番外編 流星

 その少女――否、柏木は、襖から姿を現した。

 絵画から抜け出てきたかのような美貌に、樹は思わず息をのんだ。

 濡れたように艷やかな御髪。

 ほんのり色づいた頬、薄いくちびるに差した紅。

 なにより、薄紙を鋭利な刃で裂いたかのように鮮やかな簪と、潤んだように大きな瞳が彼の色の白さを際立たせていた。

 今にも倒れて死んでしまいそうな彼に、一体どんな言葉を掛ければいいというのだろう!

 聡明な肇、快活な肇。

 そんな君への言葉なら、いくらでも思いつくというのに。

 それとも……あの性格も、君の鎧でしかなかったのか?

 髪を切り、白シャツを纏い、所作もぞんざいにして、およそ女性性を一瞬たりとも見せなかった君の、内面から作った溝だったのか?

 家の者に、気がふれたと信じ込ませるほどに念入りに刻んだ、それらの一つだった――?


 飾り棚の辺りに、「あれ」がいる気配がした。

 芥子粒みたいに小さくて、意地の悪い笑みを顔に貼りつけたあいつ。

 でも不思議と悪意は伝わってこない。

 息をつめてこちらを窺っているのか、飾り棚を起点として静寂が広がっていた。


 確かに柏木は僕を騙してきた。

 しかし騙せ通せたとはいえないんだ。

 透き通るような変声期以前の少年の声。

 線の細い背中。

 思わず笑った時の仕草。

 それらに気づかないほど、僕は鈍感ではなかったつもりだ。

 どうしようもない身体的な特徴が努力を裏切っていたなんて、君が知ったら悲しむだろうから、僕は何も言えなかった。


「……読書に耽溺しようと思っても、頭の一角は冷めたまま。特に女性に対する記述には、何一つ賛成できるところがなくてね。……何故か分かるだろう? 僕は女性が好きと自覚してしまったからあんな格好をしていたわけじゃない。それどころか全くの真逆なんだ。自分も含めて、女性という存在が、おぞけが出るくらい嫌いだったんだよ。だから、気違いの烙印を捺され離れに押し込まれた時、やっと母親を見ずに済むと喜んだ。たまに母屋から洒落声が聞こえると、耳を塞いでやり過ごした。だから――裏庭に君が現れた時は、息が止まるくらい嬉しかったよ。君と一緒にいることで、真に女性性から抜け出せるような気がしたんだ。でもそれは錯覚だった。僕は少年なんかにはなれない。君がずっと胸に抱いているものの存在を知った時、そのことがはっきりと分かったんだ」

 柏木は蔑むように笑った。

「スティーヴンソンが南太平洋で邂逅したような人々――南国の記述に魅せられて、人跡の絶えた島の奥地に移り住んだ者、一冊のバーンズと一冊のシェイクスピアを友として、手製の小屋に住む者――に、僕がどれくらい恋い焦がれたか、知らないだろうね。君という存在は僕の中で、彼らと共にいた。確かに君は、文字通り全てをかなぐり捨てて、自分になんの感情も向けてこない真っさらの土地に旅立つことができるほど、あらゆるしがらみから自由なわけじゃない。寧ろその逆でさえある。でも、ある一点に向かう想いの強さにおいて、彼らと君は同質なんだ。――僕は結局、それを生まれつき持ち得なかった。それだけの話さ」

 柏木はそこまで言うと、死を悼む者のように俯いた。

 その拍子に髪が一房、薄い桃色の頬にかかった。

 花や蝶を愛するような少女の口から、自分への哄笑まじりに話が紡がれる様子は、樹以外の者の目には奇異的に映るに違いなかった。


 河鹿の鳴き声があたりに満ち始める。


 ――今滑り落ちた星が、夜空に張りつく無数の星々のうちの一つだと信じていたのはいくつまでだった?

 ほうき星からこぼれ落ちた欠片が、身を焦がしながら、青い墓場へ散っていくなんていう救いようのない事実を知る前、数億光年遠くの恒星と、その破片は同じ重さの運命を課せられていると信じていたあの頃――。


 一体いつの日のことだっただろう。

 柑子色褪せていく空の下、自転車を押しながら川原の道を歩いていると、彼がふいにそんなことを言い出した。

 辺りは草の香りに満ち、川面にこだまする虫の声があまりにも美しかったから、感傷的な言葉は不思議と景色に馴染んだ。

 

 歩みを止め、か細い腕を菫色の空に差し伸ばして、頼りなげに瞬く星々の一つひとつを名指していく柏木の姿を、樹は無心になって見つめていた。


 ――そんな寂しい話、君には似合わないよ。

 もし君が流星を自分に重ね合わせているのなら、僕はほうき星の一部にもなれない、川底に沈む黒い石だ。

 冷たい水を透かして宇宙を見つめている、惨めな地球の欠片。

 そう言うと、彼は微笑した。

 川は海の一部だよ。そして海は宇宙そのものだ。

 だから、君は恒星に違いない。


 夜風にそよぐシャツの襟をかき合せて空を仰いでいる柏木の横顔は、限りない悲しみに満ちていた。

 それでいて鏡面のごとく凪いだ湖畔のような静けさがその上を覆い、ふとした拍子に微笑みに変わってしまうような、不思議な相をしていた。

 ――君は恒星になりたかったの?

 声にならなかった問いは街の向こうの群青の間に消え、後には河鹿の声だけが残された。


 今の君は、墓場に落ちた星屑。

 でも、墓場が不毛の流刑地とは限らない。

 そのことをどうやったら伝えられるのだろう。


 分からなかった。

 言葉にした途端に指をすり抜けていく無数のさら砂を、どうやったら手のひらに留めておくことができるのか、樹は知らなかった。

 一体、だからこそ樹は沈黙を愛したのだった。

 沈黙こそ欠けたところのない唯一の言語だと頑なに信じていた彼に、上滑りする励ましなど言えるわけがなかった。

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