33

 闇溜まりにひっそりと蹲る、雑多な様式の住宅群。壱八とクロスバイクは、いつしか見憶えのない場所に入り込んでいた。

 一体、どこで犯人に会ったのだろう。関係者との面会中だとすれば、将門の読み通り、あの四人の中に事件の犯人がいたことになる。

 一度は完全に諦めていた犯人捜しが、こんな形で復活しようとは。

 いや待て。静止の声が壱八にかかる。それはおかしい。読心結果と矛盾する。四人の心理に、犯人の証拠は見出せなかった。犯人の自覚がない四人に、あんな真似ができるか?

 壱八の混乱をよそに、一度も足を止めることなく黒い影は逃げ続け、やがて群れを成す住宅のうち、明らかに廃ビルと判る薄暗い建物の入り口に駆け込んだ。

 壱八はクロスバイクを降り、開いたままのガラス扉を素通りした。路上の追跡劇で、黒コートとの差は十数メートルまで縮まっていたが、建物内に至ってとうとう相手を見失った。仕事で乗り慣れてはいるものの、いつもと違う走りに両脚の様々な部位が疲労を訴えかけてくる。

 頭上で階段を駆け昇る微かな音が聞こえた。休む間もなく、上の階に続く狭い階段に足を向ける。乱れた息を整える暇もない。

 そういえば、幸か不幸か自分が異能力を身につけたのも、似たような階段でだった。とはいえここは明かりもなく、打ち捨てられた雰囲気が強い。正直長居はしたくなかった。

 膝を押さえ押さえ階段を昇りきり、二階に達したところで立ち止まる。

 耳を澄ませると、階段を昇る音は、なおも上から聞こえてきた。まだ上か。

 三階に向かう途中、鉄の板を床に叩きつけたような大音響が頭上で響き渡り、階段を行く壱八の心臓を激しく高鳴らせた。最後の一段を昇り終えたときも、金属っぽい残響音が長く尾を曳き、周辺の空気を不快に振動させていた。

 廃ビルの三階。開けっ放しの入り口に反し、室内の部屋扉は凡て閉ざされている。

 ざっと見渡した壱八は、左手方向に別の上り階段を見つけた。その先には、大きな扉が設置されていた。屋上へ通じるドアのようだ。

 三階廊下に怪しい人影は見当たらない。先程の音は、見るからに重厚な屋上のドアを勢いよく閉めた際、発せられたのだろう。

 屋上か、とひとりごち、壱八は上への階段を睨みつけた。

 見たところ、他に通用口は存在しないようだ。古本屋の店内を盗み見ていた謎の人物は、結局自ら逃げ場のない袋小路に入り込んだことになる。袋の鼠も同然だ。

 それでも、階段を踏み締める壱八の足取りは慎重そのものだった。油断はできない。窮鼠に噛まれる虞は充分にある。何しろ屋上に隠れた相手は、四人もの人間を殺害した上、〈ガダラ・マダラ〉の直接的な関係者でもない壱八を階段から突き落とした、非情な殺人犯である可能性が高いのだ。

 額を濡らす多量の汗を両手で覆い拭ってから、壱八は冷たい鉄扉をゆっくり引き開けた。

 テニスコート二面ほどの方形の屋上に照明の類いはなく、何の紋様もないコンクリートの床面だけが、月明かりの下にただのっぺりと広がっていた。

 左右両面の縁は頑丈な金額で巡らされていたが、前面は一段高くなった足場の上に設けられた格子の柵のみが、軒低い住宅で犇めく下界とこの屋上空間を頼りなく隔てていた。

 後ろ手に扉を閉ざし、鋭い視線を周囲に飛ばす。障害物が存在しないため、屋上のほぼ全域をその場から見渡すことができる。三方の縁に人の姿はない。屋上に誰もいないとすると、あの謎の人物は一体どこに消えたのか。

 不審人物こそ見当たらなかったが、前方の柵の左端に、何か黒っぽい塊が佇んでいるのを壱八は見つけた。人形のようにも見えるが、それにしては様子がおかしい。

 鉄扉の左右に眼をやり、奥の死角にも人がいないのを確認する。足音を忍ばせ、静かに柵の方向へ近づいていった。

 ヒラヒラと風にそよぐ黒い袖に、映えて見える赤い釦。

 屋上の縁まであと五メートルというところで、壱八は黒い塊の正体を悟った。金額と柵が接する箇所の柵側に、例の黒コートが後ろ向きにかけられていたのだ。ごわついた材質の胴体部分は全くの無地で、丈の長い裾は下方の一段高い足場にまで達していた。

