和風一次の一部分短編

@umasikate_0141

第1話

・半座を分かつ二人


西に落ちる焔に、柱の影が不気味に背を伸ばす暗い一室。

影のない猫は、尾を擡げながらその闇の中をじっと見詰めていた。一瞬の時すらも見逃すことのないようにと。

猫の眼前には、畳の上で生温い血に塗れ、呆然と横たわる一人の少年がいる。

彼の目は、たった今自分の身に起きた事を理解できないまま、瞬きすらも忘れてしまっている。

猫は、笑っていた。初めからそこに立っていて、全てを見ていた。その上で、凄惨な光景に悲鳴をあげることもなく、ただ満面の笑みを浮かべていたのだ。



猫の名は蕚といった。

主人から授かった名前だ。

主人とは、生涯の離れ得ぬの少年のことだ。


蘭の一族は、先祖代々守り神として猫鬼を使役し、また崇拝してきた。獣憑きの家系は、その血を受け継ぐ者各々に一体の分霊体が取り憑き、生涯を共にする。分霊体と呼ばれる存在は、母体の魂の欠片であるため姿も意思も持つことはない。ただの道具として彼らに使役されるだけの力の塊に過ぎないのだ。

そのはずだったのだが、とある少年によって一体の分霊体が擬似的に姿形や意識を持った存在として半独立してしまった。具現化した分霊体は母体からの支配が薄れ、やがて自我が芽生えた。

その折に、呼び名が無くては不便だと彼は暫く考えた末に、この名前をくれたのだ。良くも悪くも、全ての運命を共にする人。そんな誠に相応しき名札を。


少年の名は、蘭 光晴。生まれつき呪われていた。

生まれる時は難産で、母親は彼を産んですぐに死んだ。母の死因は光晴の呪いとは関係なく、自傷による大量出血だったのだが、本当の理由を知らない人間には、彼は大層恨まれ続けた。

それはさておき、光晴の生まれ持った呪いというのは簡潔に言うと彼の体質そのものである。彼は"日従(ひと)"の身でありながら、夜兒のように周囲から呪いを集めるという変わった性質を持ち、同時に呪毒に対し強い耐性を有していた。

彼のような特殊な体質は、非常に稀だが前例はある。しかし、彼ほど強力な者は今まで天照の記録に存在しなかった。純粋な人間であるのに、保有する呪力は夜兒をも凌ぐほどで、彼の力を良く知る者たちは、皆口を揃えて忌み子や穢児と呼んで恐れ、蔑んだ。

しかし蘭家には、光晴を処分できない大きな理由があった。それは、宗家当主の元に生まれた長男は家の守り神の生贄として捧げなければならないという掟があったためだ。彼らは光晴を痛烈に虐待しながらも、命までは奪わなかった。光晴にとってそれは正に生き地獄と呼ぶに相応しかった。どれだけ心身共に深く抉るような傷を付けられようが、理不尽な暴力や罵声に苛まれようが、それを遠巻きに眺める者たちの奇異の目に晒されようが、一族や年下の兄弟たちを人質に取られている手前決して生から逃れることは許されなかったのだから。

そんな幼少期を過ごせば、誰だって正気でいられるはずがない。光晴の精神は、彼が思っている以上に疲弊していた。次第に己の感情や苦痛、そして憎悪すらも自覚できなくなった。受け入れないというよりは、自身の内面に対する理解が著しく遅滞して、「今自分が何を感じているのか」を一々噛み砕かなければ飲み込めない状態だった。まるで車窓に流れる風景を呆然と見送るように、心をどこかへ置き去りにしてしまったのだ。だから思考を放棄してしまえば、何も分からなくなった。

それは一種の逃避であり、無意識的に己の心を守ろうとする防衛反応だった。彼は段々と痛みに無反応になり、怯えることもなくなり、暴力の雨に無抵抗に晒されるようになっていった。


だが蕚には、光晴の自覚できない心の中身がよく視えた。

彼の心は、まるで一筋の光も通さない闇そのもので、今にも破裂してしまいそうな程の凄まじい怨念を溜め込んでいた。しかし、彼は他者を呪うという行為そのものを拒絶していた。魂は惨憺たる呪いで傷み果てているのに、彼は悪意という捌け口を持とうとしなかった。負の感情を言葉として発することすらも禁じたのだ。

それらは全て"善人でありたい"という彼の強い願望によるものだった。そんないたいけな善性で無理矢理心を縛り上げたせいで、精神の悲鳴は誰にも届かぬまま口を噤み、遂には押し殺されしまった。


けれど、そんな痩せ我慢が長く続くはずもなく、行き場を無くした怨念は遂に この日 姿を変えて溢れ出た。


血の海に溺れていた少年は、ゆっくりと上体を持ち上がらせた。まだ状況を飲み込めず間の抜けた顔をしているが、目の前に倒れ込んでぴくりとも動かない女を見詰めながら、何が起きたのか理解しようと、必死に頭を働かせているらしい。


