じようとして、敢えて過去や未来の知覚があってもそれをなるべく意識しないできた。

 だが、《黒髪の冥王》と《嘆きの聖女》は壊れかけている。

 《剣皇》と《紋章騎士》・・・。

 冥王を剣皇に、聖女を紋章騎士に書き換える。

 サーシャの後悔の言葉を聞いたとき、ゼダと嘆きの聖女の縁を感じた。

 紋章騎士とは女皇の全権代理人。

 しかし、次の戦いにゼダ女皇はいなくなる。

 それこそ二代女皇アリアドネだけが女皇として暴走し、覇王エスタークを作り出し、《白痴の悪魔》をマルガに誘導してしまう。

 だったら、話は簡単だ。

 其処に居ない女皇の御心を顕す役を聖女にやらせる。

 もともと聖女とは“オルレアンの乙女”だ。

 《命名権者》たる自分になら二人の宿命を上書き出来る。

 それでも二人とも不幸な因果律からは逃れられず、天寿をまっとう出来ない生き方が続くかも知れない。

 それでも自分たちの気持ちには正直に生きることが出来るのなら、もうそれ以上苦しまずに済む。

 しかし、ライザー・ウェルリフォートには一つだけ分かっていなかったことがあった。

 いずれ、自身が冥王の父親に、聖女が息子の妻・・・可愛い嫁になるという運命だ。

 そんなことが苦笑で済ませられることに過ぎず、自分の妻が誰になってしまうかだ。

 ライザーとエルザの邂逅から一年後の「シェスタの戦い」で禁門騎士エルザ・ファーレンハイトは剣皇ファーン・フェイルズ・スタームに討たれた。

 エルザはやはりソシアを先に追い詰め、苦悩したファーンは苦悩の果てにエルザを《神風》で倒した。

 それがまた別の悲劇に繋がる。

 だが、希望の物語の重要なる伏線となるのだった。


 序幕2 開戦前夜


 女皇暦1186年 3月15日


 オラトリエス王国。

 ゼダの北東に位置し、その国土は十分の一以下。人口は全土で150万人程度の小国である。

 国土の大半が海に面しており、気候も温暖で作物も十分に育つ。

 だが、この国の最大の産業は海洋交易にあった。

 天然の良港から揚がる海産物と山岳部で育てた良質の羊毛を中原各地の港に運んではせっせ売り捌き、新たに仕入れた産物を別の港に運んではまた売る。

 王都リヤド。

 海沿いには巨大な倉庫が建ち並び、ずらりと並んだ桟橋には巨大な船が所狭しと並んでいる。

 文字通りの港湾都市。

 そうして莫大な富を得た豪商たちが海沿いに大きな屋敷を並べる。

 その一段高い位置に、王宮が置かれていた。

 王宮前の目抜き通りは午後ともあって活況を呈している。

 買い物に向かう主婦らがかまびすかしくおしゃべりに花を咲かせ、買い付けを終えた商人が荷運びの人足たちを急かすように歩く。

 学校を終えた子供らが楽しそうに脇道を走り去る。

 その片隅をひどくみすぼらしいなりの小男がとぼとぼと歩いていた。

 特別珍しいものでもないので誰も気にとめることなく見送る。

 時折、擦れ違った者があまりの悪臭に顔をしかめ男を避けていく。

 男は大通りから路地に抜け、そしてまた別の大通りを抜けると一件の店の前に立った。

 パブ ドゥーセット

 看板の文字を確認し、さりげなく周囲を見回す。

 店の入り口付近には強面の男たちがたむろしており、サイコロ博打にうつつを抜かしている。

 それ以外には人影もない。

 市内でもとりわけ治安に問題のある地域で、一般人は容易に近づかない。

 こういった裏町は中原諸国のどこの街にも一つや二つ必ず存在した。

 男は訝しげに睨む男達に軽く会釈をした後、するりと店の中へと入った。

 外の喧噪とはまったく無縁の店内は昼間だというのにすえた煙草と安酒の臭いに満ちている。

 まばらな客がそれぞれのテーブルで、ひどくうつろな目をしながらひそひそと会話を続けていたが、突然入ってきた見慣れぬ小男を警戒して一斉に会話をやめた。

 男は警戒心から静まった他の客を一顧だにせず、まっすぐカウンターへと向かうや、店主らしき恰幅の良い男におずおずと声をかけた。

「水を頂けませんか?」

 その見た目よりもひどく若々しい張りのある声に店主の眉がピクリと反応する。

 店主の名はパエール・フェルメ。

 今年で45になる。

 落ちくぼんだ瞼の奥に鋭い眼光が光る。

 丸太のような太い腕を組んでおり気の弱い者ならばそれだけで尻尾を巻いて逃げ出しそうなほどの威圧感を漂わせている。

「あいにくとウチは客以外にはなにも飲ませんことになっている」

 パエールは何事もなかったかのように顔の半分を覆った髭をなでつけ、値踏みするようにみすぼらしいなりの男を見据えた。

「エラルの山間から流れ出た雪解けの冷えきったおいしい水を一杯頂けませんか?」

(符丁か・・・)

 事前に示されていた通り、一言一句違わぬ合い言葉だった。

 エラル山脈はオラトリエス南西部に走りゼダとの国境を成している。

 雪解けとは両国の緊張緩和を目的とし、冷え切った水は現在の両者の関係を表す。

 その水を一杯欲しがるというのは「要人に会わせろ」という意味だった。

 パエールの眉が再びピクリと動き、顔つきがにわかに緊張する。

(そうか、こいつが例の密使か)

「雪解け水なら大いに結構。すぐに用意してやる」

「かたじけない。“ご注文の品は仕入れてきた”と伝えてください」

 改めてまじまじと男の顔を確認する。

 なりはみすぼらしく装っているが、凛とした声からは少しの緊張も怯えも読み取れない。

 なるほど、度胸は大したものである。

(品は入荷したか、あの御仁の気に召すと良いのだがな)

 パエールは狭いカウンターを抜け出し、勝手口から店の裏手に回ると、そこにたむろしていた男の一人に声をかけた。

 男は黙ってうなづくと往来へと走り去る。

 すぐさま店に引き返すや、パエールはカウンターで表に視線を向けていた男にそっと鍵を差し出した。

「二階の奥の部屋だ」

「すみませんが、湯を使いたいので用意しては頂けませんか」

「分かった。すぐにも二階に運ぶとしよう」

 小男はニコリと笑みを残して一人二階へと上がった。


 部屋に入るやみすぼらしいなりの男はやれやれとため息をついた。

(よりによって、この俺様にこんな連れ込み部屋みたいなところをあてがうなんてな)

 部屋には大きなベッドが一つあるきりだ。

 こんな場所ですることなど男女の営みの他になにがあるというのだろう。

 安酒と腐敗臭を漂わせた古びた外套を脱ぎ捨てると、そのまま男は衣服をすべて脱ぎ捨て下帯一枚になった。

 そして、どうと体を投げ出しベッドに横たわる。

 開け放たれた窓からは潮の香りを漂わせる風がさわやかに吹き込む。

(風の薫りも街の様子も以前とまったく変わらないな。だが、もうじきここは戦場になるのか)

 厳かなノックの音で男は体を起こした。

 なみなみと湯の注がれたタライとタオルを抱えたパエールが窮屈そうに部屋に入ってくる。

「湯をもってきたぞ」

「すまない」

 その小男はさっそくタライの湯にタオルを浸して体を拭いた。

「さすがに鍛えているらしいな」

 男の小さく痩せた体にはみっしりと筋肉がついている。

 体のそこかしこに縫い合わせた古傷が確認できる。

 さながら、鍛え上げられた業物でも見るように店主はふふんと鼻を鳴らした。

「まぁな、これでもいっぱしの人形遣いだからな」

(なるほど、ただの連絡員にしては落ち着き払っているかと思えば)

 「人形遣い」とは騎士の隠語だ。

 トゥルーパーこと基本体高6メルテの巨人兵器「真戦兵」の操縦適正者たちを言う。

 戦場の全権代理人であり、基本的に騎士同士が争わなければ大きな戦争など起きない。

 だからこそ騎士たちは各国においてエリート軍人として大切に扱われ、貴族並の待遇を受ける。

 だが、彼らがただの軍人貴族と異なるのは彼らの働き如何で勝敗が決するいわば決戦兵器の担い手であること、そしてそれだけに戦略戦術機略に通じており、露払い役で雑用係の生きた駒に過ぎない一般の志願兵士たちと異なり、自らの判断で行動することを日常的に求められることに尽きる。

 彼等が戦いの担い手であるから、徴兵などその必要がなく生産労働者たちは生産労働者として建設的な人生を謳歌出来たし、騎士因子を持たないが体格腕力に秀でた者たちを治安組織である警察官として抱えることが出来、社会秩序を安定させていた。

 騎士たちこそ戦争のない世では、抑止力以上の意味を持たない無用の長物に過ぎず、それだけに常日頃から、戦争の発生を止めるために危険を顧みずあらゆる抑止任務に従事する。

 敵情偵察や密使の類はその最たるものだ。

 彼らが安閑としてお飾りでいることは、この比較的平穏な時代であってさえない。

 必要があればあらゆる場所に出入りする。

 高名になれば暗殺者に狙われる危険も多い、暗殺者もまた機略に通じた騎士であることがほとんどだ。

 それゆえ彼らが公然と「騎士のなり」をするのは所属する騎士団の管轄区にいるときだけとされる。

 安酒屋を営む傍らで密かに裏の仕事を請け負うパエールはこれまでも多くの各国騎士たちと接してきた。

 その経験から察するにこの小男はただの騎士でもなさそうだ。

 パエール・フェルメが思い切って尋ねてみる気になったのは、この小男ならば近頃店の常連客たちの間で話題になっている例のウワサについてなにか知っているのではと確信したからだった。

「嫌なウワサを耳にした。国境の向こうじゃ戦支度に忙しいとな」

「ふうん」

 全身の汗と垢を拭いつつ、小男は軽く受け流す。

「なあ、実際のところどうなんだ?あの大国ゼダがこの国に本格的な戦を仕掛けてくるって話は本当なのか?」

「さあね、あんたはどう思ってるんだい?」

 パエールはもじゃ髭を撫で付けて眉根を険しくした。

「正直な話、信じたくはないさ。20年前にあんなことが立て続けに起きる前までは、そりゃあ隣の誼で仲良くやってたんだぜ。それがすっかり変わっちまった。今でもゼダの商人がよそを経由してこの港にも出入りしてるし、ウチの国の連中だって似たようなことをやっている。だが、こうも長く緊張が続くとさすがに表立っての関わり合いを避けるようになっていてな。あの国にも気のいい連中が大勢いたし、この店の常連も随分いたってのにな」

 少し寂しげなパエールの物言いに、小男は視線を鋭くした。

「正直なところ仲良くしたいと思っているのは向こうの連中も一緒だろう。もっとも、一部の輩はどうもそうは思っていないらしいがな」

 本当に不毛な戦争など文明社会に生きる者たちの誰もあって欲しいとは思っていない。

 力だけの野蛮な社会を望むなら、それこそ新大陸や暗黒大陸にでも渡ればいい。

 其処には不文律は存在するが法や秩序などない。

 まさに力だけが正義であり、逆に法と秩序の加護も得られない。

 人類の始祖メロウは自身が神であることも、出自や民族、肌の色で人が差別し合うことをなによりも望まず、知的生命種である同族同士が「共食い」することを徹底的に嫌った。

 現状変更に戦争など必要ではない。

 それでも偶発的な衝突はあり、騎士は其処に否応なしに命掛けで駆り出される。

 真戦兵は個人で所有などそうそう出来るものでなく、維持管理に莫大な費用がかさみ、騎士因子保有者と同じ数だけ存在もしない。

 生体兵器だからだ。

 つまり、真戦兵は生き物であり、経年劣化すれば死ぬ。

「もし戦になったらどうするかな。あの国が本気でこのリヤドを攻めてきたら、実際のところひとたまりもあるめぇ」

 パエール・フェルメの言葉にその小男は悪戯っぽく笑いを浮かべた。

「今のうちにリヤドから逃げておくかい?まっ、その年で忠義面して国に義理立てするような男には見えないが、おいそれと逃げ出す軽薄な輩でもなさそうだ。一つだけ言えるのは、アンタは世間の無責任な噂よりも鍛え上げた自分の勘働きだけを信じた方が良さそうだということかな」

 パエールは僅かに口元を歪めた。

 彼の勘は今回の件は「黒」だと睨んでいた。

 聞く愚を犯してでも見ず知らずの小男に意見を求めたのは自分の勘働きを確かめるためだった。

 いよいよ、事態が動き出す。

 今はその嵐の前の静けさとでも言うべき時期に差し掛かっているのだと。

 腹の内で打つべき手はすべて打っておくことに決めたのは、小男が暗に示した国に義理立てするという言葉だった。

 この小男は自分の正体を見破っている。

 パエール・フェルメはまたそのように確信した。

「分かったご忠告ありがとうよ」

 パエールは踵を返し掛ける。

「で、“奴”はいつ来るって?」

 パエールは一瞬だけ驚愕の表情を浮かべ、努めて平静を装った。

「奴か・・・そうだな、一時ほどこの部屋にいてくれれば向こうから連絡が来るだろうさ」

「分かった、それまで少し休ませて貰おう。船旅で疲れたんでな」

「そうしてくれ」

 再び小男を振り返ることもなく、静かに部屋を後にしたパエールは脇にかいた冷たい汗に一人戦慄していた。

(俺の想像が正しければこの小男の正体は話に聞いている・・・)


 陽が僅かに傾き掛けた頃になって、ドゥーセットのパブは新たな客人を迎え入れた。

 長身を外套ですっかり覆ったその人物は店に入るや、パエールに近づいた。

「いよう、久しいな」

「あんたが来るとは・・・」

 パエールは驚愕のあまり表情を隠すことすら出来なかった。

 手にしていたピッチャーからビールがこぼれだす。

「例の男は二階の奥だな」

「ああ、寝ている筈さ」

「分かったよ。ところでマダム・マーゴットは元気かい?」

「ああ、おかげさまでピンピンしてるよ。もっとも、里に帰したあいつに最後に会ったのは三月前だがな」

 マーゴットはパエールの古女房だ。

 娘の一人がお産の準備に入ったため、郷里に戻っている。

 あと一月もすれば、パエールには初孫ができる。

「悪いことは言わん。さっさと店を畳んでマーゴットと娘さんたちのところに行ってやるんだな。そろそろこのヤクザな商売ともお別れの時期だ。せいぜい、安全なところで余生を楽しんでくれ。俺からのせめてもの餞だ」

「・・・分かったそうさせて貰う」

「今回の件の報酬はこの情報とさせて貰うぞ。店を引き払う前に、有料で適当にあちこちにバラ撒いてくれれば助かるが」

「言われずともそうすることになるな。それが俺の商売だ」

「用が済んだらあの男は一度ここに戻す。その後の事はあいつ自身に聞いてくれ」

「了解した」

 パエールとの会話をさっと切り上げると巨躯長身の男は機敏な身ごなしで二階へと上がった。

 奥の部屋を目指して廊下を進み、ノックもせずにドアを開けた。

「おいおい、無礼だぞ」

「なんだよ、起きていたのか」

 小男はベッドに腰をおろし腕組みして待ちかまえていた。

 既に白い正装に着替えている。

 ゼダ女皇騎士団副司令トリエル・シェンバッハ本人だ。

 純白の隊服姿は先程の汚らしい小男とは同一人物に見えない。

 巨躯長身の男はフードを脱いだ。

「久しぶりだな、トリエル」

「ええ、アウザール王弟殿下団長もお変わりのない様子で」

 王弟殿下と呼ばれたその男こそが、オラトリエスの誇る「ルートブリッツ海上騎士団」を束ねるアウザール・ルジェンテ団長その人だった。

 年の頃は今年33になるトリエルとそう変わらない。

 実際には一つ年下ということになるが、童顔で若々しいトリエルと比べると中年の渋みを感じさせる。

 王族とはいうものの、荒くれ揃いの海の男たちで知られる騎士団の長らしく、くしゃくしゃの髪と同じ赤い髭を蓄えており、猪首のせいもあってひどく無骨に見える。

「皮肉はいいさ、ところで道中気づかれなかったか?」

「多分な。ニネベから船旅でここまで来たが、その間に会ったのは無学で不作法な船員たちだけさ」

「まあ、抜け目のないお前のことだから言葉通りと受け取っておこう」

 アウザールは部屋の隅に投げ出されたひどく臭う布に気づき手に取った。

 汚れの目立つ汚らしいコートにアウザールは思わず顔をしかめた。

「うっ、これはひどいな。腐った生ゴミでもこうは」

「言うなよ。船旅からこっちここまで我慢して着てきたんだ。どこにウチだか何処だかの密偵が潜んでいるか分からんからな」

 ゼダの国家騎士団、フェリオ連邦の各騎士団がオラトリエス各地に放った密偵は膨大な数に上っている。

 無論、諸方で動静に目を光らせているすべての密偵がトリエルのような国家要人の顔を見知っている筈はない。

 仮にいたとしても、国家の中枢に携わる人物本人がこれから戦争になろうとしている国でうろうろしている筈があるまいという常識に囚われて正常な判断は下すことができないだろう。

 だが、何事も用心に越したことはなかった。

「つくづく厄介なんだな、貴殿も」

「これも管理職たる俺の役目だから仕方がない。『白の隠密』に任せる手もあったがアイツに危険な橋を渡らせるのはまださ」

 甥っ子の顔を思い出してトリエルは苦笑しつつ、ずた袋の底に忍ばせていた汚らしい包みを手にした。

「それが?」

「ああ、我が敬愛するアリョーネ陛下からの親書だ」

 包みを解くと中からは真新しい金の装飾に彩られた文箱が転がり出る。

 “入荷した品”とはこのことだった。

「我が君はお待ちのご様子だ。会見の準備は整っている」

「そうか。そうであろうな」

「表通りに馬車を待たせてある。急ぐぞ」

「心得た」

 二人は何事もなかったかのように部屋を出ると廊下脇の裏階段から外に出て、そのまましばらく路地裏を無言で歩いた。

 尾行者がいないのを確認すると、するりと路地を抜けて表通りに出る。

 そして、煉瓦造りの大きな宝石店に横付けされていた二頭立ての馬車に手早く乗り込んだ。

 大通りを直進した馬車はひたひたと進み、巨大な大手門にさしかかる。

 門衛たちは敢えて中を確認するような真似をせず、十字に構えていた槍をどけ馬車が通過するのを見守った。

 彼らにしか気づけない場所にそれと確認できる目印が刻まれていた。

 広く巡らされた城壁は緩やかなカーブを描いており、城壁沿いには下働きや衛兵たちの利用する通用路が続いている。

 馬車はその道を進み、日よけに植えられた針葉樹の植え込みを抜けると長い石段の前でピタリと止まった。

 道中、二人は終始無言のままだった。

 険しい表情を浮かべたまま、レースのひさし越しに外の様子を伺う素振りで思索を続けていた。

 旧交を温め、昔話や世間話に花を咲かせる気には到底なれなかったのだ。

 二人は馬車から降り立つと、そのまま石段を昇って通用門へと進んだ。

 待ちかまえていた守衛がトリエルの体を検査する。

 服の下に凶器の類がないことを確認すると、二人を王宮内へと案内した。

 だが、単にトリエルの場合はその小さな躯こそが鍛え上げた業物たる武器だった。


 窓の外に広く海を臨む王宮の一室。

 その男は豪奢なソファーにゆったりと体を横たえ猫と戯れていた。

 男はまるで邪気のない顔つきで一心不乱に溺愛してやまない白い猫の毛を梳かしている。

 長毛のソファーには猫の抜け毛がびっしりと張り付いている。

 小間使いたちは毎日せっせとこれを掃除するのだったが、その男ときたらまったくお構いなしで、白い毛が羽毛のように舞う様をさも楽しげに見つめていた。

 炊き込めた香の甘い香りが漂う部屋には他に二人の少年が控えているのみだ。

 彼らは表情を変えることなく、さながら置物のようにじっと動かない。

 僅かに額に滲む汗だけが彼らが生きていることを証し立てている。

「おまえは良い子でちゅねー」

 時折似合わない赤ちゃん言葉を交えながら、男は愛猫の柔らかい腹毛を優しく撫でてやる。

 澄み渡る午後の日差しに猫は目を細めつつ気持ち良さそうににゃーんと甘えた声で鳴いた。

 その男、シャルル・ルジェンテ国王こそが海洋国家オラトリエスの主である。

 切れ者の弟と暗愚な兄という構図は彼の即位以来、世間に定着した風評だ。

 無骨で生真面目な弟アウザールがルートブリッツ騎士団の長として辣腕を揮うのに対して、国王であるその兄は周囲の者たちに政を任せきりにして、自らは王宮の奥で女遊びと小動物に戯れて日々を怠惰に過ごしているという噂話は王宮通たちの間でまことしやかに語られていた。

 当然、この情報は敵国ゼダの知るところでもある。

 ゼダの事情通の間で、シャルルの名は「暗愚王」、「愚王」との隠語で語られている。

 軽いノックの音でシャルル国王は我に返ったように鋭く目を上げた。

「陛下、私です」

「うむ」

 シャルル王は部屋の隅で待機していた二人の近習に目配せで命じる。

 近習は恭しく一礼すると扉を開いた。

「陛下、例の男をお連れ致しました」

「そうか」

 シャルルは立ち上がって進み出ると、二人を招じ入れた近習の手に猫を渡した。

 さしずめ先刻のトリエルのように、用の済んだ変装衣装を脱ぎ捨てるがごとく、そこには未練も愛着もなかった。

 若い近習たちは心得たもので、一応、丁寧に受け取った白猫を籐籠に入れるやさっと部屋から連れ出した。

「しばらく人払いを」

「畏まりました、陛下」

 二人の近習を外に下がらせるとシャルルは居住まいを正した。

 そこには先程までとは打ってかわった厳粛な男の姿があった。

 一族特有の猪首の上に整えられた赤毛がうなじの辺りで束ねられ首筋に垂れ下がっている。

 引き締まったアウザールとは違い肥満体だが、ぶくぶくと太ったというよりどっしりと落ち着いているという表現が似合う。

 赤い鼻髭をたくわえた柔和で丸い顔にあって、切れ長の青い瞳が委細なくトリエルを見据えている。

「しばらくぶりにございます、“シャルル陛下”」

「2年ぶりであったかな、シェンバッハ卿」

 トリエル・シェンバッハは職務柄、現在、国を治める中原諸国の王たちとも直接面識があったが、シャルル・ルジェンテほどに聡明で食えない男はまたと知らない。

 シャルルの頭脳は中原の王たちの中でも、自国元首アリョーネと並び最も優秀と言って良い。

 思慮深いし世情にもよく通じている。

 本気で謀をしたならば、世間をあっと言わせるだけの事はしてのけそうであったが、敢えてそれをしない。

 自らはせずにもっぱら謀に対する予防線を張り巡らせている。

 自らの評判を意図的に操ることなど容易く、臣下任せの政にもその実厳しく目を光らせており、これといった失政というものが見あたらない。

 本物の暗君の下で安定した政治など望める筈もない。

 オラトリエスの繁栄は先王アンドラスから後を受けたシャルルの即位後も微動だに翳りを見せたことさえない。

 その意味でも、彼はまごうことなき名君であり、国の実情を比較してみれば、世間では名君と称されるフェリオ連邦王エドラスごときはシャルルの足許にも及ばない。

 だが、本当の意味は違う。

 二人とも正に食わせ物だった。

 シャルルは真実名君であるが故に暗愚を演じてきた。

 それも用意周到に即位以来このかたずっと。

 現在、在位18年であるから赤子がいっぱしの青年に成長するほどの長きに渡り、愚者の仮面を被り続けてきたことになる。

 それでいて、打つべき手はしっかり打ってある。

 自らの后にはフェリオン侯爵家からエドラス王の妹ミュイエを迎えていた。

 彼女はその美貌と頭脳こそ世に知られていたが、耳が不自由であったせいか言葉の方もうまく話せなかった。

 そうした障害がある故になかなか貰い手がつかずに兄王を悩ませていた。

 シャルルはそれに目をつけすかさず妻に迎えられるよう積極的に働きかけた。

 エドラスは見栄えも悪く好色にして暗愚という評判のシャルルに可愛い妹をやることなど考えもしなかった。

 だが、意外や聡明な妹のミュイエの方がシャルルとの結婚を強く望んだ。

 エドラスは承服しかねたが、自国の貴族風情にくれてやるならば、小国とはいえ裕福なオラトリエスに嫁がせる方が愛する妹の将来や抱える障害との共存にとって良いと判断して二人の結婚を許した。

 実はミュイエがシャルルを知ったのは婚儀の話が出るよりずっと以前のことだ。

 ミュイエがまだ愛らしい少女だった折からシャルルは珍しい異国の品々と共に心のこもった便りを送り続けており、求婚当時に至るまで文通は続いていた。

 こう書くと彼女だけが特別のように思えてしまうが、実のところシャルルは筆まめで自分の妻に迎える可能性がある各国の王女に付け届けを欠かさなかった。

 だが、ミュイエ唯一人に絞り込んでからは他の王女たちの所からそうした風評を知られることを恐れ、ごく自然な形で便りの数を減らし、慎重に距離を置いた。

 言葉が不自由であるがゆえに達筆で筆まめなミュイエ王女は各国の王女たちともせわしなく文通している。

 王女はその兄よりも、中原諸国の政情に明るく、要人の評判についてなど詳しい。

 ミュイエはシャルルの心遣いとその裏側に隠された真意について、先刻承知していた。

 シャルルの目的は三つあった。

 一つは来るべき有事に備えてオラトリエスとフェリオ連邦の結びつきを強化することにあった。

 輿入れの際にはほうぼうに金を惜しげもなく使い、選王候家を含むフェリオ連邦有力諸侯の関心を引き付けた。

 特にフェリオン侯爵家筋の人間には身分の上下を問わずに手厚くその関心を引き寄せた。

 彼らが最終決定権を持つエドラス王の身辺をまかなう側近であり、決断を求められた王が意見を求めるのはこうした人々であると判断してのことだ。

 二つ目は、エドラス王個人に恩を売ることである。

 難があるとはいえ、大事にしてきた妹の嫁ぎ先ということになれば、エドラスもあだや疎かには出来ない。

 シャルルは図体だけは大きいが財政的には貧しいフェリオでは到底行い得ない大がかりな規模で自らの婚礼を執り行った。

 関係が冷え切ったゼダの要人でさえ招待を断ることが出来ずに心ならずも出席したほどで、中原諸国で婚礼に招かれていない国は皆無であったし、要人を誰一人として寄越さなかった国も皆無だった。

 法皇国ミロアからは神殿騎士団副団長でナカリア枢機卿のミシェル・ファンフリート卿までもが招かれた。

 当時の規模としては最大級といえる。

 その威容はシャルルのみならず、エドラスの声望も大いに高めた。

 シャルルは諸国の宮廷筋から愚かで好色な男とみなされていた。

 だが、一国の国守でしかも大金持ちである。

 その男がたってと望んでフェリオ連邦王の妹を妻にしたというのは、オラトリエスが事実上大国フェリオ、ひいてはエドラス王の威光に追従していると人々の目には映ったのである。

 婚礼の宴席でエドラスがシャルル以上に上機嫌であったことは言うまでもない。

 現にこのときエドラスは側近に思わず「安い買い物をした」と漏らしている。

 心ある人が耳にしたならば思わず眉をひそめかねない不穏当な表現であったが、彼の心中を如実に現している。

 三つ目は、ミュイエ自身の抱えた障害にあった。

 耳と言葉に不自由するミュイエだったが、その分だけ頭脳と他の感覚には優れており、文章の方はシャルルが感心するほど達筆であった。

 また、表裏ある複雑な役割を演ずるシャルルの意図を正確に理解する聡明さを備えており、またどこかで余計なことを口走る心配もなかった。

 盛大な婚儀を経て后となったミュイエは男の子を二人生んだ。

 幸いにしてどちらも健常であった。

 15歳になる上の子リシャールは法皇国ミロアに留学させている。

 既に立太子を終えており、後継指名を受けている。

 8歳になる下の子サキエルは両親の手元で暮らしているが、ゆくゆくはアウザールの手で騎士団を引き継ぐよう養育されることになっている。

 シャルルには他に子はない。

 他の女に生ませた子などいないという意味だ。

 彼が好色というのも自ら生み出した悪評の一つに過ぎない。

 実のところシャルルは宮廷に侍らせた多くの美姫たちに一切手をつけていない。

 大国から迎えた妻の手前を憚ってのことではなく、相続を巡る骨肉の争いを懸念してのことだった。

 特に国内の有力諸侯が送り込んだ女性達は表向き大歓迎したが、実際には警戒して容易に側に近づけていない。

 事実上、「飼い殺し」にすることでシャルルの企図しない余計な婚姻交流を避ける狙いがあった。

 彼女たちは時期をみて婚期を迎えた臣下の子息や他国の有力者に下げ渡される。

 オラトリエス王の寵姫を妻に迎えたとあれば家格は上がるし、王家への忠誠心や結びつきも強まる。

 迎える側と異なり送り込んだ側としては大いに不満ではあったが、なにぶんにも国王の特別な寵愛を受けられないのであれば、宮廷に置いておいても日々の支度に出費が嵩むばかりだ。

 王命には逆らえないが、結果的には胸をなで下ろすことになる。

 これがシャルルの掲げる婚姻戦略だった。

 三つの目的が指し示す事実はたった一つ。

 シャルルが有事に備えてオラトリエスを一つにまとめ上げ、いざとなれば救援を頼める隣国の支援を確実なものとし、かつその王が心変わりせぬよう様々な形で楔を打ったのである。

 先の表現を借りればシャルルは王女一人を妻にすることで、大国フェリオ連邦一つを丸ごと買い上げたのである。

 それこそ多少の出費を惜しむいわれはなかった。

 シャルル退位後はミュイエの生んだ子である二人の王子リシャールかサキエルのいずれかが即位する。

 ともなれば、エドラスにとって甥子がオラトリエスの新たな統治者となる。

 これはフェリオの国家戦略において大いに歓迎すべきことで、うまくすればオラトリエスを間接的に支配操縦することも出来る。

 もっとも、実際には軍事を掌握する王弟アウザールがしっかりと目を光らせているので、容易にそのような事態にはならない。

 この場合、エドラス王の脳裏で、オラトリエスという珠を掌中にしているというイメージこそがなにより肝心だった。

 自分のものだと思っているものが他者に奪われようとしたとき、人は抗議のために立ち上がる。

 シャルルはその心理に賭けたのだ。

 今、こうしたシャルルの布石が実を結ぼうとしている。

 無論それは最悪の形ではあったが・・・。


「まあ、座るがいい。話は長くなりそうだ」

「それでは失礼させて頂きます」

 アウザールは二人のやり取りを横目に部屋の片隅に置かれたティーポットから紅茶を注いだ。

 既に湯は冷めてぬるくなっていたが一向に構わない。

 どうせ、深刻な密談に乾ききった唇と喉を湿らせるためのものだ。

 彼もその兄も富裕な王家の人間とは思えぬほどの実用主義者で無頓着である。

 三人分の紅茶を用意するとアウザールは自分もソファーに腰を落ち着けた。

「まずは親書を」

 トリエル・シェンバッハは例の文箱を恭しく差し出した。

「アリョーネ陛下はさぞかし心を痛めておられるのであろうな」

「はい、それはもう。地団駄を踏んで悔しがっておられますよ。『他に方法はなかったのか』とね」

 ニヤっと微笑んだトリエルの皮肉にシャルルは相好を崩して笑った。

「あの方らしいことだな」

 女皇アリョーネの人となりをよく知るシャルルは苦笑しながらトリエルの手から文箱を受け取った。

 ペーパーナイフで自ら蜜蝋を切り、手紙を取り出す。

 4枚の便箋にはみっしりと女皇自身の筆跡で彼女とその配下が入手した詳細な情報が書き込まれていた。

 シャルルは全文をじっくりと確認した後で、弟のアウザールに手渡した。

「随分と手の込んだやり口だな」

「はい、恐ろしく用意周到。そして、綿密に練られた作戦計画です。ただ」とトリエルはニッと人の悪い笑みを浮かべた。「惜しむらくはこれが事前に漏洩したことです。代案もない」

 おそらくはトリエルたち女皇騎士団が持つ諜報の網に引っかかったのであろう。

 手紙に書かれた詳細な作戦計画は前線に赴く将校が受け取った作戦指示書以上の内容を含んでいる。

 作戦計画の概要はこうだった。

 ゼダ国家騎士団の東征部隊は現在、北部の要衝アイラス要塞に集結している。

 うち、真戦兵45機から成る先発隊は既に国境を越えてラダンの森に潜伏している。

 彼らはオラトリエス国境警備隊の目を逆方向となるゼダ国境内のモリア渓谷に引き付けており、こちらには陽動部隊として真戦兵26機が駐屯している。

 「演習」と称する彼らの動静は国境警備隊を通じて逐一アウザールの耳に届いていた。

 また、海路封鎖を目的としたゼダ海軍の艦艇32隻がここ港湾都市リヤドを目指して各方面に進発している。

 その主力は北海への迂回航路をとっているが、作戦発動と共に転進して一斉にリヤド湾内に集結する。

 だが、そのいずれも戦の口火を切るための部隊ではない。

 飛空戦艦8隻から成る国家騎士団虎の子の精鋭部隊による交易都市ブルスへの空からの強襲降下作戦こそが緒戦と想定されており、ブルスの制圧が済み次第、各方面から進発した部隊は王都リヤドへの進軍を開始する。

