忘れ草、またはヤブカンゾウ
小此木センウ
1
仕事は在宅が中心なのはいいが油断していると確実に運動不足になる。特に夏場は散歩さえ熱中症の危険があるしかといってジムに通うなんて向いてないしでこれまで困っていた。ところが新しく引っ越したアパートは周囲に緑が多く、七月半ばでも涼しい木陰の散歩ができるのが嬉しい。ここ数日は、近所の探索も兼ねて毎日歩いている。
道のわきには野花もたくさんあり、高校で園芸部に入っていた頃を思い出す。園芸部なのに園芸種より野生種のほうが好きな子が多く部活と称して高校の裏山に登ったりして、今考えれば女子ばかりでよくあんなことをやっていたなと呆れもする。
でもおかげで大抵の野草の名は覚えた。すぐそこの空き地に生えているオレンジの花は、ええとヤブカンゾウだ。少し百合に似ているが、八重咲きでひだのついた花弁がそり返り、押し出しが強い印象がある。
いいなあヤブカンゾウ、プランターで育てられるならベランダに置きたいな。
もう少し近くで花を見たくなって空き地に入ってみる。多分私有地だけど、角地でご近所の人が斜めにショートカットするのをよく見かけるから大丈夫だろう。
足の裏に土の地面を感じながらしゃがんで花を見ているうちに、のんびりした気分になってきた。
近くの家のピアノの音が背中にかかるのも心地良かったが、これは残念ながらしばらくしたら止まってしまった。誰の何という曲だったろう、一応の起伏はあるけれど全体に緩やかで、諦観みたいなものが漂っている。クラシックは聴くが私はオーケストラものが好みだったからピアノは有名な曲でも知らなかったりする。
雑多なことを考えながら腕を組んで時間も忘れて花を眺めていると、後ろに誰かが立った。
「忘れ草っていうの、それ」
「え……」
いきなり話しかけられたのとヤブカンゾウという名が頭にあったのとで私は答えに詰まった。
「忘れ草。変な名前ね」
そうだ、ヤブカンゾウの別名が忘れ草だったと思い出して私は振り返った。
私と同年代くらいの女性だった。オリーブブラウンに染めたボブの髪が頬の横で揺れている。その髪色と透けるように白い頬がよく似合い、人形のように綺麗な人だというのが第一印象だった。七分丈のブラウスにグレーのスカートという服装も品が良いが、なぜかその格好で大きなサンダルを履いている。だから私の視線はつい足元に向いた。
「ああこれ」
視線に気づき、女性は片足を上げてサンダルをぶらぶらさせた。
「私の家、すぐそこだから」
指差した背後には、さっきピアノの音が聞こえた家があった。
「ここもうちの土地なの」
「あっ、失礼しました。勝手に入りこんで」
私は急いで立ち上がり頭を下げた。
「いいよ。どうせ使ってないし」
答えた女性は私の前を素通りして花の前に座る。背中に回していた右手にごつい剪定ばさみが握られているのが見えてどきっとした。
「あの――」
と声をかけた時には、ヤブカンゾウは根本から切られていた。
「嫌いなのよこれ。放っておくとどんどん生えてくるし、綺麗だしね」
無惨に地面に転がる花に意識が行っていた私は、最初彼女の言葉を聞き流し、少ししてから違和感を覚えた。
「綺麗?」
「そう。だって身近に綺麗なものを置いておくとピアノの音が濁るでしょ」
彼女は笑って、サンダルで地面の花を踏みつけた。若い花や蕾が地面にこすれて青いような匂いが広がる。
「私、髪もね、本当はもっと伸ばしたいけど、やっぱり音がどうもね。ぴかぴかしないのよ、長いと」
彼女の視線が胸元まで垂らした私の髪に向き、手の剪定ばさみが音もなく開いた。
「失礼します!」
私は頭を下げるとぱっと振り返って、小走りにそこを離れた。
もちろん二度とあそこには行くまいと思ったのに、私の記憶には変に鮮明に、女性の白い頬と切られたヤブカンゾウと、あと背中に流れた旋律が残っていた。
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