第2話
今日、ぼくは病院に行った。そこでぼく自身の抱える自閉症スペクトラム障害のことを相談し、アドバイスをもらう。そしてそれが終わったあと、いつものようにイオンに行った。すると、わけもなく不安に陥った。どうしてかはわからない。それで気分を変えるために未来屋書店に行くことにした。そこで、ヤマザキマリ『壁とともに生きる』という本を見つけた。これは安部公房という作家について記された本で、読んでみると著者のヤマザキマリが極貧生活を送っていた頃安部公房の文学を心の支えにしてきたということが綴られていた。ぼくはこの本を興味深く読んだ。
本当の本との出会いというのは、こういうものではないかと思う。ぼくは実を言うと、ずっと引け目に感じていたことがあった。それはとある、すでに名を成した書き手が「ドストエフスキーは10代のうちに読んでおくべきだ。もし読んでいないなら、もう読んだことにはならない」と言っていたのを知ってからだ。ぼくは40代で初めて『死の家の記録』『地下室の手記』を読んでドストエフスキーに触れたので、自分の読者としてのセンスのなさに打ちのめされていた時期があった。今から考えれば何とアホなことをと思うが、本当の話だ。
でもぼくは次第に、本との出会いはそんなビッグネームをありがたがったり早熟さ加減を競ったりするところにはないと思うようになった。出会いはこちらのコントロールできる領分の話ではない。10代のうちにドストエフスキーに出会えなかったのなら、それはもう「そうでしかありえなかった」と諦めるしかない。切実に文学を(それが誰であれ……カフカであれカミュであれ、村上春樹であれ)求めている時に出会った文学が自分の血となり肉となっている。ならばその結びつき/ケミストリーこそ素晴らしいことじゃないだろうか、と思うのだ。
そう考えるようになって、ぼくは自分の10代の読書を肯定できるようになってきた。ぼくの10代はつまりは村上春樹『ノルウェイの森』を10回くらい読み返した時期であり、他にも村上春樹を数多と読み漁った時期でもあった。なので、不勉強だとかセンスが絶望的だとか言われても「ごもっとも。じゃ、ガンバってくれ」と返すしかないのだった。ぼくはセンスを競うために本を読むわけじゃない。ぼくが向き合っている人生において、ぼく自身がクリアしないと先に進めないミッションをこなすために本を読むのだ。それでいい……それでよし、とぼくは自分自身に言い聞かせる。
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