番外編 平行世界での出会い

 肇に出会った朝のことを、私ははっきりと思い出せる。

 薄ぼんやりした掴みどころのない景色のなか、その場面はいつも妙な玲瓏さを伴って立ち現れる、と私は感じていた。

 まるで記憶をさかのぼっているのではなく、あるひとつの叙事をそっくり脳裏にはりつけた、その非現実的な風景のようなのだ。それは決してきらびやかではなく、朝の硬質な空気のままに、ただ静かにそこにある。

 そうだ、あの日は雨の降ったその次の日だった。木戸も、金木犀も、雨樋も、同じくすんだような色をしていたっけ。

 尋常小学校5年になった私は、家の近くの路地にいた。なぜ外に出たのかはもう忘れてしまったが、薄靄に沈み込む太陽が水面に映ったように揺れて見えていたことは、まるで昨日のことのように覚えている。

 ところどころ樹影の映り込む滑らかな石畳を、樹はわざと避けるようにして歩いた。

 よく通っていた、駄菓子屋に行こうとしていたのかもしれない。しかし不思議なことに、私の進む道は方角的になんの商店もない通りに通じるはずだった。

 第一、彼はこの日初めてこの路地に足を踏み入れたのだ。その証拠に、全く見知らぬ表札が両脇に立ち並んでいた。

 しかし、私の記憶のなかで、石畳は真直ぐ「あの家」まで伸びていた。

 本当に、そこにいくためだけに現れたような道だった。私はその上を、なんのてらいもなく丸い影と一緒に進んでいったのだ。

 杓子定規に区切られた土塀を抜けて、かくんと切れ目が現れたということを知覚するやいなや、私はぱたりと歩を止めた。

 ああ、今までせきたてられるように歩いてきたのは、この切れ目を見つけるためだったのだと、不思議な感覚が私を打った。

 しっとりとした木戸は、誰かを迎え入れるかのように細く開いていた。私の胸あたりまでの高さのそれを、私は音を立てないよう、そっと押した。

 植え込みの杜若から滴った水滴が、私の手を濡らした。どこか遠くで大瑠璃が鳴いた、そんな幽かな音でさえ、私の心を驚かせた。

 これは後ろめたいことだ。私は自分に言い聞かせた。私の身体は、充分な広さになった木戸と塀の隙間を通った。

 これは後ろめたいことだ。なぜかこの言葉は、確かな充足感を伴って心の芯に響いた。

 なぜ誰のものかも知らない家に入ろうとしているのか、自分でもよくわからない。

ただ、この長い石畳は、ここに僕を導くために存在しているのだ。そしてこれはきっと、明日になると消えてしまうに違いない、この世界から、そして僕の記憶からも、という不思議な確信が、彼を大胆にさせた。