 その指揮を執るのは東部方面軍のエースたるシモン・ラファール大佐だ。

 「カミソリ」の異名を取るエイブ准将の実子で、ゼダ国家騎士でも屈指の実力者だ。

 王都リヤド制圧までの期間は8日と想定されている。

 計画通りであれば、文字通りの電撃戦となる。

「洋上艦艇32隻、飛空戦艦8隻、真戦兵232機から成る制圧部隊か。これだけで我が全軍の倍に達する」

「国内に駐屯させた後詰めの部隊を合わせればその総数はほぼ貴国の全戦力の4倍に達するでしょう。圧倒的な物量と戦力でこの国を一気に制圧する・・・というのが国家騎士団参謀部・・・というより、カロリファル公爵の懐刀で最側近たるリチャード・アイゼン中尉の出した結論です。犠牲を最小限に留めるためには大軍で電撃的に制圧する方がいい」

 真戦兵の組織戦闘では分の悪い方がさっさと退く。

 でないと数に押される。

「しかし、よくもまあこれだけ歴然とした差がありながら今日まで無事にきたものだ」

 シャルルは皮肉も籠めつつ、呆れたように笑った。

「我らの外交努力の賜などとうそぶく気にさえなりませんな」とアウザールも苦笑いしつつ頭を掻く。

 大国と小国。

 国力と戦力の差は歴然としている。

 どう足掻いてみたところで勝ち目は薄い。

 問題は「いかにして勝つか」でなく、「いかにして負けないか」にあった。

「私はそれもすべてシャルル陛下と我が君アリョーネのご慧眼があってのことと思っております」

 ゼダとオラトリエス。

 それまで友好関係にあった両国の緊張状態が一気に高まった「クロウデール醜聞事件」と「アラウネ事件」が勃発して、はや20年を経た。

 それぞれ事件後に即位したシャルル国王とアリョーネ女皇は表面的には国交を緊張させながら、影では巧みに世論を牽制しつつ、深刻な武力衝突を避ける努力を続けてきた。

 それでも何度か小競り合いは起きている。

 その典型が《アイラスの悲劇》だ。

 シャルルは在位中5度にわたってお忍びで女皇家の離宮マルガの客人となっていた。

 無論、ゼダの元老院やオラトリエスの後ろ盾となっているフェリオン侯爵家の耳に入ればただ事では済まない。

 少なくともオラトリエス王家とゼダ女皇家の間に遺恨も敵意もないことを証明するための恒例行事で、アリョーネの手足となって働くトリエルや、シャルルが心より信頼する弟アウザールの尽力があってのことだ。

 信用できる部下を厳選し、水も漏らさぬ箝口令を敷いた上で二人は会見を重ね、確かな信頼関係を構築してきた。

 すべてはこの日の為にである。

「我々の取るべき道筋はとうに立っている。我らはアリョーネ陛下を心から信用して一人でも多くの国民の生命と財産とを守る。戦場から逃がしてしまうことそれに尽きる」

「はい、しかし情勢は実に難しい」

「そうだな、トリエル。こうなってはもはや猶予はならぬ。母と妻、そして我が子をサマリア法皇にお預けする手筈は整っている。あとは国土奪還の好機までいかにして我らが主力部隊を温存し、来るべきその日に備えるかにあるが・・・」

 トリエルは恭しく頭を下げた。

「ご心中お察し致します。陛下」

「私はここに残り、全軍の指揮を執る」

「えっ?」

「兄上、それは」

 シャルルは並々ならぬ決意を秘めた眼差しを二人に向けた。

「もとより腹はくくっていたのだよ。私の在位中に事が起これば私はいかなる場合もこの王都リヤドを捨てぬとな。それが我が国民たちへのせめてもの義務。当然のことではあるがな」

「しかしそれでは・・・」

「いや、私はこれを機会にこのオラトリエスに溜まった膿を出し切りたいのだ。大戦を引き起こした剣聖マガールの招聘事件以来、我が国は金満国家として中原諸国から疎まれ続けてきた。もとより、我が国は海上交易で財を成し、小国とはいえ莫大な富を独占してきた。それが中原に住まう数多くの貧しい避難民の末裔たちの反感と憎悪を一身に受けることを承知でな。『アラウネ事件』はそうした背景の下に起きた。貴官らの先達たちによる綿密な調査で我が国の事件への関与は完全に否定された。にもかかわらず遺恨は根強い。それも小国の身の丈に合わぬ栄華が招いた悲劇に他ならぬ」

 「アラウネ事件」とは現女皇アリョーネの実姉アラウネ・メイデン・ゼダ皇太子皇女の暗殺事件をさす。

 ゼダの首都パルムの迎賓館にて執り行われたシャルルとアウザールの実父で前オラトリエス王アンドラス3世の在位30年を祝う祝賀晩餐会の会場でアラウネは毒を盛られ横死した。

 警備に当たっていた女皇騎士団幹部とルートブリッツ騎士団の派遣将校は事前になにかの陰謀が巡らされているとの情報を得てこれに備えていたが、まだその時点ではアラウネ暗殺が目的だとは判明していなかった。

 晩餐会には国賓として当時はまだ王太子だったシャルルも列席しており、ルートブリッツ騎士団はシャルル王太子の誘拐拉致という偽の情報に踊らされた。

 身の危険を知らされ、周囲を用心深く警戒していたシャルルの眼前でアラウネは顔面を蒼白にして倒れた。

 事件直後、アラウネの飲んだワインを給仕した男と食した料理を調理した料理人たちは逮捕され、厳しく追求されたが彼らが口を割ることはなく、その後獄死した。

 もっとも料理や酒に毒が盛られていたのであれば同じ物を口にしたシャルルが無事に済む筈もなかった。

 毒味役に何事もなかったことも明らかになっている。

 事件を防げなかった当時の両騎士団首脳部は更迭され、真相は闇に葬られた。

 そして、両国の間に拭いがたい遺恨だけが残った。

 事件の黒幕は当時から明白だった。

 しかし、ゼダ国内で再度主流派となった彼らを糾弾する術はなかった。

 アラウネを排除対象としていたのはゼダ元老院だ。

 事件発生に心を病み退位した母メロウィンの後を受けたアリョーネは即位するやいなやシャルルにその心境と謝罪を綴った手紙を書き送った。

 それをシャルルの許に届けたのが奇しくも当時は出戻りで女皇騎士団入りしたトリエルである。

「オラトリエスの膿を出すというのは結構でしょう。それに貴方が残るというのも妙案です。フェリオは喜んで兵を出すことでしょうな。だが、その後続くのはオラトリエスを戦場にした二大国間の激しい戦争です。国土は荒廃し、多くの人命が失われ、この国は二度と元のような栄華を取り戻すことはないでしょう」

 トリエルの冷徹な指摘に兄弟はぐっと唇を噛み締めた。

「そうだ」

「それは重々わかっている」

 トリエル・シェンバッハは鋭い視線を二人に向けた。

「私が推奨する作戦計画はこうです。陛下、あなたは退却戦を装い、フェリオとの国境に最も近い内陸のファルマス要塞に入る」

「ファルマスだと?確かにあそこは我が国の東部防衛の要で戦力もそれなりに置かれているが、ここリヤドからは遠い。友邦国たるフェリオへの手前もあって守備兵力は最低限に抑えておるし物資の備蓄も少ない。それに、このリヤドから移送したとするならどう見積もっても片道三日を要する」とはアウザール。

「しかも山岳地帯ゆえに精強な我が艦隊をしても兵員や真戦兵の輸送は困難。長引けば連絡も絶たれ、個別に潰されるのがおちと見るが?」

 二人の指摘は当を得ていた。

 それこそ他国人のトリエルなどには及びきらぬほど、彼らは国土を熟知している。

「ええ、ですから、リチャードたち国家騎士団参謀部はそうした可能性が極めて低いと見積もるでしょう。逃げるつもりならば、海上封鎖の間隙をついて洋上から友邦国への亡命は容易。逆に徹底抗戦するつもりであれば、中央に位置し交通網が整備され、防塁固く、各地に散った部隊を集結させられるここリヤドを放棄せずに留まった方が勝算はある。ですが、諸方面との連絡を絶たれ国内にあって僻地で孤立することこそが生き残る最善の道なのです」

「どういうことだ?」

 用兵にはひとかたならぬ自信のあるアウザールがトリエルの矛盾した論理に露骨な難色をみせた。

 だが、その兄、シャルル・ルジェンテはなにかに気づいたかのごとく「ほぅ」と嘆息を漏らした。

 その瞳に生気が漲り始める。

「大兵力を擁する孤軍がフェリオ国境近くに置かれているという“事実”こそが、国家騎士団とフェリオ連邦各騎士団の頭痛の種となるでしょう。なにしろ、ゼダの真意はオラトリエスの国土を足かがりにしてフェリオと直接交戦するというものです。フェリオにしてみたところで、あなた方の完全な敗北を待ってから援軍を差し向ける腹づもりでしょう。ところが、貴方はオラトリエス国内で健在。かつ中央からは完全に孤立している。しかも、地理的にはフェリオに最も近い。オラトリエス国民の大多数よりも、むしろエドラス王の方があなたの動静に詳しいという情勢になる。国境付近で戦闘が始まればフェリオにも少なからず犠牲は出るでしょうから、援軍派遣の名目は立てやすい。しかも貴方は堅牢な要塞に拠って徹底抗戦を続けている。そうした状況になれば、側面支援という形で友軍フェリオは戦いやすくなります。我が国家騎士団とすれば時間と準備に加えて犠牲の多い要塞攻略戦よりも、野戦による友軍部隊の駆逐を優先させることになる。そして両国の戦力を考えあわせればそれほど早期に決着はつかない」

 トリエルの指摘にアウザールは迷ったがシャルルは目を輝かせた。

「なるほど、確かにそれは妙案だ。そうなればゼダの国軍も国家騎士団も我が国の全土掌握に戦力を割くことが出来ない。最低限の兵力で要所を押さえるだけに留まらざるを得まい」

「ええ、軍事と物流上重要拠点となるリヤド、ブルス、ルクセンといった都市に駐留部隊を配して制圧下に置く。オラトリエスの東西を大きく跨ぐことになるため補給線も伸びきることになるでしょう。そうなれば、少数部隊によるゲリラ戦術と虎の子の機動艦隊が大いに生きる」

「ふむ、輸送を妨害して、補給線を遮断しつつ反攻の時期を待つということか」

 やっと理解したアウザールの言葉にトリエルが大きくうなづく。

「ファルマスに籠もるもう一つの利点はルートブリッツの一大拠点であるノルドの港を予測制圧地帯から切り離すことが出来るという点です。アラル山脈に阻まれ互いの行き来は極めて難しいですが、陸路を遮る形で要塞がおかれている。飛空艦隊をもってしても大きく気流が乱れ、危険が伴う渓谷や山脈越えは避けたいところです。海軍による都市制圧はそちらの艦隊に気づかれずに上陸作戦を行うことが前提。もっとも懸念すべき事態はルートブリッツ海上騎士団が国内の拠点をすべて失うことです」

「確かにな。船の整備や修理・補給はノルドのような大きな港でなければできん。だが、逆に一つでも港が残ってさえいればいつでも撃って出られるというわけか」

「ゼダ海軍はリヤド制圧後はオラトリエス船舶の臨検のため、各地に分散せざるを得ません。逆にアウザール殿下は機をみていつでも艦隊決戦を仕掛けられる。洋上艦隊戦における勝利の秘訣は集中運用。正に賭けですが、賭けてみるだけの価値はあろうかと思われます」

 トリエルの言葉にシャルルは大きく頷いた。

「貴公の作戦案を採用する。アウザール、それで良いな?」

「兄上がそう申されるのに私めには異存などありません」

 アウザールは今こそ「試されている」のだと感じた。

 この聡明で用心深い兄が今の今まで国内最大の政敵である自分を殺すことなく、生かしておいたのはこのときのためだったのだ。

 兄弟の決意を確認したトリエルはふぅと大きな嘆息をついた。

 賽は投げられた。

 後はどこまで状況を有利に運ばせるかだ。

 アウザールがむっつりと黙り込んで思案に耽るのを横目にシャルルは立ち上がり、執務室の文机からなにかを取り出した。

「これを使う事態だけは避けたかった。だが、致し方あるまいよ」

「それは?」

 物思いで気づくのに遅れたアウザールにかわり、トリエルが驚嘆する。

 シャルルの手の中にあるのはオラトリエス王家の王笏だった。

「兄上、それは・・・」

 言いさしたアウザールの眼前でそれは二つに割れた。

 いや、正確には二つに分離した。

 あらかじめそうした細工が施されていたのだった。

「職人に命じてこういう仕掛けをしておいた。この国を受け継いだ日からだ」

 シャルルは感慨というより沈痛な面持ちで二つに分けた王笏の片方を力強くアウザールに差し出した。

「今、このときよりお前はこの国のもう一人の主。事が公に出来ぬので戴冠式も行ってやれぬ。だが、私に万一のことがあればお前はこの国の唯一人の王となる」

「なっ!?」

 アウザールは絶句した。

「王弟、海上騎士団長の肩書きだけで済まぬ事態にはこれを用いよ。殊に女皇家やフェリオとの外交では必ず必要になる。これをもって名実ともにオラトリアス王であることを示せ。拒否は許さぬっ!」

「・・・・・・」

 アウザールとトリエルはシャルルのふくよかな手に握られた王笏の片割れをじっと凝視した。

「また、私的の場にて『兄上』と呼ぶことは引き続きよしとしよう。だが、私を公の場で『陛下』と呼ぶことは罷りならん。これを受け取ればお前もまた国王。その決意と覚悟をもって今日より私にも接するのだ。無論、お前の民にもだ」

「わっ、わかりました兄上。謹んで頂戴致します」

 アウザールは恭しく王笏の片割れを受け取った。

「よいな、トリエル卿。貴公は見届け人。なればこそ、そちはアウザールの後見役。他国の者なればこそ、忠義を示せとは言わぬ。かわりに誠実を貫け。たとえ女皇から討ち取れという命が下り、我ら兄弟がそなたの手にかかることがあっても恨まぬ。が、背信は許さぬ。違えれば地の果てまで追い詰めるぞ」

「畏まりました。シャルル陛下」

「小国の意地、そして我らが兄弟の絆。この中原に知らしめてくれるぞっ」


「また、あの言葉を聞くことになろうとはな・・・」

 トリエルはそう一人ごちて小さく苦笑した。

「なんの話だ?」

 アウザールは心持ち紅潮した顔で横に座るトリエルを見据えた。

 約束通りにパエールの営む居酒屋までトリエルを送ったものの、「平民」として過ごす最後の夜だと心に決めたアウザールはトリエルにパエールの店を借り切って飲み明かそうと誘った。

 国王ともなればお忍びで飲み歩くことも簡単には出来なくなる。

 今更ながらにアウザールはこれまでの自分が気安い立場でいられたのだと痛感していた。

 ルートブリッツ騎士団長ならリヤド市街を好きに歩き回れた。

 軍務や訓練を口実に「海の男」でも居続けられた。

 夜の帳がおりても居酒屋の店内には二人とパエールの他に人は居ない。

 王弟がお忍びで飲みに来ていることを悟られまいとパエールは従業員も帰してしまった。

 店にたむろしていたごろつきどもも退散させてある。

「なぁ、親父さん。アンタ昔は騎士だったんだろ?なんでこんな商売やってる?」

 トリエルの言葉に、まるで通夜のように沈痛な面持ちの二人の客を前に黙々とグラスを磨き続けていたパエールが手を止めた。

「お客人はアラウネ殿下の暗殺事件をご存じですかな?あれの責任を問われて騎士を廃業したんでさぁ」

 すかさずアウザールは頷いた。

「ああ、パエールは腕利きのルートブリッツ幹部で提督の一人だった。だが、あの事件で失脚させられた一人さ。そういう“縁”があって俺から頼み事をすることが多い。信頼の置ける『情報屋』として各地に居る一人。そういうことだ」

「そっ、そうか・・・すまない古傷を触ったようだ・・・」

 トリエルは表情を更に険しくした。

「どうした?お前らしくもない」

 アウザールは豪快に笑み、パエールも昔の話だと取りあわない様子だったがトリエルの表情は明らかに青ざめていた。

「なに、騎士を廃業したお陰で妻と二人この店を切り盛りして娘も嫁に出せた。ささやかながらの幸せってものを手に入れることが出来たんでさぁ、別にお客人が気に病むことでは・・・」

「いいや、気に病むっ!」

 パエールの言葉を遮るようにトリエルは叫んだ。

「俺のせいだ・・・。それも俺のせいだ・・・」

 すっかり青ざめ、目の前のグラスを睨むトリエルにパエールとアウザールは戸惑った。

「なに言ってんだお前、俺もお前も事件の頃は15、16のガキだった頃の話だぞ」

「まさかアンタもあの事件に関わって将来を棒に振ったのかい?」

「いやいや、コイツは女皇騎士団の副司令だ。それこそ出世街道を駆け上ってる真っ最中で・・・」

 アウザールとパエールの言葉を遮るようにトリエルはかぶりを振った。

「違うんだ。俺がこうなのは産まれのせいだ。けれど、これだけは信じてくれ。俺は知らなかったんだ」

 アウザールは常にないトリエルの態度に面食らっていた。

「おいおい、もう酔ったのかよ。だいたいお前が優秀なのは昔から知ってるが、あの事件当時に今と同じ地位に居たところで責任取らされて左遷されるのがオチだぞ。パエールの旦那がそうだったようにな」

 トリエルは突き放すように、それでいて静かにアウザールを睨んだ。

「アウザール、少し黙ってくれ。そして俺の話を聞いて欲しい。あのときシャルル陛下は俺たち兄弟の絆を示すときだと言っていた。アレには俺も含まれていたんだ。そういうことなんだよ。それにお前が肝心な話を聞かされていないのもよくわかった。だから、俺が全部説明する。多分、親父さんもお前も俺を恨むだろうよ。全部台無しにしたのは本当に俺だったんだと、しまいまで話を聞けばわかる筈だ。シャルル陛下は知る限り洗いざらいお前にも話せという意味で俺の前であの言葉を・・・」

 あの言葉というのにも心当たりがない。

 それにどうして其処までトリエルが自分を責めているか全く見当がつかなかった。

「なにを知ってるってんだよ?お前が知ってることなんて」

 今のトリエルならゼダの機密の殆どを把握している。

 だが、事件当時はそうではなかった。

「なぁ、親父さん。アンタが仕えてた先王アンドラスってどんな人だった?」

 トリエルに話を振られてパエールは惚けた。

「なんだい藪から棒に。先代は豪放磊落できっぷが良くて・・・。そうだな殿下は先王によく似ていると思うが」

 パエールの指摘は当を得ていてアウザールも頷いた。

 だが、トリエルは即座に否定した。

「それは見せかけだけの話だ。アンドラス王は謀にかけては中原一という野心家でフェリオとゼダを計りにかけて上手く立ち回る術を心得ていた」

「聞き捨てならないな」とアウザールが睨む。

 トリエルはお構いなしに続けた。

「各地に間者を放って中原の動静を監視していた。金に明かして様々な陰謀にも関わっていた。それこそゼダの中枢はアンドラス王をとことん警戒していた。だから在位30年を祝う気なんてさらさらなかった。あの席で、アラウネ殿下は当時は王太子だったシャルル陛下に父王の退位を迫るつもりだったんだ」

 アウザールは父を愛していた。

 トリエルの言葉は侮辱ではなく、アンドラスを讃えている。

 だが、まるで敵に対するような言い草だ。

「なんだとっ!?」

 トリエルは俯きながら静かに話し出した。

「そもそもの発端はゼダの前女皇メロウィン陛下が自らの醜聞を隠していたことに他ならない。アラウネ殿下は母親の乱行に釘を刺すため自ら政界に進出した」

「えっ・・・、だがなぜそのことをお前が?」

 アウザールが一瞬息を呑んだほど、トリエルの目は鋭かった。

「俺自身が《クロウデール醜聞事件》の当事者だからだ。そして、俺の母親はメロウィン先皇陛下その人だ。アラウネ姉さんは一番上の俺の姉上だよ」

 アウザールとパエールは絶句した。

「おっ、お前も皇子だって、いや冗談がキツい・・・」

「皇子なんかじゃないし、ゼダの皇子なんて皇位継承権すらない。母親に認知さえされずに産み捨てられたただの私生児だ。宮内勤めだった俺の養父、リンゲル・シェンバッハ男爵卿はメロウィン陛下から嬰児の後始末を頼まれて俺を養子にしていたんだ。俺の出世も才能うんぬんじゃなくて母や姉といった女皇たちの贔屓からなんだ」

「・・・・・・」

「俺は自分の素性も知らずに自分がただの貴族のぼんぼんだと思っていた。10歳の頃には将来近衛隊に入ることが決まっていた。それも父親のコネだと思い込んでいた。近衛の騎士見習いだった当時、俺は世間知らずのガキで、初めて出来た恋人に舞い上がっていた。彼女は留学中のフェリオ王女の学友として皇女殿下たちに会うため宮城に出入りしていた。当時、まだ14だった。だからまさかあんな大事になるなんて夢にも思わなかった」

 《クロウデール醜聞事件》は舞台となっていたのがクロウデール伯爵邸だったことから名付けられた。

 クロウデール伯爵邸とはゼダの国立貴族学校に通う外国人留学生たちの宿舎。

「当時14?お前は妹のジョセフィンの一つ下だったか・・・いや、フェリオの王女の学友って・・・」

 そのフェリオの王女というのがシャルルの妻であるミュイエ・ルジェンテ現皇后だ。

 その学友として同行していたのは誰なのか悟ったアウザールの顔からさーっと血の気が引いていく。

 パエールは目を見開いたまま息を呑んだ。

「誓って言うが、彼女の方から積極的に俺に近付いてきたんだ。自分はフェリオのさる貴族の娘で王女と年頃が近いから父親に命じられて王女とともに留学してきたんだと。けれど、その言葉は全部嘘だった。彼女は歴としたオラトリエスの第一王女で・・・」

 アウザールは激昂して席を立った。

「やめろっ、トリエル!俺を本気で怒らせたいのかっ!」

「客人、それ以上の狼藉はこの俺といえども・・・」

 激昂する二人にトリエルは半泣きの表情を向けた。

「どうせ、許せっこないさ。だからこの際、全部言わせろっ!俺は誘われるまま彼女と寝た。何度もベットを共にした。そのうち妊娠を告げられたんだ」

「ばっ、馬鹿野郎。嘘にしたってそいつは・・・」

 トリエルは自嘲気味の表情を浮かべ、先を続けた。

「アウザールが知る筈なんてあるわけがない。その頃お前はミロアに留学中だったんだ。その意味はお前に知らないとは言わせない。なぜ、シャルル陛下は王太子のリシャール殿下をミロアに留学させている?それは法皇の覚えを目出度くして即位に向けた準備をさせるためだ。国内向けには次期国王だという宣言。つまりオラトリエスの次期国王子はシャルル陛下ではなくお前に決まっていた」

「トリエルっ、お前は死んだ妹だけじゃなく兄まで侮辱する気かっ!」

 うなじまで真っ赤にして激昂したアウザールに襟首を摑まれても、トリエルは冷ややかな笑みを浮かべる。

「死んだ?お前は本当になにも聞かされてないんだな。お前の妹も“姪っ子たち”も元気にしているよ。ただ公には死んだことにされている。今ではあらためて素性を問う者もいない。アリョーネ陛下の最側近で女官頭マリアン・ラムジーとして宮城勤めだ。俺と彼女の間に産まれた子たちも素性を隠されてパルムで暮らしている。それが事実なんだ」

「なんだ・・・と!?」

 アウザール・ルジェンテは急に拍子抜けしてしまった。

 言われてみるとトリエルの方から自分に積極的に近付いてきたことや、主導権はすべて自分に渡してきたことなど、義兄の赦しを請うてきたともとれる殊勝な態度は見られた。

「シャルル陛下は“すべて”ご存じだ。父アンドラスが妹のジョセフィンを謀の道具に利用したことも。狙いが両国の関係を秘密裏かつ強固に結びつかせるためだったことも。アンドラス王にことまでな」

「ばっ、馬鹿なっ!?それじゃ俺はそんな謀があるとも知らずに・・・」

 確かに謀略の話は武官たる自分向きの話ではない。

 アウザールの中で急に父と兄の背中が遠のいた気がした。

「パエールの親父さんがなにをどう聞かされ、なぜクビになったかもそれで察しがつく。留学中のジョセフィン王女殿下がどこの馬の骨とも知らない男に孕ませられて、それを苦に自殺した。表向きは流行病による病死。その責めは警護役だったルートブリッツの団員たちが負わされ、派遣武官のパエールのおっさんが一番責めを負った。けれど、実際は謀略に気づいたアラウネ姉さんが事態を穏便に処理するため関係者に箝口令を敷いたんだ。そして、ジョセフィンの死を偽り、予備として幾つか用意していた戸籍にジョセフィンをぶっこんだ挙げ句に俺を皇籍に戻した。皮肉な話さ。その数年後に姉さん自身も同じ道を辿るのだから」

 アウザールとパエールは思わず顔を見合わせた。

 ジョセフィンは死んでおらず、アリョーネ女皇の女官頭たるマリアン・ラムジーとして健在。

 そしてアラウネ・メイデン・ゼダ皇女も人知れず生きている。

 不可解な情報統制と事態の推移。

 それでいて想定外の大きな混乱もない。

 トリエルは自嘲に口許を歪ませ、更に話を掘り下げた。

「俺自身はその身も立たないうちに恋人を妊娠させたところで、親父に頭をさげさえすれば事が済むと思っていた。将来を約束して身を固め、少し早いが親父に初孫を抱かせる。別におかしくもない話だし、それほど身分に差があるとも思っていなかった。けれど、相手が隣国の王女ともなると話は全く違う。当然のように外交問題に発展する。そもそも俺に近付くよう仕向けられたのは彼女の方だった。メロウィン女皇に私生児が居てが近衛騎士に取り立てられる段取りになっている。だから、そのに接近しろと父親から言い含められてきたんだ。さもなければ政略結婚でどこかの王族の後添えにされると脅されていた。どうせままならぬなら自分から近付いて既成事実を作ってしまった方がいい。王族なんかに産まれたばかりに恋も出来ないのなら、なるべく年が近くて相手が逆らえない方がいいと・・・それをジョセフィンの口から聞いたときは信じられなかった。それにショックだった・・・」

 涙目になっているトリエルにアウザールは憐憫の眼差しを向けた。

 自分がミロアでミシェル・ファンフリートに師事し、安穏な留学生活を送っていた同じ時期に年の近いトリエルは追い込まれて孤独に煩悶していたのだ。

「追い打ちをかけたのはアラウネ姉さんだ。殿下は自分をだと言い切って俺を平手打ちにした。そして、俺の知らない事情を並べあげて、どう責任を取るつもりだと迫った。思春期のガキにどんな責めが負える?けれど姉さんは容赦なかった。オラトリエスとの外交関係維持は彼女の父で、あるいは俺の父でもあるロレイン侯が最も腐心していた事案だった。なにしろ相手たるアンドラス王は手練手管に長けた謀の達人だ。それに、ゼダ国内にも大物に内通者がいたんだよ。ライゼル・ヴァンフォート伯爵ってな」

 現在、ゼダの皇室政治顧問たるライゼル伯の名が出たことでアウザールとパエールは我に返った。

「それは違うだろ。俺は何度もしつこいほど、ライゼル伯爵からルートブリッツ海上騎士団こそはファーバの『預言の日』において要だから、抜からずその日が来るまで練度を高め、接近してくる不審な人間には注意してくれと忠告を受けてきた。国内船籍の確認や臨検も依頼されている。ことに《アイラスの悲劇》の背後関係は散々聞かれた。それほど慎重に警戒しているヴァンフォート伯爵が、結びつきを深めると称して両国を分断する謀に加担する筈があるのか?」とアウザール・ルジェンテは言い。

「違うだろ。ヴェルナール・シェリフィス元老院議長だ」とパエール・フェルメは言った。「アンドラス国王はときどきお忍びで此処に来て飲んでいた。陛下も腕の立つ騎士だったし、俺は陛下の直弟子だったからな。王宮で飲むとシャルル殿下が煩かったらしい。医師に節制するよう言われていたからな。そして、頓死する3日前にも其処のカウンター席に座っていた。ヴェルナール・シェリフィスはその生涯にわたり、対オラトリエス外交においてロレイン侯爵の肝煎りで動いていた。だのに途中から様子がおかしくなった。ヴェルナールとロレイン侯爵が暴漢に襲われた《ナカリア事件》以来、徐々にヴェルナールの要求と指示とがおかしくなった。その外交方針がチグハグそのもの。何故か自前の交易船で独占的に取引をしたがっていた。ひょっとしたらヴェルナールという人物を見誤ったかも知れないと先王陛下はコボしていたよ」

 悄然とうなだれたトリエルの瞳がキラリと光る。

「アタリだよ、パエール・フェルメ。よく時世と人物とを見ているじゃねぇか。ライゼル伯はアラウネ事件の黒幕だと今も目されていたがヤツは真っ白。真っ黒なのは議長の方だ。ライゼル伯の同志だったワグナス・ハイドマンも議長に殺された」

 アウザールは急にしおらしさを見せなくなったトリエルに動揺し、パエールは一言だけ呻いた。

「さては俺たちを試したな?」

 トリエルは不敵に笑いそうと認めた。

「そうさ、なにしろアンタの周辺は真っ黒だものな。だからといってアンタらまで排除したら、それこそ海上騎士団持つオラトリエスは干上がる」

 トリエルが入国以来武器を持っていないことで刺客たちは油断していた。

 ドゥーセットの外では日中にたむろしていたゴロツキたちがそれぞれ武器を構えて乱入の機会を待っていた。

 トリエルは単に武器を持つ必要がなかった。

 無手格闘術を極めたトリエルの真骨頂はその場にあるものだけで叩きのめせるという自信と無茶な修練で体中についた疵だった。

 さっと立ち上がるや、つかつかと出入り口に立ち、早速とばかりに洗礼を見舞う。

 蹴りで吹っ飛ばした店のドア自体が凶器と化し、機会を伺っていた3人ほどが構えた武器もろとも吹き飛ばされる。

「さっ、皇弟トリエル参るぜっ!」

 トリエルは使われなかった凶器の中から一番エグいものを選び取る。

 薪割り用のナタ。

 それを拾うや躊躇なく刺客全員の動きを確認出来る位置にいた男に投げつける。

 刺客たち全員が回転しながら飛んでいくナタの行方に気を取られた。

 つまりはソイツが皇弟襲撃作戦を指揮している。

 ナタは完全に指揮官の頭部に命中する軌跡を辿っていた。

 だが、左に立つ男が手にしていた手斧でナタを弾いた。

 が、男は次の瞬間立ったまま絶命していた。

 ゆっくりと膝から崩れ落ちる。

 瞬間的な踏み込み動作で肉薄したトリエルが、掌底で一番腕の立つ刺客の鳩尾に強烈な一撃を見舞ったからだ。

「天技たる《陽炎》そして《虎砲》。自慢の甥っ子たちから教わった騎士天技だ。その腕に見合う栄誉は与えたぞ、強者っ!」と言うが早いか、腰を抜かして動揺する指揮官の男の背後に回り込み首を横に一回転させた。

「指揮系統はわかってるんでな、指揮官は用済み。吐かせる情報もないから消えて貰う。あばよ、エルミタージュの狗。あの世でルーマー教団のお仲間と仲良くしろよ」

 ランタンを片手におっとり刀で駆けつけたアウザールとパエールの加勢はまったく不要だった。

 パエールは転がる二つの死体を確認し、その一つが元部下の中でも腕の立つマリアスだと確認して呻いた。

 これから国土防衛戦となるのに腕利きが路上で死ぬとは。

 そして、トリエルが殺したもう一人の男を確認して顔をしかめる。

 だとか、とか、だとか、訳知り顔をされてカウンター席でわけのわからない話をされ、敬虔なファーバ信徒を自認するパエールは内心かなり不愉快だった。

 いきなり指揮官とエースを喪失したら数に勝っていても退散するよりない。

 逃げ散っていく刺客たちの背にトリエルは冷笑を向けた。

「まぁ、いずれ狩るさ。恥知らずどもがどんな目に遭い、どんな絶望をつきつけられるかは自分自身で判断するといいさ」

 アウザールはすっかり青ざめていた。

 皇弟トリエルは真戦兵なしで騎士天技を扱う本物の怪物だった。

「見たかアウザール、パエール。これがシャルル陛下・・・いや、フェリオン候家の産んだ三人の怪物の一人たるの言っていたオラトリエスの膿だ。忠義ヅラして寝首かこうって連中がそこいら中にいやがる」

 酩酊した頃合いを見計らい、トリエル、アウザール、パエールを一挙に始末してしまうつもりだったのだ。

 アウザールはトリエルの口から出た耳慣れない名に疑念を抱く。

「ローデリア・フェリオンとは?どういう意味だ?」

 トリエルは不敵に笑んだ。

「昨日までオラトリエスの玉座に座っていたのはシャルル・ルジェンテではない。影武者たるローデリア・フェリオン王。その有能聡明ぶりは知っての通りだ。だが、残念ながら騎士の才はあってもテロの後遺症で、右脚が義足だし、男性器は不能。そして片目も潰れて義眼だ。エドラス・フェリオン王とミュイエ皇后の弟君だから血筋こそ正に確かな人物」

「それでは兄は?」

 アウザールの問いかけにトリエルは微笑した。

「さっきからずっとそっちで見物してたじゃねーか」とトリエルは踵を返す。「ローデリア様がコッソリ隠した5枚目の親書。いえ、ドライデン法皇と姉さんからのの御返答は、義兄上?いえ、《父殺しのカール大帝》」

