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それから多分十日ほど経ち、曜日は日曜の午後だった。日曜とはっきりわかるのは演奏会があったからで、弁天浦の駅からそう遠くないホールでトルコ人のピアニストがリストをやるというのだった。
私はその人のリストを聴いたことがないが、他の曲なら、異様に歯切れの良いストラヴィンスキーのペトルーシュカをテレビでたまたま見て興味を持ち、それからこれもたまたまだが生演奏で、二千年代に他界した日本の作曲家の指から血が出るんじゃないかというくらいどろどろ情念の渦巻くコンチェルトを、オネゲルの第五交響曲を目当てで行った上野の文化会館で併演だったのを聴いて引きこまれたという経験があったので、生では二回目の演奏会を楽しみにしていた。前の時は曲にのめりこんで聴いたので今回は多少客観的にと考え、ホールのやや後ろの通路前を予約しておいた。
前半の目玉はロ短調のソナタだった。褒め言葉のつもりだが散漫な曲、散漫がひどいなら遠心的な曲と言おう。
西洋音楽はベートーヴェンに呪われているので対立する要素が補完し合い最後は馴れ合って歓喜したり馴れ合えずに絶望するケースが大概なのに対して、リストの主題は隣り合い、関係し合っているのに予定調和しない。生まれては消え、そして形を変えてまた現れ、時には崇高で時には享楽的だ。これは気に入った。
ピアニストはそれを主知的にでなく主情的に、かつ早めのテンポでやったから、曲の技巧的な面と合わせてさまざまな感情のうねりが次々と目の前に投げ出され、ついていくうちに私は酔ったようになった。それだから演奏が終わって休憩時間に入っても頭の中で空想の小さい私が主題を追いかけ続け、私の本体は呆けたように席に座っていた。
不意に何かが目の前で止まったので、空想の私は本体に戻って顔を起こした。
私を見下ろしていたのは灰色がかった大きな瞳だった。目が合うと、その瞳は慌てたリスのようにくるくる動く。
「失礼します」
その言葉で思い出した。この前庭にいた子だ。
「待ってよ」
立ち去ろうとするその子の手首を私は握った。びくっと身体が震えるのがはっきりわかり、私は苦笑した。
「この間は脅かしてごめんね。そんなに震えなくても、今日ははさみ持ってないよ」
「い、いえ。怖くて震えたわけじゃないです」
ではなぜ震えたのだろう、変わった子だ。私は手を離した。
「先日は失礼しました」
その子が私に「失礼します」と謝ったのは考えてみるともう四回目だが、言うほど失礼な子ではない。
「こちらこそ。私、ピアノに集中しすぎると周りが見えなくなっちゃうの」
相手の顔に微笑が浮かんだので私は安心する。少なくとも、「変な危ない人」から「社交上の会話相手」には格上げされたようだ。
「そういえば」
その子はあごに手を当てた。
「あの時弾いてらした曲は何ていうんですか」
「えっ……どんなのだったっけ」
「鉄腕なんとかが寂しがってるみたいな」
私はすぐにわかった。
「ああ、シューベルトのソナタ。二十一番だわ」
鉄腕の比喩は曲の核心に近い。嘘だと思ったら冒頭三十秒だけでも聞いてみたら良い。
「あなた、面白いね」
うなずいた相手の黒髪が肩から滑って、私の目の前にふわりと流れた。
「あ、ごめんなさい」
「ここ、座れば。空いてるみたいだし」
私は隣の席を指差す。実は、みたいではなく絶対客は来ない。隣に知らない人がいるのが嫌で、左右とも私が買ったから。でもこの子ならいいだろう。
「ありがとうございます」
遠慮せずに席についてからその子は言った。
「私、内藤っていいます。
「私は
内藤菜緒は結局休憩が終わる前に荷物を持って隣に移動してきて、後半は二人並んで聴いた。
曲は「詩的で宗教的な調べ」からの抜粋でこれも名演のはずだったが、思った通りピアノの輝きは褪せてしまった。まったくトルコ人には悪いことをしたと反省している。
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