Automatic For The People

踊る猫

第1話

ぼくは本当に、自分ほどバカな人間は居ないのではないかと思うことがある。今日ふと、片岡義男のエッセイ集を読んでいて「今までたくさんの本を読んできたけれど、でもまだ読んだことのない本だってゴマンとあるんだよな」と思ってしまった。何度も、いつか読もう読もうと思って結局読めていない本の筆頭にあるのはトルーマン・カポーティというアメリカ文学の作家の『冷血』というノンフィクションだ。これは別段マニアックな本ではなく、ジャーナリストでこの本のことを知らない人はまず居ないだろうというくらい売れた本で、ぼくも文庫本で持っている。だけど読めていないのだった。


いや、だったらさっさと読めよという話なのだ。だが、そう思って力んでも、いくら読もうとキバッても読めない。考えてみれば偉大な作家の本なんてみんなそうだった。それともこれはぼくだけなんだろうか。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』なんて何度最初のページをめくって、そこで気力を使い果たしてしまったことだろう。結局40代になってやっと読んだ。そんなだから、ぼくは他人に「こんな本も読んでないのか」と言わないようにしている。いくら頑張っても、場合によっては本はそう簡単に読めるものではないとわかっているつもりだからだ。


でも、だったらもしぼくが明日死んでしまったらどうなるんだろう。ぼくは永遠に『冷血』という世界があったことを知らないまま死んでしまう。いや、それを言い出せば同じアメリカの作家のフィッツジェラルドだって、『グレート・ギャツビー』も『夜はやさし』も読めていない……結局こんな風にぼくは生きている間、もともとの「どうしてそこまでして本を読むのか」について深く考えないまま、やたらと本を読んで死んでいくのかなあ、と思ってしまう。こう言ったら、ぼくが「自分ほどバカな人間は居ない」と言った意味がわかるのではないかと思う。


まあ『冷血』は明日読み始めることにして、ぼくはふと、「そう言えば金子光晴だったかな、『そろそろ近いおれの死に』と書いたのは」と思った。すると後悔することとして思ったのはなんと、結婚しなかったことでもなければ稼げなかったことでもなく、そんなちっぽけな事柄だったということだ。昨日なんてぼくは仕事の合間に一服してご飯を食べていて、ふとサザンオールスターズの「いとしのエリー」を聞いて、それで泣いてしまった。幸せに思うことも命を削ってまでやりたいことも、ここ最近恐ろしく小さくなっている気がする。だからぼくなりに、結局何者にもなれなかった人間の「終活」の始まりみたいに書いてみるのも面白いかと思い始めたのだった。これから、時間ができたらこんなことを書いてみようと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る