 石畳自体は留まり続けても、僕のための石畳は消えるのだ。

 歩を進めながら、この感覚を私は何度も反芻した。澱に沈んだ砂金を掬うように、ただその考えの鋭く尖った部分だけを取り出そうとした。

 半ば夢遊病者のような私の歩みを止めたものは、いつの間にか迷い込んでしまった椿けぶる中庭のいづこから響いた、筆を置く硬質な音だった。

 この音を起点として、静謐な空間に飲まれつつあった私の感覚は、質感を伴って一斉に私の元へ立ち返った。

 それと同時に、私の身体は金縛りのように動かなくなってしまった。

 音の出どころはわかっている、他でもない、すぐそばの奥屋からである。

 いつの間にか陽は射し始め、縁側に仄かな樹影を作っていた。障子は開け放たれている。

 そっと奥へ目をやると、明暗の落差で一寸の間何も見えなくなり、やがて暗がりは薄く溶けていった。

 飴色の畳が広がり、ちょうどその真ん中に、少年が書見台に頬杖をついて座ってみているのがやっと見えた。

 自分を捉えている双眸と視線がかち合った。その途端、私はある錯覚に陥った。

 その漆黒の硝子のような黒目の向こうに、翠が揺れているのだ。なぜだか私は直感的に、その少年が同い年だと分かった。

 不意に、少年のほの白い喉が動いて、次に微笑が浮かんだ。

 爪先が元来た木戸へ向き、今にも駆けだそうとしていた私は、その微笑をうけ、その場に棒立ちになった。

 微笑み。こんなに強制力のない、それでいて身体を動けなくさせる微笑を、私は始めて知った。

 今まで、特にこの頃なにかしらの懇願や他意を含んだ笑みしか向けられてこなかった私にとって、この少年の微笑はそれとは全く別の何かとして、私の目に飛び込んだ。

 よくしてくれる伯母でさえ、最初は明らかに作り物とわかる笑みでしか彼に接してくれなかった。

 「河鹿が、」

 少年は筆おきから畳へと手を降ろした。

 私は、瞳の中の翠から目を離せなかった。喉を鳴らし、やっと声を出した。

 「……河鹿?」

 「そう、君が来るまでは鳴いていたんだよ」

 この家の向こうには田圃が広がっていて、河鹿はそこで鳴いている、と少年は言った。

 強い金木犀の香を感じながら、私はそれを呆けたように聴いていた。

 「……怒らないの?」

 気がつかないうちに、そう呟いていた。

 少年の目が大きく見開かれた。

 「怒る?」

 「……君が」

 「僕が?なぜ?」

 怒る、という概念を初めて聞いたと言うように、少年の声には驚きと不思議の色が混ざっていた。

 私は狼狽えた。

 人の家に勝手に入ったのだから、怒られるに決まっている。その前提があったからこそ、私は足音を忍ばせていたのだ。

 少し前まで私を突き動かしていた妙な確信は、なりをひそめてしまった。

 「だって……」

黙ってしまった私をじっと見つめていた少年は、つと立ち上がって陽の当たる縁側の樹影を踏んだ。その場に膝を折って座り、横に手を置いた。

 「おいでよ」

 用心深く息を潜めていた河鹿が、やっと私にも聴こえる声で鳴き始めた。

 私は小さく頷いた。


 縁側からは、庭の全景が見渡せた。

微風に葉を震わせている木々は、お互いの領域を侵さないように、少し離れて植わっていた。

 私は木の葉の陰のそれぞれに、ひそやかな沈黙を見いだした。

 「玄関は別の通りにあるんだ」

 少年は筆を指先で器用に回しながら言った。

 「君が入ってきたのは、」

 筆先が杜若の植え込みの方を向いた。

 「裏口なんだ。僕はいつもそっちを使ってる」

 いつも使うということは、外にも出るということだ。なのに僕は、彼をついぞ見たことがない。

 私の脳裏に、またあの石畳のことが浮かんだ。触れ合わないはずの世界を繋ぐ石畳。薄靄でかき消されそうな、厚みのない両脇の風景。

 私はそっと少年の横顔を盗み見た。くすみのない白い、しかし健康そうな首筋。

 中庭を映した瞳は、やはり翠を湛えているようにみえる。

 私は視線を落とした。

 少年はいかに河鹿の鳴き声が美しいか話している。

 こういう声を鈴の鳴るような、というんだろうな。

 手の甲を見つめているうちに、私はなぜ裏口を使うのかという問いをしたくなっている自分の意思に気がついて、慌てて目を瞑った。

 私は、物事をよく咀嚼しないうちに相手に投げかけてしまう自分の悪い癖に気づいていた。それが治そうとして正されるような癖ではないこともわかっていたから、私は気心のしれない相手と極力話さないように気をつけていた。

 少年が裏口を使うことに深い意味はない。自分の気にすることじゃないと私は自分を納得させた。

 それにしても、なぜ僕はここにいるのだろう。この人懐っこい少年は、まるで僕がここに来たのが当然というふうに振る舞うけれど。

 少年は、始めに目を合わせてから今まで一度も私自身について聞かない。そのことは私にとって嬉しくもあったが、もし彼が何かを知っていて、気を遣っているのならば、話は違った。

 私は膝を固く握った。

 突然河鹿がぱたりと鳴き止んだ。

 そして突然の突風が田圃を渡って、木々や障子を激しく震わせた。

 見る間に雲は流れ、世界が薄墨色に閉ざされていく。巨大な笛の中にいるような、不思議な音が何度も聞こえた。

 家が吼えている、という言葉が頭の隅に浮かんだ。嵐が近いのだろうか。

 引っ込んでしまった言葉と、耳鳴りに似た風の音が、二人を沈黙に追いやった。

 風は止まない。それどころか、いっそうの強さをもって家の至るところに潜り込み、空恐ろしい音を私の耳にねじ込んだ。

 ふいに、別の音が風の音に隠れるようにして現れた。耳の後ろを叩いているような、こつこつと木を踏む音だ、と気づいた瞬間、今まで黙り込んでいた少年がはっと息を吸った。

「どうしたの、」

 強張った瞳が私に向いた。

「浜野さんだ」

 足音はただ真直ぐにこちらへ近づいてくる。少年は立ち上がって私の手をとった。

 私はただ連れられるままになって、杜若の間を駆けた。

 いつの間にか、蜘蛛の紡ぐ銀の糸のような雨が、さやさやと木々を濡らしていた。目の前を行く少年の黒髪も、石英の欠片を散りばめたように淡く光っていた。

 裏の木戸につくと、少年は困ったように私に笑いかけた。

 「玄関から入らないお客さんを浜野さんは嫌がるんだ。……気を悪くしたかい?」

 私は慌てて首を振った。

 「気なんて悪くするわけない。」

 少年の強張っていた瞳が和らぐ。

 しばらう私を見つめながら、何か言いたそうに唇を噛み締めたあと、躊躇いがちに開いた。

 今までの真直ぐな所作を見てきた私に、その動作は意外な感じを与えた。

 「もし迷惑でなければ……、また来てくれる?」

 少年の口から発せられた言葉は、ますます私を驚かせた。

 僕に。また来てほしいだなんて。

 口のきけなくなった私をみて、少年は勘違いしたのか慌ててこう添えた。

 「大丈夫、浜野さんは普段は母屋にいるいるからめったに来やしないし、母もでかけていることが多いし」

 今まで私に与えられた言葉と、まるで別の質の手触りだった。

 ひとえに少年の澄み切った好意からきたとしか思えないその言葉に、私は頷くしかなかった。

「……うん、分かった」

 よかったぁ、というように少年は頬を綻ばせる。

 「そうだ、名前はなんていうの?僕はね、肇。柏木肇。難しい方の漢字だよ」

 「……僕は長岡樹。木偏の、樹木の」

 「いい名前だね」

 遠くから肇の名を呼ぶ声が近づいてくる。

 「まずい、行かないと。……じゃあまた。来てくれよね」

 「……うん。ありがとう」

 少年の去ったあと、私は暫くそこに佇んで、少年の言葉の数々を反芻していた。

 大瑠璃が鳴いていた。

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