第11話 樹についての伝聞

 初と初めて関係を持ったのは、樹が出兵して二ヶ月後のことだった。最初、拒もうと思った。なぜなら、務が彼女のことを好いていると、本人の口から聞いていたから。しかし、初は違うと言った。彼は私に兄の面影を見ているだけなのだと。だから、僕は彼女を抱いた。彼女が言うには、僕は彼女に樹の面影を見ていないそうだ。だから対等に情を交わすことができると。その情も、純粋にお互いを思ってのものではないのだけれど。しかし、僕は彼女の思っている通りではなかった。情事の最中、気がつけば僕は、彼女の頬を撫でて「樹」と呟いていた。呟くと同時に、得心した。やはり僕は彼を忘れられない。全ての光を携えて行ってしまったあの人のことを。初は赦してくれた。「お互い様でしょう」と。それでは務はどうなってしまうのか。なぜ務ではだめだったのだろう。どうして、僕に。疑問が頭を少しの間巡ったが、何か僕には想像のつかない理由で彼女は僕を選んだのだとむりやり納得した。女性には女性の理屈があるのだろうと。彼女の身体は優美で、神が慈しんで創造したのだと、ふと想像した。彼女の局部は愛らしかった。でも、彼のものではなかった。

 彼は一体何者だったのだろう。僕はずっと考えていた。それは初も務も同じだったろう。彫刻刀で削るのは、彼の横顔が多くなっていった。いつしか、それで生計を立てられるまでになった。戦争は終わり、柏木家に婿入りした。やがて務とは疎遠になった。樹は帰ってこない。死亡通知が柏木の家に届いた。それでも、僕は答えを求めていた。彼のはっきりとした輪郭を。そうしているうち、鱗片が向こうからやってきた。

「妹さんもご友人も、ご無事でなによりです」

 その元一兵卒は、戦地で樹と一緒に行動していたらしい。暑い中、丸眼鏡をずらして滴る汗を拭いながら、彼は樹との日々を話してくれた。


「彼は不思議な人でした。いつ敵襲があるか、みんな言い当ててしまうんです。動きがなく、退屈な時に賭け事をすれば、ほとんど勝っていた。そうして集まった食料を、皆に気前よく分けてくれて……。本当に優しい方でした」

 気のよさそうな顔を懐かしげにほころばせて、彼は彼との交流を語った。

「……兄の最期は、どのようでしたか」

 初が尋ねると、彼は言いにくそうに頭をかいた。

「これをお話しても信じてくださるかどうか……。彼はある日、用を足してくると言い残したきり、戻ってこなくなってしまったのです。アメリカ軍にやられたかと皆噂したのですが、遺体も見つからなければ、アメリカ軍にもそういう雰囲気がない。忽然と、彼は姿を消したのです」

 私たちは顔を見合わせた。ならば。

「柏木樹はまだどこかで生きているかもしれない……ということでしょうか」

「それは分かりません、私にも……。分かるのは、アメリカ軍がその後理由も不明なまま撤退していき、我々の連隊は全員助かったということだけです」

 胸に希望が広がった。

 初が嬉しげに手を握ってきた。僕は握り返した。

 その希望だけで、生きていける気がした。

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