30

 店の扉が大きく開かれ、でっぷりと肥え太った一人の中年客が店内に姿を見せた。年季の入った床板を規則正しく軋ませながら、男はカウンター奥のバーテンダーに鷹揚に手を振ってみせ、重たい足取りで止まり木へ歩いていく。ギラギラと脂ぎったその相貌を眼にした朱良が、嫌悪を一点に収斂させた強烈な蔑視を注ぎ込む。脂の乗り過ぎた顔を見ると不幸になる強迫観念にでも囚われているのか、以後彼女は一度顰めた両の眉を、その男が店を出るまで決して元に戻そうとはしなかった。

「ったく、どいつもこいつも」

 一度火口から噴き出した溶岩流は、容易には収まらない。脂性の客の登場で大いに気分を害した朱良は、ここぞとばかりに職場に対する不平不満をぶちまけ始めた。抹茶ミルク一杯でここまで管を巻く人間がいようとは。壱八は感心と呆れの相半ばする微妙な感想を抱きつつ、自身のコーヒーカップに手を伸ばしたつもりだった。

「ちょっとそれうちの」

「あ、悪い」

 朱良の反応は早かった。眼にも留まらぬモーションで、手にしたサコッシュを投げつけた。直撃を避けるべく腕を翳す暇も、背を屈める余裕も壱八にはなかったが、たかが小型の手提げ鞄、鼻先にぶつからなければ平気だろうと、僅かに首を竦めるに留めた。

「いって!」

 鈍い音と共に頭部を襲った予想以上の衝撃に、壱八は短い悲鳴を上げて額を押さえた。思考活動が数秒止まった。それほどのダメージだった。

 額を直撃したサコッシュは、反動でテーブルの真上に落下した。ガツンという重量感のある音を、壱八は眩暈のする思いで耳にした。

「やだもう、飲み物零れちゃったじゃないの」

 他人事のように言い、テーブル上のサコッシュをさっと奪い取る朱良の姿が、滲み出る涙に霞んで見えた。零れた抹茶ミルクの量は、両眼を潤ませた涙と大差なかった。

「お前、ちったあ俺の心配しろよ。何入れてんだ、それ」

「関係ないでしょ。うちが頼んだ品に手を出すからいけないのよ。悪いのはあんたよ」

「打ちどころ悪けりゃ死んでるぞ」

「本当に息の根止めるなら、もっと手際良くやるけどね。例の犯人みたいに」

 サコッシュのぶつかった箇所は、額の傷痕から一センチと離れていなかった。まだ頭がクラクラするものの、幸い塞がった傷口が再び開くこともなく、流血沙汰はどうにか免れた。

 眼尻を拭い額をさすりながら、心中声高に怨嗟を吐いた。将門にも、こんな酷い仕打ちは受けたことがない。

 これ見よがしにサンドイッチを食す朱良を睨みつけていた壱八は、ようやく彼女に同行した本来の目的を思い出した。

「まあいい、そんなことより」

 湧き起こる憤懣を抑えて額を一撫でし、対座する朱良に声をかける。

「前々から不思議だったんだが、何でお前、将門が苦手なんだ?」

 問われた朱良は複雑な表情を浮かべて、もごもご咀嚼していた口の動きも完全に止めた。よほど都合の悪い質問なのか。

「何よ急に。どういう意味よ」

 声の質が明らかに今までと違う。威嚇の度合いが強まっている。威嚇とは即ち、程度はどうあれ相手に脅威を感じている証拠ではないのか。

「将門と接するときの様子が、どうもおかしい気がしてな。ちっともお前らしくないし、あいつを敬遠してるふうにも見える」

 脅威に思ったということは、つまり図星なのだ。具体例は端折っても、語感のみで訴えることができる。

「奴に何か、弱みでも握られてるのか」

 声を落として鎌をかけると、朱良の態度が急変した。それも壱八の予想したのとは正反対の変わりよう。

 プッと吹き出した彼女は、腹を抱えて呵々と笑い出した。

「何を言い出すかと思えば、弱みって。あーアホくさ」

 見たところ、強がりに起因する表層的な笑いでもなさそうだ。壱八の読みは、肝腎な部分をものの見事に外していたようだ。

「あんたみたく借金もないし、疚しいところは一切ないっての」

「だけど、お前が将門を避けてるのは事実だろ。訳もなく敬遠するなんておかしくないか」

 頬杖を突いた朱良は、別の手で皿の上のサンドイッチを突つきながら、

「まあね。あの占い師のことが苦手なのは確かだし。でも、それにはちゃんとした理由もあるし。あんたには言っても判らないでしょうけどね」

「いやいや、言ってみなきゃ判らないぞ」

 こんなところで、追及の手を緩めるわけにはいかない。間違いなく朱良は、将門のことを苦手としている。その理由に、聞くだけの価値は充分にある。何より、壱八が最も苦手としているのが、眼の前にいるこの女性なのだから。

「死の臭いがするのよ」

「は?」

 妙なことを言い出した朱良に、壱八は思わず己の鼻に手をやっていた。

「大バカ。あんたじゃなくて将門の話してんだけど」

「そりゃ判るが、死の臭いって」

「やっぱりあんたには話しても無駄ね。所詮、男どもには判らないのよ。あの半陰陽の恐ろしさが」

 死の臭いがするとは、どういう意味だろう。読心の使用はひとまず措いて、そのことを尋ねてみた。

「まさか体臭じゃないよな。そんな臭い、全然しなかったぞ」

 あんたの嗅覚なんて当てにならないけどね、と言い捨ててから、朱良は続けて、

「鼻で感じる臭いじゃなくて、直接脳に響くような臭気。あの半陰陽を、将門を見てるとね、どうもそんな感じがしてならないのよ」

「だから苦手なのか」

 日頃の毒舌と違い、対象を両断する冷淡な切れ味をすっかり欠いている。それはそれで興味深くはあったが、話の理解度はさっぱり上がらなかった。

「よく判らんな。抽象的すぎて」

「どうせ女の色気程度にしか感じてないんでしょ。死の気配が充満してるように見えるけどね、うちには」

 そう語る朱良の顔には、ある種の苛立ちすら漂っていた。

 女の色気を超えた妖美の資質をかの占い師が具えていることは、随分前から壱八も気づいていたし、両性具有たる身体的特徴が大なり小なり関わっているのだろうというおおよその察しもついてはいた。もっとも、それが死の気配などという物騒な代物であるとは露ほども思っていなかったが。

「タナトスとエロスってやつか」

「は?」

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