29

 翌日の夕刻。早めに配達業務を終え、クロスバイクで帰宅途中のこと。

 ファミレスでの会見以来、とんと顔を合わせることのなかった朱良に信号待ちのタイミングでばったり出くわし、壱八は命運尽きたとばかりに面を伏せた。

「何顔逸らしてんのよ」

「よう」

「いつ見てもシケた面ね。こっち見んな」

 見ても見なくてもどのみち叩かれる。壱八の気分は否応なく落ち込んでいった。こんなことなら、部屋に籠もって未視聴動画でも消化していれば良かった。朱良の大嫌いな倍速再生で。

 異能力を得た今でも、いざ彼女を前にすると卑屈な思いに囚われるのが悲しかった。習慣は恐ろしい。

 白のワンピースにベージュのボレロを羽織り、本革サコッシュの長い革紐を手の甲にグルグル巻きにした朱良は、日頃の鬱憤を晴らすが如き攻撃的な眼差しを向けて、

「ねえ、何してんのよ」

「見ての通り仕事帰りだよ。てかお前、うちに来るつもりじゃないだろうな」

 慌てて釘を刺したが、んなわけないでしょ、と返された。

「貴重なオフをあんたと過ごすなんて真っ平よ」

 壱八の焦燥ぶりを鼻であしらいつつ、些かも眼光を弱めることなく朱良は言い切った。

 よくよく考えるに、朱良の襲来を恐れる理由など今やどこにもない。彼女の暴力に一度は屈したテレビも炬燵も腕時計も、不可思議な修復能力ですっかり元の姿に戻っていたし、仮に再び暴君が降臨して家財道具を打ち壊したとしても、ある程度の損傷なら元通りにできる。原形も留めぬくらいバラバラにされては、それも無理かもしれないが。

「何か、嫌がってる割に自信たっぷりね。今日のあんた」

 鋭い指摘だ。知らないうちに、思いが顔にでも出ていたのか。

「せっかく休みが取れたのはいいけど、愚痴を聞いてくれる人がいなくて困ってたのよ。ね、ちょっと付き合って」

「貴重なオフじゃないのか」

「ありがたく思いなさい。うちの愚痴は貴重よ」

 愚痴を聞かされると判っていて、おいそれと従うような真似はしたくない。少なくとも、壱八はそれほどまでに寛大な精神の持ち主ではなかった。

「貴重かどうかは、聞いてから判断させてもらおう」

 にも拘らず、朱良の頼みを断らなかったのには、確乎たる理由があった。数々の横暴な振る舞いに対する復讐の一環として、一つ朱良の心の内側を読心で覗き見て、せめてもの憂さ晴らしをしようと目論んでいたのだ。

「そういや、あの番組の捜査はどうなったの」

 道すがら、朱良は例の事件について尋ねてきた。暴君たる本性を巧妙に隠したモデル歩きが、実に薄気味悪い。

「あんた今もあいつの助手やってんでしょ」

「助手は廃業」

「解雇されたのね」

「違う、格上げだよ。いや、その話はもうやめてくれ。気が滅入ってきた」

 本当にこの女は、嫌なことばかり思い出させてくれる。完璧な方法だと一人早合点していた読心捜査は、最早完全な八方塞がりだった。豊かな人脈と行動力と判断力があれば、より如才なく立ち回れたかもしれないが、それも叶わない今となっては、自力での解明を断念せざるをえない。

 知性を排し論理を棄て、超常的知覚のみを頼りに犯人を暴こうというのがそもそも甘かったのか。壱八とは正反対の堅実な道を行く占い師が、やはり真相を穿つのか。諦観は達観に、延いては真理に通じるものだが、壱八には真理の一断片すら見出せそうになかった。

 西の空は雲が多く、連なる建物の果てに没せんとする夕陽の姿は、曇りガラスに遮られた黄色電球の如き覚束ない光となって、隙間なき雲の群れにうっすら浮かび上がる。眩しすぎず暗すぎず、夕暮れ間近の美しい街並と朱良の憎らしい横顔を絶妙に照らしていた。

 壱八を引き連れた朱良は、民家と見紛う小さなスナックバーのドアを勢いよく開けた。アパートから一キロと離れていない近場ながら、壱八は店の存在すら知らなかった。表札には苗字の代わりに店名らしき文字が書き散らしてあったが、達筆すぎてさっぱり読めなかった。

 店内の大人びた雰囲気は、朱良よりもむしろ将門にお似合いな気がする。ここが朱良の数多い行きつけの一つと知り、腰を落ち着けた店奥のテーブル席で、壱八はほんの少し仰け反った。

 隠れ家的な心地好さの故だろうか。光射すカフェテラスに占い師がいて、薄暗いバーの止まり木に雑誌モデルがいる。ちぐはぐにも程がある。

「もううんざりだわっ、来る日も来る日も撮影撮影撮影撮影。モデルなら他にいくらでもいるのに、なんでうちだけあんな働かされるのよ」

 朱良は汲めども尽きぬ不満の捌け口を、まるで繰り言の反復に求めているかのようだ。酒の力も借りず、勢いのある語調で捲し立てる様子を、壱八は呆れがちに見やった。

「しかも撮影現場に通い詰めであれだけ働いたってのに、やっと取れた休暇が今日明日だけって絶対変でしょ。どう考えたっておかしいでしょ。そう思わない?」

「そういう契約なんじゃないのか。専属なんだし」

「うるさい。黙って聞け」

 意見を求めておいてそれはない。

「その分、ギャラはたんまり貰えるんだろ」

「貧乏生活が板についてるあんたには言っても無駄だけど、お金を使うってのはね、使う暇があってこそのものなのよ」

 なら言うなよ、と喉許まで出かかったのをぐっと呑み込んで、

「貯金すればいいだろ。で、いざというときにこうドバッと」

「いざってときが死ぬ間際だったらどうすんのよ。バッカバカしい、単なる貯め損じゃん」

 エプロン風コスチュームの若いホールスタッフが、サンドイッチセットとコーヒーを運んできた。朱良はセットのほうの抹茶ミルクに口をつけると、やや抑えた声で、

「うち、違う雑誌のモデルになろうかな」

「お前が出てる雑誌って、えっと、何だっけか」

「何回言わせる気よ。脳細胞全滅してんのか。あーあ、あの雑誌もそろそろ潮時かもね」

 朱良の洩らす弱気な溜め息が、脳死宣告されたばかりの聞き手を俄に活気づかせた。

「あんまり売れてないのか、その雑誌」

「楽しそうに言うな。心身共に死んどけ。詳しくは知らないけど、首都圏オンリーのファッション情報誌にしては頑張ってるほうじゃないの」

「春霧空も愛読してるし、そういや〈ガダラ・マダラ〉の新しいプロデューサーもチェックしてたな」

「プロデューサー? 誰それ。まあ、ありがたいことに変わりないけど」

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