 暗闇から進み出た燃えるような赤毛に隻眼もつ武人然とした本物のシャルル・ルジェンテの登場にアウザールとパエールは畏怖を覚えた。

 アウザールはすっかり騙されていたのだ。

 ミロア留学でしばらく遭わない間に兄のシャルルは肥満体のだらけた印象の人物に成り果てていたのだと。

 本物のシャルルは敢えてローデリアに自身を演じさせた。

 なぜならアンドラス王の仇討ちという名目でも、自身から王位を掠め取った簒奪者を誅殺する意味でもアウザールに正義はあった。

 アウザールが愚か者でローデリアの演じるシャルルを亡き者にしようと謀ったらすぐにも父アンドラスの後を追わせる覚悟だった。

 だが、アウザールもまた国家の危機の本質を理解していた。

 如何なる風評があろうと、兄と王位を争うより、大国ゼダと渡り合う道を選ぼうとし、パエール・フェルメら幹部の更迭人事で弱体化したルートブリッツ騎士団を献身的に建て直した。

 フェリオン侯家の三兄弟たるエドラス、ミュイエ、ローデリアも騎士として非凡であり、政治的手腕にも長ける。

 だが、旧マルゴー王室の流れ汲むルジェンテ王家の三兄弟とて負けていない。

 長兄シャルル・ルジェンテはそれと識られずにゼダのエルシニエ大学で政治経済学を学び、文句なしに剣皇に推挙されるほどの優れた騎士でもあった。

 次兄アウザール・ルジェンテもミロアで政治を学び、現在は神殿騎士団副団長のミシェル・ファンフリート枢機卿から教えを受けた文武両道の男。

 末娘のジョセフィン・ルジェンテもアリエア教育施設群にてエベロン女学院とシルバニア教導団で修練し、スカートナイツの指揮官にして隠密機動かつ女皇アリョーネの女官頭マリアン・ラムジーだ。

 三人の父アンドラス王とて悪人ではないし、小国の王として侮られぬよう謀をもって献身的に国を守ってきた。

 人物を見る目も確かで、騎士としてシャルルの才が抜群だった故に王太子をそれより劣るアウザールにした。

 シャルルにならその意味も父の真意も理解してルートブリッツ騎士団の束ねとなると判断してのことだ。

 剣皇候補筆頭だとサマリア・エンリケ前法皇も推した。

 シャルルがそれでも敢えて父を誅殺したのは、本人の意図ではないにせよ混乱の元凶だったからだ。

 ヴェルナールと謀ったがために、知らずのうちに国内に膿が溜まってしまった。

 憎しみではなく、妬みや恨みでもなく、ただという一点においてシャルルは真正面から騎士たる父アンドラスを一騎討ちで仕留めた。

 その際に左眼を負傷したが高度なナノ・マシン使いであるにもかかわらず、眼球は治療したが傷跡は残した。

 の戒めをその身に刻むためにだ。

 そして、シャルルは王位に自分ではなく、ミュイエとの婚約のついでに引き受けたエドラス王の実弟たるローデリアを据えた。

 剣皇候補筆頭だと知るシャルルの英断と配慮にエドラス・フェリオン王は絶対的な信頼を寄せた。

 ミュイエは障がい者だが兄たちを嘲笑うほどに騎士の才に長け、自分の身程度いつでも守れる。

 エドラス・フェリオン王が本当に心配していたのはテロで自身の身を守る術さえなくした聡明なローデリアの処遇だった。

 シャルルの影武者である以上、危険はつきまとうがシャルルとミュイエ本人が側についていれば滅多なことにならない。

 そうして皮肉な話、フェリオ王とオラトリエス王たる候家の兄弟こそが正にだった。

 傀儡王のフェリオ連邦国王エドラスに絶対的な忠誠を誓うのはフェリオン侯家直轄の《フェリオ遊撃騎士団》のメンバーたちのみだ。

 騎士団創設者として十字軍と大戦の英雄たる初代剣皇アルフレッド・フェリオンを崇拝し、ナコトの『預言の日』に備え鍛錬するのがベルゲン・ロイド大佐やメディーナ・ハイラル大尉ら

 これから戦場になるオラトリエス、フェリオ連邦のはゼダの国家騎士団でなどない。

 もっと厄介で狡猾なだった。

「トリエルっ、見事な技である。義兄として《剣皇》として誇らしく思うぞっ!」

(そうだ。確かにシャルル兄さんは腹の奥から凜と響く声をしていた)

 アウザールはこちらが本物のシャルル兄さんだと確信した。

「それでは《東の剣皇》として彼の地の戦いについて騎士最高位を請けると理解して宜しいのでしょうな?我らが《西の剣皇》と共に『ナコトの預言』に抗う輩と戦うために」

 トリエルのダメ押しにシャルル・ルジェンテは躊躇わなかった。

「無論だ。そのために父を殺め、可愛い弟まで欺くことになった。王宮の隅で掃除夫として身を隠し、ミュイエと共に密かに技を磨き続けた。《ブリュンヒルデ》はかねてからの手筈通りミロアの守護に、わたしは知謀優れる主参謀ローデリアと共にファルマスに隠されていた剣皇機たる《フェルレイン》で戦うのみ」

 トリエルは恭しく片膝をついて剣皇への敬意を示した。

「それだけ伺えれば私の役目は終わり。《剣皇機関》の一人として私も西で旗を揚げるまでは、つまりはあちらにまではこちらをかき乱してご覧に入れましょう」

 トリエルとシャルルのやり取りにアウザールとパエールは愕然となった。

「ナノ・マシンの鳴動が喧しいな。アレが《ブラムド・リンク》なのだな?それとジョセフィンとは別方向から刺客追跡を補佐しているのが例の“魔女”か?」

 刺客追跡に向かった妹のジョセフィンが一瞬だけカールに目配せしたのには気付いていたし、その娘と称する“魔女”セリーナの影も確認していた。

「はい、我らが傭兵騎士団エルミタージュより《ブラムド・リンク》にございます、カール剣皇陛下。《西の剣皇》の座乗艦となる予定」

 光学迷彩稼働形態の《ブラムド・リンク》を一発で見破るとはやはり、カール・ルジェンテは剣皇だけのことはあるとトリエルは舌を巻く。

 おそらくは白亜の貴婦人の名を冠するヴァルキュリアン級の《ブリュンヒルデ》を知っているからだろう。

 腕は立つがそれだけに過ぎないアウザールとパエールは気づいてすらいない。

「兄妹の絆示すため、このトリエル、愛妻マリアンと共に馳走いたす所存」

「用意周到なことだ、トリエル。国家騎士団の初期作戦目標はブルス。しかし、ルーマーのカルトどもがリヤドで一騒動起こそうとしていた」

「ええ、『海モグラ叩き』です。逃げた連中は元ルートブリッツ。だとしたら、潜伏先に真戦兵はある」

 トリエルは端から海路で帰るつもりはなかった。

 親書の運び人となった自分をルーマー教団が消しに来ると読み、あらかじめ盟友イアン・フューリーに《ブラムド・リンク》での回収を依頼しておいた。

 今回はフィンツ・スターム少佐には「ご遠慮願った」が、かわりとしてビルビット・ミラー少佐とティリンス・オーガスタ少佐を用意した。

 先程逃げ去った暴漢連中にはトリエルが他の誰よりも信頼をよせる愛妻のマリアン・ラムジーと魔女セリーナが貼り付いて追跡している。

 マリアンはデュイエ・ラシールと並ぶ女皇家隠密機動隊の指揮官だ。

 ヘマなどするわけがないし、

 王女ジョセフィンとその娘のご帰還。

 勝手知ったる我が庭だけに抜かりはない。

 さらにトリエルは手ぶらで帰るつもりはない。

 トリエル・メイル・ゼダ皇子に謀のすべてを伝授しながら、戦略戦術は一切教えなかった前任者ベックス・ロモンドのにとっての初陣らしい。

 ベックス・ロモンドがトリエルに教えなかったのはからだ。

 いざ戦となればトリエルは先鋒となり、戦術プランなどはいちいち立ててなどいられない。

 その場のアドリブだけでもどうとでもする術をはなっから持っている。

 そして、こと戦略においてはトリエルの右に出る者は少ない。

 「ファルマス籠城案」を女皇騎士団参謀部に提示したのは他ならぬトリエル・シェンバッハだった。

 数年も前からカールも承知の上のことで、当然ローデリアも知っていた。

 隣大国フェリオ連邦に遠慮して要塞ファルマスを骨抜きにしているというのも全くのデタラメであり、『ナコトの預言の日』が来たなら候都ウェルリフォートと要塞ファルマスが最終防衛ラインとなる。

 物資を運び入れ、人員も武器弾薬も相当数配備している。

 それを指摘して、ベックスの一番弟子たるイアン・フューリーも、老獪さではベックスの昔からの悪友だったパベル・ラザフォードをも黙らせた。

 皇弟、大佐格騎士団副司令にしてアリョーネ女皇の筆頭参謀というのがトリエル皇子の正体だ。

 あるいはベックスが育てている学生だけが、トリエルを超える逸材となるかも知れなかったが、まだひよっこだ。

 ゼダによる東征の出鼻を挫く、「リヤドでの反乱発生」を未然に防ぐ妙案としてトリエルさえ手駒にしたその作戦案を練ったのがだとは誰一人思うまい。

 トリエルはすぐにこの案を採用した。

 溜まりに溜まった膿を出すというオラトリエスに必要な大掛かりな外科手術だ。

 《ブラムド・リンク》が光学迷彩稼働状態で落下させた空のパージを確認するとトリエルはすぐに中へと入り、無線通信装置を操作する。

 暗号無線周波数帯に合わせ、呼び出しの3コールに続けて命令する。

「こちらトリエルだ。初期作戦無事終了。これより引き続き『海モグラ狩り』作戦に移行する。追跡中のマリアン、セリーナからの煙幕信号弾に注意し、取り敢えず俺を引き上げろ。その後は入れ替わりでビリーとティニーを出撃させる」

『了解だ、テリー。パージの引き上げを開始する。どっかにぶつかって怪我すんなよ』

「余計な心配すんな、イアン。弟弟子の渾身の作戦とやらを試す格好の機会だ。お前こそヘマすんなよ」

 およそ作戦会話と思えぬ軽妙なやり取りの後、トリエルはパージルームに入り、眼下に見下ろす形になったカールとアウザール、パエールに視線をやった。

(兄貴たちの手を煩わせるまでもない。真戦兵マリーンの鹵獲とアウザールへの引き渡しが済み次第、一度撤収だ。潜伏予測地点もビンゴだろうさ)

 リヤド周辺の詳細地図を渡しただけで、はルートブリッツ騎士団の主力真戦兵マリーンを隠している場所も相当に絞り込んでいた。

 有力地点はリヤドの近郊で人目に触れない海岸線にある天然の鍾乳洞窟だ。

 真戦兵としては中原世界でも珍しい水陸両用タイプのマリーンを隠すなら、陸と海の両方に打って出られ、両方に逃げられる地点に隠すと読んでいた。

 文字通り炙り出す方法として実際に炙り出す。

 騎士もどきの撤収ルートをマリアンが追跡確認し、セリーナが洞窟に通じているルートを先回りして確認し、煙幕信号弾を敢えて可燃性植物の中に放り込む。

 煙幕信号弾の目的が終わった後は火に油を注いで一方の退路を完全に絶つ。

 人一人通れる狭い出入り口の洞窟基地内に煙が充満する。

 視界が煙に遮られて騎士もどき共が右往左往しているうちに真戦兵の通れる海側の大きな出入口をビリーとティニーの駆るファング・ダーイン改で塞いでしまう。

 そうすることで僅か二機で洞窟内秘密基地を単純制圧出来る。

 マリーンの数などせいぜい総数で10機以下だ。

 ただ、せいぜい10機であれ、海からの奇襲に無防備なリヤドを制圧してルートブリッツ騎士団本隊との合流を阻害し、リヤドを無力化して、防戦に真戦兵を繰り出せない『剣皇カール』を討ち取るには十分だ。

 そこまで正確に読み切った。

(コチラ側でなければ、すぐに排除しなくてはならないほど恐ろしいヤツだ。だが、生憎とコッチ側でプランを出すと決めてくれたんだ。使っていいというなら徹底的に使い倒すさ)

 その後は戦いにすらならなかった。

 ビルビット・ミラー少佐は退避だか先行出撃してきたマリーンを一撃で屠り、それで出入り口に蓋をした。

 マリアンは鍾乳洞窟に通じる狭い出入り口に火の手をあげて中に居た人間全員を燻り殺した。

 あとは数時間後にとなった鍾乳洞窟基地内に残されていたマリーンをアウザールとパエールが無傷で回収した。

 その頃にはビルビット、ティリンス、マリアン、セリーナの4人も《ブラムド・リンク》に撤収し、悠々と飛び去っていた。

 こうして文字通り開戦の狼煙はあがった。

 その狼煙そのものにより「敵」との内通者だった騎士10数名が、最初にトリエルが《虎砲》で殺したマリアスを含め、たった二人の戦死者以外も全員死亡していた。

 戦術戦闘に関しては大陸屈指の実力者トリエル・シェンバッハ大佐はその後もオラトリエスとフェリオ連邦西部戦線において《ブラムド・リンク》と《ロード・ストーン》の二艦と最少人数の部下たちにより、作戦上最大効果を齎すという戦果をあげ続けてオラトリエスを側面支援し続けることになるのだった。

 パエール・フェルメは予定通り店を畳んだ後、愛弟子マリアスの裏切りに責任を感じて、カールに願い出てルートブリッツ騎士団に復帰した。


前章3 女皇騎士団の光と闇の間かも


光の章 ナダル・ラシールの任官・初出仕


 僕の名はナダル・ラシール。

 今年でようやく20歳になります。

 僕は昨年度まで女性ばかりに囲まれて学んでいました。

 なにを?

 女皇家のエリートガード騎士こと、女皇騎士になるための勉強です。

 元老院議会の認証で決まり、軍籍における少佐相当官でもある女皇正騎士たちは「騎士見習い」こと准騎士が女皇騎士団幹部からの推薦を受けて昇格します。

 その女皇正騎士に任官されるためには単に物凄く腕が立つだけじゃダメなんです。

 礼儀作法とか社交術とか、それからダンスとかエキュイムとか・・・そうした伝統と格式にまつわる色々なことが出来ないとやっていけない…そうなのです。

 その学校でなく訓練機関は僕みたいな騎士の卵と一緒に宮廷で働く女性たちが学ぶ場所でもありました。

 かくいう僕は14歳のときから5年間そこにお世話になっていましたが、女の子達はもっとずっと早く、早い者で8歳くらいから勉強を始めていました。

 アエリアというゼダ東部の山奥にある寄宿学校です。

 山間の静かなところにあって男手が少ないので僕たちはただの学生じゃなくて、いざとなったら女の子達を守ってあげなくてはいけない男手だと言われていました。

 冬は雪が多くて頭の高さまで積もってしまうので、僕たちは秋の終わり頃から山に入って薪を切り、冬に備えて食料を倉庫に仕舞い、雪が降ったら施設や宿舎の雪下ろしをすることになっていました。

 場所柄、とても静かでとても穏やかな生活・・・では、残念ながらありませんでした。

 女の子達は賑やかでおしゃべり好きで、男が少ないので・・・おっとこれは黙っておくことにします。

 どういうわけか僕は子供の頃からそこそこ騎士の才能があると言われていました。

 僕自身は実はあんまり好きじゃなかったんだけど、どういうわけかそういう才能があったようです。

 でも、将来騎士になるとかなろうとか考えていませんでした。

 どうして?

 ああ、僕は人と争うのも人を傷つけるのも大嫌いなのです。

 幼年学校にいた頃から、僕はまわりからよく苛められていました。

 大人しくて、何を考えているか分からないと言われてきました。

 臆病でズルいので、余計なことは何一つ言いませんでした。

 そうすることで自分を守ってきたんです。

 僕の家族は3人います。

 両親とお姉ちゃんです。

 祖母たちは他界していますが、ほかに遠方に祖父もいるらしいです。

 僕は両親が大嫌いです。

 ええ、それはもう本当に恨んでさえいます。

 お父さん、ちがう、父は、いやこれも違う・・・あのクソオヤジときたら・・・ハゲでスケベで酒好きで、下世話で乱暴で意地汚い、とにかく最低のヤツです。

 家ではいつも酔っぱらって高価なソファーに寝ころんでケツ掻いてます。

 ウチは結構な金持ちなのにそうは見えないのだとしたら、間違いなくクソオヤジのせいでしょう。

 宮廷勤めをしているのですが見るからに小役人といったカンジで、ウチではエラそうなのに外ではペコペコしている、

 そういう性根のいやらしい人です。

 クズです。

 あぶら虫です。

 きっと職場でも女性たちから嫌われているに違いありません。

 いや、絶対そうです。

 デリカシーないから。

 自制心もないから。

 きっとお仕事のお金とか女の子とかに手をつけちゃったりしてるんでしょう。

 いや絶対そうだって。

 お母さん、ちがう、母は、これも違う・・・あのクソビッチババァときたら・・・。

 噂好きで身勝手で気分屋で、よく大声で笑います・・・ウチはパルム中央区の高級住宅街のど真ん中にあるのに。

 どこへ行ってもあけっぴろげで、やることがとにかく派手で、脳天気なんですが、勘がいいのと鼻がきくので・・・いっ、いやなんにもないですよ、なんかバレたとかそういうのは、あわわわわわわわわわわ

 とにかくとっても恥ずかしい人なんです。

 オマケにどエライ若作りなので自分のことを外ではと呼ばせます。

 一緒に歩いていると色々な意味で恥ずかしいです。

 ええ、気まずいったらありゃしないですよ、実際。

 そういう両親から生まれたとは思えないほど、お姉ちゃんは綺麗で優しくて親切であったかくて、美人で、笑顔がとっても素敵で、良い匂いがして、一緒にいるとふわふわする気持ちにさせてくれます。

 お姉ちゃんは体が弱いので学校にも行けなくて家で寝てばかりでした。

 外にもあまり出ません。

 子供の頃から泣き虫だった僕はいじめられるとよくお姉ちゃんのところに行っていました。

 お姉ちゃんの所で、よく本を読んで貰ったりしました。

 だから・・・ウチのクソオヤジがたまーに早く帰ってくるかと思えば、お姉ちゃんと話をしていたりするのが、とってもとってもとっても不愉快でした。

 あんなヤツ早く死んじゃえばいいのにとか思っていました。

 そう、かなり真剣かつ切実に。

 なんだったらこの手で。

 少しずつ大人になっていった僕はいつからかお姉ちゃんを一人の女性として見ていることに気づいてしまいました。

 僕はお姉ちゃんの事が本当に大好きです。

 たとえシスコンの外道と言われようとも。

 ずっと一緒にいたい。

 誰にも渡したくない・・・特に、ウチのオヤジみたいにスケベでガメつくて、お調子者でちょっと可愛い子を見ると追いかけ回してお尻をさわりたがるああゆうダニみたいなヤツらの手には渡したくありません。

 それならいっそのこと・・・あっいや、これも黙っておきます。

 訓練機関に入ったのは早く家を出て大人になりたかったからです。

 そして、大きくなって自分でお金を稼げるようになってあのクソ両親のところからお姉ちゃんを連れ出して、毎日楽しく幸せに暮らしたかったのです。

 だから一生懸命修行に励んで、騎士になることにしました。

 取り敢えずそれが一番手っ取り早く家を出てエラくなる近道だったからです。

 あっ、ごめんなさい、いえ、才能がない奴らには真似できないだろ、バーカバーカとか思ってませんから、多分。

 そんなわけで、女皇騎士の養成機関シルバニア教導団に入ったわけです。

 教導団卒業後の勤務地はパルム以外になることも多かったですし、別の斡旋で他の道に進む同級生も多かったですから、僕は出来ることなら折角離れた実家のあるパルムに戻りたくはありませんでした。

 なのにどうしてなのだか、僕は明日から女皇騎士の見習いとして出仕することになってしまいました。

 市内に部屋を借りたかったのですが、見習いのうちは給料が安いから部屋など借りられないと事務の人から言われてしまい、ほぼ強制的に実家に戻されてしまいました。

 とほほ・・・

 6年ぶりに帰省した僕を、あのクソ両親たちはニヤニヤしながら出迎えてくれました。

 知ってます、ええ知ってますとも、あの笑顔の正体。

 あれはお気に入りのオモチャが戻ってきたっていう正にアレです。

 やっと、アエリアの女の子達から解放されて・・・おっとっとっ・・・。

 まあ、なんにしてもまたお姉ちゃんの側で暮らせるようになったことだけは嬉しいです。

 あれから6年もたってしまいましたが、お姉ちゃんはあのときよりもずっと綺麗にずっと儚げで、ずっと美人になっていました。

 帰省したその日は写真だけでしたけど。

 ボクの見立てに間違いなかった。

 ああ、なんという幸せなのでしょう。

 でも、そんな幸せな日がこの僅か一晩のことだったのだと知るのは・・・。


 さて、騎士見習い初日はまずは上官や同僚たちへのご挨拶から始まります。

 まずは女皇騎士団司令のハニバル・トラベイヨ中将卿。

 この御方はあの天才騎士フィンツ・スタームを育てた師匠で女皇騎士団でも飛び抜けて強くて落ち着きと良識のある素敵な方だと、ふきこまれて・・・あっいや、噂を耳にしてきましたので、お会いできるのをとても楽しみにしていたのですが・・・えっ、留守?

 視察のため出張中?

 行き先ヴェロームですか?

 あっ、なんだ残念。

 続いて・・・というか、まあ順番的に当然なのですが、女皇騎士団の若き副司令トリエル・シェンバッハ大佐卿。

 若手の出世頭として諸方面で名を馳せる有名人なのですが、彼についてはなんだか爬虫類のように油断のならない人だとふきこまれて・・・おっと、伺ってきたのですが・・・ヘビだ。

 背丈ちっちゃいけど、間違いなくヘビだこの人。

 油断したら丸飲みにされてしまいます。

 なんか誰かに似ていると思ったらよく知っているじゃん。

 ウチの近所にいたガキ大将を唆してボクを標的にイジメていたアイツにそっくりなんだ。

 ということは僕はまたこの人にイジメられるのでしょうか。

 ああ、少なくともイジメだけはなかったアエリアでの日々が懐かしいです。

 まあ、あれも一種のイジメでしたし、十分すぎるほど色々とヒドイ目に・・・おっと。

「おっす、よく来たな

 なんすかこのノリは、仮にも僕はの主席卒業者で稀にみる有望な人材って学院長からも太鼓判を押されてここに来たんですが、いや、下っ端なのは認めますけれどね。

 ただもう少し言い方というかなんというか・・・。

 諸々の反証を胸に秘め、びしっと敬礼した僕をなめ回すように副司令は視線を這わせます。

「故郷に錦を飾ってめでたく凱旋っ、つうツラじゃねぇな。なんだよ、そのいかにもしょーがねーなーって辛気くさいツラはぁ」

 どうやら副司令殿はヒドくご機嫌斜めのようです。

 言葉の端々にトゲが見え隠れしています。

 ううっ、なんかおっかないなぁ。

「いえ、そのようなことはありません、シェンバッハ副司令」

「まっ、お前さんはまだだから、万事適当でいいんだけど。あんまり適当にやってっと、アエリアに戻して再教育だってハナシになってると一応伝えておくわ。まあ、性格から言って頑張れって言われなくても頑張っちゃうタイプだから、そのあたりは肩肘はらずにのんびりやってくれ。ほんで、腕磨きたいならフィンツやミラーにシゴかれてくるといいさ、ヒマありゃ俺も相手したる」

「了解しました」

 なんか本当に適当な言い方なんだけど、一応筋は通ってるよな。

 訓辞としちゃ、かなりぶっちゃけてるけど。

 意外とマトモなのかなこの人・・・いやいや、油断大敵。

「ほいでもって、なんかロクでもないことがないように、身のまわりだけは常にキレイにしとけよ、酒と賭け事はからな。女は・・・ああ、いらないんだっけ」

 えっ?ほどほどにしておけじゃなくて、遊ばせてやるってマジすか?

 酒はなぁ・・・このトシでもう酔い潰れたことが何回もあるとかいう駄目な子ですけど。

 だって冬場寒いんだものアエリアは。

 けど、女はいらないって・・・へっ?

「いや、素敵なお姉さんのいるお店とか・・・」

「だーめだ。グエンの野郎と同じ子指名しそうだもの。若いお前のがモテるだろうし、それでヤツに恨まれるのは面白そうだけどパスだ。なにより即日でアルゴの娘の耳に入るぞ。サイアク、同窓生と鉢合わせる」

「はぁ」

 あっぶねぇ。

 そっかそういうことか。

 上限と枠とが決まっている正騎士たちで構成される女皇騎士団以外のシルバニア教導団訓練生たちはどうなるか?

 答えがソレ。

 つまり、諜報員としてパルム各所に配置されたり、国家騎士団に出向したり、女官騎士(スカートナイツ)になったり、近衛騎士隊に入ったりなのだろう。

 しかし、同期で近衛騎士隊に入ったヤツはいない。

 そもそも配属任地は聞かされるが、何処の所属かは「行ってみるまで本人たちは知らない」。

 つまり「シルバニア教導団出身者は表向きの所属は何処だろうが女皇騎士団構成員」。

 欠員が生じた際すぐに補填出来るよう、あらかじめアチコチに配しておくのだ。

 僕の世代はとりわけ騎士因子保持者が多く、教導団も一期あたり50人くらい居た。

 ただし、あくまで「養成訓練」であって「学校」ではない。

 アイツなんざ、3年しか居なかった。

 なんか色々とカラクリがありそうで、そのほとんどにこの目の前のオッサンが関わっていそうだった。

 このオッサンたちも教導団出身者なんだけどね。

「さてと、悪りぃな、ちと立て込んでてお前と遊んでるヒマないんだわ。取り敢えず、アルゴの旦那か、マギー姐さんのとこ行って、真面目な訓示でも聞いてくれや、俺は以上」

 訓辞らしきものを言い終えると副司令は書類に目を落とす。

 どうやら本当に忙しいらしい・・・ラッキー。

「はい、お忙しいところありがとうございました。これから宜しくお願い致します。では、失礼します」

 ほっ、なんとか無事に終わったぞ。

 しかし、これからこういう緊張感を毎日味わうのはちと・・・いや、かなりツライかもなぁ。

「まっ、これからタップリと時間かけてじっくり可愛がってやるから楽しみにしとけよ、

 ニンマリと笑った口元からちろちろと舌がみえてます。

 あわわわわわわわわわわわ

 最後の一言なんですかそりゃ、若手若手と言われ続けて10年ちょい。

 嫁さんも貰わずに悪タレから不良中年街道一直線って言われてきた人の本性っすか。

 カンベンしてください、マジで。

 その時間かけて可愛がるっていったいどういうイミなんでしょ。

 まさかアイツみたいに男好きってわけじゃないよね・・・とほほ。


 さてと、次は気を取り直してアルゴおじさん・・・じゃなかったアルゴ・スレイマン卿の所にご挨拶に伺わないといけませんでしたっけ。

 アルゴおじさんは子供の頃からよくお世話になっていました。

 大きくていかつい見た目とは裏腹にとても優しい家庭的な方です。

 どういうわけなんだか、おじさんはウチのクソオヤジの大親友で、よくお屋敷にお邪魔することが多かったのですが、自分のところに男の子がいないもんで、息子同然に可愛がって頂きました。

 三人の娘さんたちを溺愛されておられるのですが、この娘というのが揃いも揃ってとんでもない跳ねっ返りで・・・いやいや、よしましょうか。

 アイツらの名前を出すとロクなことになりません。

「よくきたな、ナダル坊」

「これからお世話になります」

「いやいや、お前がいなかったこの6年というもの、おじさんは寂しくてなぁ」

 熊みたいなでっかい図体を丸くしてアルゴおじさんは僕を力一杯抱きしめます・・・正直苦しいんですけど。

「いえ、とんでもありません」

「うんうん、ゆくゆくはお前もオヤジの後を継いで」

「はっ?」

 あれっ、「騎士見習い」で来たのに、なんでクソオヤジの後を継ぐことに。

「ん?違うのか」

「あっ、いえ、僕はこのまま女皇騎士として・・・」

 アルゴおじさんの柔和な顔がさっと曇るのを僕は見逃しませんでした。

「そそそそそ、そうだったそうだったなぁ。いや、うっかり別のヤツと勘違いしてたよ。いやはやおじさんもこの年でボケちゃったかな、あはははは」

(なんなんだろういったい・・・)

「ところで、今夜あたりウチの方にも顔を出してくれないかな、女房とウチの娘達が是非会わせてくれとせがんでおってなぁ」

(やっぱりそうきたか。予想通り)

「あっ、すみません。こちらに戻ってまだ日が浅いので色々と荷解きや勉強しなければならないことが多いので申し訳ありませんが、また日を改めてお邪魔させて頂きます」

(すいません、おじさん。真っ赤な嘘です。今のところ急いで勉強しなければならないことなんてありませんし、私物もロクにありません。アエリアで死ぬほど学んできました。卒業後一年間の補習付きで)

「いや、実に殊勝な心がけではある。だが、非常に残念だ。せっかくウチの子が一昨年一人戻ってきたんで、募る昔話もあるだろうと思っていたのだがな」

(ええ、それを重々知っているから丁重にお断りしているんですよ)

「マーニャもすっかり女の子らしくなって見違えましたよ」

 僕は慣れない世辞で誤魔化した。

(ええ、外見だけならね。しっかりと出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んでるけど中身ときたらねぇ・・・アレじゃ貰い手つかんだろ)

「そうか、そう言って貰えると嬉しい限りだ。いっそのことあいつを嫁さんに・・・」

(絶対イヤです。大恩あるおじさんの頼みでもコレばっかりは無理無理無理)

「あっ、そうそうおじさん。以前、お伺いしていたあの本。なんて言いましたっけ、折角こちらに戻ったのですからこの機会に是非勉強がてら読んでおこうと思ったんですが」

「おっ、そうかね。それでは明日にでも用意しておこう。しかし、なんだ。儂も是非男の子が欲しかったもんだが、あいにくと女の子ばかり三人続いてしまってなぁ。やはり、大きくなった息子と一緒に酒を酌み交わして人生のことを語り合うというのが昔からの夢でなぁ。ウチの娘に良い婿さんが来てくれると念願かなったりなのだが、かわりといってはなんだがナダル坊が来てくれるとそれは楽しく過ごせるんだよ。この際、どの娘でもいいから貰ってやって・・・」

(ううっ、やっぱりこの話題から離れてくれないよ)

「はっ、すみませんでした。そういえば、オリビアおばさんのお加減が良くなかったとか伺っていたのに、お見舞いの品も贈らずに。なにしろ、山深いアエリアにいたものですから気の利いたものなど用意できなくて、お宅にもお邪魔できそうにありませんから、帰りがてらにお花などお贈りしませんと」

 オリビアおばさんが寝込んだのは半年も前のことだ。

 それも、どっかのじゃじゃ馬が刑期あけでご帰還したせいでひどく胃を悪くしたとか。

 多分、今頃は頭痛と神経痛にも悩まされているんだろう。

 本当なら花じゃなくて煎じ薬とかの方がいいんだろうけれど、それじゃあまりにも露骨だ。

 はぁ、どうしてこうも子が親に似ないものなのだろう。

 オリビアおばさんってちょっと神経質なとこあるけど、性格は穏やかだし常識的ないい人なのにさ。

「それはオリビアの奴も喜ぶだろうて、それよりちょっとでも良いから顔を見せてやってくれるとなによりの薬になるんだがな。ついでに泊まっていくといい。朝は儂と一緒に出仕すれば」

(げっ、そりゃカンベン)

「あっと、そろそろ次の方のところに伺わなければなりませんでした。すみません、お忙しいところ長々とお邪魔してしまいました。挨拶回りの途中ですのでこれで失礼させて頂きます」

「おっ、そうかそうか。次はマグワイヤ女史のところだったな。遅れたのは私のせいだと伝えておきなさい」

「いえ、そのようなことは。これにて失礼いたします。今後とも宜しくお願い致します」

「おぅ、分からないことがあったらいつでもウチに来なさい」

(いえ、それは絶対にナイです)

「では・・・」

 挨拶を済ませておじさんの執務室を後にする。

 ふぅ危なかった。

 うっかり下手な約束をしてしまおうものなら、あのメガネザルを押しつけられるとこだったよ。

 危ない危ない。

 ちっ

 ん?今なんか聞こえたような気が・・・。

 さて、気を取り直して次はマグワイヤ・デュラン女史のところでしたか。

 時間には厳しい人だって聞いているから急いで行かないとね。

 心証わるくすると後々厄介だし。

 そうそう、帰りに忘れずにオリビアおばさんに花を贈っておかないと、また、妙な言い訳考えなきゃならなくなる。


 マグワイヤ・デュランさんは意外に・・・あっいや、実に若くて綺麗で素敵な女性でした。

 確かウチのクソババとそれほど年は変わらない筈・・・うっ、これ禁句だっけ。

 落ち着きがあって、品が良くて、頭も良さそうだ。

 あっ、医学薬学博士をつかまえて頭が良さそうっていうのはちょっと語弊があったか。

 昔から「パルム一の才女」って言われてて、今でもマドモワゼルマギーって呼ばれていて・・・ってこれも禁句だ。

「あら、あなたがナダル・ラシールくんね?」

「はい、今日からお世話になります」

「そう、大方アルゴのところで捕まってしまったのでしょう。あの人、一度話し出すと止まらないから」

「あっ、いや、実はそうでして、子供の頃からお世話になってきたもので」

「ふぅん、なかなか素直で素敵な男の子じゃない。ところでお母さんは元気かしら?」

 ピクッ

「あっ、母は勿論元気にしております」

(ええ、必要以上に)

「そうなの。それは良かったわ本当に・・・」

 あれっ、心なしか小刻みに指先が震えているような気がするのは気のせい?

