第9話 去りし者の面影

「馬鹿、お前ほどの成績の奴が何言ってんだ」

 と俺がほとんど怒鳴るように言ったとき、樹は俺の苦手な顔をした。奴にしか見えないものを見、全てを理解したように口の端を上げる――あの微笑み。ああ、俺はいつもこの笑みに助けられ、絶望に落とされたのだ。彼の胸の裡が分からない。これからも永久に分かることはない、という無間地獄。説得が意味をなさないと知りながら、俺は必死に言葉を重ねた。肇は素直な心情吐露で、援護してくれた。でも、彼が未来への態度を変更することはなかった。しまいに肇が折れた時、俺は本気かと思わず彼を見たが、彼の瞳に悲しみが揺れていて、ああ、もうだめだと、お前も思ってしまったのかと暗い気持ちになった。樹。お前は一体何を見、どのように考えているのか。それをうかがい知るのも許されない、本心の見えない微笑みを、俺は何度目にしただろう。ああ。樹。行ってしまうのか。どうしても。

 それからほどなくして、彼は入隊していった。出発の日、俺達は言葉少なに感情を交感した。彼は切なげな表情で「じゃ、行ってきます」と敬礼した。その姿は、どこかすでに板についているように見えた。そんな樹は知らない。ずっと側にいたはずなのに。お前のことを、俺はほとんど分かっていないのに、お前はここから遠ざかっていく。俺は何も言えず、ただ黙って泣いていた。肇も同じだったが、敬礼を仕返して「お元気で」とやっと言っていたと記憶している。初は気丈に振る舞い、家族写真を渡していた。そこには、仲睦まじい四人家族が写っていた。ここから離れなければならない理由は何か。俺は最後まで腹落ちしなかった。


 彼が去った後、俺は初に告白をした。初のことは昔から好きだった。初は優しげな瞳で「ありがとう」と言ったあと、「でもね」と言葉を注いだ。

「あなたはきっと、兄との繋がりを欲していると思うの。私を愛してくれていると感じているけど、それはきっと家族愛に近いもの。それはあなたと会うごとに実感をしていたわ。それは私も一緒。だから、私に、今もこれからも、あなたを兄のようにお慕いさせてくださいな」

 切なげに瞳を震わせた初を、抱きしめたい衝動にかられた。しかし、確かにそれは恋人への愛情というより、かけがえのない身内に感じる情であった。そのことも認識できていなかったほどに、俺は樹を欲していたのだと思う。そのことに対する動揺はあるが、しかしこのままでは初嬢に申し訳が立たない。

「……すまない、初嬢」

「いいの。むしろ、謝らせてしまってごめんなさい」

「いいんだ。……樹は今、何をしているだろうね」

「お兄様のことだもの、きっと気丈に訓練に励んでいらっしゃるわ」

「そうだろうね。……たまには俺達のことを、思い出してくれているだろうか」

「きっとそうよ」

 初の、根拠もないまま、それでも励ましてくれる声を聞いて、俺はもういたたまれなくなって、初と別れた。初がその前に肇に告白をし、振られたことを聞いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。俺達3人の誰もが、樹の影を求めていたのだと、俺はやっと理解をした。その頃にはもう、物悲しい秋の風が、梢を揺らしていた。

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