番外編 心象風景

「あら、樹さん」

 夫人は驚いたように口に手をやった。

「今日いらっしゃるとは思わなかったものですから……」

 狼狽を口調に滲ませながら、目元は少しも艶やかさを失っていない。

「いえ、肇君の具合を見に来ただけなのです。どうぞおかまいなく」

「そう?」

 戸口に柔らかく添えられた手を尻目に、樹は離れに続く通路へ逃げ出た。


 長く続く廊下は水のように冷たい空気に満たされていながら、屋根と塀の合間に見える空はやけに白く冴え渡っていた。

 底冷えのする板敷きを爪先で歩きながら、樹は遠い昔の告白と、柏木夫人の残像を重ね合わせた。


 夫人の、黒い一重の切れ長の目と、ふっくりした紅色の頬。くっきりした二重で引き締まった顔つきの肇とは、確かにあまり似通ったところがない。

「僕は妾腹の子なんだ」

 その言葉が真実味を持って迫る。

 いやしかし、と樹は頭を振った。

 なぜだかどうしても、彼があの人の子であるように思えて仕方がない。

 肇はどちらかというと書家の父に似ているのだ。きっとそうだ。

 まだ遺影を見たことはないけれど、そうに違いない。

 だって、もし柏木の告白が本当なら――なぜほまち子がこの家に居るんだ。

 普通ならあの夫人は妾腹の子の肇を憎むこそすれ、あんな慈しむような視線を注いだりはしないだろう。


 廊下のつきあたりの硝子障子の向こうで、ことり、と筆を置く音がして、樹は我に返った。

 気配はそれきりで、後はいくら耳をそばだてても、衣擦れの音一つしない。

「……柏木、入るよ」

 そろそろと障子戸を開ける。

 がらんと開けた空間の真ん中に、おもちゃのようにツルリとした布団が一つ敷かれていた。

 猩々緋の中布団が少し膨らんでいる。

「柏木」

 咳が一つ。

「樹?」

 スラリと布団がめくられ、肇が半身を見せた。

「樹が見舞いだなんて」

 顔は少し熱っぽく赤らんでいるものの、口調はいつもと変わらない。

「なあんだ、意外と元気そうじゃないか、折角リンゴを持ってきたのに」

 それを入れた手提げを上げてみせる。

 肇はくっくと笑った。

「大手を振って休める機会なんてそうないだろう? 今朝体温を計ってしめたと思ったんだ、まだ少し熱があって」

 黒い髪が汗のためか、いつもより艶を帯びていた。

「君は昔、病弱だったね」

「そうだったっけ」

 樹はリンゴを取り出した。

「君の母上に渡すつもりだったんだけど」

「いいよ、そのまま食べるから。……お見舞いにフルーツなんて初めてだな」

 違うよ、柏木。初めてなんかじゃない、今日みたいに僕は一度、君の家へリンゴを持ってきたことがあるんだ――。

 あの日の肇が、この場にいる肇の輪郭を越えて、淡く滲み出してきた。

 差し出されたリンゴにためらいがちに歯を立て、ことりと動いた喉仏や、熱に潤んだ黒い瞳。

 青白く浮き出た鎖骨が、彼が病身であることを表していた。

 不思議とこの情景が思い出されるのは、今朝からあのことばかりを意識の閾に上らせているからだろうか。

 柏木は本当に覚えていないのか。

 あのリンゴが目を衝くように紅かったこと。

 あの告白。

 なぜ君は自分を妾子だと言ったんだ。

 さっき君のおばさんを見て思い出したんだ、リンゴをかじった時の君の瞳は、あの人と本当によく似てたんだよ。

 リンゴを両手に包み、樹を見上げて急くように、

「違うんだ、本当はね、僕はあの人の子じゃない、僕は妾腹の子なんだ」

 あれは嘘だったんだね――。


 樹の胸に差した哀しみを、眼前の肇が知ることはない。

 巧緻な模様が施された西洋製のナイフでリンゴを二つに割くと、片割れを樹に差し出した肇にあの頃の面影はつゆほども見えず、肇の胸の内にあの心象が二度と甦らないことは、樹がよく分かっていた。

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