「お母様とはしばらくお会いしていないのだけれども、なにか言っていましたか?」

「いえ、特にはなにも聞いていません」

(いーえ、嘘です)

 どういう知り合いなのかは知らない。

 だけど、ウチのクソババは昔からこのマグワイヤ・デュランという人を毛嫌いしていた。

 いや、毛嫌いとかいうレベルじゃない。

 はっきりだとみなしていた。

「あの強突張りの行かず後家が、まーだのさばってんのかい、いやだねぇまったく」というのが昨晩耳にしたばかりのウチの母の正直な感想だそうです。

 しまった、一瞬だけど気まずい顔しちゃったかなって

 ピクっピクっ

 うっ、やっぱり見られた。見られちゃったよ・・・。

 マグワイアさんの端正な横顔に青筋が走っちゃってるよ。

 この人怒らせるとマジで怖いってふきこまれてきたってのに・・・。

 うん、この際だからはっきり言っておいた方が良さそうだ。

 今後の良好な関係の為にも。

「正直、僕は昔から母が苦手でして、なにしろあの通り外面ばっかりで、腹は黒いし、見た目が若いのを少しばかり鼻にかけているところもあって・・・」

 あっ「あの女ときたら外面ばっかで、口は悪いし、ちょっと頭がいいのを鼻にかけたところがあって」・・・ってコレ、ウチのクソババの人物評だよ、この人に対してのさ。

 だが、先に「しまった」という顔をしたのはマグワイヤ女史だった。

 居住まいを正して何事もなかったかのようにニッコリと微笑む。

「いまなにか?」

「いえ、なにも」

「ご自宅からの通勤ではなにかと不都合なことも多いでしょう?自立心を養うために家をお出になられるのも良いのではなくて?」

「両親ともしっくりいっていませんし、実はそうしたかったのですが、あいにく僕の頂けるお給金では女皇宮殿近くに部屋を借りることができなくて」

「へっ?はいっ?」

「正騎士任官されればそれなりに頂けるのでしょうけれども、今はとてもとても」

「えーと、キミ、なにいってるのかなぁ?」

 マグワイアさんの頬がピクピク動いている。

「いえ、斡旋があってこちらに赴任する前に、辞令を届けてくださった事務の方からそのように説明されまして、なるべく自宅から通勤しなさいと」

 その瞬間、僕はおぞましい物を目にしてしまった。

 マグワイヤさんの顔がそれはまるでなにかに取り憑かれてしまったかのように・・・。

 鬼だ。

 この人の顔はまさに鬼女・・・

「あんのハゲ坊主にくそデュイエぇぇ!じぶんの種で自分がハラ痛めて産んだガキまでたばかりよったなぁ!」

 ああ、やっぱりおっかない本性出ちゃいました。

 そうなんです。

 この人、本当に怒らせると怖いんです。

 頭から湯気が出ちゃってます。

 手元の書類がぐちゃぐちゃに。

 しかも、なんかあらぬ方むいて怒鳴り始めちゃったよ。

「おいこらっ、ハゲネズミ!どっかで聞き耳たててんだろうが、まぁよくもこんな恥ずかしい真似してくれちゃって。天下の女皇騎士団が見習いだからって、給金もロクに払えないわけないでしょうが。官舎もあるし、一軒家だって用意できるってのに。息子の給金こっそり、ピンハネしようなんて真似したら、ぜんぶアンタの大嫌いな陛下にチクってやるんだから」

 しばし沈黙。

 いっ、一体なにが起きたんでしょう。

 てゆーか、僕は騙されたのですか?

 クソ両親の差し金で。

 じゃ、あの事務官さんはいったい・・・。

 コンコンとノックの音。

 ウワサのクソオヤジが.へこへこしながら現れる。

「あっ、いやはや、どうもそのようなことは決して・・・」

 一体どこから現れたのだ。

 ついでに聞き耳たてていたと?

「どうだか、デュイエもアンタも昔っから身内だろうが部下だろうが平気で売り渡す鬼畜だったもの。でもまさか、自分の息子にまでって」

「あっ、いや、それは誤解でして、なにぶんにもしばらくぶりに息子が帰ってきてデュイエのやつも寂しがっておりまして・・・」

「そんなわけあるかっ、あのザル女に限って!しかしまさかアエリアにまで調査室員送り込んで自分の息子にまで用意周到な罠を仕掛けるなんて」

「マグワイアさんっ!」

 一瞬だけクソオヤジの目が鋭く光った。

 どエライ剣幕でまくし立てていたマグワイアさんの顔が僅かに青ざめる。

「あっ・・・だけど、なんだってこんなことを?本気で陛下に知らせるわよ」

「それがですね」

 ごにょごにょごにょごにょ

 オヤジはマグワイア女史の耳元でなにか囁く。

 するとマグワイヤさんの表情から毒気がすっかり消え失せた。

 鬼の形相は消え失せ、仏のような元のお顔に戻ってゆく。

「まぁ、そうだったの」

「はい、勿論です。もっとも、本来半分程度は実家におさめるしきたりですし、それはコイツの将来に備えておこうということになっていまして」

「それならなにも言わないわよ」

「では私はこれにて・・・」

 そう言ってクソオヤジは僕を一瞥することもなく部屋を出ていった。

「まったく、あなたも色々と大変ねぇ」

「いえ、生まれてこのかたのことですから、さすがに慣れてますよ」

 両親のヒドイ仕打ちには慣れっこだ。

 なにしろあんなことがあったせいで、僕はパルムにはいられなくなったんだし、折角のいい話も流れてしまった。

 それもこれもウチのクソ両親が・・・。

「こんなのにメゲちゃだめよ。ここは本当に恐ろしいところなんですから」

「はい、よぉく肝に銘じておきます」

「それとあんまり簡単に人を信じない事よ。一皮むけばみんなロクデナシ揃いなんだから」

 はい、もうそれはイヤというほど味わってきましたから。

 なにより貴方を本気で怒らせることがないように十分注意して石橋を渡ることを心がけますよ。

「私の後は・・・そうね、ミラーとフィンツは最後でいいわね。それにサイエス組は今日は誰もこちらに来る予定はないし、ああ、そうよ、地下」

「地下ですか?」

「地下の格納庫に行きなさい。あなたの愛機と彼女にはちゃんと挨拶しておきなさいね」

「あっ、真戦兵。それに紫苑先輩か」

 うっかりというか、完全に失念していた。

 これから真戦騎士になろうって奴がこんな調子で本当にいいんだろうか。

「そうよ。それと、たぶん近くにパベルとイアン。あの二人もいる筈だから。彼らには今後お世話になるだろうからしっかり挨拶しておきなさい」

「わかりました」

「挨拶が終わったらミラーやフィンツに挨拶がてら一緒にお昼に行くといいわ。その後は二人に色々と案内して貰いなさいね。今日のところは、私のところはもういいわ。また明日ここに来て頂戴」

「はい、色々とありがとうございます」

「ほんとっ、あの親に似ず素直で良い子。だけど、よりによって変なのがうろちょろしてるとこにこんな子寄越すなんてアエリアも相当人が悪いわねぇ」

 よく擬人化されてしまうので誤解がないように言っておくと、アエリアというのはシルバニア教導団と併設されたエベロン女学院の置かれた地域名である。

 エベロンも元は女皇家の離宮の一つだったけれど、今は訓練機関として使われている。

 前にも説明した通り、シルバニア教導団が女皇騎士養成施設でエベロン女学院というのが女官養成施設。

 学院長は兼任で白髭アルベオ・スターム学院長先生だ。

 フィンツさんのお爺さん・・・いや、だけどフィンツさんて養子だって聞いているから血縁関係はない筈・・・が僕らの学院長をしていた。

 わりと感じの良い老人でいつもニコニコ朗らか。

 そして、この僕は比較的先生の覚えが良かった。

 だがマテよ、斡旋人事の最終決定権は学院長に一任されているわけだから、人が悪いというのはこの場合アルベオ学院長を指すことになるわけか。

「あのぉ」

「なにかしら、まだなにか聞きたいことでもある?」

「いえ、あちらで大変お世話になった教官のお姉さんがこちらで働いておられると聞いていたのですが、ご挨拶はしなくて宜しいのでしょうか?」

「シルバニア教導団の教官をしているお姉さん?騎士養成コースだから犀辰とはそれほど面識はなさそうだし、どうせ紫苑のところには行くことになるのよね。お姉さんお姉さんっと・・・あ゛っ」

 マグワイヤさんの顔が引きつる。

「なにか問題でも?」

「ティニーいえ、ティリンスならたぶんミラーたちと一緒に自主訓練だろうからお昼のときでいいわね・・・」

「そうでしたか、なんでもとは別人のような出来た方だと伺っていますが?」

「あっ、ええ、そうね、ティリンスは比較的まとも・・・だったわね」

 比較的まともだったわね?

 なんかまたしても聞き捨てならない事を聞いた気が。

「それにしても」とマグワイヤさんが同情に満ちた眼差しを向ける。「あなたってつくづく女運が悪いのね」

 ええ、否定しませんとも。

 だから、せめて悪い女運の中に貴方の名前まで入ることがないよう心から祈っています。


 女皇騎士団本部は女皇宮殿と隣接している。

 豪奢な回廊で隔てたその先が女皇宮殿になる。

 地下に続く階段を探しているうちに僕は不覚にも宮殿近くの回廊に迷い出てしまった。

 あいにく今日はアリョーネ陛下に謁見する機会はない。

「なーんか、ヤな予感がするんだけど」

 うろうろと歩き回っていたそのとき、突然視界がふさがれてしまった。

「ばぁ、だーれだっ」

 げっ。

 僕の背中が瞬時に凍りつく。

「はて、どなたでしょう?女皇陛下もおられる女皇宮殿で非常識な振る舞いをされる方に私はまったくもって心当たりがありませんが?」

「おいっ」とドスの利いた声でその目隠しの主は耳元に息を吹きかける。「あんましナメたこと言ってっと後ろからタマ潰すぞ」

「あっ、陛下だ。きれーだなー」

「えっ、どこどこ?」といって目隠しを外して慌てて見渡す。

「ばーか、いるわけないだろ。こんな時分、こんなところに」

「あっ、騙したなこのやろ」

 マーニャは、マーニャ・スレイマンはそういって僕の向こう脛を高々と蹴り上げた。

「ってぇなぁ、なにすんだよっ」

「あんたこそ、帰ってきたならきたで連絡ぐらい寄越しなさいよ」

「やなこった。どうせ、おじさんから聞いて知ってた癖に」

「なんでか知らないけど、パパは教えてくれなかったよーだ」

「そうなのか?」

 改めてこいつの顔を拝まなくてはならないことに、僕は頭を抱えていた。

「マーニャ、頼むからもう少し大人の振るまいってものを身につけてくれよ。お互いもう子供じゃないんだから」

 って、ムリか。

 しかし、宮内もよくこいつを女官採用する気になったもんだ。

 マーニャはソバカスの目立つ僕の幼馴染みだ。

 今年17歳だが精神年齢は6歳児程度だ。

 ちりちりの赤巻き毛に眼鏡とおよそ見てくれは悪い。

 まあ、それでもやっと女の子らしく出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んだが、なにぶんにも元が悪いからどうしようもない。

 ああ、顔じゃなくて性格ね。

 いやどっちもか。

「ニコは元気か?」

「元気よ、相変わらず幼年学校で暴れ回ってるわ、エレナは?」

「ああ、あいつも騒がしいことこの上なかったよ。まったく、僕はどこにいてもお前達姉妹からは逃げられないらしいな」

 エレナとニコは共にマーニャの妹たちだ。

 エレナはマーニャと入れ替わりにエベロン学院に入った。

 そして、姉と同様に教官達の頭痛の種となっている。

 まだ幼年学校に通うニコも数年後には姉たちに倣って頭痛の種になるだろう。

 まったく、アルゴおじさんとオリビアおばさんの子供だってのにどいつもこいつもじゃじゃ馬揃いなんだから困ったものだ。

 そして、どうやら縁故関係もあって入学を拒否したり、採用を見送ることは出来ないらしい。

 まったくコネ万々歳だな。

「逃げるようなことする方が悪いのよ」

「誰だよ。俺が逃げなきゃならないこと親にチクったのはさ?」

「なに?あたしだって言いたいの?」

「違うのかよ?」

「言うわけないじゃん、格好わるい」

「そっか、そりゃ悪かったな」

 言われてみればそうだ。

 プライドの高いこいつの性格からいって、自分からペラペラと秘密をバラしたりはしない。

 親の弱みを握ってはいても、親に弱みを握られるのは沽券にかかわると思っているクチだ。

 6年前の冬、マーニャから柄にもないラブレターを貰った僕は珍しくコイツに正直な気持ちを話した。

 そのすぐあと、一騒動が起きて、僕はパルムにいられなくなった。

 だから、てっきりマーニャがあのことをウチの両親に話したのだと思っていた。

 でなきゃどうしてあんな恐ろしいことに・・・。

「ずっと誤解してたんだ?」

「当たり前だろ、なにしろあんなにタイミングよく」

 そう、それは正に図ったようなタイミングで巻き起こった。

 丁度、進路のことで学校と相談していた最中だった。

 多分、マーニャは近くにいたせいで僕が薄々考えていたことに気づいてた。

 それで、マーニャもあんな手紙を書いたのだと思う。

「変な奴だと思うだろう?俺は自分の家よりお前んちの方がよっぽど自分の家みたいに思ってたんだ。だから、お前達姉妹のことは自分の妹にしか思えない」

「知ってたよ。だから、少し焦ったんじゃない」

「バカだよな、結局向こうで3年も一緒にいることになったんだぜ」

「あたしはちょっと安心したよ。だってあのままだったら、あんた国家騎士団の入隊試験を受けてた筈だもん。そして教導団を主席で卒業できるあんただから、間違いなく入隊試験に受かってた」

「マーニャ・・・」

「それで今頃は、どっか遠いとこに送られて、宮殿勤めの私とはもう二度と会えなくなってた・・・」

 言いながら、マーニャはポロポロと泣き出した。

 まだ子供なのだ、だから自分に素直なのだ。

 だから、すぐキレるし、すぐに泣き出す。

 こういう娘を憎みきれるような男なんか死んだ方がマシだ。

「泣くなよ、こんなとこで」

「だって」

 幼馴染みという関係はひどく難しい。

 お互いを意識せずにはいられない。

 だけど、どこかで気持ちが擦れ違ってしまう。

 もし、僕が自分の本当の気持ちに気づかずにいたならば、マーニャの好意を受け入れて良好な関係でいられたのだろうか?

 ・・・って、はっ、思わず雰囲気に流されそうになっちゃったけど、それだけは絶対にアリエない。

 ありえないどころか、僕は今よりももっと不幸になっていた。

 だいたいよく考えてもみろ、こいつのお陰で僕はどこに行っても散々な目に遭ってきた。

 幼年学校でもこいつは正に疫病神だった。

 次から次へとトンデモナイことをやらかすし、責任はみんな僕に押しつける。

 僕がイジメられていた原因も、元はと言えばこいつのやんちゃに振り回される弱っちぃ奴という評判が広まったせいじゃないか。

 そしてなにより、教導団に入って人生で一番波風の少なかった一年を過ごした僕が、翌年アエリアにのこのこやって来たこいつの流したウワサのせいでどんな目に遭わされたか。

 確かに僕は幼馴染みのマーニャをフった。

 それは認めよう。

 だが、マーニャは自分のプライドを守るため、他にも5人の女の子から告白されたがむげに断った・・・つまりエベロン中に、この僕が大の女嫌いというウワサを流してくれちゃったのだ。

 マーニャの、自分のフった女の子の名誉を守るために、敢えてそれを否定しなかったことが事態を更に深刻なものにしてしまった。

 そして、僕はエベロン中のありとあらゆる女の子たちから教わらなくてもいいことをすべて教わった。

 あっ、そこなんかおかしな勘違いはすんなよ。

 僕が教わったのは、これでもかというほどの女の本性と生き物としての実態だ。

 というのは乙女の楽園エベロンでは“そいつになにをしても、そいつの前でなにをしてもかまわない”という恐ろしい事を意味していた。

 おかげでいらん雑用は片っ端から押しつけられるわ、パシリまがいのことをさせられるわ、意中の男の子への橋渡し役を依頼されるわ、くだらない恋愛話に朝までつきあわされるわ、夜中にトイレに行くのが怖いからとたたき起こされるわ、とにかく散々だった。

 試験前ともなるとノートは消え失せ、臨時雇いの家庭教師としてあっちゃこっちゃに引っ張り回される。

 よくもまあ、あんな生活をしていて主席がとれたものだ。

 その上、目の前で屁はこくし、ケツもかく。

 生理中だろうが隠しもしないし、下着を見られるのが構わないどころか、汚れた洗濯物まで平気で押しつける。

 まあ、次から次へと女の怖さと厚かましさを見せつけられたものだ。

 そう、卒業までの年月で僕は本物の女嫌いになっていた・・・というのは、ちと言い過ぎだが取り敢えず横に置いておこう。

 同世代の女の子たちだけならまだどうにか許容できた。

 ところが、まだちっちゃくて可愛らしいと信じていたかった女子児童にまで容赦のない仕打ちを浴びせられた。

 良家から集められたお嬢様方は僕を小間使いかなにかと勘違いされていた。

 上級生のお姉様がたでさえ、いわんや私たちをやといわんばかりだった。

 お馬さんごっこに延々と付き合わされて膝小僧がボロボロに擦り剥けたときは、さすがにお尻をひっぱたいてやろうかと思った。

 そう僕は知ったのだ。

 女の子は生まれた瞬間から悪魔の尻尾をはやしている。

 どんなに小さくて可愛らしくても女は魔物だ。

 そして、落ち着いて大人しくなるのではない。

 年経て老獪に自分を隠せるようになっていくのだ。

 化粧やらドレスやら教養やら、すべて邪な本性を隠すための偽装だ。

 僕の評判が広まるにつれて女ばっかりの教官たちも、建前はともかく本音は彼女たちと同類だということがよーく分かった。

 それこそまだ、変態と罵られていたほうが遙かにマシだ。

 同級生の中には変態扱いされて居直ったのがいた。

 そいつは学園生活を十二分に満喫した上で、念願叶って西部にトバされた。

 変態が嫌われないのはなぜか?

 女の子全部が変態嫌いというわけではないということ、そして女の中にも変態は少なからずいるってことだ。

 いや、真面目でまともで清純可憐な娘たちもちゃんといるにはいた。

 だが、そういう娘たちから見て、使用済みの下着を洗濯させられたり、女の子たちから後ろからはがいじめにされたり、よってたかって裸にひん剥かれ、ヌードモデルにされたりする男がどんな奴に見えるか。

 答えは簡単。

 サイッテーな奴だ。

 勿論、本気で同情してくれる娘もいたが諸般の事情でそれもうまくいかなかった。

 同性の同級生たちは公然とこの僕をと呼んでいた。

 飢えた悪魔どもの腹を満たすために穴に放り込まれた哀れな羊というわけだ。

 正しく生贄。

 そしてある意味、この世の地獄を見せつけられた。

 この世に幻想はない。

 あるのは幻滅だけだ。

 この年でそう悟った僕にこの先なんの希望があるというのだろう。

 まぁ、さすがに同性愛者とだけは思われなかった。

 なぜか?

 理由は簡単でそういう気のある奴は狭き門をくぐってわざわざ女皇騎士団を目指したりせず、真っ直ぐ国家騎士団に行くに決まっているという、あられもない偏見だった。

 国家騎士の皆さん本当にごめんなさいってやつだ。

 もっとも、あの最悪の人物が関わりさえしなければ、僕の生活はずっとマシなものになっていた筈だ。

 ああ、名前を思い出すのも身震いする。

 さて、話を元に戻そう。

 僕は目の前でまだぐすぐすやっているマーニャを見捨てられずにいた。

「もういいだろう?気が済んだらさっさと仕事に戻れよ。僕も挨拶まわりの途中なんだから」

「うん、わかった」

「まあ、これからも顔を合わせることはあるだろうけれど、あんまり気にすんなよ。僕も気にしないようにするからさ」

「ありがとう。じゃ、お礼に一つだけいいこと教えてあげるよ」

「なんだよ、いいことって?」

「エベロンじゃ、誰も本気であんたが女嫌いだって信じてなかったのよ。むしろその逆で女好き」

「なにぃ!?」

 だったらあの扱いはなんだ。

 まるで虐待されたペットだったぞ。

「むしろ、あんたはだからなにされても、どういう扱いを受けても、絶対に本気で怒ったりキレたりしないって評判だった。対応も誠実だし、嫌そうにしてても本当に嫌がったりしないって。だから、そういう評判を聞いた偉い人たちがあんたこそ女皇正騎士に相応しいって推したのよ」

 ななななななななななんだってー

 それじゃ、僕はわざわざ墓穴掘ったのか。

 しかも自分の実力と勘違いしてた?

 ボクの青春をかえせぇぇぇぇ!

 心の叫びは晴れ渡る青空に空しく響き渡ったのだった。


 マーニャのおかげですっかり遅れてしまったが、僕はようやく地下に向かった。

 幸いにして、今度のお相手はそれを本気で咎める方ではない。

 アエリアで様々な女性の実態を知った僕だったがそれでも分類不能で理解不能な方々が何人かおられた。

 良い意味で理解できない方がお一人、悪い意味で理解できない奴らが大勢いて特に一人。

 広い格納庫の片隅で似合いのツナギに袖を通し、一人鼻歌を歌いながら嬉々として真戦兵と戯れているこの人こそ僕が良い意味でまったく理解できなかったお方だ。

「お久しぶりです、紫苑先輩」

「おー、ナダっちきたかぁ」

 耀家の紫苑さんは幼馴染みでもあり教導団の一年先輩だ。

 小柄でスリムな体つきで黒くて短い髪と、僕よりもずっと年下に見える。

 だけど、先輩は先輩だった。

 一足先に女皇騎士になっていることは耳にしていたし、着任するや見習い期間を省いて手続きを経て正騎士に任官したことも風のウワサに聞いていた。

 なにしろ彼女には余人には決して真似できない特殊な才能がある。

 今も真戦兵の装甲を一人でバラして再調整していたところだ。

 彼女はまだ20歳そこそこだが、国内にもそう多くないドールマイスターだ。

 ドールマイスターはいわゆる整備士にすぎないメンテナンサーとは格が違う。

 真戦兵を0から設計して完全な形に組み上げる。

 文字通りの人形職人だ。

 道具と時間さえあれば、図面起こしから、素体培養、重量配分から、プラスニュウムの加工、操縦席のレイアウトと・・・文字通りなんでもかんでもこなせる。

 更に加えて、彼女の家は特別だった。

 《耀家》。

 この名を知らない騎士はモグリだ。

 どこの国でも耀家の紋が入った真戦兵を欲しがる。

 王侯貴族たちが金に糸目をつけずに喉から手を出す。

 血なまぐさい話も多いほど、彼女の家は中原世界では有名な存在だ。

 そんな有名な家に生まれついたのにちっとも気取ったところはないし、気さくで誰にでも気易いのでどこにいても人気者だ。

 ひどい仕打ちで悩む僕の愚痴話にも付き合い、相談相手にもなってくれてたし、色々と教わることも多かった。

 教導団でもっとも尊敬していた人。

 だから、先輩はいつまでも僕の先輩だ。

 オマケに超のつく天才ときている。

 マイスターばかりか騎士としてもなかなかに優秀ときている。

 だから、幼い時分からどういう教育を受けるとこういう完全無欠な人が出来上がるのかさっぱり理解できなかった。

 良い意味で理解できないとはそういうことだ。

「もう、ナダっちはいい加減やめてくださいよ」

「なにいってんのー、ここじゃ公のとこ以外ではみんな渾名で呼びあってるよー」

 そうなのか・・・そういえば、副司令は「ヘビ」って呼ばれてるらしいし、マグワイアさんは「マギー姐さん」で通っているらしい。

 アルゴおじさんは「熊さん」で、ミラー先輩は「薄焼きせんべい」、フィンツさんが「坊や」だったっけ。

 なんか、当てこすりも多いみたいだけど・・・

「で、先輩が『油娘』でしたっけ?」

「お前はゆーなっ!」

 軽い抗議と共に、さもおかしそうと言った様子で先輩はころころと笑う。

 まっ、あの素行さえ除けばこの人は本当に可愛らしい。

「はいはい、ところで僕の機体はどれですか」

「まだだよー」

「ああ、まだ届いていないんですか」

「ちがうよー、頼まれたんだけど、まだ作ってない」

「はいっ?」

 なんか今とんでもないことを聞いた気が・・・。

「なにかの冗談ですよね、まだ作ってないって」

「冗談ではないね。まだ図面も引いてないよ」

 図面もってまさか、センパイの気が向くまでの間、僕には自分用の真戦兵ナシってことなのか・・・

 そうそう、唯一の欠点が万事ズボラなのだ。

 風呂にもちゃんと入らないし、食事もロクにとらない。

 そのせいでいつまでたっても体は大きくならないし、近寄るとちょっとクサイ。

「あらっ、丁度良かったわ」

 その人は音もなくすっと現れ、僕と先輩の間に割って入った。

 格納庫には似つかわしくない地味なメイド服スカート姿だったので、僕は一瞬幽霊でも現れたのかとビビった。

「紫苑、頼んでいたものは出来ている?」

「えーっと、あと二、三日ってとこですね」

 柱にぶら下がった作業工程表に目を通してからこともなげに応じる。

「あのっ、先輩この方は?」

 先輩が答えるより先にその女性はすっと前に進み出た。

「私はマリアン・ラムジーよ。陛下の筆頭女官頭をしています。以後お見知りおきを」

 40絡みの麗人だが、年よりも若作りに見えてしまう。

 クソビッチな母と同世代だろうが、この人は「綺麗なお姉さん」で本当に通用してしまいそうだ。

「ナダル・ラシールです。今日から騎士見習いとして配属されました」

「ええ、伺っているわ。よろしくね」

 いともあっさりとした挨拶が済むとその人は手招きで僕を呼び寄せた。

 どうにも万事卒がないらしい。

「紫苑も一緒にきて」

「はーい」

 僕らは連れ立って格納庫を歩き出した。

 きびきびと前を行くマリアンさんの後ろから僕と先輩はのろくさと歩いていく。

 女皇騎士団本部は地上の建物よりも地下施設の方が遙かに広くて大きい。

 一部は宮殿の地下通路と直結しており、そこから更にドラウの大運河に続いている。

 天井までゆうに20メルテはあろうかという広い格納庫にはそこかしこに真戦兵が並んでいる。

 奥行きがありすぎて向こう側が見えないほど広い。

 オマケにかなり寒かった。

「うわ、すごいなまるで博覧会だ」

「現役騎士のものと、引退した人の保管品とで今は全部で80機くらいかな」

 そのほとんどがワンオフ。

 つまりはこの世にたった一機しか作られない各騎士専用のカスタム機だ。

 ほとんどの真戦兵は量産を想定して設計されている。

 数が少ないものでも5、6機は同型機が作られる。

 そうでないとせっかくの良い設計が無駄になってしまうし、構造が異なれば整備に手間もかかる。

 それにそこそこの腕しか持たない一般騎士でも扱い易いものの方が好んで使われる。

「でも、さっきからメンテナンサーの姿がまったく見あたらないんだけど?」

 だだっ広い空間で僕が出会ったのは先輩とマリアンさんだけだ。

 これだけの規模の施設にしては誰とも擦れ違わないのはひどくおかしい。

「みんな自分の機体の整備は自分でやってるし、忙しい人たちのはアタシがやることになってるから」

「そうなんですか?」

「予算縮小の一環ね。もともとあなた方は基本的には真戦兵を普段から必要にするような仕事じゃないもの」

「確かにそうですね」

 過去には大勢の人がいた形跡がみてとれる。

 休憩用の椅子や工具棚は先輩が一人で使うには数が多すぎる。

 プレハブの作業小屋なんかもある。

 以前はかなり賑やかな場所だったのだろうと思われた。

「あっ、あのカバーがかかっているのはなんですか、結構数があるみたいですけれど?」

 格納庫の一角を埋め尽くす覆われた巨人の群。

 いかついシルエットがカバー越しに浮かび上がっている。

「あれは儀仗用の真戦兵ダーイン・アルシェイウス。予備機が2機と正騎士の人数分よ」

 わーいダーイン・アルシェイウスだってぇ!

 僕の心は子供のように高鳴った。

「うわっ、あれがそうなんですか?へぇー、なるほど、公式行事のあるときはパレードに引っ張り出されて人目にもつくから、汚れないようにカバーがかかってるんですね」

 僕はおそるおそる近寄ってカバーをめくった。

 真っ白な装甲の胸には女皇騎士団の紋章が刻まれている。

 皇室行事の際には旗と槍を構えてパルム市内を颯爽と闊歩する。

 重装甲かつ長身のため実戦ではほぼ役に立たない。

 だが、見栄えがする。

 子供心にパレードを眺めていて強い憧れを抱いたが、まさかもうすぐ自分がアレに乗ることになるとは考えてもみなかった。

「そう、だから行事前は大変よ。事前にみんな調整して準備しとかないといけないんだもの。ただ数は多いけれど、戦闘装備じゃない分楽なんだ」

 紫苑先輩の横でマリアンさんが怖い顔で睨んでいた。

「びっくりしたなぁ、マリアンっ」

「ダーイン・アルシェイウスは抜かずの剣たる女皇騎士団の象徴です。結団以来の伝統と共にずっと守り受け継がれてきた機体ですからとりわけ大事に扱いますのよ」

 先輩の抗議を受け流し、マリアンさんはさらりと答えた。

 ある意味、紫苑先輩よりもマリアンさんの方が物腰、落ち着き共によっぽど女皇正騎士らしい。

 ただし、筆頭女官頭という地位は女皇宮殿の4つある塔のどこかを任されている要職者だ。

 位の上で彼女の上に立つのは女官長と官房長しかいない。

 そのどちらも経験を重ねた年寄りが就任するいわば名誉職だから、マリアンさんの年齢を考えれば考え得る最高位にあるというわけか。

 優秀な若手の出世頭・・・はてどっかで聞いたことがあるような響きだけど?

「あの子たちが汚れることはあってはならないの」

 紫苑先輩はそこで声のトーンを落とす。

「だからかわりにあたし達が自分の手を汚していく、陛下のため皇家のために」

「はあ、大変なんですねぇ先輩も」

「えっ?」

「だって、手が汚れるって、潤滑油でしょ?ああだから『油娘』なんてヘンな渾名がついちゃったんだ」

「そうなのよ、紫苑ったら汚らしいツナギ姿のまま本部や宮殿を平気でうろうろするんだもの」

「ひどいなー、あたしそんなになんどもやってないのにぃ」

「いや僕はてっきり、黒くて小さくて頭テカテカしててチョロチョロしてるんでその渾名がついたんだと思ってました」

 なんのことかって、そりゃやっぱりゴキ・・・。

「おい、ナダっち!その減らず口をスパナで叩いて修正すっぞ」

「すいません」

 ああ、忘れてた。

 普段は陽気で温厚なこの人も本気で怒らせるとおっかない。

「さて、ついたわよ」

 マリアンさんは格納庫の片隅に置かれた見慣れない機体の前に立った。

「あなたの機体が完成するまではこれを使って」

 おー、これは・・・。

 極限まで削ぎ落とされたしなやかなライン、ずんぐりとした背中、そして赤黒く揺れるその装甲。

 戦技訓練用の軽真戦兵より更に一回り小さいサイズ。

 歩兵駆逐用?いや、このサイズだとそれですらない。

 隣に重装甲真戦兵を並べると、まるで子供と大人ほどの差がある。

「うわっ、すごいな。装甲が糸を引くみたいでつなぎ目もないし・・・でも、変だなプラスニュウム特有の照り返しがないや。ここが薄暗いせいじゃないよな?」

「さすがにいい目をしてるわね。そうよ、これがダーイン・クレシェンス《紅丸》(くれないまる)、またの名をシャドー・ダーイン」

「シャドー・ダーイン?」

「大切な人からの預かり物ですが、その方の許可が頂けたのであなたにお貸しします」

「えっ、ちょっと本当にいいの?」

「いいのよ、紫苑」とマリアンさんは柔らかに遮った。「もし使う場合には人形番の紫苑に許可申請をしてね。ただ、完熟訓練をするのなら練兵場でなくこの施設内だけにしておいてね」

 部外秘ってことは機体の存在自体が極秘扱いってことか。

 真戦兵の装甲形状やデザインはその使用目的を示している。

 重装真戦兵は拠点防衛および前線構築用だし、軽真戦兵は戦技訓練や斥候、先行駆逐用だ。

 特異な特徴を持つ機体ほど、特殊な役割を担うのが普通。

 そう考えればこの機体にもなにか僕の知らない目的や使命が与えられているのだろう。

 でもそんな大事な機体を僕みたいなぺーぺーに預けてしまって大丈夫なんでしょか?。

「ありがとうございます大切に使います・・・と言いたいところですが、しばらくは教導団でも使っていたレジスタになるでしょうね。あっちに沢山あったの訓練用で自由に使っていいんですよね?ああ、もちろん整備はちゃんと自分でやりますよ」

「うんそだよ、ちゃんと見るとこ見てんじゃん。さっすが抜け目ないナダっちだ」

「あら、でもどうしてレジスタなの?」

「機種転換訓練がまだですし、それに」

「それに?」

「いまのうちに腕磨いておきたいんですよ、折角フィンツさんもいることだから」

「あぁ、そうなんだ」

 紫苑先輩はちょっと微妙な顔をする。

「とても良い心がけだわ。それでこそ大切なものを託すに値するというもの」

「いいえ、当然です。早く一人前になりたいですから。でないとやっていける自信なくしそうだし」

「ここ一年ぐらいが踏ん張りどころよ。十分な能力があると判断されて騎士見習い・・・いえ、准騎士に昇格したのです。胸を張りなさい」

「だいじょーぶだよ、ナダっちにはあたしもついてるし、ティニーもいるし」

 ティニー?はて誰だろう。

「それじゃ頑張ってね見習いさん。あなたが正騎士になる日が待ち遠しいわ」

「本当にありがとうございます、ラムジー筆頭女官頭」

 ふーん、なるほど。ああした奥ゆかしくて、折り目正しくて、万事に卒の無いよく出来た女性もこの世の中にはいるんだ。

 まだ捨てたもんじゃないなぁなどと思わず感心してしまう。

「マリアンは特別だよ。彼女が正騎士になれない理由はたった一つだもの」

「たった一つってなんなんです一体?」

「そのうちイヤでも分かるよ、あたしらの学校でよくナダっちが言われてたって言葉のイミもね」

 どういうことなんだろう?

