第5話 友情と恋情のあわいで

 樹は本当に気のいい男だ。彼のような友人を持って、俺は幸運だったといえる。彼の柔和な在り方が、俺の心をどれだけ解きほぐしてくれるか、彼は知らないのだ。いつだったか、ほんとに小さな時に、複数人で近所の雷親父の家の柿を盗みに行ったことがある。樹は黙って見守るのみだったが、親父に動きがあった時は逐一教えてくれた。俺が提案することに乗ってくれ、一緒に考え行動してくれる無二の友人だ。柿を盗むことは悪いことだという議論はここではしない。ギャングエイジにありがちな行動と思ってくれればいい。

 四人で川辺に行けば、ガキンチョが遊んでいた。十分に距離を取り、足を投げ出して並んで座る。赤い夕日が町に溶けいるように入り、静かな川面に風がゆるゆると触れていた。

「こんな夕日がずっと続くといいなぁってよく思うわ、私」

 初嬢が珍しく神妙なことを言う。

「同感だなぁ。このこの地球にも、あの太陽にも、寿命があるなんて考えられないし、考えたくもない」

 肇君がしみじみとそう言った。

「僕はね……何よりこの夕日を味わうことのできる心を失いたくないと、常々そう思うよ」

 と俺が言えば、樹が頷いた。

「それがなくては、いくら地球が長生きをしても、僕らにとっては意味がないものな。分かるよ、務」

 緩やかな風が、俺達の間を光とともに渡っていく。どことなく感傷的な気分になっていると、それさえも感情をかき乱す一つの原因になった。全てが懐かしく、全てがかけがえがないと、いつもは忘れているような、心の底の大切な感覚を、てらいもなく思い出せる貴重な今という時を、俺はふいにこの四人だからこそ可能なのだとわかった。嗤わず、軽んじない人しかいないから、今こうして守られているのだと。感謝の念が浮かび上がり、初夏の暖かい空気に交ざってゆく。新しい交友関係が美しいものになる予感が、胸を掠めていった。こういった予感は大切にしようと思った。

「いいなぁ、みんな学校に行っているのでしょう」

 肇君のその一言で、彼がなんらかの事情で休学しているのを知る。なんとなく訊きにくいなと思っていたら、初があっけらかんと尋ねた。彼女はまだ幼いのだ。しかし、その純粋さに救われることもある。

「あら肇さん、学校に通っていらっしゃらないの?」

「そうだよ。身体が弱くてね。だから、家でよく想像するんだ。……樹くんと知り合ってからは、樹くん今学校で何してんのかなぁ、とか」

「お兄ちゃん、肇さんあぁ仰ってるわよ」

「えへへ、何も大したことはしてないけどねぇ。想像しやすいように、時間割は渡してあるけど」

 樹がこんな破顔をするとは知らなかったので、俺は少し驚いた。十数年一緒にいた俺でさえ知らない表情があったとは。そこで、俺ははっきりと悟ったのだ。樹と肇君の交流は、深くかけがえのないものであると。顔の広い樹の、ただの新しい友人ではないのだ。だから帰り道、並んで歩く樹と初の背中を遠くに見ながら、俺は肇君に言った。

「肇君。どうか樹を頼みます」

 肇君はいきなりそう言われて、驚いたように目を瞬かせた。

「え? それはどういう……」

「樹はああ見えて、とても弱いところがあるんです。普段は表に出さないが、傷つくと、自ら進んで孤独のほうに歩いていってしまうことがある。だから、俺のいないところでもし、そういうふうな動きをしたら……手をとって、賑やかな方に連れ出してほしいんです」

 肇君はしんとした表情で俺の話を聴いていた。それから、何もかも了解した笑顔で頷いた。

「それを話してくれてありがとう、務さん。樹がたまに見せる、何者も寄せ付けないような表情は、そういうことなんだと分かったよ。大丈夫、僕、ずっと一人でいたから、そういう感情のコントロールは得意なんだ。任せて。……務さんはよく樹のことを見ているんですね。凄い」

 俺は安堵を覚えた。きちんと考えてくれる人が増えた。これで樹を危うい方向から守るのが幾分か容易くなる。

「凄いなんて、そんな。幼馴染みで、一緒にある時間が長かっただけです」

「それでも、みんなが気づくことじゃないと思うな」

 肇君は微笑んで、前を向いた。一瞬、切なげな光が彼の瞳を横切っていった気がした。

「僕は放任家庭で育ったのもあって、あまり人と深く関わったことがないから……樹やみんなと出会えて、本当によかったと思ってる。それまでは本だけが友達みたいなものだったから。誇張じゃなく、毎日が輝いているんだ。……だからもし、樹のその傾向に理由があるのなら、知っておきたい。それで彼が傷つくのを防げるなら」

 肇君の真剣な声に、俺は頷いた。

「分かったよ、樹の叔父上から聞いた話を話しておこう。……樹の父と母は、樹が5歳のころに、それぞれ船の遭難事故と、それにショックを受けた末の病で死去した。紆余曲折あって、彼は母の兄の家庭に引き取られることになったのだが、葬式で母方の親族がその……品のないことを言ってね。家族の反対を押し切って恋愛結婚した母親を酷く侮辱したらしい。……その中で、彼の生を否定するようなことを言われたと。兄は葬式の準備で忙しくて、彼の様子まで気が回らなかったらしい。ただでさえ両親を立て続けに亡くして心身衰弱状態にあった樹に、その状況は酷すぎた。……本家の池で意識不明になっているところを発見されたそうだ。幸い処置が的確で、彼は命を取り留めた。しかし、彼の心の傷は深く、しばらくは口がきけないほどだったそうだ。今の生活は彼にとって良いものであると俺は思っているが、それでも、その時の感覚が蘇る時があるのだろうね。そういうときは、俺は幼い頃はわざと阿呆なことをして注意を現在に引き戻したりしていたが、最近は、手を握りしめたりしているよ」

「……そんな大変なことがあったんだね。分かった。僕もできる限りのことをするよ。教えてくれてありがとう、務さん」

「務、で一向構わない」

「じゃあ、僕も呼び捨てにしてね」

「分かった、肇」

 こうして、彼に樹の隠された事実を、肇に教えることになった。このことで、肇と俺の連帯は強化され、ことあるごとに、樹の話をすることになる。誰よりも優しく穏やかでありながら、自らは消えてしまいそうな儚さを持つ彼に、同性でありながらどこか惹きつけられるところがあったということを、肇と俺は無言のうちに共有していた。無論、彼を守るのはそれだけではないが、少しばかりそういう要素もあったのは確かなことだ。友情には、淡い恋情の一角があることを、未成年はすべからく認めるところであっただろう。

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