そうそう、漸く思い出してきたみたいだ。


今から数分前、些細なことに叔母が激昂し光晴に暴力を振るい始めた。ここまでは日常茶飯事といっても差し支えないが、今日光晴は初めて「やめて」という言葉を口に出した。

光晴の抵抗が余程気に入らなかったのか、口答えするなと小さな身体に馬乗りになって叩くも、それでは飽き足らなかったようで、逃げようと藻掻く光晴の細首を絞め上げ始めたのだ。生意気な口を利くなら殺してやる、と口に出しているものの、掟がある以上本気で殺すつもりはなかったのかもしれないが、上に乗られて首を絞められている光晴は、この瞬間に本気で殺されてしまうと思ったのだ。

意識が飛びかける間際、光晴は心の中で初めて「悪意」を知った。


お前が死ね。


血も酸素も喉を通らず、外の音がぼんやりとくぐもって聞こえる中、やけにはっきりと、鉛のように鈍く重たい殺意が心の内で零れ落ちた。

その言葉を皮切りに、堅い果皮で覆われていた呪詛の種が弾けて、中に詰められていた怨念が止め処無く外へ溢れ出ていった。それは即効性の猛毒のように、光晴の首を絞める叔母の手を伝い、彼女の内臓を一瞬の内に滅茶苦茶に破壊して、いとも簡単に絶命させてしまった。大量の血をあらゆる穴から噴き散らし、絶叫を上げながら、肉塊が無様に床を転げ回ったところで、光晴はやっと彼女の手から解放され死を免れた。


ぴくりとも動かない肉塊を眺めていた光晴の顔が徐々に引き攣り始める。口許を押さえながらがちがちと奥歯を震わせ、肩を上下させる度、ぜぇ ひゅう、と喘鳴のような音が気管から漏れた。

その小さく縮こまった背中に、ひたりひたりと裸足の足音が近付いていく。


「光晴」


日の落ちきった闇の中に、人影はぼんやりと浮かぶ。穏やかな声で名前を呼ぶと、光晴はこちらを見ることはなかったが、返事代わりに肩をびくりと跳ね上げた。


「よくやったね、この女死んだよ」


目の前の事実を言葉にして伝えてやると、光晴の呼吸は見る見る内に乱れていった。噎せ返るような腥い血の臭いで息を吸うこともままならず、嗚咽してしまう苦しさに涙を溢れさせながらも、両手で喉を押さえつける。


「君が殺したんだよ」


光晴はそのまま俯いて嘔吐した。血の池に、吐瀉物が拡がる。尚も視界がぐるぐると回っているようで、腹の中身がなくなった後も胃液を吐いて酷く咳き込んでいる。ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、必死に息を吸おうとするが、嘔吐物と血液の臭いでまた吐きそうになっているようだ。

蕚はその姿を見下ろしながらずっと笑みを浮かべている。嘲笑とも、慈愛とも取れる微笑みで酷く優しい声音を囁く。


「悪い奴を呪い殺すって、気持ちいいだろ」


彼の悲愴が、憤りが、悔恨が、彼によって作りあげられた仮初の心臓に、刃物を捩じ込むように侵入してくる。その内に光晴の中で息を殺していた感情たちが、互いを巻き込み勢いを増して津波のように押し寄せてくる。

その凄まじい圧力に心地良いぴりぴりとした痛みが胸の奥を稲光のように走った。愉悦に頬を紅潮させて、呪いにも似た負の感情の源である彼を、ねっとりとした眼で見下ろす。


どうだ、醜い人の子に引き戻された気分は。

お前が見ぬ振りした憎しみは、嘸かし醜悪で悍ましく、痛ましいものだっただろ。

歪んだ人は呪わなければ生きていけない。"善人"でいられるはずがない。歯の浮くような綺麗事など、もう二度と言えないだろ。この痛みは絶対に無視できない、これで思い知ったな。


己の呪いで人を傷付ける行為は、呪いとして生まれた者にとって避けることはできない根源的な快楽だ。

お前もその鱗片に触れた。

ほら、恐ろしいほどに堪らないだろ?


「よかったね、光晴。よかったね、君はもう善人なんかじゃない。僕と同じなんだ」


光晴の見開かれた眼球を覗き込む。血走って怯えきった目。あれだけ人を恨むまいと必死に善き人を装っていたのに。なんて哀れで目も当てられない姿だろう。


「君の願い事が叶っただけだろ。そんなに泣いてないで、助かったことを喜んだらどうなの?」


「俺は……そんな……何も……。こんなことになるなんて……」


焦点の定まらない目をしたまま、消え入りそうなうわ言を零す光晴の身体を、蕚はぎゅっと抱き締めて、頭を優しく撫でてやった。

涙と血でしっとりと濡れた柔らかな頬に、蕚は己の頬を擦り付ける。それでも光晴の震えが止まらない。それを落ち着かせようと再び両腕で抱き締めて、背中をゆっくりと撫でて、耳の傍で優しく、優しく囁く。