 さっきから先輩の言葉の端々にトゲのような物を感じていた。

 先輩はあんまり僕を歓迎していないみたいだ。

 どうしてだろう?教導団にいたときはあんなに仲が良くて、僕が身の回りの世話をするかわりに、先輩は相談にのってくれたり整備の勉強を教えてくれたりしてた。

 だから、関係としては対等に近かった。

 なのに、今の先輩は本当に先輩として振る舞おうとしてるみたいに思える。

 なんだろう。

 ひどく胸騒ぎがする。


 いそいそと仕事に戻ったマリアン・ラムジー女史に別れを告げて僕は先輩と一緒に格納庫の最奥へと進んだ。

「なんかたっぷり1㎞(キロメルテ)くらい歩いた気がします」

「そーね、それ位はあるかもー」

「すいませんね、なんか付き合わせたみたいで」

「いいのぉ、アタシもに用があるから」

 お爺と呼ばれた初老の男性は煌々と照らし出される格納庫の一角に陣取ってのんびりとお茶をすすっていた。

 作業用のツナギ姿だがどこか威厳が漂う。

 髪も髭も真っ白。

 柔和で皺深い顔つきをしている。

 好々爺という言葉が咄嗟に浮かんだ。

 このあまりに巨大する一角が他と明らかに違うのはたった一人で作業をしていた紫苑先輩のところと違い、大勢の作業員が忙しく立ち働いているところだろう。

 だが、一人として近くにいる者はいない。

「おやおや、お嬢がここまでお出ましとは珍しいな」

「やっほー、お爺。元気してた?」

「元気は元気じゃが、ヒマでヒマでしょうがない」

 そう言ってお爺ことパベル・ラザフォード卿はお茶をすすった。

「まあ、お爺は張り切りすぎてムリしちゃうから、若いみんなが頑張るくらいが丁度良いよ」

「こっちの作業が一段落ついたら、ウチの連中をお嬢の手伝いに行かせるよって」

「ありがとう。突貫作業があるから手伝って貰わないとちょっと間に合わないかもって思ってたんだ。だから、忙しいの分かっててお願いしにきた」

「そうかね、ウチの連中もお嬢の大ファンばかりじゃから是非にというのがゴロゴロおるわい」

 紫苑先輩は高所で整備をしている若い作業員たちに大きく手を振った。

 気づいた何人かがニコニコしながら手を振りかえしている。

 さすがは先輩ここでも人気者らしい。

「ねっ、ナダっち、見てよ。さすがにこればっかりは人員削減なんて出来ないでしょ?」

「ええ、確かにこれはすごいや・・・」

 僕はひゅーと息を呑んだ。

 女皇騎士団旗艦ロード・ストーン。

 全長68メルテ。

 全高22メルテ。

 白く塗られた巨大な船体は文字通りの意味で天翔る浮舟だ。

 飛空戦艦。

 こんなものを作り出す技術をかつて僕らは持っていたという。

 中原一の大国であるゼダ国内でさえ、飛空戦艦はロード・ストーンを含めて僅かに20隻程度しか存在しない。

「これだけの巨大な船は中原世界でもここくらいにしか現存していない」

「失われた文明の遺産ですか」

「そういうことじゃ。ところでお主は?」

「あっ、すいません。今日からお世話になることになった騎士見習いのナダル・ラシールです」

「おぉ、グエンのせがれか」

 パベル爺さんは相好を崩した。

 立ち上がり手を差し出す。

 僕は皺深いその手を握った。

「デュイエ嬢ちゃんは元気にしとるか?」

「ええ、ってどうしてあなたまで母のことを?」

「そりゃ、もう昔は色々とな」

 パベル爺さんはなにやら不気味な笑みを浮かべた。

 実際のところ、つかみ所のない御仁だ。

 どうにも上品そうな容貌と物腰の裏に邪な性格が垣間見える気がするのは気のせいだろうか?

 なんか食えない人だという印象を抱いてしまう。

 作業甲板からすらりと背の高い美人が現れたので思わず会釈する。

 彼女は会釈ではなく敬礼を返した。

「ラザフォード艦長、計器の点検が終わりました。フューリー卿がお呼びです」

「ふむ、わかった早速出向くとしよう」

「こちらの方は?」

 彼女は突然向き直り、びしっと敬礼をした。

「旗艦ロード・ストーン副長のフレイア・ラディアスです、准騎士殿」

「騎士団艦隊部門のナンバー3。儂直属の部下じゃ」

「階級は特務大尉です。以後お見知りおきを」

 歯切れが良く、背筋もピンと張っている。

 いかにも軍属といった印象を受ける。

「ナダル・ラシールですよろしくお願いします。フレイア副長」

「彼女はゼダ国軍からの出向なの」と先輩がこっそり耳打ちしてくれる。

「なるほどそれでしっかりしてるんだ」

 横合いで噂しているのを知ってか知らずか、彼女はクリップボードを手に事務的な口調で作業の進捗状況を事細かに説明している。

 ラザフォード卿は委細なく視線を走らせながら報告に耳を傾けている。

 しっかりしているとは堅物だという意味。

 副司令以下、わりとくだけた人の多い女皇騎士団からすると彼女はマリアン女史と同様の別人種のように真面目で筋目がしっかりしている。

 教導団でもあまり見掛けないタイプの人だ。

 それだけに自然興味がわく。

「おい坊主も来い、嬢ちゃんはフレイアと作業の打ち合わせをしてくれ」

「あーい」

「ご一緒させて頂きます」

「では行こうか」

 しゃきしゃきと歩くその姿はまったく年齢を感じさせない。

 紫苑先輩が人形番というなら、このご老人はお船番といったところか?

 やっと騎士団らしい人に出会った。

 そう思った次の瞬間、僕はその認識を後悔した。

「で、お主は紫苑の嬢ちゃんとはどこまでの関係なんじゃ?」

 前言撤回。

 なんかスケベったらしい目でじろじろと見ているし、この下世話な質問ときたら・・・。

「あいにくとご想像のような関係ではありません」

「なんじゃ、面白くないのぉ、やっぱり嬢ちゃんの本命はフィンツ坊やかい」

 この人も間違いなく変人の巣窟、女皇騎士団の一員だ。

 ん?先輩の本命っていったいナニ?

 えーっ、まさかあの先輩に限って意中の男性がしっかりいて、しかもあのフィンツ・スターム?まっさかー。


 艦橋につくまでの間、パベル爺さんは四方山話に花を咲かせた。

 昔はあーだったの、今の連中はどうだの。

 正直そんな話、僕にはどうでもいいのですがまあ一応、ご老人の話は聞いておかないと。

 だが、さすがに艦橋区画に入れば終わるかと思いきや・・・。

「・・・だから、儂は言ってやったのじゃよ。お前は建前ばかりを口にしとるが誠がなっとらん。普段、いい加減にしていてもここぞというときには頼りにならぬのではいないより悪いとな」

「はぁ」

 艦橋区画には豪華客船さながらに赤絨毯が引かれている。

 扉や窓枠といった調度にも念が入っている。

 なるほど、確かに女皇陛下の座乗艦に相応しい作りというわけだ。

「そんなに珍しいか?」

「はい、それはもう」

「まっ近いうちに嫌でも乗ることになるさ」

 そう言ったパベル爺さんの目は笑っていなかった。

 艦橋に入るなり、爺さんは大声で怒鳴った。

「おい、イアン出向いてやったぞ」

 見ると艦長席に寝そべって居眠りをしている不届き者がいるらしい。

「まったく、お前にゃその席はまだ早いわ」

「ううん?」寝ぼけた様子でその人物はのろくさと顔を上げた。「ありゃ、お早いお着きで」

 作業ツナギもだらしないこのおっさんは指揮机に長い脚をなげだして大きく伸びをした。

「今日から見習い騎士として着任したナダル・ラシールです」

「あー、よろしくね」

 気のない返事を残して居眠りの続きをしようとしたおっさんをパベル爺さんはこづいた。

「あいたー」

「だから、呼びつけたのはお主じゃろ?」

「あー、そうでしたね。でも」と言ってそのおっさんは僕を指さした。「聞かれてもいいんですか?」

「構わん。どうせわかりゃしない」

「へーい、んじゃ早速」

 ちょっと待ってよと思った僕はおっさんに声をかけた。

「あの失礼ですが、あなたは?」

「ん?わたし・・・」と言ったきり、おっさんは視線をあちこちに漂わせた。「あー、自己紹介してなかったか、私はイアン・フューリー。あっちに見える輸送艦バルハラの艦長で一応正騎士だよ」

 窓の外にはロード・ストーンよりも一回りは小さい飛空戦艦が停留している。

 イアン・フューリー?

 いや、もちろん名前は存じ上げていますがね。

 なんか聞いていた話とかなり印象が違う・・・というより、違いすぎる。

 若年ながら卓越した戦術理論で教官達をへこませ、教科書に書いた落書きがそのまま翌年度から正式採用されたっていう伝説的逸話を持つ教導団きっての天才戦術家。

 国軍、国家騎士団と合同の頭上演習でも並み居る参謀官たちを唖然とさせる見事な作戦で勝利し、かつて女皇騎士団にその人ありと言われた“百識”ベックスの再来と呼ばれた男。

 そのイアン・フューリーがこのぼーっとした冴えないおっさんだって?

 いや、考えてみれば今日会ってきた人たちってみんなこういう人ばっかだった。

 ヘビ中年の副司令に、娘にも手を焼く熊おじさん。

 ヒス持ちのマギー女史に、小動物さながらの先輩。

 スケベ爺さんに、居眠り大好きなおっさん。

 確かによくもまあ集めたと言わんばかりのロクデナシ揃いだ。

 どうやら来る所を間違えたらしいという気になる。

「小僧はそのあたりを適当に見終わったら勝手に戻っていいぞ」

「あっ、整備終わったばっかりだから計器の類には触らないでね」

「はい」

 それだけ言い残すや、爺さんとイアンのおっさんは僕の存在に構うことなく絵図面を広げた。

「これが連絡員の入手した展開図。4日前のものです」

「ふむ、水も漏らさぬ軟包囲網というわけか。しかし、陛下も無茶を言われるな。確かに乗りかかった船ではあるし、愚王への約束もある。陛下の性格から言って見殺しにはできまいて」

「はい、連絡員からの報告ではファルマスは依然として士気練度共に高い。東征軍が消耗を避けるために外堀を埋めて兵糧責めに切り替えたのもうなづけます」

「どうにかしてやりたいところじゃな、なんとしてでも」

「しかし、これだけ戦場を広く取られていては手持ちの僅かな戦力では突破口を見出すのは不可能です。言いたくはないですが、黒十字どもがああも脆く返り討ちにされたことがすべての原因。せめて国境線の一部でもどうにか維持してくれればこちらとしても大いに助かったんですがね・・・」

「国境線を越えるどころか、押し返されてウェルリの喉元まで入り込まれておるからのぉ。最悪の場合、愚王だけでもロードで救出せよと命じられたわい。だが、そんなことになれば、もはや東部戦線を維持できまい。ファルマスが陥落すれば、国内で完全に孤立した弟君も逃げを打たざるを得まい。占領地の一部返還を条件に黒十字は和睦を申し入れる。国騎の高笑いが聞こえるようじゃて」

「テリーもここが粘りどころとみているようです。ファルマスがあれほど手堅く戦力を維持できたのも、愚王の指揮能力が思いの外高いからこそです。長引いてしまった分、物資食料の方が相当キツくなってしまいましたがね。弟君の方は北海を完全掌握して海上では連中に相当の痛手を与えています。東征軍にも補給面での焦りがみられはじめた。リスクを犯して強引な侵攻作戦を取らざるを得ないのもそれだけ厄介と考えているからでしょう?それに黒十字もやられっぱなしではいられませんから、《疾風の剣聖》擁する虎の子の特選隊を繰り出してモーリス渓谷だけでも奪回しようと考えているようですね」

「ここが正しく切所じゃな?この難局を乗り切りさえすれば十二分に情勢をひっくり返せる」

「そのためには最高の一手が必要ですが、それがなかなか見つかりません」

 イアンさんは険しい表情で絵図面を穴があくほど睨んでいる。

 耳慣れない単語と地名が飛び交い僕はすっかり困惑した。

 ファルマス、愚王、弟君、国騎、黒十字、東征軍、それに疾風の剣聖だってぇ?

 なんだかよくは分からないが要するに前線で孤立した味方のために補給を行いたいが、厳重に包囲されていて難しいという内容か?

「季節は春、険しい山岳地帯、水・・・そうか水だ」

「なに?」

「手近な物資集積所はここか・・・行けるな」

「むっ、お主なにかひらめいたか?」

「ええ、まずはこことこことに爆薬を仕掛け、二つの堰を切ります。今は雪解け水で水量が多いですから付近一帯は水浸しになります」

「ほうほう、すり鉢状の地形からするとこの辺りまで水浸しになるのぉ」

「ええ、加えて夜間は氷点下まで気温が下がりますから流れ出した土砂が凍結する。すると高台にあたるファルマスの正面地点が完全に孤立します」

「ふむ、そこを強襲揚陸すれば一手で詰められる。集積物資を奪って愚王に献上すれば更に粘れるというわけか?」

「これでいきましょう。ええ、これならいける筈」

「それでは連絡員をあやつのところにも向かわせるか?」

「いえ、フィンツでいいでしょう。明日は大学に顔を出す日のようですから」

 爛々と瞳を輝かせたイアン・フューリーはなんだか別人のように輝いて見える。

 なるほど、確かに普段はぼーっとしていそうだが、ここぞというときはやってくれそうな人・・・なのかも知れない。

 そして、このときはなんのことだかさっぱり分からなかった二人の会話が僕にとって重大な意味を持つことになるとは、まったくもって分からなかった。

 二人の議論は更に白熱する様子だったので僕は言われた通り引き上げることにした。

 艦をおりて格納庫に戻る。

 紫苑先輩は既に作業に戻っていた。

 邪魔すると悪いので挨拶もせずに地上に戻る。


 さて、やっと待望のフィンツ・スターム卿にお会いできる。

 僕は彼に会えることをなによりの楽しみにしていた。

 フィンツ・スタームは教導団の出身ではない極めて異例の存在だった。

 8歳から出仕しているのでわざわざ教導団で訓練する必要がなかったらしい。

 かわりに現役騎士たちの手で養育されたのでどの能力をとっても一級品だと言われている。

 中でも凄まじいのが、手合いで200戦無敗といわれる天才的な真戦騎士としての腕前だ。

 年齢こそ僕と1つしか変わらず、紫苑先輩と同い年の彼が、ゼダ全土はおろか中原世界でも広く名前を知られるのはその為だ。

 6年前のエドナ杯では見事完全優勝を果たした。

 対戦相手が逃げてしまう恐れがあったのでわざわざ偽名で出場したと聞いている。

 名のある騎士団に自分の名前を売り込むために用意された大会でわざわざ偽名を使って出場するというところからして、もう普通ではない。

 あっ、僕ですか?いえ、僕はエドナ杯には出ていません。

 6年前のときはまだまだ未熟なひよっこでしたし、今となっては出てもあまり意味がありません。

 そもそも教導団や士官養成学校みたいな訓練機関にいる者にとって大会出場は腕試しか思い出づくりにしかならないんです。

 それこそフィンツさんみたいに出れば確実に優勝できるというのなら考えないでもないですが、まっいいとこ本選出場どまりではないかと。

 行き先を聞くつもりで詰め所まで戻ってみたら、それらしい二人連れに出くわした。

「すみません、今日からお世話になっているナダル・ラシールですが?」

「あっ、君が・・・ねっ・・・」

「ふーん、なるほどね」

 長身で銀髪が目映い美男子と黒髪で痩せぎすの人。

 多分、銀髪なのがビルビット・ミラー少佐。

 僕と同じく教導団を主席で卒業して正騎士になった御方で、黒髪が噂の・・・

「フィンツ・スタームです」

「ビルビット・ミラーだ。よろしくな」

「よろしくお願いします」

「ところで・・・」

 二人は興味津々といった目で僕に詰め寄った。

「愛しのお姉さんは元気かい?」

 ちょっ?なんすかそりゃ。

 ほんと最悪だ。

 なんでこの二人が揃って姉さんのことを知ってるんだか。

「セリーナさんっていうんだよね、お姉さん?」

「どうも絶世の美人だって噂には聞いてるんだけど、グエンのおっさんはなかなか話してくれないしね」

「はぁ、そうなんですか?」

 僕は頭を掻くしかない。

 どうも、クソオヤジは職場では姉さんの話題に触れたがらないらしい。

「まあ、いくら美人だからって実のお姉さんはマズイでしょ」

「そうそう、折角教導団にいたんだから可愛い娘がぞろぞろいただろうにね」

「はぁ、そうかも知れませんね」

 なんだか二人とも色々と事情を知っていそうな雰囲気だ。

「熊おやじの娘さんを袖にしたって話も聞いたよ」

「いやはや、そっちはよーくわかる」

「可愛いんだけどね、マーニャちゃんだっけ?」

「うん、みてくれは結構。だけどあの性格と出自はちょっとヒクね」

 なぜ?

 なんでそこまで詳しく知ってるの?

 今日の挨拶回りで度々引っかかっていたその事を僕が聞こうとしたときだった。

「あらっ、皆さんお揃いで」

「やあ、ティリンス。お待ちかねの後輩が来たみたいだよ」

 そこには“あの人”そっくりな女性が立っていた。

 長身で肩幅も広い。

 しかも筋肉質でいかにも女性騎士といった印象のその人の姿にはよーく見覚えがあった。

「ふーん、この子が妹のお気に入りだっていう子ね」

「なんかこっちに来るたんびに噂してたんで初めて会ったって気がしないよね」

 そうかそういうことか、なるほどあの人ならやりそうだ。

 どこに行っても余計な話が筒抜けになっているのはあの人の仕業だったか。

 はあ、せっかく離れたっていうのにあの人の影がこうもつきまとうとは・・・。

 おやっ?ミラーさんがさっきから黙り込んでいる。

 フィンツさんとなごやかに談笑するその女性をまじまじと見つめるミラーさんの表情が次第に険しくなる。

「お前っ、アニーだろっ?」

 げっ、アニーってまさか・・・

「くっくっくっくっ、バレちゃしょうがない」

「だぁ、またやりやがったな、コイツ!」

「あああああ、アルセニア教官・・・」

 僕が6年かけてもまったく理解できなかった人。

 それこそが・・・

「やー、寂しくなるんでついてきちゃったよ。会いたかったよー、ナダっちぃ」

 ギャー

 逃げようとするところを取り押さえられて羽交い締めにされる。

「かかかか、カンベンしてください教官」

「つれないねー、あんなに可愛がってやったのに」

「あー、もうそんな時期だったか」

 なんすかその時期って?

「あー、多分しらないだろうから教えておくわ」

 ミラーさんが僕の肩にぽんと手を置き、憐憫の視線を向ける。

「アニーことアルセニアと、ティニーことティリンス。二人は定期的に入れ替って女皇正騎士ティリンス・オーガスタを演じているんだ」

「へっ、ということは?」

「まっ、中身はどっちもお前がよぉく知っているアルセニア教官だってことだよ」

 えっえええええええええええええええええ

 そんなー、やっとあの人から解放されることだけが唯一の希望だったのに。

「もー、ナダっちは案外ニブいから自分で言わない限り、絶対に気づかれないと思ってたのにさぁ」と教官。

「いや、普通は気づかないって。二人を並べてみる機会なんてそうそうないもの」とミラー少佐。

「ビリーの他には陛下くらいだよね、ちゃんと見分けがついてるのって」とフィンツさん。

 アルセニア教官には数々の武勇伝が残っている。

 シルバニア教導団在席の学生時代、オーガスタ姉妹はミラー先輩と同期だった。

 姉妹揃って格闘技、剣技、真戦兵操縦技術すべて特Aクラス。

 だけどそれ以外の教科はさっぱりダメ。

 さすがにそれでは正騎士には出来ないので、マリアン女史やマーニャと同じスカートナイツに採用されたそうなのだが、僅か3日でクビになり教導団に戻されたという。

 これも二人揃って。

 その三日間でダメにした皿の枚数は200枚を越え、僕らの給金では一生かかっても弁償できない美術品を幾つもぶちこわし。洗濯させればシーツを50枚も再起不能にしたと言われている。

 伝説の反面教師「破壊王シスターズ」としてエベロン女学院では彼女たちの名前が時折引き合いに出される。

 学生時代も教官たちの頭痛の種だった彼女がどういう経緯を経てシルバニア教導団の格闘技教官になったかについてはアエリア最大の謎と言われていた。

 なんでも有力な説としては、前の格闘技教官が彼女の育成を誤ったのは自分に責任があると職を辞し、その後釜に当の本人が居座ったと言われている。

 更に謎だったのは姉妹の姉ティリンス・オーガスタが女皇正騎士に抜擢されたことだろう。

 当時はシルバニア教導団始まって以来の珍事とさえ言われていたそうである。

 とにもかくにも、アルセニア教官の授業は滅茶苦茶だった。

 ロクな訓練もしないまま、いきなり実戦訓練。

 おかげで怪我人続出。

 男女総勢50人の訓練生が彼女一人に血祭りにあげられた。

 無論、僕もその一人だ。

 おまけに思いつきだけで厳冬期の冬山登山をさせられて遭難者が相次いだ。

 訓練は途中で中止。

 幸いにして全員が無事救助されたが危うく死人を出すところだった。

 かくいうこの僕もブリザードが吹きすさぶ洞窟内で仲間たちと身を寄せ合って共に一夜を過ごす羽目になり凍傷で手足を失いかけた。

 完全に直るまではペンもろくに持てなかった。

 さすがにこの一件では大目玉を食ったらしく、しばらく大人しくしているかと思いきや、それはとんでもない楽観だった。

 彼女はお気に入りのオモチャを見つけて夢中になっただけの話だった。

 そう僕が“人身御供”と言われだした最初のきっかけはアルセニア教官に目をつけられた事からだ。

 他の学生たちへの理不尽な振る舞いが減ったかわりに僕に集中するようになったのだ。

 卒業までに絞め技で落とされたことが8回。

 そのうち3回で失禁してしまったが、毎回誰かしらやられていたので、訓練生たちの間では恥ずかしいことでさえなかった。

 3回で意識が戻らず懸命の蘇生措置で辛うじて命を取り留めた。

 強烈な心臓マッサージのせいで意識が戻るかわりに肋骨を折ったこともあった。

 骨折脱臼させられたのが都合17回。

 一番酷かったのが左腕の骨折で全治3ヶ月。

 その他、打ち身捻挫の類はもはや計測不能。

 物理的な被害でもこれだけの数。

 精神的な被害はもっと深刻だ。

 なにしろ教官こそが実質的にあの理不尽な扱いの中心にいた。

 洗濯物は押しつけられ、部屋の掃除はやらされる。

 買い出しということで30キロ先の村までお使いに行かされ、セクハラの類はほぼ毎日。

 僕をナダっちと呼び始めたのは本当に親しい紫苑先輩が最初だったが、それを聞いたアルセニア教官が真似し始めたせいでアエリアの全訓練生たちに浸透した。

 おかげで僕の顔はアエリアにいる誰もが知っているのに、フルネームを知っている人はごく僅かで、久しくラシールと呼ばれたことはない。

 毎月の恒例行事として制限時間内に学院の敷地内を逃げ回る僕を真っ先に捕まえた人が僕の優先使用権を手にするという通称“ナダル杯”。

 これを発案したのが教官だ。

 捕まえた人は別の誰かに権利を売っていいことになっていたので、訓練生ほぼ全員から追い回された。

 6回目あたりから面白がった他の教官たちまで参加。

 15回目あたりから学院の恒例行事と認可されて賞品が出るようになり、参加者の目の色が変わった。

 最終的には参加者があまりにも多いせいでグループ対抗戦になった。

 僕が逃げ切った場合には、格闘技の訓練を免除してA判定が貰えることになっていたので、文字通り命懸けで逃げ回った。

 おかげさまで逃げ足と隠れるのだけは他の誰よりも上手になった。

 “ナダル杯”は僕の卒業までに全30回ほど実施されたが、うち5回完全逃走に成功し、6回は教官本人に捕まって以後1ヶ月は地獄をみた。

 本当によくまあ逃げ出さなかったもんだと我ながら感心したものだ。

 大体、先日、パルムへの斡旋が決まって、子供みたいに泣きながら送り出した張本人がどうしてここにいるんだか・・・って待てよ?

 定期的に入れ替わっていたってことは・・・もしかしてどっちからも同じだけ被害を受けてたってこと?

「えーっと、全員血祭り事件ってアルセニア教官の仕業ですか?」

「それはティニーだね」

「では、冬山遭難事件は?」

「それはあたしだ」

「“ナダル杯”を発案したのは」

「うーんと、発案したのはティニー。捕まえた回数が多いのはあたし」

「それで、主に“可愛がって”くださったのは」

「そんなの決まってるじゃない」とクスクス笑っている。

「両方だ」

 ミラーさんが心底同情したというようにポンと肩を叩いた。

「お前はまだいい、まだマシだ。なにしろ俺なんか二人同時に相手にしてたんだぞ、3年間毎日な」

「あはははははははははは」

 一人だけでも相当大変だった。

 それが二人同時だったとしたら・・・僕は3日も耐えられない。

 僕はたったそれだけのことで“人間薄焼きせんべい”ことミラー先輩には一生ついて行こうと決心した。


 僕は昼食に強制連行させられた。

 フィンツさんやミラー大先輩といった同僚たちがいる前では、さすがに無茶な振る舞いはないだろうと思ったのだが甘かった。

 僕は首根っこを捕まれたまま騎士団本部の廊下を連れ回され、目抜き通りのレストランに押し込まれた。

 ああ、数日もすれば付近一帯で有名人になっていることだろう。

 ランチをつつきながら切り出したのはフィンツさんだった。

「だけど分かる気がしますよ、みんながナダルくんを可愛がるの」

「でしょ。だってこいつ本当に可愛いもの」

 あだだだだだだだ

 僕の左腕に関節技をキメながらアルセニア教官はにこやかに笑う。

 本当に可愛がってるなら、痛めつけるのもうやめてくださいって。

「まっ、おまえら姉妹だけじゃなく、紫苑の奴も相当お気に入りだったっていうし、わかるっちゃあわかるけどさ。こいつがあのグエン室長の息子ってことだけがいまいち理解できん」

「たしかに言えてますよね」

「父親似だと将来ハゲちゃうのかな。グエン室長ってあの通りだし」

 僕の髪を確かめるようにひっぱりながら、元教官は面白がる。

 やめてー、気にしてるんだからほんとやめてー。

 それはさておき、僕は先程来ひどく気になっていた事を尋ねた。

「それより、室長ってなんですか?」

 クソオヤジの具体的な職務について、僕は一切知らない。

 今までまったく興味がなかったし、どうせ適当な仕事ぶりなのだろうと考えることさえ放棄してきた。

「女皇騎士団監察部調査室室長。君のお父さんの肩書きだよ」

「泣く子も黙って正座する鬼の室長って有名なんだよ」

 意外だった。

 クソオヤジのこったからもうハゲネズミとか、見た目そのままで通っているかと思っていた。

 ああ、一部では通じるか。

 監察部?勤務評価や実態把握の部署だろうか。

「まあ、室長は先代の司令だし・・・って言っても僕らの子供の頃の話かな?」

 えっ?初耳だ。

 そもそもオヤジって女皇正騎士だったのかよ。

 しかも司令ってそんな馬鹿な。

「勇退が随分はやいな?確か室長ってまだ50前だったよな」

「なんでも事件があって、新部署の立ち上げ準備の為に職を辞したって話だよ」

「10年くらい前のその時期に起きた事件と創設された部署って・・・げっ」

 なにかに気づいた様子のミラー先輩の顔が青ざめる。

「あっ、そういうことか」

 フィンツ先輩もうなづく。

「どうしたの二人とも?」

 アニー教官だけがなんのことか分からないといった様子で小首を傾げる。

「この話題やめよう。俺は命が惜しい」とミラー先輩。

「そうです、世の中には知らない方がいいことも多いですから」とフィンツさんも青くなっている。

 なんなんだろういったい・・・



闇の章 ナダルの深き業と闇


「アレっ、ナダルくん何処に行ったんだろう?」

 フィンツの指摘にアルセニアは一瞬だけきょとんとした後にチッと小さく舌打ちした。

「やられたっ、というかアイツの特技よ」

「ほぅ?やるじゃんアイツ」

 つい数分前までアルセニアから関節技をキメられていたナダルの姿は付近1ブロックにまったく見当たらなかった。

「ヤな予感がするんだけど」

 フィンツの言うヤな予感は100%的中する。

 経験則でビリーとアニーはそれを知っていた。

「同感だ、フィンツ。配属初日だから今日ぐらいは大人しくしているのだと思っていたんだが・・・」

「アイツ・・・マジでやらかす気かっ!」とアルセニア・オーガスタは更に険しい表情を浮かべた。「ヤバいよ、フィンツ。アイツは親父さんやアンタたちより遙かにタチ悪いよ」

 アルセニアの言葉にフィンツとビルビットは視線を交わした後に頷き合った。

「ふむっ、どうやらナダルくんもボクやビリーと同じく《覚醒騎士》ってことのようですね?」

 だが、アルセニアは否定した。

「いいえ、目覚める寸前だった筈。わたしたちはナダルを《微睡みの刻》に封じていた。適度なストレスと刺激的な生活。それはナダルにとって全部が全部苦い思い出なんかじゃない。アタシたちみんなの注いだ愛の結晶。だからあの子はわたしとティニーを恨んでいないし、紫苑やマーニャたちの事だって憎からず思っている。それこそ、アエリアで大事に育ていた“金の卵”。ハルファでそうして育てられた“ディーン”、セスタで育てられた“ベルベット”なら、アタシたちの仕打ちの正体がわかるでしょう?」

「ああ」

 ベルベットことビルビット・ミラーは苦りきった顔で答えた。

「時として人を超えてしまう覚醒騎士に植え付けられる《愛のトラウマ》。この世に人としての姿を留めておくため必要な措置。過去に何度も覚醒騎士は“人の形に戻ってこられなくなった”」

 ディーンことフィンツ・スタームも“今”はすべてを理解している。

 硬直し、老成しすぎていたディーンはいちど完全に破壊された後、《愛のトラウマ》により再度覚醒した。

 だが、それは結果であって最初からの狙いではない。

 お互いしか理解しあえず、愛するのも傷つけるのも罵るのも腹蔵なく信じることが出来るのも、鏡写しのような似た者同士だけだったせいだった。

 遠縁だというのに実の姉妹以上に似ている二人を、心ない大人たちは傷つきやすい彼女たちを《対の怪物》と蔑んでいた。

 その腹いせに彼女たちがディーンに《愛のトラウマ》を与えて大陸一の騎士に仕立て上げたのだ。

 ディーンにはわかっていた。

 覚醒するとわかっている騎士を育てることは容易ではない。

 もともと騎士覚醒とは、生命の危機に追い込まれた騎士が発揮する“火事場の馬鹿力”だった。

 脳が暴走をはじめ、人格の崩壊がはじまり、認知認識の崩壊がはじまる。

 そうした中で心の内を埋め尽くすまでの強い動機と衝動こそが騎士覚醒の原理だ。

 ベクトルがひとつに集約されたときに奇跡とも呼ぶべき力を発揮することになる。

 それがこのセカイでのみ可能なる力だ。

 誕生と同時に覚醒しており、極めて硬直した存在と不安定な存在だった兄妹。

 天才と謳われるその両親たちをしても育成出来ず、人手に委ねざるを得なかった。

 そのこと、その方法について20年以上前に“ある女性たち”について考察し、育成理論を提唱した天才的教育学者がいた。

 大陸一の名門エルシニエの大学院卒。

 教育学のエキスパートであり、《愛のトラウマ》提唱理論で博士号を取った俊英。

 フェリオン候都ウェルリ大学への留学を経た後、エルシニエで帝王教育学の教鞭をとると期待されていた人物。

 緊急帰国した彼を待っていたのは最も難解な役回りだった。

 毛並みだけを判断材料に、経歴を一顧だにしなかった元老院議会において、人となりを知り、適正を知り、あるいは最適任者だと賛成票を投じた人物がいた。

 それがために身を置く組織の同胞たちからは“裏切り者”の烙印を押された。

 だが、現状を見た者はどう思うか?