 どうしてこんな所に。

 疑問は尽きないが、調べてみれば持ち主について何か判るかもしれない。柵が手に届く位置まで歩み寄り、片方の袖だけ緩やかにはためくコートを手に取ってみた。

 壱八が真っ先に気づいたのは、ロングコートのかかっていた箇所が実は柵も何も存在せず、横に延びる前面の柵が、そこでぶっつり途絶えていたことだった。左右の金網に跨がってコートがかけられていたため、がら空きになった中間部が巧妙に隠されていたのだ。

 危ないな、こんな場所から落ちたら大変だ。

 コートを手に一歩後退り、踵を返した。

 黒マスク。

 黒いニットキャップに黒のサングラス。

 眼の前に、それらの小道具で顔を隠した人間が立っていた。腋の長い上着もぴっちりしたズボンも、暗闇色で統一されていた。

 一体どこに潜んでいたのか。屋上には誰もいなかったはずなのに。

 驚愕に声も出ない壱八の眼に、立ちはだかる謎の人物の更に後方、屋上扉の据えられた四角い塔屋が小さく映った。てっきり屋上の隅々までチェックしたつもりでいたが、自分の出入りしたドアの上方には、眼も神経も行き届いていなかった。

 塔屋の、屋根の上に隠れていたのか。

「誰だ」

 叫びに近い誰何の声より一瞬早く、黒ずくめの人物は両腕を突き出し、物凄い勢いで壱八を突き飛ばした。

 壱八の背後には、柵がない。

 まずい。

 落ちる。

「うおっ、と」

 足場の縁ギリギリでどうにか立ち止まる。体中の皮膚がどっと汗を吹き出した。

 謎の人物はそんな壱八に反撃の暇も与えず、無防備な土手っ腹に鋭い蹴りを入れた。

「ぐっ!」

 痛みよりも衝撃が強かった。思わずコートが手から離れ、上体が大きく後方に泳いだ。衝撃を受けた鳩尾の下に、蹴りの主の強烈な悪意を感じた気がした。

 仰角に傾く視界の左、鉄柵が次第に遠ざかっていく。慌てて腕を伸ばすが、手指は何もない虚空を掴むのみ。柵には届かない。

 抵抗らしい抵抗もできず、全身が横倒しに宙に浮いた。両脚は辛うじて屋上の床に着いているけれども、体の重心は最早床の上にはなかった。

 両の腓に当たっていた足場がズズズとアキレス腱を滑り、足から完全に離れた。駆け巡る悪寒が五体を激しく揺さぶった。

 落ちる、のか?

 時間の進みが極端に遅くなった。そんな気がしたが、それも束の間だった。一旦宙に浮いた壱八の全身は、次の瞬間、仰向けになったまま、廃ビルの屋上から落下を始めた。

 すぐに頭が下になり、壱八は真っ逆さまに地表へ落ちていく。空を切る四肢が冷たい。落下速度が増していく。

 高度、速度、体の向き。冷静に考えるまでもなく、このまま地面に激突すれば確実に死ぬ。目前に迫る死の影が、壱八を絡め取っていた。

 墜落の最中にありながら、壱八の思考は全く別のところにあった。

 何だ、これは?

 蹴りつけられた腹部に感じた強烈な悪意が、モヤモヤと意識の中で何か一定の形に変化していった。死を意識していないわけではなかったが、その悪意の正体を看破するのに落下中の壱八はすっかり夢中になっていた。

 拡散した霧の粒が一箇所に凝縮するように、意識の内側で悪意の異なる姿が形成されていく。このもどかしいような、懐かしい感覚は、既視感だろうか。いや違う。今にも意識の上に浮かび出んとしているのは、もっと確かで、より鮮明なものだ。

 これは、黒の、何だ?

 墜落は止まらないが、頭の下に広がる地表の風景も壱八の眼には入らなかった。

 黒い悪意。

 脳裏に浮かび上がったのは、漆黒の映写幕だった。

 いや、映写幕というより、これはテレビか?

 うちのテレビにそっくりだ。こんなときに、悪意がテレビに結像するなんて。

 何も映さないくせに、凄まじいまでの悪意がそのテレビから放出されている。荒廃した心象風景に轟々と吹き荒れ、壱八の惰弱な精神を容易に捕え、打ち壊し、喰い荒らし、侵触していく。こんな強烈な悪意は、今まで一度も感じたことがない。心に抱いたこともない。

 硬い地面との熱烈な接吻を果たす前に、こちらの神経のほうが先に喰らい尽くされそうだった。

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