「うんうん。君は悪くない、何にも悪くないんだよ。誰だってあんな事されたら『死ね』の一つぐらい思うだろ。寧ろ、今まで一度も思わなかった方がずっと逝かれてる」


蕚はふふふ、と笑いながら、光晴の首、腰、足……皮膚の上にゆっくりと指を這わせ、薄い肉を掌で包み、撫で回した。彼の止め処無い恐怖が、触れた肌から直に伝わってくる感触が心地良かった。今この子は、仮にも親戚を"ただ殺意を抱いただけで"殺してしまった罪悪感に押し潰されそうになっているのだろう。


「なんて……こと……。やはり、俺は、生きてるべきではないんだ……もう、人を傷付けたくない……だから、蕚お願いだ、早く殺してくれ」


彼は、蕚の方など見ずに顔を覆い隠して蹲ってしまった。心から自分を責め続けたまま。

ああ、この子は今どれだけ慰めてやってもちっとも気を緩めてはくれないんだろう。こんなに優しくしてやってるのに、容易く堕ちてはくれないなあ。じゃあもう、飴はいらないか。

蕚は光晴を抱き締めていた両腕を放して、今度は光晴の顔を包み込んだ。光晴の涙は枯れかけていたが、雪のような肌は酷く泣き腫れて血色に染まっている。蕚はその顔をじっと見詰めた後、滑稽だとでも言わんばかりに噴き出して、大声を上げながら朗らかに笑いだした。


「……あは、これでよく分かっただろ!君の心はもう二度と元には戻らないほど完全に壊れちゃったんだ。感情を自覚した頃には、もう取り返しのつかないくらいの呪詛になってる。あーあ、こうなる前に僕に殺させてればよかったのにね。

これからも、君の心は人を殺すよ!これがくだらない矜持で善人ぶってた末路だ。おめでとう!まぁ、かあさんが迎えに来るまで僕は何もするつもりないから、開き直って生きていくんだね」


蕚は涙を浮かべながら心底可笑しくて、それでいて嬉しそうに笑っている。光晴がこうなる事を初めからわかっていたかのように。

清く気高く美しいものが、自分と同じ所まで落ちてくることの何たる清々しさ。みっともなく泣き喚いて己の行いを悔いたとて、もう二度と悪意を知る前には戻れないのだから。


綺麗な君を汚すために沢山の愛を与えて、苦痛に耐えることを正義だと思わせたり、その決意を折るきっかけを忍ばせたり、時には悪人、時には友達となって育ててきた甲斐があった。僕以外にも君の抵抗を助長した奴がいたけど、それも好都合だった。

僕の大好きな君。君のその、悔やみきれない罪に絶望した顔が見たくて堪らなかった。でもこれは君の"親友"とやらにも、誰にも見せない。この一瞬は僕だけのものだ。ほら、僕にももっと怒りをぶつけて。君の剥き出しの感情が、痛ましく爛れた憎悪が、僕に君をもっと好きにさせる。


「僕と君は似た者同士だ。呪い合うことから逃げられない。僕らの根底には同じものがあるんだ。でも平気だよ、本当のこと言ったって君がやった証拠はどこにも無い。誰も真に受けないから、これは僕達だけの秘密だよ。

……光晴、ずっと一緒にいよう。僕らはまたひとつになれる」


息を乱してこちらを睨む濃瑠璃の双眸に、金色の瞳を縫い付ける。

身に余る禍々しく強大な呪いを抱えながらも、身の内に留める術を未だ持たない少年は、呪いを垂れ流しながら呪詛を引き寄せる未完成な呪物のようだ。

涙にも、吐き出した体液にも、乾いた鼻血にも、唾液にも、仄かに呪力の香りがする。

まるで初潮を迎えた乙女のように、君という蕾が少しずつだけれど着実に成長していく。

11歳になったばかりだというのに、可哀想なほど可憐で、……耐え難く甘美だ。


薄く開かれた唇に、自らの唇を重ねる。


驚いて抵抗する身体を押え、ざらざらとした長い舌で口内を弄る。光晴は何か言おうとしているが、聞く必要はないから塞いでしまう。暫く唇を犯し続けると、抵抗を止めて大人しくなると共に、口内の異物に反応して唾液が溢れてきた。じゅる、じゅると品のない水音を立てながら、それを全て吸い出して呑み込む。口の端から零れたものも舐めとって、余すことなく味わい尽くす。呪力の放つ未熟な果実のような甘酸っぱい味だけが、今まで味を知らなかった舌の上いっぱいに拡がっていく。唾液と共に腹に流れていくと、身体の芯にじんわりと熱が滾るのを感じた。そこかしこが切なくなって、もっと彼が欲しくて堪らなくなる。


不意に胸の当たりにどん、と衝撃が走った。どうやら両手で突き飛ばされたらしい。

光晴は浅い呼吸を繰り返しながら、怒りに潤んだ瞳で蕚を睨み付けている。が、一方の蕚は幸せそうに恍惚とした笑みを浮かべて彼の味の余韻に浸っていた。


今日は主様から初めて直接呪力を貰った日。

君は最初に"人生"と"存在"をくれた。そして"身体"も、今日から少しずつ君が切り分けてくれたものに作り変わっていく。


僕と君がもう一度混ざり合うための、第一歩だ。

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