 いちど覚醒した状態で再度覚醒した実体験者たるディーンには《愛のトラウマ》がよくわかる。

 愛憎がひっくり返っても、対象に対するこだわりとしがらみが、心を繋ぎ止めるのだ。

 そして、「救われた」と感じる。

 同じ言葉を彼女からも聞いた。

 だからこそ、悔やまれる。

 三人とも彼の庇護下にあったなら、あるいは?と。

 《愛のトラウマ》。

 人は誰しも愛され傷つけられる。

 そして心に傷が残る。

 だが、その傷は時にその人間を構成する強烈なペルソナとして人格を強固に確立する。

 トラウマは人生を破綻させる原因ともなりうる“諸刃の剣”でもある。

 だが、その心の弱さこそが優しさなのだ。

 優しい人間でない者に覚醒騎士は務まらない。

 その意味でいまはオーガスタを名乗る双子姉妹はディーンとベルベットは間違いなく《愛のトラウマ》理論を実証した“成功例”だと見做していた。

 不動の心と他者への労り、なにより騎士としての己を決して誇らず、すべての騎士に成長の道を示す。

 そして、「だからこそ、人としてなにかを成したい」という強烈な衝動と欲求とが、隠れていた別の才能をこじ開ける。

 “天は二物を与える”というのは、嫉妬に目が曇ってなにもわかっていない人間の言葉だ。

 “天才を授かった者はもう一つの扉をもこじ開ける”のだ。

 天才とは逃れがたい宿命。

 だからこそ、逃げ道が必要なのだ。

 ディーンの場合が学問であり、もともとの素質の高さを証明してみせた。

 親が親だけに半端ではない。

 ベルベットの場合は大陸一のエキュイム名手。

 もともと騎士としてあらゆる状況と可能性を瞬時に追い求めるその頭脳は盤上競技でも通用する。

 あるいはすべての時間軸においてベルベット以上の打ち手はいないのかも知れない。

 そうして牙と爪を隠すのだ。

 その必要に迫られるまで。

「パルムに戻ったナダルの心の中でなにかが決定的に引き金を引いた?」

 とはいえ一昼夜だ。

「“愛しのお姉ちゃん”絡みかな?」とビリー。

「いやそれもない。セリーナは此処に居ないし、到着は今夜半」

 現在のセリーナは《蘭丸》と共にまさかの鉄道便で帰還中の筈だ。

 トリエル直下のセリーナ・ラシールは大陸東でやりたい放題していた。

 その作戦計画を担っている学生バイトの参謀と共に、アリョーネたちは想定外の戦力がいたものだとあきれ返った。

 いっそ、最初の一手で詰めたくなるほどに。

 セリーナ・ラシールはなにしろ札付きの怪物娘だ。

 やることなすこと規格外なせいでナダルとマーニャは完全な被害者だ。

 マーニャはスレイマン家次期当主となった。

 実を言えばビルビットとフィンツがマーニャ・スレイマンを良く思っていないのは、《執行者》たる二人に残酷なオーダーを出す側だったからだ。

 過去形なのはナダルが呼ばれたことで、執行機会が大幅に減るということだ。

 だが、マーニャ・スレイマンは分別と節度を弁えている。

 オリビア・スレイマンに徹底的に叩き込まれてアエリアに送られたマーニャが先に戻れたのも、ナダルよりもマーニャの完成が早かったせいだ。

 だとすると・・・。

「アタシ、わかっちゃった。紫苑だ」

「どういうこと?」

「ホント、紫苑も最近不安定なんでさ、わけのわかんないことを言い出したってティニーから聞いていたから、初恋の人がフィンツだとか」

「嘘でしょ?」

 そもそも本当の事情を知っているフィンツ・スターム自身からしたら絶対にありえない。

 アルセニアもそれはわかっている。

 なにしろ“婚約中”なのはフィンツの正騎士任官以来だったし、任官後の紫苑本人から「正気の沙汰だとは思えない」とからかわれてもいる。

 それ以上に現状の何処に好意を抱く要素があるというのだ。

 紫苑が丹精込めて整備した真戦兵を毎度ボロボロにするフィンツの事を恨んではいても、その逆はない。

 再三再四、「手加減して」「大事に扱って」と言われながら、現行機で満足のいく作りの機体がなく素体の老朽化も手伝って、フィンツは任務のたびに素体を駄目にしてしまう。

 真戦兵への愛がひとかたならない紫苑にしたら、まさに“悪質な破壊王”だった。

 プラスニュウム装甲の損傷はすぐ直せるが、素体がズタズタなのではたまったものではない。

 だいいち本当にフィンツが初恋の相手だとか言うのならそれは何十年も前の話になる。

 なにしろ、フィンツも紫苑も幼少期から女皇宮殿を遊び場に育った仲なのだ。

「ラザフォード提督から聞いたときはたまげたけど、フランベルジュの件で紫苑もプレッシャーキツいだろうし、現状孤立していてストレスだって相当溜まってる。だからこそ、陛下やアルベオ学院長も気づいていて、慰めになればと仲の良かったナダルを寄越したのだと」

 実際のところ様々な問題は起こしていても、指導教官としてある種の信頼を置かれるオーガスタ姉妹はエベロン、シルバニアの両学院にて頼りにされている。

 なにしろなんらかのアクシデントで騎士覚醒が起きたときのために常時駐在していた。

 ナダルの在学中はアエリア教育施設群は極めて安定していた。

 ナダルが“人身御供”になってくれたお陰で、“覚醒事故”は極めて少なく済んだし、アルベオ・スターム学院長がナダルの祖父で盟友たるアランハス・ラシールから託されていた養育も進んだ。

 はじめからナダルは父祖と同様に表向きは女皇正騎士として、実態は隠密機動部隊の指揮官たるために教導団で大切に育てられた。

 現在、女皇騎士団内には二つの諜報部隊がある。

 グエン・ラシール元司令の女皇騎士団調査室。

 宮殿内や要人宅といった皇都パルムの重要施設を監視するための部隊。

 そして、トリエル・メイル副司令の直轄部隊でラシール家やマリアン・ラムジー女官頭たちも含む女皇騎士団隠密機動部隊。

 こちらは女皇の求めに応じ、様々な情報収集を行う。

 ときに暗殺や破壊工作、要人救出や警護も含め、相当物騒な真似もする。

 現在は国家騎士団が東方外征中のオラトリエスとフェリオ国内での危険な諜報任務に従事している。

 ナダルの“愛しの姉さん”ことセリーナ・ラシールはとりわけ優秀だし、グエンもデュイエも諜報戦のエキスパート。

 ナダルが多分に漏れるはずがなかった。

 アエリアという僻地ではホームシックや同級生からのイジメといった要因からストレス爆発を伴った騎士覚醒のトリガーになりやすい。

 なにしろ門閥貴族の子弟で騎士因子を持たない人間の方が希有だった。

 ナダル杯というのはナダルを優秀な隠密にするため、逆に要人警護のエキスパートたる女官や女皇騎士、近衛隊育成のため実施されていた。

 体裁は鬼ごっこだが、元離宮であるエベロンはその格好の訓練の場だった。

「いや。話に聞く《共鳴現象》かも知れない。騎士覚醒は連鎖するんだ。つまり、不安定な紫苑に促されてナダルまで巻き込まれた」

 フィンツ・スタームはその師から戦場での衝突で多くの血が流れるとき、決まって命の危機に立たされた騎士達の暴走劇があると教えられてきた。

「だとすると、こんなとこでのんびりおしゃべりしている場合じゃねぇ。地下格納庫内もひろいぞ」とビルビット・ミラーは席を立った。

 さすがにナダルと紫苑の二人が殺し合いになることはない。

 だが、イヤなウワサはフィンツとビルビットは耳にしていた。

「ナダルがナダル杯で完全逃走に成功したとき、アイツの力のせいで危うく死人が出るところだった。その回からナダル杯での真戦兵の使用は禁止されたの。けど教導団は正式な報告をあげていない」

「危険極まりないな」とビルビット。

 “教官”としてのアルセニアの本能が察知していた。

 覚醒騎士の恐ろしさをアルセニアが目の当たりにしたのはそれが初めてではない。

 むしろその逆だった。

 覚醒騎士への対処を知る者としてオーガスタ姉妹がナダルの“監視役”を請け合っていた。

 神経をすり減らして“監視役”たることが余りにも負担が大きく辛いため、姉妹は二人で一人を演じてきた。

 監視役に比べたら女皇正騎士など、軽い息抜きと休養だった。

 幼馴染みであるビルビットがフィンツと同様に自らの本名を名乗らないその理由。

 “名に呪われた騎士”として自分をひらべったく蔑み、薄焼きせんべいの異名を甘んじて受け入れているその理由。

 オーガスタ姉妹が共にビルビットを愛しながら、愛するが故に“呪い”の秘密を守り、女皇騎士団の幹部たちにも少しも悟らせないその理由。

 騎士喰らい、ナイトイーター、騎士の本懐を知る者・・・あるいはヒト型龍虫・・・呼称は様々だがそうした“災厄”と言える騎士は歴史上少なからず居た。

 実際に預言の日が近付くにつれて覚醒騎士たちはその本懐を遂げるために目覚めていくのだ。

 そして、その事実を最もよく知る人物たちに怪物たる愛息を預けた母親の心中を察するとアルセニアは自然涙ぐんでしまう。

 自分たちオーガスタ姉妹も全く同じだからだった。

(頼むから怒らないで、頼むから憎まないで・・・) 

 残酷な真実よりも出鱈目な虚構に救われる人間たちがいる。

 誰かが目の前で道化をやらかしてくれるせいで、他人に振り回されているせいで、あるいは別の何かに夢中になることで・・・怪物は己を律して自制心を保てる。

 ディーンが生き急ぐようにして名門大学生と女皇正騎士の二重生活を送り、論文執筆に血の滲む努力を注ぐ理由と、大陸随一のエキュイム名手としてむしろその名を知られているビルビット。

 高級エキュイムサロンに通い詰めて独自の人脈を作り、結果的に女皇正騎士の職務が疎かになろうが、お構いなしに放置される理由は本質的には同じだった。

 ヒトとして生まれた以上、怪物としての本性で徒な血を流すよりも、人間性を認められ、別の道の達人としてその名と共に自分がこの世界に生きた証を残すことの大切さ・・・それこそがファーバ教団が持てる組織力を行使して“ナコト写本”を守り、“生贄”として秘密を秘匿する法皇だけが正確な事実を知る“覚醒騎士たちの本懐”だった。

 3人はおそらくナダルが向かった場所とこれから行おうとしていることを察知して席を立ち、急ぎ地下格納庫に向かった。

 半ば時既に遅いし、最終的に向かうであろう場所に先回りすることが正しいのか?

 それとも彼を止めるために必要な道具の確保に向かうのが正しい選択なのかを煩悶しながら・・・。


 女皇正騎士として若年ながら実力で群を抜く3人の正騎士たちがナダルの阻止に向かっているとは知らずに、ナダルはおそらくは今も地下施設において作業中で昼食を必要としているであろう耀紫苑のもとに評判のパン屋で昼食を買った後、悠々かつ生き生きとして向かっていた。

(先輩にお昼を届けないとねぇ、その後は待望の種明かしの時間だっ)

 ナダルは微笑みを浮かべ、誰よりも紳士たれという自らの信念に基づき悪びれずに行動していた。

 あるいは、そもそもアルベオ・スターム学院長によるナダルの騎士見習い派遣の本来の目的は、あるいはコレなのではないかとナダルは半ば確信していた。

 なにより昨年度に卒業しているのにアエリアに“待機”させられていた。

 マーニャが目隠しの際にこっそり隊服のポケットに手紙を入れたことにはすぐ気づいた。

 内容の確認をしたのは地下施設を探す合間だった。

 そして、なによりマーニャ・スレイマンが“紳士”というキーワードを口にしたのが合図だった。

 ナダルが男として紳士としてあるのは“当然のこと”だった。

 真性のフェミュニストでなければ、ナダルの思い描く理想の女性たちを護るナイトたれない。

 その女性はナダルにとって至上の存在、至高の存在だった。

 姉であって実の姉ではないセリーナ・ラシール。

 黒い瞳と流れるような黒髪もつ絶世の美少女。

 彼女の“本当の両親”との邂逅を果たして推察は確信に変わった。

(今日はじめて会った人たちの中で誰が一番の嘘つきだったかを考えればおのずと答えは出る。グエン・ラシールの息子だからと警戒して本心も本性も垣間見せなかった二人。共にアリョーネ陛下への絶対的な忠誠を約束“させられた”生贄の二人だ。)

 愛する我が子をグエン・ラシールみたいなゲスなクソ野郎に預けなければならなかった無念を察し、姉セリーナの腹黒さと高潔さが誰から齎されたかを思い描いてむしろストンと胸の奥に納得がいった。

 イジメっ子たちを裏で唆していたのはセリーナだった。

 そうすることで弟のナダルを自分の思い通りに操縦出来る。

 なにが若手の出世頭だ。

 むしろ針の筵で正座させられて、常に人目につくところに祭り上げられている。

 “人身御供”という不穏当な言葉がアエリアで最初に用いられたのはナダルの知る限り20年前のことだ。

 その二人は前代未聞の醜聞事件により、強制的にエベロン離宮に連行された。

 同じく厄介払いと制裁により、当時から学院長だった女皇騎士団元司令のアルベオ・スタームは二人を前にして言い放った。

「なにをしようが自由だが次に過ちを犯せばタダでは済ませない。血をもった償いが必要になる。娘まで“人身御供”にされたいのなら、自由に、勝手気儘に振る舞うといいさ。私も“人身御供”として此処に置かれた単なる置物だ」

 其処から凄惨な洗脳教育が叩き込まれ、数年後にパルムに戻った二人は別人に成り果てていた。

 女皇のための理想的な性格に矯正された二人は互いに目を合わせることさえせずにそれぞれの持ち場についた。

 そして今に到る。

 ナダルが自らに課したのは「他の如何なる誰よりも紳士たれ」。

 紳士たるもの真実を見抜く慧眼と力劣る人々の「助けて」という叫びに敏感でなくてはならない。

 アルゴとオリビアのスレイマン夫妻は幼い頃からナダルをそのように教育したし、マーニャたち三姉妹もすべて承知の上で“紳士”というキーワードを使うことでナダルを《執行者》に変える権限を与えられている。 

 スレイマン家の人間がナダルに“紳士”という言葉を使うのは実際に助けを求める人がいるという明らかなサインだ。

 アエリアにあるエベロン女学院とシルバニア教導団で最初に教えられるのは「なにか助けて欲しいことや、困ったことが生じたら、スレイマンの姓を持つ人にだけ真実を包み隠さず告白しなさい。それで全ては済みます」ということだった。

 大半の若人がその意味することを知らない。

 知る必要がないからだし、実際にそうしなければならないほど切羽詰まることも少ない。

 何故にスレイマン家だけにその様な特権が与えられたか?

 実に簡単な話で、爵位持ちや事情通ならば、“誰でも知っている話”だ。

 スレイマン家は爵位こそないがゼダ皇分家の一つだ。

 つまりはゼダ女皇家の縁戚でその血が濃いのだった。

 それはゼダの国民なら当たり前のこととして知っている事実と符合し、アルゴとオリビアはどんなに望んでも男の子を得られない。

 むしろ男の子が誕生したら、その事自体が不吉の予兆だ。

 実際に四大公爵家は全て女系一族だが、逆に劣性遺伝の結果として約1200年間で4人の男子が誕生したことの痕跡だ。

 ゼダで女系一族なのはむしろ「高貴の血が濃い」という誇らしいことだった。

 アルゴはスレイマン家の婿養子だ。

 だが、《執行者》ではない。

 教育能力の高さを買われてエベロン女学院の教官から抜擢されてスレイマン家に入り婿し、正騎士になった。

 そして、もともと他人になにかを教えるのが得意ではないナダルの両親はその実、実力行使でしか事態を解決出来ない脳筋体質だった。

 結果的に二人の実子さえ産まれながらに「人身御供」にさせられた。

 そして、事実上の養育に関してはスレイマン家に委ねられた。

 アルゴが三姉妹の誰でもいいから嫁にする気になったらとしきりに問うていたのは、ナダルが覚醒騎士にならなかったら、「自らの放逐」という事態を理解した「普通の騎士」に落ち着いたという意味で、年齢の釣り合うマーニャを娶って、アルゴの後継者たるナダル・スレイマンになるということを意味していた。

 マーニャ・スレイマンはその実、スレイマン家の次期女当主であり、普通の騎士であれば入り婿を強制されると知っていて、それでも栄誉だと考える。

 なぜならアルゴは次期女皇騎士団司令に内定している。

 ナダルがアルゴと同じ道を選べば、必然的にアルゴと同じ開かれた出世コースを辿る。

 しかし、残念ながらそうはならず、予定調和の結果としてナダルは「人身御供」かつ新たなる《執行者》となってしまった。

 スレイマン家と《執行者》とのあいだには不文律が存在し、表立っての接触は禁じられている。

 すべては公の場である女皇宮殿ないしは女皇騎士団関連施設においてなされねばならない。

 私邸で会うなどはもっての他だ。

 最大の皮肉にして、現在「監視」の役割を担うのは宮殿内や女皇騎士団本部のあらゆる場所に部下を配しているナダルの実父、グエン・ラシール調査室長だった。

 つまるところ、ナダルは一番くつろげる「本来の実家」の敷居を跨げない存在となり、実父から厳重監視対象となった。

 当然ながらスレイマン家の女当主たるオリビア・スレイマンに会える機会もまたごくごく限られてしまった。

 それこそ、なんらかの事情で極秘裏に《アリョーネ女皇》が女皇宮殿を不在にする間だけ、オリビア・スレイマンが女皇の影武者となる。

 当然、エンプレスガード・・・“女皇陛下の最側近の騎士”は現在においてはマグワイヤ・デュランが担い、影武者としてオリビアが《アリョーネ女皇》を演じる間だけ夫のアルゴ・スレイマンがその役を担うのだ。

 ナダルが挨拶を終えて部屋を出た後にアルゴが大きく舌打ちしたのは親友グエンの“業”の深さに失望したからだ。

 またしつこく私邸に来るように誘いをかけたのは、ナダルが《執行者》としての分を弁えているかを丁寧に確認するためだった。

 さてマーニャはナダルに符丁を使った。

 つまり、《執行者》の力を必要とする事態になったというSOSだ。

 その内容については手紙にしたためて、ナダルのポケットに放り込んだ。

 5日前のことだ、スカートナイツの一人が真戦兵戦技訓練場で現役の国家騎士たち複数名から狼藉を受けた。

 その子はあらかじめ定められた通りに同僚のマーニャ・スレイマンにだけ事実を打ち明けると、身辺整理を済ませた数時間後に自ら命を絶った。

 やがてドラウ大運河に遺体があがった。

 単刀直入に表現すると戦技訓練を終えて着替えていたところを待ち伏せされて、男性騎士6人がかりでよってたかって輪姦されたのだ。

 女皇家に仕える騎士としてあってはならないことだった。

 その娘は涙ながらにマーニャに無念を訴え、自分の迂闊さを責めた。

 本来ならパルム中央軍所属の国家騎士たちは品性や品格を備えたナダルよりも年季の入った紳士たちであるし、爵位持ちも多い。

 安易な欲望を満たすよりも名誉と誇り、潔癖を旨とした方が回り回って得をすると徹底教育されたエリートたちだった。

 しかし、東方外征が始まり、本来ならパルムを護るエリート国家騎士たちはゴッソリと動員された。

 その穴埋めとしてゼダの各地から半端者が集められる。

 そうした人事の悪い結果が今回の狼藉事件だった。

 更に悪いことにその日に限って国家騎士団宮殿支部を任されるウィリー・ヒューズ大尉が騎士団本部で東方外征の現状報告会議に出席していた。

 また、更に悪いことにスカートナイツの同僚たちが交替時間やら私用の関係で一緒に訓練に参加出来なかった。

 しかし、人数が増えれば犠牲者が増えただけだったかも知れない。

 国家騎士にはピンからキリまでいる。

 キリに相当する輩は不行状、不心得を理由に《執行者》が片づける。

 そのために喧伝されていた執行者フィンツ・スタームの手合い200戦無敗だった。

 実際のところ、それが喧伝された時点で200戦は消化していなかったが、今やその数字などとうに超えている。

 それは国家騎士たちが私的制裁されたのが200件あったという意味ではない。

 それほどの凄腕だから腕に覚えのある者は、いつでもいかなるときでも、彼に挑んでも構わないという意味だった。

 そして、フィンツはいついかなる場合も「手合い」を断ったことがない。

 ピンからキリのピンに相当する国家騎士たちやエリートガードである女皇正騎士は挑んだ結果としての実りのある敗戦で己の実力不足を痛感し、更なる研鑽を重ねる。

 結果的に怪物フィンツとの手合いは己を高める。

 実際のところ、負けた回数が多い騎士たちほど影で賞賛される。

 よしんば膝をつかせれば、若くして分不相応なまでの栄誉が与えられる。

 実際にそれを達成した人物は“いた”。

 国家騎士団の現トップエースたるシモン・ラファールは敗戦をかさねながら、時間切れ引き分けの域にまで到達した。

 そして、実際に剣聖級として讃えられ、ビルビットやオーガスタ姉妹と同い年の26歳にして国家騎士団「大佐」に昇進している。

 議会で認証される女皇正騎士たちが少佐相当官なので、つまりはそれよりふたつも格上だった。

 東方外征の働き次第では異例の20代将官となる可能性さえ示唆されている。

 「黒騎士隊の双璧」と並び称されるアリオン・フェレメイフ大尉とマイオドール・ウルベイン中佐も同様だった。

 アリオン・フェレメイフに至っては騎士の登竜門と言われるエドナ杯の決勝で偽名で参加していたフィンツ・スタームと一瞬の攻防で敗戦して準優勝に終わって以来、《刹那の衝撃》という生きた伝説となった。

 その後もアリオンは機会が得られればフィンツに挑んでは敗れて黒星は増え続けたがそれ自体が異常だと言われている。

 なにしろ、アリオン大尉はシモン大佐にもマイオドール中佐にも負けたことがなく、数は少ないが二人に勝っている。

 ゆえに《氷の貴公子》との二つ名を持つ歴とした「剣聖」だ。

 しかし、任地が北部方面軍ということもあって、なかなかフィンツとの再戦実現の機会がない。

 それを惜しむ声も一部にはあるが、国家騎士団北部方面軍の戦略的重要性を鑑みれば《黒騎士隊》のエースと大尉という処遇は18歳のその身に余る栄達だった。

 大尉止まりで佐官になっていないのは単に年齢が足りないからだ。

 だが、キリに相当する不貞の輩はフィンツという怪物を前にして悪夢を存分に味わった上で公開処刑される。

 敗戦事実は新聞報道されても敗死の事実は公にされないだけの話だった。


 ナダル・ラシールは予想通りに「人形番」という自らの使命に没頭して、寝食を忘れている耀紫苑にまだぬくもりの十分に残る昼食を差し出した。

「先輩っ、あまり根を詰めちゃダメですよ。健康あっての女皇正騎士じゃないですか」

 一瞬だけ面食らった紫苑はナダルの差し出した昼食を受け取った。

「ありがとうナダっち、フィンツやビリーに会えたのね?」

「ええ。ご挨拶は済ませましたよ」と言ってから不敵に微笑んだ。

「ところで紫苑先輩、アレは誰なんですか?あのフィンツ・スタームは別人ですよね?先輩もボクも知っている“彼”じゃない」

 耀紫苑はギクっと硬直して手にしていたスパナをとり落とした。

 そう、紫苑やナダルが幼少期から知っていた「フィンツ坊や」はもっと繊細で、誰に対しても警戒心を抱く気弱な少年だった。

 だが、今のフィンツ・スタームは傲慢なほど、ふてぶてしいほどの尊大さと底の知れぬ実力を備えた怪物だ。

 あるいは「私の可愛いフィンツ坊や」と呼ぶアリョーネ女皇自身が、別人だと知っていてわざと彼を牽制しているかのようであることに、アエリアから戻った紫苑は驚いた。

「いったいいつから女皇騎士団は怪物や得体の知れない連中を迎え入れるようになったのです?その答えはボクもマーニャも先輩もパルムにいなかった間の話ですよね?」

 紫苑はその答えを知らない。

 知らされていない。

 そして、今は現実としてフィンツ・スタームという怪物に父祖達の作った大事な真戦兵たちを次々に殺されている。

「ナダっち、いいえ、准騎士ナダル・ラシールっ!貴方はまだ正騎士ではないのよ、言葉に気をつけなさいっ!」

「そうですね。正に若輩者です。フィンツやミラーと相対したこともない思い上がった若造扱いでも、ボクは一向に構いませんよぉ」

 紫苑は戦慄していた。

 ナダルが自分の知っている範疇のナダルではない。

 漂わせる雰囲気もその言葉も明らかに異なる存在だった。

「自分がなにを言っている分かっているの?」と紫苑は受け取ったばかりの昼食を放り棄て、再度手にしたスパナを握り直した。

「あの二人がどういう存在なのだか分かった上での発言なら、所詮は次代人形番に指名されたアタシなんかがどうこう言える立場ではないわっ、でも愚弄する危険を分かっているの?」

 真剣な眼差しでナダルを睨む紫苑にナダルは傲岸不遜そのものだった。

「イヤだなぁ、先輩っ。ボクはね、昔から貴方のことが大好きなんですよ」とナダルは紫苑が放り出した昼食の袋を恭しくいただいて埃を払った。

「ダメですよぉ、先輩。後輩の、特にボクの好意は素直に受け止めてくださいよぉ。ボクは貴方のことが特別好きでもなければ、愛するセリーナ姉様と比べたら『油娘』なんて揶揄されちゃう貴方のことなんかぶっちゃけてどうでも良かったんです。けれども、スレイマン家の符丁には逆らえない。だから、マーニャの指示で貴方をアエリアでの孤立から救うためになら、掃除でも洗濯でもなんでもしたでしょう。それこそ、望むなら『夜のお相手』でもね。ボクという存在が『手の掛かる後輩』だと勘違いされたあなたはボクの存在のもたらす孤独からの救済にまさしく救われた筈ですよねぇ?」

「・・・そうかも知れない」と紫苑は唇を噛んだ。

 実際に耀紫苑はシルバニア教導団内で“孤立していた”。

 耀家の名を聞けば誰もが取り巻くか、距離を置いた。

 取り巻く人は円滑な関係構築をして彼女の心象を良くしたい連中で、距離を置くのは所詮は技術者に過ぎないという軽蔑の念からだった。

 紫苑の父、犀辰も人々の間では孤独だった。

 それだけに娘には優しく可能な限り一緒に居てくれる父親だった。

 二人は共通の痛みにより、親娘の絆が一層に深まった。

「ゴメンね、先輩っ。ラムジーさんがボクの専用機紅丸を用意してしまった。だからボクにとって貴方の出番なんて永久にない。無駄な仕事なんてしなくてもいいんですよぉ」

「アタシを愚弄するのは構わないけれど、どうしてマリアンの名前を引き合いに出すのよ?」

「それは勿論、マリアン・ラムジー女官頭が自分の腹を痛めて産み落とした娘のセリーナ姉様にとって、ボクが運命で約束されたパートナーなんだと認めた証ですからぁ。譲渡ではなく貸与。けれども、あの人の真意が、無残に打ち砕かれたトリエル・メイル・ゼダ皇子ことシェンバッハ副司令との“正式な婚姻”に対する執着。それさえも、認めなかったマグワイア女史たち女皇騎士団幹部に対する当てつけで、ウチのクソババことデュイエ・ラシール元女官頭に頭を下げてまでダーイン・クレッシェンス・《紅丸》の貸与という約束をとりつけたんですからぁ」

 不敵だが的確すぎるナダルの指摘の言葉に紫苑は凍り付いた。

 つい数時間前の出来事でナダル・ラシールはマリアン・ラムジーの言葉ですべてを察した。

 じっさい女皇騎士団には複雑な人間関係がある。

 そもそもナダルはあの鬼の室長グエンの一人息子だ。

 調査室の監視は行き届いている。

 正騎士たる紫苑を前に准騎士のナダルが愚弄していれば、室長とその部下とが駆けつける筈だが、来ない。

 まったく来る気配が感じられない。

 あらかじめ、ナダルが宮殿内に配置されたグエンの部下たちをすべて昏倒させてきたからだ。

 父母を蛇蝎のごとく嫌っていようがコイツが只者であるわけがない。

 迂闊だったのはむしろ自分の方だった。

 紫苑は目の前で交わされていた言葉の持つ深い意味にさえ気づけなかった。

「アレを使う気なの?」

 シャドー・ダーイン・紅丸。

 あのサイズの真戦兵ならば女皇宮殿内だろうが機敏に動くことが出来る。

「イヤですね。クソババの化粧の匂いの残った紅丸は要人暗殺とパルムのような密集市街地戦闘を想定した機体ですよ。そんな物騒な機体の出番なんてもっと後だっていい。まだ今のボクには必要ないです」

(目的も用途も一瞬で見抜いた。なんて子なの・・・)

 紫苑はツバをゴクリと飲んだ。

「だったらなんで・・・なんでアタシに告げるのよ、ナダル?」

「先輩がなーんにもわかっちゃいないからですよ。大体、あのフィンツ・スタームも覚醒騎士なら一目惚れで自分のパートナーをとっくに見極めていますよぉだ。未来の自分さえも客観的に見通す慧眼。その前には先輩の入り込む余地なんて1mmもないんですよぉ」

 たしかにその通りだった。

 技術者としてフィンツの実力。

 それ以上に整備時に真戦兵を扱う際の丁寧さと整備や設計に携わる技術者たちへの深い敬意。

 それがあった上で「次々と殺してしまう」ことをとても嫌っていた。

 それは自身が騎士たることの否定にも繋がりかねない。

 あるいは自分が技術者として高く評価されることで紫苑は“恋”だと勘違いを犯してしまったのかも知れない。

 あるいはその逆。

 心から軽蔑し憎悪してさえいる。

 紫苑は自分自身の心がわからなくなっていた。

「ヒドいよナダっち、淡い憧れさえ許さないほどキミは傲慢なの?」

 紫苑が涙目になっていることに、ナダルは憐憫の眼差しを向けた。

「フェミュニストたることを自らに課して、周囲の嘲笑も厭わず我が姉セリーナに全てを捧げるという“誓いを立てさせられ”、アルゴおじさんの優しさに満ちた申し出と、初等学校の最後に勇気と真意とを振り絞ったマーニャの偽らざる想い。それさえも、全部理解した上で敢えて踏みにじって、宿業を背負って前に進むしかなかったボクに傲慢と言いますか?国家騎士団入隊を阻止するため、姉さんは本気で愛してもいないボクを誘惑して肉体関係を持った。その事実を知っているのはマーニャと姉さんだけだった筈なのに、両親から絶望するほど叱責されてアエリア送りにされた。耀家ってどんだけエラいんですか?正直見損ないましたよ。いいえ、自分自身に無関係だと無理に思おうとしている」と言ってから、ナダルは静かに言い放った。「先輩だって人形番たる以前に騎士でしょう?覚醒のときが近付いて心が不安定に揺れている。まったく見ていられない」

「・・・・・・」

 騎士覚醒。

 勿論、知ってはいたがコレがそうだとは・・・。

「ボクはねぇ、先輩とはじめて出会ったあの頃から何一つ変わってはいないのですよぉ。いまは単に極度のストレスから、あるいは他の要因から騎士として“目覚めた”だけ。それが結果的にアルゴおじさんや、次期スレイマン家女当主たるマーニャを失望させる結果になったとしても、先輩から蛇蝎の如く軽蔑されても、ボクの辿る道はエベロンにトバされる前に全部決まっていたのですから・・・」

 ナダルの異常な言動も、自分の異常な心理状態も騎士覚醒だというなら説明がつく。

 《共鳴現象》。

 誰かがナダルの騎士覚醒をギリギリに押し留めていた。

 引き金を引いたのは誰あろう自分自身・・・。

「人身御供、生贄、サクリファイスというのは徹底的に汚れるか、人格を壊されるか、真っ先に死ぬ羽目になるか・・・生殺与奪の権限を剥奪されて国家や組織や人類全体に奉仕し、文字通りその身を捧げる者たちのことです。ボクも、副司令も、マリアン女史も、ミラーさんも、あのフィンツも・・・それにナファド法皇猊下も、姉のセリーナもみんなサクリファイスっていう共通項で繋がっているんです。でも、耀家の人間はそうではないでしょうが?」

「だからなんだっていうのよっ、お願いだからアタシの知っている可愛げのあるナダっちに戻って、今までの言葉を取り消してよっ!?」

 悪夢なら醒めて欲しい。

 嘘だったと取り消して欲しい。

 無駄だとわかっていても紫苑は叫んでいた。

 パンドラの筺を開けたのは自分でナダルは巻き込まれた。

 しかし、「紳士」たるナダル・ラシールは女性にはっきりとは嘘をつかないし、決して自分を偽らない。

「それが先輩の本心だとしてもサクリファイスの《執行者》たるボクの心にはそよ風程度なんです」と表情を変えずに静かに落涙するナダルに紫苑は心の底から怯えた。

 そうとも確かに心が揺れている。

 あんなに可愛がっていたナダルが醜悪に見えてしまった。

 その姿の向こうにグエン調査室長のニヤけた笑みが透けて見え、ただただ憎い、穢らわしいという実感が拭えなかった。

 あるいは逆だ。

 狂おしいほどナダルを愛している。

 教導団時代で思い出すのは、夜中でもいつまでも話相手になってくれるナダルの優しく、少し寂しそうな顔だけだ。

 事実を誤認している?

