第8話 戦争の影

 今思えば、樹は全てを見通していたのではないかと思う。僕らを見つめる瞳に、不思議な色を浮かべていたのは、そういうことだったのではないかと、彼が出兵した後に何度も思い返した。初が僕に告白したのは、兄の不在を埋めるためだったろう。そして、務が初に求婚したのも、その実、彼は初の後ろに樹の面影を見ていたのではないか。だからこそ、初はそれに耐えきれず、彼の求婚を断った。僕はそう思っている。もちろん、残された3人それぞれが大事な存在ではあったけれど、それほどまでに彼は僕らの大切な灯台となっていた。

 樹の海軍への入隊を聞いたのは、本人からだった。僕が高校に通えるようになって一年、務と3人で学校の帰り道を歩いている時だった。

「海軍に入隊しようと思う」

 突然口火を切った彼に、務と僕は仰天した。

「何を言い出すかと思ったら」

 口のきけなくなっている僕に代わって、務がほとんど叫ぶように言った。

「馬鹿、お前ほどの成績の奴が何言ってんだ」

 樹は、意図の見えない微笑みを彼に返した。

「これでいいんだよ。収入もいいしね。飯も食えるし。これ以上叔父の家に迷惑をかけるわけにはいかないから」

「いやま、お前が決めたことに口は出さないけどさ……せっかく、理科で学年一位取るような頭脳が」

 務はこう言いたいのだ。わざわざ死にに行くことはない、と。

「樹、考え直してほしい」

 僕は体面も社会的圧力も気にしてられないと、直球で直談判した。

「君がいなくなると、僕らは暗くなってしまう」

 樹はけらけらと笑った。

「何言ってるんだよ。僕ひとりで、そんなに変わらないさ」

「そんなことは絶対にない。君は光だ。少なくとも、僕にとっての」

 樹がそう思っていないことくらい分かっている。彼は誰より繊細に物事を把握する。彼が運命を本当に見通すことができたのだと初に聞かされるまで、僕は彼が嘘を吐き通すのを理解できなかった。それほどまでにして守らなければならない運命とは何か。僕は初から知ったその事実を前にしてもなお、納得できなかった。樹を引いていく黒い影。それに結局僕らは敗北してしまったということじゃないのか。“あのこと”を、樹の知り合いの兵卒上がりから聞かされるまで、僕と、そして恐らく初も務も、後悔のにのたうち回っていただろうと思う。

「ありがとう、肇。そう言ってくれて、本当に嬉しいよ。でもね……もう決めてしまったことなんだ」

 樹の心底申し訳無さそうな顔を、僕は戦後何度もリフレインした。あれはなんだったのか。彼は何を知っていたのか。……何に従っていたのか。いくら想像を巡らせても、一人では答えがでなかった。いや、何人寄っても答えなどという無責任なものが出ることはなかっただろう。本人しか知らない事実が、ついに明らかにされなかったことで、僕ら3人は無益な三角関係を繰り広げたあげく、最後は樹を愛していたという共通項で集まり、やがて別々の未来に歩んでいくことになった。

「それでも、僕は……君に行ってほしくない」

 理屈じゃだめかと情で阻止しようと試みたが、樹の表情がもう耐えられないというように痛そうに歪んだのを見て、僕は説得を諦めた。無理だ。樹がこうなってはもう。

「……せめて、生きて帰ってきてほしい。これは絶対だよ」

 僕は彼の肩に少し頭をもたせかけた。彼の制服が涙で汚れてしまわないように、そっと。

「……肇」

「……上手いことやれよ、樹。わざわざ死にに行くほど愚かなことはないぞ」

「務。二人ともありがとう。約束をするのは、逆に不誠実だからやめておく。でもきっと」

 樹はその時確かに笑った。

「平和にしてみせるよ、この世を」

 渡り鳥が川面を横切っていく。その実存がひどく危うげなものに見えて、僕は立ちくらみを起こしかけた。現実は脆い。倫理や道徳が数秒後にはあっけなく崩壊してしまうくらいに。そして巨大だ、気味が悪いほどに。樹はそこへ自ら呑まれに行くという。……否、彼はもしかすると、その現実と相打ちに行くのかもしれない。この暗くてきな臭い世を、本気で変えに行くのかもしれない。彼のある能力を知らないまま、そういう予感をふと抱えた僕は、不明瞭な事実を持て余してもどかしさに身をよじった。彼の意図がせめて汲めたなら!……しかし、彼からそれを話す気がない以上、どうすることもできなかった。文学が読めても、親しい友人の真の意図がまるきり分からなければ、なんのための思考なのか。無力感に目の前が暗くなった。でも、何か前向きなことを言わなければ済まないような気がした。

「……うん。じゃあ、頼むよ、樹」

 務が本気かとこちらを見る気配がする。でも、付き合いの長い君が一番良く知っているはずだ。彼は何か巨大な意志の元に動いていることを。僕は涙が溢れないように、上を向いた。何も知らない渡り鳥が、彼らだけの論理で穏やかに飛んでいた。その呑気さを、僕は憎んだ。戦争の影は日増しに色濃くなっていった。

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