第4話 肇の来訪
兄は元来優しい性質で、意地の悪い私なんかは初めて会ったとき、慣れない環境で日和ってるんじゃないかなんて思ったのだけれど、どうもそうじゃないと分かったあたりでなんとなくの敗北感を味わった。私は勝ち気なので、なんでも勝ち負けで捉えてしまうのだ。それからは、兄に甘えることによって関わりを持ってきた。おねだりすればなんでも言うことをきいてくれる兄は神か仏なんじゃないかといつも思う。どうやら友達づきあいもいいみたいで、近所に住む務くんなんか、私も交えてよく遊んでもらった。いい人だと思う。ちょっと悪戯が過ぎるけど。……肇さん、どんな人なんだろう。少し高鳴る胸に気がつきながら待っていると、玄関が開く音がした。
「ただいま」
お手伝いの間宮さんが小走りに向かう足音がする。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん。いらっしゃいませ、早田様」
しばらくして、二人が自室に入った音がした。まだまだ。浮ついていると思われちゃいけない。ここは淑女として落ち着いて、「お兄様」に呼ばれてから向かおう。
トントン、と扉が叩かれる音がした。どきりとする。
「初、お待たせ。こっちおいでよ」
お待たせとか言わなくていいから! と内心怒りつつ、「はあい」と丸い声を出す。
部屋に入ると、ちょっと吃驚するくらい色白の美青年が律儀に正座をして座っていた。どきまぎしながら挨拶をする。
「お初にお目にかかります、初と申します……」
彼はにっこりと笑った。なんて涼やかな笑い方をするのだろうと思った。
「はじめまして、初さん。樹さんからよく話は伺っています」
えっ。お兄ちゃん、何を吹き込んでるんだろう。やめてよ。兄が「お前の寝相はバラしてないから」とでも言うように目配せを送ってきた。当たり前じゃ。
「……うふふ、何をお話したんでしょう、恥ずかしいですわ。兄とは普段、何をお話されてますの?」
「小説の趣味が合うので、その話とか、後は古典文学や芸能のこと、時事のことなんかを」
「まぁ、教養溢れるお話をされますのね。私も混ざりたいですわ」
兄がぽかんとしてこちらを見てくる。一度だってそんな分野に興味を示したことないだろうと言いたげだ。まぁそうなんですけどね。ちょっと黙っててくれるかな。
そうこうしているうちに、務さんが訪れた。
「やや、皆さんお揃いで。美男美女ばかりですな」
「やめろよ務。肇、紹介するよ、こちらは山村務。近所に住む僕の同級生で、快活明朗な奴で気はいいから安心してくれよ。ちょっと悪ガキだけど」
「余計なこと言ってくれた。どうぞ怖がらないでくれ、肇君。せいぜい気に食わない教師の教科書に春画を挟むくらいのことです」
私は阿呆だと思ったけど、肇さんは明るく声をたてて笑った。
「すごいね、それ。先生の驚く顔、僕も見たかったな」
「そりゃもう、まず青くなって、それから赤くなりましたよ。そのままだるまになれるんじゃないかくらいね」
「ふふ、そしたらもう教科書を捲る手もなくなってしまうね」
「それは確かに。そしたらもう同じ悪戯はできないな」
二人であははと笑う。なんだ、気が合う同士じゃん。私が内心むくれていると、務くんがこちらを見て喜色満面になった。
「初嬢! 久しぶりですね」
「務君はいつもどおりね」
「そりゃ嬉しいお言葉です。紫の浴衣がよく似合っている。これからご友人とお出かけですか?」
「……んまぁ、そんなところよ」
そんな予定はない。肇さんに会うからだもん。でも、
「ありがとう。いつも褒めてくれるのね」
「それは、初嬢が好きだからですよ」
単刀直入すぎる。こういう言葉を真正面から言えるのが務くんだった。忘れてた。すごい人だな全く。……大丈夫かな、顔。赤らんでないかしら。肇さんを見ると、ちょっと驚きつつも、微笑ましいという感じでこちらを見ていた。なんだろう、すごく恥ずかしいけど、温かい気持ちになる。優しい人なんだろうな、と思った。
「んもう、よしてよ初対面の方がいらっしゃる前で。お三方、今日はこのままどこかへお出かけなさるの?」
「うーん、あんまり決めてないけれど、川辺か喫茶店かなと思ってる」
「俺金ないから喫茶店はちょっと厳しいカモ」
「僕も、小遣い制じゃないからな……」
「なら川辺でいい?」
「一緒にいられるならどこでもいい」
兄が吹き出して言った。
「僕もだよ、務。肇は?」
「異論なし!」
「じゃ川辺ね。近いところにしよう。……初も行く?」
「私残る。浴衣汚れちゃうもん」
務さんがこっちを慈しむように見て言った。
「お着替えすればいいじゃないですか。どうです? 気候もいい頃ですよ」
「……分かった。じゃ着替えてくるからちょっと待ってて」
「了解です、いくらでも待ちます」
「うん、大丈夫だよ、ゆっくりね」
「早く着替えてきなさい」
はぁいと返事して自室に行く。なんだか兄が増えたみたいだ。みんな優しい。
私は廊下を早足で歩きながら、新しい関係の予感を、飴玉を転がすみたいに味わってみた。甘美な喜びが、胸に広がっていった。
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