 そうだったアタシの初恋は終わっていた。

 ナダルが無性に愛おしかった。

 その事をマーニャ・スレイマンに打ち明けた。

 4年も前の話だ。

 そして無情に宣告された。

「アイツの目にはセリーナしか見えない。既に心は彼女に支配されている。“紳士たる”からわたしたちを傷つけないように、つかず離れずに居る。けれどそれはアイツなりの誠意と覚悟、そして抗えない宿命なのよ」

 その言葉はマーニャが自身に向けたものでもあった。

 10代で色恋の関係は終わり、お互いの青年期は命令者と執行者という決して交わらない関係となった。

 避ける努力と抵抗は全身全霊でしたが、無駄な悪あがきだった。

 その後、マーニャはスレイマン皇分家の次期当主たる自身の誠意の証として紫苑の母の身に起きた悲劇を語った。

 耀多里亜は《アイラス要塞》への出張中に事件に巻き込まれ、警護騎士のルカ・クレンティエンと共に命絶たれた。

 多里亜もルカも愛娘と夫とを残し、先に若くして逝ってしまった。

 それがゼダ中央政府さえ秘匿する機密アイラスの悲劇だ。

 傭兵騎士団エルミタージュの陽動作戦によりもぬけの空にされたアイラス要塞内で非戦闘員も含む全員が惨殺された。

 要塞司令たるエイブ・ラファール准将の不在の隙を突かれ、要塞守備隊たる黒騎士隊も当時はまだ精強ではなかった。

 ルカ・クレンティエンと多里亜も激しい戦闘を戦った形跡は残っており、二人ともボロ雑巾のようにされた半ば次期主力機たるトリケロス型に改修されたベルグ・ダーインの中で息絶えていた。

 事件のあと女皇アリョーネは女皇騎士団外殻部隊エルミタージュを秘密裏に組織し、事件の真相を血眼になって追い求めている。

 トリエル主導の東征妨害作戦は戦場に必ず現れる傭兵騎士団エルミタージュを炙り出し、痛打を与えるためのものだ。

 個としては優れたフィンツ・スタームもビルビット・ミラーも、対騎士戦闘で連携のとれたエルミタージュとの戦闘では油断出来ない。

 フィンツも手加減など出来ないからこそ、殺して殺して殺した末に乗機をも殺してしまう。

 平和な時代が続きすぎ、生体兵器たる真戦兵たちも経年劣化が酷いのだ。

 だから、格納庫内に真戦兵は多いが実戦の連続使用に耐えられない。

 本当は紫苑もわかっている。

 なにより紫苑自身の抱く、愛する母を殺めた傭兵騎士たちへの復讐心が最大のストレスになっていた。

 何食わぬ顔をしてろくでなしを装い、日常勤務に当たる女皇正騎士たちはそのほとんどが肉親や大切な人を不条理に殺された苦い過去と共にある。

 ハニバル・トラベイヨは最初の妻を、パベル・ラザフォードは一人息子を、トリエル・シェンバッハは姉たちを、紫苑と犀辰は多里亜を、フィンツ・スタームは弟を、それぞれ公に出来ない事件で殺害されていた。

 それでもまだ姉の死をいまだ知らされていないマグワイア・デュランよりは遙かにマシだった。

 彼女の姉エリーヌは皇女アラウネとして死に、いまだ騎士団は「失踪扱い」に留めている。

 ロレイン・サイフィール侯爵を護って戦死した二人の父親バートラム・デュラン卿の方がまだマシな扱いだった。

 そして、誰より女皇アリョーネが多くを喪い過ぎていた。

「“騎士は紳士たれ、力無き弱者にとっての希望たれ”とアルゴおじさんとオリビアおばさんからそのように洗脳教育されたボクは養父母たちの意志を最大限に尊重する陛下の《執行者》の道を歩むしかなかった。他の誰よりもボク自身は先輩にとっていつまでも可愛げがある後輩のナダっちでいたかった・・・」

「・・・アタシは人形番として、耀家のドールマイスターとして、貴方の機体だけはゼッタイになにがあっても作らないし、整備しないわよっ!」

「それで構いませんよ。“人形番”には自由意志がある。それに必要ないですから。ボクに割かなかった分だけ、アルゴおじさんの機体に心血を注いでやって下さい。ボクの“騎士の本懐”はそれで遂げられる」

 そう宣告したナダルはパチンと指を鳴らした。

 紫苑にとっては耳慣れた駆動音が発する。

 それも複数体。

 外部からの真戦兵起動は並の騎士には不可能なことだ。

 ただ呪われた業知る一部の覚醒騎士たちにだけそれが出来てしまう。

 真戦兵の本質に気づいて“目覚めた”騎士たちだけが不可能を可能にしてしまう。

「おいでレジスタたち。ボクはこれから無慈悲な《執行者》となる。ボクが姉さん、スレイマン一族皆の次に愛する紫苑先輩との永遠の決別はコレで果たせた。誰かがボクをアリエアに戻したところで、同じくサクリファイスのアルベオ学院長に太鼓判を押されて認められているので無駄だし、遠からずボクは女皇正騎士で耀紫苑の同僚になる。これからは対等ですよ」

 そしてナダル・ラシールは悲しげに微笑んだ。

「先輩、サヨナラ。ボクは心ならずも幼年期の終わりに達した。だから、預言します。貴方は崇拝する父、犀辰さんと共に、メルヒンの耀家で耀家の最終到達点たる天才・耀公明が設計し、“あのフィンツ”とそのパートナーの無二の相棒となるフレアール、エリシオンの完成と量産に手を貸すことになり、いずれ同族の公明に心惹かれるようになる。先輩の騎士覚醒がなんのためかといえば、使徒搭載機フランベルジュ・ダーインの完成のため。結果がどうであれ、それが“人形番”という宿業を背負った先輩の運命なんです・・・」

「だからなんだっていうのよっ!?」と紫苑は心のままに叫んだ。

「抗いたいなら抗ってください。戦いたいなら戦って下さい。むしろ、ボクらのようなサクリファイスの覚醒騎士たちは運命に抗う人間たちを愛して、せめてそのまごころと誠実さに応えたい、その力になりたいと願う」

 一筋の涙を溢しながら紫苑は尚もナダルに抗おうとした。

「・・・それは預言者たちの傲慢なの?」

「いいえ、今回に限ってナコト預言の日の先に待つ結果はまだ定まっていない。だからこそ抗えるだけ抗い、人としての想いを偽ることなくぶつけてください。それが集まれば集まっただけ、人という種の存続を約束する福音となるのですから」

 目を離したつもりはなかった筈なのに紫苑の前からナダルとナダルが起動させたレジスタたちの姿は消えていた。


 それからほどなくして共同練兵場で事件が起きた。

 ナダルの挑発に乗った国家騎士たち6人が訓練と称するリンチを行った。

 レジスタ1機で6機を相手に奮闘したが、結果的に7機すべてが擱座していた。

 フィンツとビリーが到着したときにはすべてが終わっていた。

「やっぱり手遅れだったというか、なんというか・・・」

「予想通りの結果でしたね」

 フィンツとミラーはボロ雑巾のようにズタズタにされた7機のレジスタを眺めた。

「どうする?助けるかい?」

「もう手遅れですし、国家騎士団がやってくれています。それにナダルならとっくに逃げてますよ」

「そうだね、そしてアニーは追跡を断念して地下格納庫で動揺している紫苑を慰めている。旧エベロン離宮内の限られた敷地でさえも簡単には捕まえられないようなヤツが広いパルムの何処に潜伏したかなんて追うだけ無駄だ」とビリーは伏し目になる。

「だいいち、ヤツは明日も何食わぬ顔で出仕する筈です。そして、明日にも元老院議会に正騎士推薦される。准騎士扱いは元老院の決議待ちの間だけ」

「とんだ後輩騎士もいたもんだ。マイオの苦労が少しわかっちゃったよ。お前は端っから“優等生”だったもの」

「どうも形だけでも詫びを入れるのがボクらの役割のようです。ほらっ、向こうからきなさった」

「ウィリー大尉か。丁度いいのが来てくれた」

 国家騎士団の黒軍服を身に纏った背の高い男が部下二人を伴い二人の許へと歩み寄った。

 ウィリー・ヒューズ大尉がフィンツとビルビットに語りかける。

「とんだことをしてくれましたな」

「まっ、お互い様でしょう」

 ナダルと国家騎士たちの「手合い」が「6機がかりのリンチ」に発展した段階で非も不名誉も向こうにある。

「それでそちらは何人死にました?」

「5人だ。そして驚いたことに他に怪我人は一人もいない」

 不謹慎だと承知しつつ、フィンツは口元を歪め笑みを浮かべた。

 対するヒューズも人の悪い笑みを浮かべている。

 死んだヤツらは自業自得だ。

「それでどうします?上への報告は?」

「聞くまでもないことよ」

「“集団脱走”?」

「ああ、そんなところさ」

 女皇騎士団と国家騎士団。

 二つの騎士団の間に起きた衝突による事故死者は事実と異なる扱いを受けるのが通例だ。

 なぜなら、事実が公表されれば内外に両者の根深い対立構造を喧伝するようなもので、それは双方にとって不利益をもたらす。

 ゆえに「転任」もしくは「失踪」扱いとされる。

 要するに現場から「いなくなった」ことにされるのだが、内容は露骨に異なる。

 つまり、正当な手合いによる名誉の戦死ならば転任先で「事故」に遭ったか、現在のように外征中ならば遠征先での「戦死」として扱われる。

 今回のように他聞を憚られる場合ならば、「集団脱走」あるいは「失踪」扱いとされる。

 つまり、現場から「逃げた」とされるのだ。

 「戦死」または「事故死」ならば遺された遺族は保障される。

 しかし、「失踪」ならば不名誉除隊として職籍を抹消され、一切遺族補償はない。

 根深い対立関係にある両者にとって、対立を利用して己の欲求や欲望を満たす「ろくでなし」には相応の罰がくだされる。

 無論、両騎士団内部でも口外されず、幹部のみが知る事実に他ならない。

 聡明な読者にはもう既におわかりのように、国家騎士団は、少なくともウィリー・ヒューズ宮殿支部長大尉は6人の騎士による集団暴行の事実をとっくに認めている。

 だが、事実を公にすれば辱めを受けた女官騎士スカートナイトの女性騎士の名前が晒されることになり、当然加害者側の名前や出身地も公表される。

 そして、不心得者を皇都パルムに入れた人事権を持つトゥドゥール・カロリファル国家騎士団副総帥以下、騎士団幹部たちの責任が問われることになってしまう。

 自らが直接手を下すことなく頭痛の種を体よく葬り去る手段として国家騎士団も女皇騎士団を利用したのだ。

 逆もまたしかりであるのだが、女皇騎士団は正騎士所属員全員が少佐相当官という幹部扱いであり、責任ある立場の彼らが露骨な不正や不行状を働くことはまずない。

 徹底教育され、議会承認されたトップエリートたちなのだ。

 行うとするなら、誰にも分からぬ巧妙な不正であったり、不行状だということになる。

 だが、これらは国家騎士団の手を借りるまでもなく、調査室により処理される。

「しかし、とんでもないルーキーが加わるところだったようだが残念なことをしたな」

「いいえ、あのレジスタの中身はおそらくは・・・」

「まさか・・・?」

 攫座したレジスタの操縦席から引きずり出された遺体は案の定、ナダルのものではなかった。

 暴行に加わった6人目の騎士が見るも無惨な姿で引きずり出される。

「いったい、いつの間に?」

「おそらく組み合った瞬間かそれ以前にでしょう。こちらからはまったく確認できなかった」

「アンタらの目をしてもか?」

 ウィリー・ヒューズ大尉はフィンツとビリーの力量もさることながら、その慧眼ぶりを最も認めていた。

 フィンツやミラーの慧眼をしてナダルの行為はなにも確認出来なかった。

 その時点でフィンツは可能性が一つしかないと見極めた。

 だから阻止もなにも、余計な事は一切しなかった。

「まるで手品だな。それこそスターム卿、あんたと五分五分じゃないのかね?」

「それはどうでしょうね。彼とは全くタイプが違いますので」

 フィンツがニヤリと笑みを浮かべる。

 このウィリー・ヒューズもまたフィンツの実績の200分の6に相当する。

 だから、三十路手前のこの年齢で「大尉」なのだ。

「それで、そっちはなんにもお咎めなしってとこかい?6人も殺しておいてまったく理不尽な話だがね」

「あなた方の立場と名誉を守るためですよ。理由を持ち出すとややこしくなる。けれども、理由なく処分を下したとなれば、いらぬ憶測を呼ぶことになります。個人的には“お灸を据える”意味でもなんらかの処分を下したいところです」とフィンツは言い切る。

 前任の《執行者》としてフィンツは極めてスマートだった。

 それとは誰にも全く悟らせなかった。

 どんな不心得者にも自分のような怪物に挑んで敗死したという名誉だけは与えている。

「むしろあなた方の方で意趣返しなどと馬鹿なことは考えないでください。それこそ、徒な血が流れることになり、カロリファル公爵が憂慮される事態となるでしょう」

「それが妥当というのに些か腹が立たぬでもないが、部下の管理が行き届かなかったのは事実。まっ、それも東方外征で中央から事情と分別をわきまえたマトモな騎士たちがごっそり引き抜かれて、各地方からトバされてきた有象無象の連中が多く入り込んだからでもあるのだし、それも東方外征を決めたカロリファル公爵たち上層部の決定が原因だからね」

 その上で名のある実力者であるウィリー・ヒューズ大尉を敢えて皇都に残している事にも深い意味があった。

 国家騎士団副総帥の若きトゥドゥール・カロリファルが、絶対的に信頼しているのがリチャード・アイゼン中尉であり、エイブ・ラファール少将であり、ウィリー・ヒューズ大尉だった。

「まっ、次回の対抗戦では奴を先鋒に立てますから、腕に覚えのあるのをぶつけて溜飲をさげて下さいな」

「ふっ、逆にあれを見てまだ突っかかろうという骨のあるヤツがいると良いのだがね」

「貴方が立たれては?」

「やめておくよ。これでも命は惜しい。キミやミラー卿のように私の実力に合わせた手加減をしてくれるとは、未熟者の彼には到底期待できないものな」

「では、国家騎士団で上に立たれることです」

「それも十分だよ。キミたちのお陰で私もこの年齢で大尉に昇進できたのだし、《ナイトイーター》の本質について知っているから今の役職も務まる。それにあまり昇進すると地方に栄転となったり、外征に送り込まれて実戦を戦うことになる。余人は知らないが私は単に都人たちを護る騎士たりたい。そしてむしろ上が期待しているのは、お目付役とキミたちとの交渉役だと思うね」と言って言葉を切りウィリー大尉は空を見上げた。「しかしね、もしキミたちが本気で戦う事態となったなら、私も喜んでキミたちと並んで共に戦うよ。それを期待して私を鍛えてくれているのだろうし、なにより私の真意に適う」

「それもそう遠くはない話になるかも知れないですね・・・」とフィンツも遠い目をする。

「俺たちゃ、そのためにこの時代に生まれてきたのかも知れないな」とミラーも苦笑する。「そして、アンタみたいな立派で殊勝な心がけを持った騎士達をむざむざ死なせたくはないよ。そういう役割はサクリファイスたる俺たちが引き受けるべきことで、アンタだったらこの国が形を変えようが、真戦兵が使用停止になろうが、戦う術を知らない人々を護るというその心がけだけで未来を紡げるさ」

「その期待には是非とも応えたいですね、人事を尽くして天命を待つことにしましょう」

 預言の日は間近に迫っていた。

 事態はフィンツ・スタームの予想より早く、最悪の形で進行する。

 この日から僅か1ヶ月後にフィンツは東方外征ではなく、本当に彼の力を必要とする苛酷な最前線に立つことになる。

 そして、ヒューズやミラー、オーガスタ姉妹、マグワイヤ・デュランたちも随時その戦いに加わることになる。

 勿論、ナダル・ラシールも戦争を左右する重要なポジションを担う。

 後に「女皇戦争」と呼ばれることになる苛酷なる戦いは既に始まっていたのかも知れないのだった。


エピローグ ナダルとハニバル


「初任務、ご苦労。お見事だった」

 ヴェロームから戻り、執務室で対面したハニバル・トラベイヨ司令は穏やかな顔で新人のナダル・ラシールに告げた。

 ナダルは第一印象としてハニバルはアルベオ学院長に似ていると感じた。

「司令。結局、私は私のやり方でしか事を成せませんでした」

「それでいい。紫苑の覚醒に《共鳴》して心乱されながらも、やるべきはやり遂げた。さすがはアランハス卿の孫にして、ラシールとノヴァの血の集大成とトリエル“殿下”が感心されていた」

 代々隠密機動を輩出してきたラシール家跡取りのやり方。

 マーニャから受け取った指令は「栄えある国家騎士を“僭称”し、狼藉事件を起こした6人の騎士を排除する」というそれだけの話だ。

 上官だった宮殿支部長のウィリー・ヒーズ大尉すら知らない。

 いや、トゥドゥール・カロリファル副総帥も知らない。

 出征した中央所属のヒューズ子飼の騎士たちにかわり、晴れてパルムに招聘された国家騎士たちは有象無象でなどなかった。

 働き次第で留め置かれる可能性もあるので、野心と功名心に満ちたやる気と節度のある若手騎士たちだった。

 しかし、彼等はもう既にこの世には居ない。

 おのおのの在職地から辞令を手にパルムに向かう途中で「騎士狩り」たちに闇討ちされていた。

 そして彼等の遺体が発見された際、各個に捜査と後処理されていた。

 つまり、ウィリー・ヒューズが着任を確認した時点で6人の騎士たちはそっくり別人に入れ替わっていた。

 入れ替わった騎士たちは計画通りに女官騎士を陵辱の上で脅迫し、それを材料に女皇宮殿塔内に入り込もうとしていた。

 無論、その目的はアリョーネ女皇を亡き者にせんという企みだ。

 それぞれが傭兵騎士エルミタージュの腕利きたちだ。

 真正面から宮殿内に入り込まれたなら、スカートナイツたち、あるいは女皇正騎士に多くの死傷者が出ていただろう。

 フィンツやミラーのような回りくどいやり方では一網打尽に出来ないと踏んだマーニャ・スレイマンが、アリョーネ女皇、アルベオ学院長を通じてアエリアからナダルを緊急招聘した。

 ナダルならば一人ずつ闇討ちして仕留めた上で、遺体を格納庫のレジスタに放り込み《傀儡回し》によりいちどに返り討った茶番劇にも仕立て上げられるとマーニャは判断した。

 惚れた男の凄まじさは「知り尽くした上で使いこなす」というのがマーニャに与えられた苛酷な使命だ。

 《傀儡回し》。

 つまりは真戦兵を外部操作であたかも誰かが乗っているかの如く振る舞わせる闇の奥義。

 正に呪われた騎士たちだけが用いる禁断の業だ。

 そう、誰も6人の騎士とナダルの諍いを見た者はいない。

 そんなものは「初めから無かった」。

 《執行者》ナダルはマーニャの命令を受け、パベル、イアンと別れてから僅か一時間足らずで6人全員を各個に捕捉して始末した。

 日中宮殿支部に出入りしているのだと判っているのだから、探す手間もなにもない。

 潜入、変装、闇討ち。

 いずれもナダルにとって造作もない。

 それぞれが一人になる機をとらえて一瞬で始末するだけの話だ。

 6人の遺体をレジスタに押し込めてから、何食わぬ顔でフィンツやミラーたちと合流した。

 誤算だったのは近場に遺体を大量に置いたことで紫苑の覚醒ストレスが加速してしまい、自身まで影響を受けたことだ。

 だが、それも割合穏便に済ませた。

 「敵」に警戒されずに事を為すためには存在そのものが知られていない方がいい。

 ナダルが官舎でなく実家に戻されたのも、「敵」に帰参を悟られないための措置だった。

 つまり、女皇アリョーネもマーニャ・スレイマンから報告を受けて段取りをすべて知っていた。

 マグワイアがグエンに確認したのはナダルを実家に帰参させた本当の事情についての事だった。

 「敵」に察知されたくない。

 だからこそ、ナダルを正式な手続きで呼び寄せつつも、実家に戻らせていた。

 アランハスの孫たるナダルについては「敵」もよく熟知しており、厳重にマークしている。

 だから、アエリア出立時にナダルの行き先は東方外征の進行している東部戦線だった。

 だが、辞令書に同封されていたチケットはパルム中央駅行き。

 厳重な身元調査が行われていてもアエリアに間者が居る可能性をアルベオは捨てていなかった。

 実際、居た。

 そして急報した。

 いよいよ、隠密機動が“もう一人追加投入される”と東部戦線のエルミタージュ幹部たちは警戒し、念のためパルムも警戒したがナダル受け入れの準備は「なにも整っていない」。

 だから、極秘任務中の連中に報告が届くことはなかった。

「事の深刻さと重大さを知るのは陛下と我々女皇騎士団幹部、そしてスレイマン皇分家筋と《執行者》本人だけでいい。お前はその任に立派に応えた。引き続き紫苑とスレイマン嬢を護り、パルムの治安維持につとめて欲しい。二人のエンプレスガードであり、女皇家隠密機動隊員。お前の祖父アランハスやグエンが求められてきたこと。それが女皇騎士団がお前に求める役目。そしてトリエル殿下の直下に入り、セリーナと同様にヤツの指示を受けろ」

 ナダルは精悍な顔つきでハニバルの訓示を受けた。

 光の章と闇の章それぞれで見せていたナダルの性格と言動は覚醒騎士化の齎す混迷に影響されたところはあったが、「本当のナダル」とは隠密機動として自分自身の感情や思考を殺し、要人警護を全面的に任される矜持に身も心も引き締まらせたタフガイだ。

 祖父のように大胆不敵でもないし、父のように性根の腐った悪漢でもない。

 言葉少なく慎重で臆病だ。

 矛盾しているが厳しい鍛錬の末に業を極めているからこそ、ひどく慎重なペシミストなのだ。

 奢りが祖父からなにを奪い、奢りが父をどんな人間に変えたかをよく知っている。

 だから、自身の奢りで「大切な誰かを喪う」ことを誰よりも怖れている。

 愛が深すぎ、守りたい者と考える者たちが多すぎる。

 しかし、それではあまりに可愛げがなさ過ぎるし、「敵」から警戒されるばかりなので、本音の存在として普段は光の章で見せた何処か可愛げある男を演じている。

 両親が嫌いなのも事実だし、お姉ちゃん大好きな重度のシスコンなのも事実。

 マーニャや紫苑が好きなのも事実で、基本的に女好きなのも事実。

 なにより真性のフェミニストで「紳士」たるのも事実だ。

 だからそれに相応しい仕事をすることになる。

「畏まりました。引き続き全身全霊でその任にあたります」

 ナダル・ラシールは基本的に女皇や騎士団幹部の真意に忠実な男だ。

 まっ、そのせいで後に「ワンコ2ごう」とか「忍者くん」とか変なアダ名がつくのもご愛敬だ。

「私とトリエル皇子の名で正騎士昇格を推薦しておいた。さすがに司令格でもグエンは実の父親ゆえに連名推薦人としては憚られるので遠慮願った。近々、議決されるだろう。さすがに全会一致とはなるまいが、可決はされるだろうさ」

(いや、むしろなくていいです。クソ親父の推薦なんて絶対ヤダ)

 全会一致可決の大例外はフィンツ・スタームの正騎士昇格時をおいてない。

 ヴェルナール・シェリフィス元議長がフィンツ・スタームの一言で素性を誤解したが故の事だった。

 でなければ、そんな奇跡など起きる筈がない。

 そのヴェルナールも故人となり、今は元老院議員たちも誰がどの派閥なのやら、誰とつるんでいるやら、表向きは皆目わからない。

 はっきりしているのは、皇室政治顧問のライゼル・ヴァンフォート伯爵が生粋のアリョーネ派であること。

 そして、ヴェルナール元議長の娘婿たるフェルディナンド・シェリフィス議員が数少ない元老院左派で非戦派だということ。

「構いません。あまり目立った新聞報道されるのも困りますから」

 適度に賛成者がいて適度に反対者がいる。

 そうして正騎士に承認されても民衆にとってはさしたる意味も持たず、注視もされない。

 もともと隠密機動としての習性が板についているナダルは目立つことをとことん嫌う。

 影として生き、影として死ぬ。

 それがラシール家に生まれた者のつとめでさだめだ。

「やはりあのフィンツについて気になったか?」

「ええ、“彼”はいったい誰なのです?」

 ハニバルは既に紫苑からも報告を受けている。

 女皇宮殿を遊び場に育った仲である紫苑もマーニャもナダルも、フィンツ・スタームとは幼馴染みであるので、現在のフィンツについて疑念を抱いている。

 もっとわからないのが偽フィンツに注がれる女皇アリョーネの寵愛だ。

 ナダルたちは本物のフィンツ・エクセイルまたはスタームがアリョーネの実子なのだと薄々気づいていた。

 実の母親だというのに「偽物」を溺愛する理由がさっぱり理解出来ない。

「あの男は亡きアラウネ殿下の遺児ディーン。表向きはオーギュスト・スターム元司令の長子であり、アリョーネ陛下の甥御。私の二人の子たちの乳兄弟であり、もしアラウネ殿下が即位されていたならばトリエル殿下と同様にディーン・メイル殿下と呼ばれたかも知れない青年だよ。正に我々の秘蔵っ子。いずれディーン・スタームと名乗るかも知れないがセスタスターム家との直接の繋がりはない。なにより、いざというときの切り札とでもいうべきかな」

 嘯くように呟いてハニバルは微笑んだ。

「つまりは女皇家連枝の皇子ですか?そうした手合いがハルファで祖父たちに育成されていたという噂は耳にしていました」

 ハルファ離宮極秘訓練施設がアエリアでは手を焼く連中の虎の穴だとナダルは聞いていたし、ナダルは危うくハルファ送りになりかけた。

 ナダルの父方祖父アランハス・ラシールはいまだ健在だ。

 そしてもう一人、《剣鬼》と怖れられる人物がハルファにいるという。

 ウワサの《対の怪物たち》さえこの人物には勝てない。

 当然だが《対の怪物たち》にも勝てないディーンもこの人物には勝てない。

 アランハス・ラシールはメロウィン先皇の夫で皇族外交官だったロレイン・サイフィール侯爵が客死した《タッスル事件》、摂政皇女のアラウネがオラトリエスとの祝賀行事の最中に毒殺された《アラウネ事件》での引責により表舞台を去って以来、パルムには居ない。

 隠密機動として比肩する者なき祖父ゆえ、ナダルもまた女皇家に重用される隠密機動となる宿命であり、知らなかったのは当人だけだった。

 だが、それも6年前の出来事で思い知らされた。

「ああそうだ。アランハス卿とあの御方の愛弟子。そして、五公爵家筆頭エクセイル家の跡取りディーン・エクセイル新公爵だ。陛下の意向で義弟たるフィンツ・エクセイルの名を継ぎ、怪物女皇騎士としての健在ぶりをアピールするため偽っている。粗相のないように・・・と言いたいところだが、決して勘付かれるな。ディーンはその立場上なんでも知っている。なにより、お前の愛するセリーナ・ラシールの実兄でもある」

「・・・・・・」

 ナダルは絶句してハニバルの顔を凝視した。

 おそらくナダルとセリーナ本人たちもトリエル夫婦も知らない真実だ。

 初対面でナダルもなんとなく気づいていた。

 表向きセリーナはトリエルとマリアンの実子であり、二人もそうだと信じている。

 だが、ナダルだから気づいた。

 そう思われてもおかしくないのはアリョーネたち皇家姉妹の姪御だから。

 末弟のトリエルにとっても姪っ子だ。

 兄妹そっくりの黒髪。

 傲慢とさえうつる自信に満ちた眼差し、なにより底の知れない規格外の力。

 なんでも抑制する兄となんにも抑制しない妹。

 殺戮衝動も目覚めた性欲も丸出しだった姉セリーナに「犯されて」ナダルはその童貞とともに、ラシール家を捨て、マーニャの夫、アルゴとオリビアの義息としてスレイマン家の婿になり、いずれは目の前にいるハニバルの後任司令になるという選択肢や、女皇騎士でなく国家騎士として国家全体に奉仕するという夢や希望といった選択肢をナダルはなにもかも喪失した。

 そもそも姉でありながらセリーナはナダルを一度も弟として見たことがないと閨で本人から告げられた。

 さいしょから決まっていた自分のオトコ。

 極上の味わい深い隠密機動の名門ラシール家の集大成。

 そうして美味しく頂かれた。

 だからこそ、ナダルはその時点で、あるいはそれよりずっと前からセリーナからの精神的支配を受けるようになった。

 愛がないといえば嘘になる。

 だが、認めたくはない屈辱的隷属関係。

「あの兄妹に関しては詮索無用だ。下手に色々勘付かれると避けられるぞ。ディーンもセリーナも、それぞれの理由でラシール家を毛嫌いしている。確かにずっと監視対象なのだからな、嫌われていて当たり前だが、ディーンは身綺麗にしている。セリーナはそれがわかっていて面白がっている」

「わかりました。そして、わかっていますとも。なにも知らないフリを通しましょう」

 ディーンがフィンツ・スタームを名乗っている以上、本当にそうだと思っておいた方がいい。

 ナダル、マーニャ、紫苑がアエリアに居たパルム不在の間にまた公には出来ないなにかが起きたのだ。

 最重要機密に相当する《アイラスの悲劇》の顛末さえ知るマーニャ・スレイマンすら知らないということは、いまだ分かっていないことが多すぎて機密にすらなり得ないということだ。

 フィンツがその必要がないとわかっていてさえ、ナダルたちと同時期にアエリアに赴いていたならこんなことになっていなかった。

 紫苑の本当の初恋の相手とは「本物のフィンツ」だった。

 ナダルとマーニャはそれを知っていた。

 実の従姉弟という関係故に適切でないし、紫苑の孤独は愛する母を喪い、初恋の少年とも引き離された故の心の痛みだ。

 ナダルたち幼馴染みの知っていた“気弱で温和で神童と呼ばれた博識で、その実、正義感に満ちたフィンツ・スターム”はもうこの世にいないのだと思っていい。

 それだけに邪推は禁物だ。

 手合いにこと寄せてナダル自身がディーン本人に始末されかねない。

 伊達に不敗神話を継続させてはいまい。

 アリョーネが溺愛を装うほど信頼を寄せているなら、なにかまだ他にも理由がありそうだ。

「とにかく女皇騎士団は一枚岩にはほど遠い。それぞれ真意と正体とを隠しているし、それぞれに複雑な事情と晴らせぬ憎悪を抱えている。だからこそ、ナダル。いちばんしがらみの少ないお前を皆が頼りにしている。そして、《紅丸》と共に己が切り札の一人だと理解しておけ」

 愛憎渦巻く女皇宮殿。

 アリョーネ女皇最後のカードとしてナダル・ラシールは万を辞して喚ばれたのだ。

「御意のままに」

 それが、それこそが最後の女皇正騎士ナダル・ラシールの本音であり、真意だった。


エリザベートの悪戯

1

統一暦1512年(女皇暦換算1391年)7月17日


 私ことケヴィン・レイノルズがその男と最初に面会したのは7月の半ば過ぎのことだ。

 ある一人の学生についてこのままでは落第寸前で進級がままならない為、どうにか追試の機会を与えて欲しいと主任教授のセオドリック・ファードランドからしつこくせがまれてのことだ。

 たかが一学生の為にわざわざ鼻持ちならないキザったらしいファードランドが頭を下げてくるのだから余程のことだろうと思い学生名簿でその学生の名前を確認して私は神経がピリピリするのを感じた。

 ティルト・リムストン。

 忘れるものか、コイツは今年度私の講義にただの一度たりとも出席したことのない学生だ。

 しかも、年度末考査試験にもコイツは名前だけ記した白紙の解答用紙を平然と提出していた。

 ティルトにどういうコネや手づるがあってファードランドを動かしたかは分からなかった。

 大方、有力者の親類かなにかを通じて私への根回しを依頼したのであろう。

 だが、私は彼に与えたD-の評価を覆す気はさらさらなかった。

 他の教授たちがどうした措置を講じたかは知らない。

 だが、少なくとも私はこうした懐柔をもっとも嫌うタチの人間だということをコイツは知らなかったらしい。

 私は申し入れだけでもひどく腹を立てていた。

 私はすぐに秘書のエリザベートを通じて彼の成績表を取り寄せた。

 だが、それがますます私を憤慨させ、苛立ちを募らせる結果となった。

「これはなにかの冗談か?それとも私への当てつけか?それとも嫌がらせかね?」

 言葉の端々に怒気を感じたエリザベートはただ曖昧に微笑んだ。

「いいえ、これはただの推察に過ぎませんが・・・」エリザベートは慎重に言葉を選びながら続けた。「おそらくその評価は公正なものだと思いますわ」

「はっ、なんの嫌がらせだ」

 私はいつもの悪いクセでいぎたなく吐き捨てる。

 私の出世を妨げたものの一つはこうした行儀の悪さだった。

 なにしろ、私の祖先は騎士だ。

 騎士と言ってもゼダに生まれた騎士には他国と違い騎士卿の爵位もつかないほど身分が低かった。

 当然、柄も行儀も芳しくない。

 それも昔の話となり、今では騎士家などというのは表立って吹聴する者もいないほどに時代遅れとなった。

 そうして、職業軍人としての騎士は廃れ、日々の糧を得るため様々な職についている。

 そんなわけで私は学者の道に入った。

 異色な存在として私はある意味重宝されてきた。

 だが、学者という人種は虫が好かない。

 鼻持ちならぬほど気取っているか、どこかイカれているか、ぼそぼそとわけのわからぬ念仏を語るか、話が一方通行でまるでコミュニケーションが取れないといった連中だ。

「教授、学内は禁煙ですが?」

 いつもの癖で胸ポケットをまさぐっている私にエリザベートはやんわりと注意した。

 私の中で苛立ちが沸点を迎えようとしている。

 残された自制心のすべてを動員して大声を上げないのがやっとだった。

 それに胸ポケットにお目当てのモノはない。

 入室するなり彼女に取り上げられたからだ。

「エリザベート、少々席を外す。アレを」

 エリザベートは既に机の引き出しからタバコ入れと携帯灰皿を取り出していた。

「健康のためにも吸いすぎには」

「君はいつから厚生省の役人になったのだね?」

 ご丁寧にタバコ入れの側面にはお定まりの文句が書かれている。

 だが、私は禁煙する気などさらさらなかった。

 これでも頭脳労働者を自負する私にとってニコチンの摂取は不可欠のものと感じていたし、健康的に屋外競技で汗を流す時間があるのであれば、タバコを片手に一冊でも多くの書籍を読む方がマシだと常々考えている。

 学内が完全禁煙になるぐらいだったら、私は喜んで辞表を出すだろう。

 もっとも学内に愛煙家は多い。

 その実、学長も理事たちもそうだ。

 私はイライラしながら席を立ち、ドアを開けて中庭に続く廊下を歩き出そうとした。

 そのとき、丁度隣の部屋のドアが開き、廊下に出ようとしてきた人物とぶつかった。

 その拍子に彼女が胸に抱え持っていた書類の束と書籍があたりに散乱した。

「すいません」

 ひどく慌てた様子でカザリン女史が書類を拾い上げる。

 今はファードランドの秘書官をしている。

 その様子を廊下の端で見ていた一人の学生がすぐさま駆け寄り、散らばった書類を一枚一枚丁寧に拾い上げる。

「あら、ありがとうね」

「いいえ、カザリンさんにはいつもお世話になっていますから」

 私はつい手にしていたものを学生に見られまいとして後ろ手を組んだ。

 学生達には校内禁煙と通達されている。

「失礼、私は急ぎの用があるので」

「はい、どうもすみませんでした」

 少々悔やまれたが仕方ない。

 初老のカザリン女史が腰と膝の痛みに耐えながら書類を拾う様子を横目に立ち去ろうとしたとき、それを手伝っていた学生と視線がぶつかった。

 その瞳は私の仕打ちに対する敵意に満ちていた。

(まずかったな)

 乱暴にドアを開けて強引に押し通ろうとしたのは私であった筈で、この学生はその一部始終を見ていたに違いあるまい。

 気まずい思いと共に、シャツの袖口から覗いた学生の淺黒い肌が脳裏に焼き付いていた。


 屋上で一服・・・いや二服・・・ここは正直に言おう。

 5本立て続けに吸った後、私は気分を直して教授室へと戻った。

 そこに意外な来客の姿があった。

 先程の男子学生だ。

 日焼けした浅黒い肌。

 そしてこざっぱりとした格好。

 ただし、流行遅れは否めない。

 眼鏡の奥に覗く知性的な瞳。

 まさか抗議に来たわけでもあるまいと思いながら、私はそのまま席に戻ろうとしてエリザベートに制止された。

「教授、リムストン君が見えていますわ」

 彼が?

