32
店名も読めないスナックバーを出た後、互いの家路に就くまで、両者とも言葉は一切交わさなかった。別れ際に悪態の一つでも吐いてやろうと、壱八は店を出る前から機会を狙っていたが、結局それも果たせず終いだった。
無言のまま朱良と別れ、アパートのある方角へクロスバイクを漕ぎ進める。
薄紫色の空が、静かな私道の上空をどこまでも覆い尽くしていた。涼しいのか寒いのか判断に迷う、曖昧な冷え具合の向かい風が、速度を緩めた壱八の上体に吹きつけた。
そのまま部屋に戻っても良かったが、思案の末、少し寄り道をして近所の古本屋へ向かうことにした。
結構な衝撃ではあったが、朱良の指摘通り大したケガでもない。その程度のダメージを額に受けただけで、己の異能は消えたのか。信じられない思い、信じたくない気持ち、実際に異能の数々が使えなくなった現状認識が一つ意識の内に混在し、思考は道順も目的もない迷走をひたすら続けていた。
習慣の一部と化した何かを失うのは、こんなにも虚しく、やる瀬ないものなのか。最初から異能力など手にしていなければ、こんな思いを味わわずに済んだのに。
愛犬に死なれたようなほろ苦い惜別の情が、長らく感じることのなかった特異な感情として、荒みきった心に不愉快な漣を立てた。楽しい気分には当分なれそうになかった。
二軒の高級住宅に挟まれ、窮屈そうに店内の明かりを扉前に洩らす、寂れた構えの古本屋。古書を扱うのに相応しい蒼然とした風情だ。入り口の両脇、平積みに置かれた書籍群は、地震の最初の一揺れで崩れ落ちそうな危なっかしいバランスで積み上げられ、ここを通る客はおろか店員でさえもが泥棒の足運びにならざるをえない。そのせいかどうかは知らないが、店自体もさほど繁盛はしていないようだった。
かつて文庫サイズの実用書を見つけた書棚を通り過ぎ、壱八は異能力が完全になくなったのかどうか今一度確認しようと、一番奥にある辞書のコーナーへ向かった。
広くもない店内に、壱八以外の客は誰もいない。緊張した面持ちで、薄汚れた種々の辞典が棚にずらりと並んだ店の一角に立った。
盗みを働くわけでもないのに、鼓動は早鐘のようだった。念動の思念を注入すべく、意を決して棚の間近に歩み寄り、任意に選んだ和英辞典の背部分に右手を翳した。
異能を使う現場を店員に見つかったら。そんな危惧は、実際に手を翳した瞬間、意識の彼岸へと消え去った。合理的な説明の仕様はいくらでもある。むしろ、一日見てあっさり異能力と信じるほうが、よほどどうかしている。
心の中で念動の思念を送る。額の傷痕は全く疼かない。更に強く念じる。額には何の変化も起こらない。翳した手の先にある辞典も、微動だにしなかった。
もう少し小さな本で同様に試してみたが、成果は上がらなかった。手を触れずに本を動かすことができなくなっている。異能発生の兆しは、額にもどこにも現れなかった。
やっぱり無理か。
辞書の立ち並ぶ棚の前で、力なく項垂れる壱八。
そのとき。
不意に人の視線らしきものを感じ、壱八は俯いたまま首だけ捩り、出入り口方向に眼をやった。
ドアの脇に控える脆弱な書物の塔。開け放たれた扉の向こうに、光乏しい屋外の様子が小さく見える。視界の先には人っ子一人見当たらない。近くのレジも無人だ。
店員の青年が、眼の届かない場所で何やらゴソゴソ本を移動させている音だけが聞こえる。買い取った古本の整理に明け暮れているようだが、壱八が感じたのはその店員の視線ではなかった。
気のせいか。
辞書の列に眼を戻し、改めて異能が消えたことに深い溜め息を洩らしていると、またしても誰かの視線を横面に感じた。確信は持てないが、入り口のほうからこちらを窺う何者かがいる。そんな気がしてならない。
正面を向いたまま、今度は首を巡らせることなく、眼球だけ目一杯眼窩の右端に寄せてみた。視界の隅ギリギリに、ドア周辺の様子が映る。
はっきりとは見えない。が、出入り口の外に身を潜めた影が、ちらちらとドア枠に見え隠れしているのは確かなようだ。
我王区民明の話を聞くため極東テレビに赴いた際、刑事の一人に尾行されていたことを思い出した。今、店外に隠れているのも、警視庁の人間だろうか。事件の重要参考人円筒将門に近しい人物として、壱八の動向をマークしてしているのか。
表の様子が気になって堪らず、念動の実験にも身が入らない。そこまで警察に疑われているのかと思うと、見られている気恥ずかしさも失せてくる。
謎の視線に晒されながら実験を続けるのはやめて、部屋に帰って家財道具で続きをしようか。狭い店の一角にてそう思い始めた頃、視界の端で新たな動きがあった。
再度眼をやると、まるでこちらの視線を避けるように慌てて身を隠した黒い影が、一瞬だけ見えた。
もう一つの大きな変化。店内の明かりにぼんやり浮かび上がる出入り口前の歩道に、入店時にはなかった一枚の紙片が落ちていた。偶然落下したにしては、紙の位置や向きがいかにも不自然だ。
ドア付近でこちらを窺っていた人物が、店の前の道路にわざと置き残していったのだろう。壱八の立っている位置からでも眼につくよう、置き場所や角度を計算した上で。
誰がそんなことを。
ここはひとまず、外に出て周囲の状況を確かめるのが先決だ。壱八は足早に出入り口へ向かった。歩調を緩め危険な平積み本をやり過ごし、店の外に出た。
素早く四方に眼を走らせる。
いた。フラワーショップの角を全速力で曲がろうとしている黒いロングコートの影を、数十メートル遠方に見つけた。
走って追いかけるには距離がありすぎる。壱八は電柱の横に駐めたクロスバイクを見た。一瞬迷ったが、乗って追いかけることにした。何が何でも、コートの人影の正体を確かめなくてはならない。
サドルに跨がりハンドルを握る。路上の紙片が、ちょうど壱八の視線の先に見えた。
〈異能者死すべし〉
小石で固定された紙に、走り書きでそう書かれていた。
異能者、死すべし?
何だこれは。
懸命にペダルを漕ぎながら、壱八はつい今し方眼に留めた奇妙な文章を思い返した。
誰の筆跡なのかは見当もつかないが、あの書き置きを残した意図は判る。あれは〈ガダラ・マダラ〉の関係者を四人葬り去った、連続殺人犯の意思表示だ。あるいは、不用意に事件に首を突っ込んだ素人に対する、犯人からの警告文とも考えられる。
しかし、だとすると、何故事件の犯人が壱八のことを知っているのか。何故壱八に対し、こんな挑発的な行為に及ぶのか。
もしかして、俺はどこかで犯人に会っているのか?
最低限のブレーキ操作でフラワーショップを曲がる。
立ち漕ぎの甲斐あってか、直線道路を走る相手の背中がかなり大きく見えてきた。距離はだいぶ縮まったが、体格や身体的特徴までは定かでない。もっと近づいてみないことには。
黒いコートが幅狭い脇道に姿を消した。自転車で追っていて撒かれてはたまらない。デリバリースタッフの沽券にも関わる。ほぼブレーキなしで脇道に突入し、巧みに道を曲がる逃走者を無心で追った。
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