 私は一瞬ひどく困惑した。

 おそらくはよほど虚をつかれた間抜けな顔をしていたのだろう。

 エリザベートが笑いを噛み殺している。

 生真面目そうで挑戦的でもなく、なにより年寄りの秘書官にも親切なその学生があのティルト・リムストン?

「すまん、ちょっと時間をくれ」

 混乱した精神状態を落ち着けるのに約1分間目を閉じた。

 私が私なりに描いていたティルト・リムストンとは全く人物像が違っている。

 彼が落第寸前の劣等生のようには到底見えない。

 金銭的に裕福でもない証拠に、身なりはみすぼらしくはないが素っ気なかったし、浅黒い肌と荒れた手の平はなにかの重労働に従事しているように見えた。

 独特の鋭い眼差しと、広く知性的な額。

 その気になりさえすれば立派な論文を書き上げたり、難解なテストにも満点に近い内容の答えを書くことが出来そうだ。

 私の直感と観察眼ははっきりとそのように告げていた。

 これでも人を見る目は養われている方だ。

 しばし、手で顔を覆って考えた後、私は決断した。

「きなさい」

 彼はおそるおそる室内に入ってきた。

「さて、どこからどう話をしたものだろうね?」

 私は指で机を叩きながら彼の目を上目遣いに見た。

「白紙回答に全欠席。それだけでもD-評価に十分だと思うが?」

「はい・・・」

 彼は悄然とうなだれていた。

 先程みせた義侠心は影を潜め、そこには気弱な男子学生が立っていた。

 私が次の言葉を探して思案していたとき、隣室からエリザベートの声がした。

「教授、ちょっと席を外してきます」

(勘の良い娘だ)

 私の姿が大空に立ちこめた雨雲のように見えたらしい。

 カミナリが落ちるのは時間の問題で、たとえそれが自分の所でなくとも堪らないと言わんばかりだ。

「いいだろう」

 私は話を長引かせるつもりは全くなかった。

 休みを前にしたこの時期に後のスケジュールなどまったくなかったが、カミナリ一つ落として話を終えるつもりでいた。

 その言葉を聞くまでは・・・。

「良かった」

 彼は心底ホッとした様子でつぶやいた。

 私の頭にまた一つ疑問符が浮かんだ。

(コイツは自分の置かれた立場が分かっているのか?)

「君は自分の置かれた立場が分かっているのかね?」

 何故だかカミナリとはほど遠い、多分に疑問符を含んだひどく曖昧な言い回しになった。

「分かっています。でも、彼女に迷惑をかけたくはなかったので」

「他人の心配をする余裕があるのかね?感心なことだ」

 鼻を鳴らし皮肉まじりに笑い飛ばそうとしたとき、彼の鋭い視線とぶつかった。

「他人じゃないですよ。事は彼女にも関係あるんですっ!」

「君はなにを言いたいのかね?」

 私はしかめ面で彼の目を見た。

 とても真っ直ぐないい瞳だ。

「ふぅ」と小さなタメ息を一つして、ティルトはすかさず畳み掛けるように続けた。「授業に出なかったのも、テストを白紙で提出したのも、すべては『彼女』の指示に従ったからです」

「先程から君がしきりと口にしている『彼女』とはエリザベートのことか?」

「他に誰が?」

「アレがどういう者か分かって言ってるのかね?」

「ええ」と肯いて彼は軽く眼鏡を直した。「目に入れても痛くない教授の実のお嬢さんですよね」

 思わず私は大仰に手を上げる仕草をした。

「おやおや、君は我々教授の身辺調査でもしたというのかね?」

 隠し立てているわけでもなかったが、エリザベートは私の実の娘だ。

 今年で25になる。

 アエリアのエベロン女学院大学を卒業後、私が自分の秘書として雇い入れたのだ。

 無論、大学側も承知してのことだ。

 気むずかしい私の秘書は30年間の教職の間、毎年のように変わっていた。

 私の教職期間には満たないが、彼女には少なくとも生まれてからこれまで私の逆鱗に触れることなく成長してきた「実績」がある。

 とても似た境遇でも誰かとは大違いだ。

「他の教授の身辺調査なんかほとんどしていませんが」彼はそこで言葉を切り、慎重に後を続けた。「あなたの家系の調査はイヤというほどしてきました。この一年の間」

 カッとなった私はうっかり手を上げるところだったが、一つ気になった箇所があった。

 それが歯止めとなった。

「家系?」

「ええ、そうです教授。あなたの家系です」

 失礼、二カ所だった。

「してきたってどこでだね?」

「まずは“ここ”の図書館でです」

 ティルトの指先は床を指している。

 「ここ」とはつまり、エルシニエ大学の図書館に他なるまい。

 私は振り上げかけた拳をだらりと机に落とした。

「エルシニエの図書館に私の家の家系図でもあるというのかね?」

 ティルトは大きなタメ息をつき、椅子を指で示した。

 どうも思っていた以上に話が長くなりそうな気配だ。

「どうぞ」

 私の答えを待つより早く、彼は後ろに立てかけられていたパイプ椅子を素早く用意し、深く腰掛けて身を乗り出すように話し始めた。

「どうもおかしいと思ったのですよ」

「なにがだね?」

「エリザベートは教授はなにもかもご存じの筈だから心配ないと。でも、そのご様子じゃなにもご存じないみたいじゃありませんか?」

「君がなにを言ってるのかさっぱりわからん」

「あいつぅ!」

 彼はさっさと逃げ出したエリザベートを恨むように一言つぶやいた後、大きく深呼吸して話を始めた。

「アレは昨年の9月初旬のことでした・・・」


 統一暦1511年9月2日


 ボクはエルシニエ大学一階廊下の掲示板をぼんやりと眺めていた。

 外はセミの鳴き声が酷く喧しい。

 新年度の教科スケジュール表を確認して新しい時間割を頭とメモ帳に書き込むためだ。

 ボクは残念ながらそれほど裕福ではない。

 親父の遺した蓄えがあったが、それは今後の生活を送る上で欠かせないもので、なるべくならば簡単に手をつけたくなかった。

 死んだ親父には夢があり、その遺言に従うのであれば、ボクはそのために少なくとも来年の夏休みは犠牲にしなければならない筈だった。

 今年度からやっとケヴィン・レイノルズ教授の講座を受講できる。

 それがボクにとってなによりのモチベーションとなっていた。

 おそらくは来年度のゼミ生選抜にも繋がる大チャンスだ。

 ボクには教授のゼミをなんとしても受講しなければならないという強い使命感があった。

 それはたった一つ、だがたった一つであっても重大な疑問を教授にぶつけることから始めなければならない。

 そのために平和な学生生活のすべてが台無しになっても仕方ないとさえ考えていた。

 なぜなら、少なくともボクのような史学生が・・・。

「ティルト・リムストンさんですよね?」

 通りがかりの女性職員に不意に声をかけられてボクは面食らった。

 すらっと背が高くて長いブロンドヘアをカチューシャで束ね、目鼻立ちも整っている。

 ファッション誌のモデルでも通用しそうだ。

「いつも図書室で拝見していますわ」

「えーっと・・・」

 ボクにはその女性が誰なのか見当がつきかねた。

 見たところ、ボクとそう年頃の変わらない。

 背が高く知的でスマート。

 なによりチャーミング。

 いかにも男心をくすぐるその女性には確かに見覚えがあるような気がした。

「はじめまして、エリザベート・エクセイルです」

「エリザベートさん?」

「父の秘書をしています」

 「ああ」と思わず言いかけて、ボクは改めて彼女を見た。

「ティルト・リムストンです。今年度からお父上の講座を受講することになっています」

「ええ、存じ上げていますわ」

「今丁度、時間割の確認をしていたところです」

「そのあとのご予定は?」

「いえ、今日は家庭教師のアルバイトもないので、家に帰って読書でもしようかと」

 父の遺品である美術関連の書籍が自宅には大量に残っており、それらに目を通した上で必要でないものは「知り合いの古本屋」に叩き売りしている。

 それらが日々の生活の糧に化けることも多い。

 だが、今後の調査に役に立ちそうなものは残しておいている。

「折り入ってご相談したいことがあるのですけれど」と言いさして彼女は嫣然と笑った。「良かったら夕食にお誘いしても良いかしら?」

 人が羨む美女からこんな風に誘いを受けて、断る理由は見当たらなかった。

 幸いにしてボクにはソレに嫉妬するガールフレンドもいなかったし、はやし立てる友人も少なかった。

「ええ、喜んで」

 そう答えるのに時間も手間もまったく必要なかった。


 老舗の高級レストラン「ポンパドゥール」のような店を予想していたボクの直感はものの見事に外れた。

 そこはパルム西区の高級住宅街の一角で、とびきり大きな邸宅が建ち並ぶ小高い丘に位置していた。

 遙か向こうにパルム湾が見下ろせる。

 立派なお屋敷の表札にはファードランドと刻まれている。

 タクシーで大学から直行していきなりこのような場所に連れてこられたボクは全くの場違いに思えてならなかった。

 しかも、ファードランドというのは昨年講座を受講した若くてハンサムで見るからに野心家の法史学主任教授だ。

(まさか彼女は教授の婚約者なのかな?)

 年頃の釣り合いは悪くない。

 それに長身のファードランド教授には彼女のような背の高い美人はお似合いだろう。

 その予想もものの見事に外れた。

 教授の美人だが童顔で背の小さい奥さんが玄関先で出迎えてくれたからだ。

 彼女はエリザベートを一目見るなり相好を崩してにこやかに歓迎した。

「まぁ、ベス。久しぶりねぇ」

「アンナこそ変わりないわね」

 互いの愛称を呼び交わし、二人は玄関先で抱擁を交わしている。

 ボクはバツの悪さに頭を抱えそうになった。

「主人からはもうじき帰るとさっき連絡があったわ」

「父には今日は友人の家に寄ると伝えてあります」

 二人が親しげに言葉を交わすのをボクは後ろできょろきょろしながら見ていた。

「まぁ、この学生さんね」

「初めまして」

「エルシニエ大学はじまって以来の秀才・・・ではなかったわね」夫人はなにか含みのある笑みを浮かべた。「ずっと昔、そう呼ばれていた人がいたらしいわね」

 夫人がなんでも承知と言わんばかりに話を進めるせいで、つい自己紹介の機会を逃してしまった。

 エリザベートはさっさと先に入ってボクに目くばせで合図している。

 なんだかよく分からないまま、ボクはファードランド教授宅の客となった。

 庭先に小洒落たパラソルとテーブルとが見えた。

 しかし、まさかその後も足繁く通うことになり、アンナマリー夫人の淹れた紅茶をすすることになる等とは想いも寄らなかった。

 あまり家族以外の女性と話をした機会がないボクにとってかなりハードルの高い作業になるという予測も、ものの見事に外れた。

 ファードランド教授の夫人は・・・アンナというのが愛称なのか本名かはこのときはわかりかねたけれども、予想以上に知的センスに溢れる女性だった。

 そして、エリザベートも負けず劣らずの才媛だと思い知らされる。

 会話について行けるのだろうかという心配は全くの杞憂だった。

 その程度の学識と教養は幸いにしてボクにも備わっている。

 二人はかつてエルシニエ大学始まって以来の秀才と言われた二人の学生の話に花を咲かせ始めた。

 その二人とは、ゼダで歴史の授業を受けた者ならば誰でも知っている二人だった。

 一人は後に共和国の初代総理大臣となったアリアス・レンセン。

 もう一人は後にエルシニエの学長まで務めたD・エクセイル元学長だ。

 代々史家を輩出してきたエクセイル家は当代のケヴィン・レイノルズ・エクセイル教授に至るまで常に史学界をリードしてきた存在だ。

 アリアスとディーンの二人ともおおよそ200年は昔の人物だというのに、彼女たちはまるで彼らがごく最近人気のTVスターであるかのような口ぶりでせわしなく話を続けている。

 二人とも相当な博識で、しかも史学に通じている。

 これなら、多少難しい専門的な話をボクがしてみせたところでドン引きされたりする心配はなさそうだった。

 アンナ夫人はキッチンで作業しながら、エリザベートは大学創立400周年を記念したアルバムを手に話の花を咲かせている。

 アルバムには色褪せた当時の写真が掲載されていた。

(あれっ、でも確か・・・)

 ボクの記憶違いでなければアリアス・レンセンはエルシニエ大学を卒業していない。

 丁度、6月革命の時期であり、彼の最終学歴は政経学部の中途退学だった筈だ。

 ボクは思い切ってその疑問をぶつけてみた。

 すると・・・。

「彼は大学在籍当時その名前ではなかったのよ」

「そうそう、元老院議員の養子だったの。それで昔の学生名簿に彼の名前はないわ」

「なぜ、それをご存じなのですか?」

「そりゃあ」と言ってアンナ夫人は優しく微笑んだ。「そのアルバムは私が夫の秘書をしていた時代に手がけたものなのよ」

「そうなんですか」

 ボクは心底驚いた。

 エルシニエ大学の創立400周年式典は5年前の出来事であり、ボクはその当時士官学校の学生だった頃だ。

「私も当時はエベロンにいたわ」とエリザベートは微笑む。そして彼女は指を折って数え始めた。「私は18か9だったかしら」

「えっ?」

 意外な事実にボクは思わず声を上げた。

 彼女がエベロン女学院大学の出身だからではない。

「同い年くらいだと思ってたけど、まさか君って今年24?」

「あらっ、でも変ね?あなたは今年3年生でしょ?」

 エリザベートは当然の疑問を口にする。

「ああ」と言ってボクは気まずくなって目を伏せた。「ボクは寄宿学校を出た後、2年間は父の事業の整理のために・・・」

「まぁ、ごめんなさいね」とアンナ夫人はすまなそうに声をあげた。

 実を言えば半分が本当で半分は嘘だった。

 寄宿学校在学中に父の病状は悪化し、個人経営だった事業も傾いていた。

 学資がアテに出来ないと悟ったボクは勉学を続けるため、ある人の勧めで陸軍士官学校を受験した。

 そして、士官学校に1年通った後に父の容体が悪化した為、入学から1年半後に中途退学することになった。

 父は休学の後、1月足らずで他界した。

 父は古美術商を営んでいて、残った資産のほとんどが美術品だった。

 父が捌けなかった品物を別の業者を通じて売却し、その金で相続税を支払い、手許に残ったのは処分した美術品のもつ本当の価値からすれば10分の1程度の僅かな額に過ぎなかった。

 その半分を西部のアルマスに住む母と姉夫婦に送金し、ボクは残りの遺産を引き継いだ。

 残りの遺産というのはパルムにあった父の店舗兼事務所兼住居と美術や骨董関連の書籍、そして父が遺した夢を受け継ぐのに必要な軍資金だ。

 ボクは士官学校にいた一年半で自分には軍人になる根本的な才能がないことを思い知らされていたし、その後の半年で商才もそれほどないことを思い知らされていた。

 なによりボクはビジネスライクな人付き合いが苦手だったし、それ以上に人との争い事が苦手だった。

 叔父や父と親しかった同業者たちが年若くして跡取りとなったボクに好意的に振る舞ってくれなかったら、僕等の一家は国に相続税として美術品を差し押さえられた挙げ句に無一文となるところだった。

 不幸中の幸いに学資分はどうにか工面できることになり不動産も残った。

 それで店舗を処分し、アルマスに戻って士官学校に復学するよう強く働きかけてくれた姉夫婦の誘いを断ってパルムに残ることが出来た。

 そして母と義兄に反対されながらも士官学校に復学せず、夏まで受験勉強に費やし、父の目指していた考古学を学ぶためにエルシニエ大学に入学することが出来たのだ。

 そんな身の上話をかいつまんで話した。

「意外な経歴ねぇ」

 アンナ夫人は変に関心した顔をしている。

「そうでしょうか?結局ボクはどっちもモノにならないと、短期間で見極めたのですよ」

「でも、あなたってちゃんとしてるわ」

 なにがどうちゃんとしているのやらだ。

「そうでしょうか、冴えない男だし友人も少ないです。なにせ2つ年が離れた子たちに囲まれているのでどうしても引け目に感じてしまって、なかなか大学内でも打ち解けられません」

「でも、観察眼は鋭いわね」とアンナ夫人は真っ直ぐにボクの目を見た。「ウチの主人があなたの答案用紙を家に持ち帰ってわざわざ私に見せたほどだもの」

「えっ?」

「EXCELLENT!」と流暢な発音と大仰な身振りで夫人は「彼」の真似をしてみせた。「非の打ち所もないとは正にこのことを言うのだ」

 ボクは自分のことを褒められている気がまったくしなかった。

「1、2年生の成績はオールA+。さすがだわ」

「それは単にボクが2年の間、独学で学んだ結果だと思います」とボクは小声でつぶやいた。「進路の夢が敵わないとわかっていても、なかなか諦めきれなかったので・・・」

「2年の間って士官学校に居たときも?」

「はい、時間を見つけては図書室で勉強を。でもそれが教官たちの気に障ったせいでよく殴られていました。『軍事に関係のない書物なんか読みふけるけしからんヤツだ』とね。それで体力訓練のときは目の敵にされて散々シゴかれました。それこそ、へとへとになるまで・・・」

「あらっ」

「それで負けっぱなしは悔しいので片っ端から軍事関連の本も読みましたよ。古代から現代にかけてほとんどすべての」

 まったくヤケっぱちな気持ちだったが自分に意地があるとすればそういう所にだった。

 体力と実地訓練の成績はかなり悪かったが、机上演習と軍事学、軍事法といった座学に関してはそれなりの成績を収めることが出来ていた。

「やはり適任ね」

 アンナ夫人はそうキッパリと言い捨てた。

「なにがです?」

「ええ、この人しかいないわ」

 二人は顔を見合わせて思わせぶりに頷き合った。

「一体なんの話ですか?」

「あなた《女皇戦争》について興味あるわよね?」

「はいっ?《女皇戦争》と《6月革命》ですよね?」

 ボクはかなり怪訝そうな顔をしていたと思う。

 熱っぽい二人に比べ、ボクはその歴史的事実に関しては正直興味と関心が乏しかった。

 むしろボクはそれより以前の十字軍時代の歴史やファーバ教団、ミロア法皇国成立史に関心があった。

 亡くなった父の関心もその時代にあったからだ。

「その『真実』を知りたくない?」

「真実?」

「そうよ、まさに歴史の闇に葬られた『真実』よ」

 エリザベートは最早笑ってすらいなかった。

 彼はツンと澄まして「真実」という言葉に独特のイントネーションを添えていた。

「興味がないと言えばまるでウソになりますけれど、たかが一学生にどれほどの事が出来ると思います?」

 実のところ金も時間もそれほど自由にならない。

 それにしっかりと身分を保障されてもいない。

「その気になれば現在の学説すべてを吹き飛ばすことが」とエリザベートは笑った。「頑固者のウチの父が驚いて飛び上がるほどのセンセーションよ」

「買いかぶるのはよしてくださいよ」

「買いかぶってなんかないわよ、私がどれだけ慎重に貴方の適正を見極めてきたか分からないくせに」

 エリザベートは怖い顔でこちらを睨んでいる。

(君はボクの一体なにを知ってるというのさ?)

 ボクは正直なところかなり頭にきていた。

「君は見た目は可愛らしいけど、その強引さはなんなんだよっ!」と少しずつ溜まっていた鬱憤を吐き出した。「こちらの立場が弱いからって、人がなんでも自分の思い通りになるなんて、少し勘違いしてやしないか?」

「そんなことないわよっ!」とエリザベートは鼻息を荒くする。「あなたって見かけよりもずっと意気地がないのね。そんな調子だから士官学校も途中でやめてしまったんでしょ!」

 正直痛いところを突かれてボクも退くに退けなくなった。

「頭が良くてチャーミングなのは認めるよ。でも君の言うことは飛躍しすぎ。あまりにも突飛すぎて、とてもじゃないけどついて行けないよ。とんだ“じゃじゃ馬娘”だねっ!」

「アンタこそ頭でっかちのガリ勉じゃない。確かに人当たりが優しいし軍人ってガラじゃないのは分かるわよ。でも、女の私にこうまで言われて簡単に引き下がれるの!?」

 無論、引き下がるつもりはなかった。

 同い年だとわかったこともある。

 そのせいかいつにも増して大胆になっていた。

 そのまま取っ組み合いのケンカでもしかねない二人を見てアンナ夫人は・・・。

「あはははははは」

 一人で腹を抱えて大爆笑していた。

 キッチンで包丁を片手に小さな躯をよじらせて笑い転げている。

「あー、おかしい、初めてよ。ベスにそんな顔させた人は」

 アンナ夫人があんまり笑うもので僕等はバツが悪くなって互いに矛をおさめた。

「私の知っている限りでは、ベスを本気で怒らせることがあったのはレイノルズ教授だけよ。だけど“そこまで”怒らせたのは貴方が初めてね」

「アンナ・・・」

 エリザベートは上目遣いにむくれている。

 そんな姿でさえ愛らしく見えてしまう。

「どうやら相当ベスに気に入られたみたいね」

「はぁ!?」

 僕等はほとんど同時に素っ頓狂な声を上げた。

 そしてお互いに顔を見合わせていよいよ怪訝な顔になった。

「アンナ、なに言ってるの」

「おかしな冗談はやめてくださいよっ!」

 丁度そのとき玄関のベルが鳴り、ファードランド教授が帰宅した。

 迎えにも出て来ないのでリビングに入った教授は怪訝なカオでボクらを見回した。

「どうしたんだい、君たち?」

 出迎えを忘れるほど笑い転げたアンナ夫人を前にした教授は顔立ちが整っている分だけ、なんだかひどく間抜けに見えた。


「なるほど・・・」

 私は旧知の人物たちである“彼ら”の意外な一面を知って驚きを隠せなかった。

 キザったらしいファードランドが一人の学生を持ち上げて家に招くことも信じられなかったし、いつもツンと澄まして、理論武装完了といった様子の夫人がそこまで茶目っ気のある女性だとも思っていなかった。

 ましていつも笑顔を絶やさず、学生達を魅了している娘のエリザベートがえらい剣幕で怒ったことも、私の知らない所で私の意に反して足繁くファードランド宅に出入りしていることなども信じがたかった。

 そしてなにより、異色の経歴を持つティルト青年に自分も強い関心を抱き始めていることに気付いたのだ。

 やはり最初に彼を最初に目にした“直感”の方が正しかった。

「それで教授が帰宅してからは具体的に『依頼』の話になりました」

「依頼ねぇ」私は彼らがティルト青年になにを依頼しようとしていたかについて大いに興味をそそられた。「依頼というからには報酬も提示されたのだろう?」

「はい」

 彼は大きく肯いた。

「金額は?」

「いいえ、お金ではありませんでした」

 金ではない?

「確かに。ファードランドの貰う俸給からすれば多額の資金を捻り出せるとも思えない」

 大学教授の年収などたかが知れている。

 その3分の1は研究のための書籍代に消える。

 まして彼は若く、妻を娶ったばかりで、土地はおそらく彼の実家の所有だろうが、家はローンを組んで建てた筈だ。

 あの男の不徳の致すところから、実家からそれ以上の援助も見込めまい。

「それが実のところボクにもなんのことなのか今もって分からないのです」

「よく分からないで引き受けたのかね?」

 ティルト青年はコクリと素直に肯いた。

「エリザベートからは『エクセイル家の至宝』だと言われました」

「『エクセイル家の至宝』だとぉ!?」

 私は驚き、そして半ば呆れ返った。

 そんなモノがあるという話は義父母たちから聞いたことがない。

「はい、それでエクセイル家ほどの史家で旧家が大切にしているものだというからには、恐らくは史学に関係する“なにか”ではないかと思ったのです。そのときもしやと思ったのは《ナコト写本》です」

 《ナコト写本》とは中原最古の活版書籍とされ、遙かに後の時代の文献の中にしか登場しない伝説級のシロモノだ。

 ファーバ教団の秘奥義書とも呼ばれており、その内容に関しては全くと言って良いほど謎に包まれている。

 そもそも存在自体が疑われてもいる。

「いや、確かに君がそう推察するのもムリはないが、残念ながら《ナコト写本》は我が家にはない。それにアレが現存するかさえ疑わしいのは当然知っているだろう?」

「勿論“そうでした”教授」と言ってから彼は信じられない言葉を続けた。「けれどボクは《ナコト写本》の実物と《真の書》に接しました。ミロアに旅をし、ファイサル法皇猊下に謁見する少し前にです」

「法皇猊下に謁見だとぉ!?ば、馬鹿なそんなことがあって・・・」

 私は興奮のあまり思わず席を蹴って立ち上がりかけた。

「すいません、教授。でも落ち着いてください」

 宥めながら、ティルトはバツが悪そうな顔をしてみせた。

「アレは失礼ながら教授が期待され、想像されている内容の書物ではありません。確かに伝説級であることは事実なのですが、既に歴史的役割を終えてしまった本なのです」

「歴史的役割を終えた?なんのことだかさっぱりわからんっ」

 ティルト・リムストンの言葉の一つ一つから立ちのぼる不思議なニオイのする空気に私は興奮し我を忘れかけていた。

 私の中にある「探究心」という本能がなにか重大な事実を前にしていることを告げていた。

「今になって思い返してみれば本当にとんでもない『依頼』になりましたよ。ボクはこの1年間ゼダは勿論、ミロアやベリア、フェリオにも滞在して取材と調査と史跡を巡りました」

「もしかしてその日焼けは?」

「ええ、トレドでは実際に発掘調査をしてきました」といって袖口をまくり、見事に残った日焼けの痕を見せた。

「だけどそれというのもすべてはエリザベートとファードランド教授の『大学の事はなにも心配しなくていい』という言葉を信じてのことだったんですよ」

「それでこの成績か・・・」

 私が憤慨する原因となったティルトの成績表。

 そこには私の講座を除く全教科でA+の評価が下されていた。

 出席日数は全く足りていない。

 だが、他の教授達は揃いも揃ってその事実を不問にするつもりらしかった。

 そのことに私はなにより腹を立てていた。

「だが、ファードランドは私に君は“落第寸前”だと話していたぞ?」

「それは失礼ながら、教授の聞き間違いです。“落第寸前”ではなく“落第同然”です。たとえ教授の講座の単位を落としても進級は問題ないにしても、もともとの目的だった教授のゼミ生に加わることが出来ないのならボクにとっては落第そのものです」

「しかし、君は旅先に居たのでは定期試験には全く参加出来なかったのではないのかね?」

「はい、今年の6月を除いてはですけれど」と言ってティルト青年は遠くを見るような目をした。

「ただ、旅先から調べ上げた内容の一部を論文形式にして送るようにエリザベートから指示されて、彼女の言う通りにした結果、他の先生方はA+をくださいました。でも・・・」

 言い淀みながらティルトはなにか別のことを考えている様子だった。

「でもなんだね?」

「『頑固者の教授を納得させるのは秘書である自分の役目だから任せておけ』、『現代の定説に反する内容を解答用紙に書いたりすれば、たとえ内容が正しいと論証できてもへそ曲がりな教授は採点を辛くするから定期テストも白紙で提出しろ』って指示されて・・・」と言ってから、ティルトは忌々しげに娘の愛称を呼んだ。

「リザのやつぅ!はなからハメるつもりだったのか」

 呆気にとられた私の顔を見て、父親の前だったことに気付いたティルトは慌てて居住まいを正した。

「さっき慌てて逃げ出したんでホッとした反面、『もしかして?』と思ったらやっぱりそうでした。アイツ肝心な教授にだけは全部秘密にしてたんですよ。多分、今はどこかでほとぼりを冷ましてますよ」と言ってから、なにかに気付いた顔をした。

「・・・たぶん屋上だ」

「屋上?」

 ティルトは立ち上がって教授室のドアを開け、エリザベートの仕事机の上を見た。

「ほらっ、教授がここに置いたタバコ入れがなくなってます。アイツも愛煙家ですよ」

「・・・・・・」

 あれだけ私にしつこく禁煙を勧めながら、娘が自分も愛煙家だということさえ私は知らなかった。

 私の頭の中はすっかり真っ白になっていた。


 私は火のついたタバコを指に挟んだまま、心地よい初夏の風に身を任せていた。

 今頃、あの二人がどんなやり取りをしているかと思うと心がゾクゾクした。

 なにも日が陰ってきて、少しだけ風に冷たい空気が混ざりはじめたせいではない。

 思えば厳格で堅物で、気に入らないことは誰が相手でも怒鳴り散らし、頑固者で偏屈で、その癖自分にはちょっとだけ甘い父に一泡吹かせてやりたいというのが、主犯格である“私たち”の動機だった。

 そして、その事業を遂げるための役目としてティルト・リムストンを“共犯者”に選んだ“私たち”の見立てに間違いはなかった。

 それに、ファードランド教授や祖父をはじめとして先生たちや大先輩たちはみんな私たちに好意的だった。

 秘密を守り、私たちの身分をしっかりと保障してくれた。

 ティルトが深夜まで図書館で調べ物が出来るよう大事な書庫の鍵も預けてくれたし、ミロアでファイサル・オクシオン法皇猊下に拝謁を許されたのも、ある人物の口添えと紹介状があったからだ。

 ティルトが士官学校に在籍していたのはなによりの好都合で、その実「成績優秀で将来はかなり有能な参謀将校になる」と目されていたティルトが父親の不幸で中途退学したことを惜しむ士官学校関係者や、ティルトの双子の姉の夫など現役将校も数多くいて、ティルトの実地調査と取材とに協力してくれた。

 ここまで出来過ぎてしまうと最早、それが運命だったと思えるほどに事はスムーズに運んでいった。

 普通の人ならば1年程度でこれだけのことは成し遂げられない。

 ティルトは私が白羽の矢を立てる以前から“普通”からはほど遠い存在だった。

 なにより私を満足させたのは、常に父だけがなにも知らない状況に置かれていたことだった。

 私は何食わぬ顔をしてこの一年間秘書の仕事に専念し、休みは友人とバカンスを楽しんでいる素振りをしながら、ティルトの調査に協力し、時には一緒になって旅をした。

 ティルト・リムストンはあたしたちの期待にそれ以上の回答を示してくれた。

 多分、彼が丹念に調べ上げ、証拠を積み上げ、研究し、論証し、明るみにした内容のすべてが世間に発表されれば、史学界どころか世の中がひっくり返るほどの大騒ぎになるだろう。

 そして、エクセイル家が世間に対してつき続けてきた“大嘘”が白日の下に晒される。

 ただし、おそらくはティルト自身もそして彼に協力した人たちのすべてがそれを望んでいない。

 ティルト・リムストンが紡ぎ上げた物語はまったくの「おとぎ話」だった。

 それは歴史というにはあまりにも突拍子なく、そして真実として語られるにはあまりにもロマンティックで、なによりも悲惨であり悲劇的で衝撃的な事実だった。

 シャイでウブで、自分のことは何一つ分かっていないアイツにそんな詩情が眠っているなんて思いも寄らなかった。

 アイツはいにしえの吟遊詩人のように世界各国を巡って「おとぎ話」の素材集めを丹念に行った。

 あるいはテレビドラマの「名探偵」のように、大学図書館を皮切りにパルム中央図書館や国立国会図書館に出入りしては証拠固めをしていった。

 もうすぐティルトが父さんと共にここに来る。

 父はともかくティルトの怒った顔を見るのは久しぶりだ。

 正直なところアイツが本気で怒った顔は初対面だった頃からたまらなくセクシーだった。

 そして、エウロペアにおける「真実の物語」が語られる。

 ティルトは中原をひた走って追い求めた「エクセイル家の至宝」をその手にするだろう。

 それにしても彼にその「答え」が分かっただろうか?

 幾星霜を紡ぐ物語の終着点がどこなのか。

 多分、私に指摘されるまで彼は気付かない。

 彼は頭がいいけど鈍感で、女心がまるっきりわかっていない。

 そういう所は父さんに、そして私の大好きな“あの人”にもよく似ている。

 もし彼が答えを間違えたのなら、他の教授や父さんがA+をつけてもあたしだけはD-をつけることにしよう。

 そろそろ、気付いた頃かも知れない。

 あたしがここに居ることに。

 ヒントは十分に与えた。

 そのチャンスもあった。

 すべての準備は滞りなく整った。

 さぁ、物語を始めよう。

 その最初の舞台はここ。

 物語の始まりはそれよりもずっと前のこと。

 だけど、あたしのお気に入りは、とびっきりのお気に入りは「あの場面」だから・・・。

 4人が出会ったあの場面。

 物語の舞台は「ここ」。

 私がティルトという宝石の原石を見つけたあの場所を物語のスタート地点にしよう。

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