28

 そんな様子を離れた場所から楽しげに眺める中堅芸人と、未だ時間ばかり気にしているスポーツ刈りの青年。

 漫ろにふらつく脚を懸命に支え、壱八は室内のドタバタ模様を口を半開きにして眺めている隣の超野茉茶に眼を転じた。相手方も自分をじっと見つめる男の姿を視野に捉えたようで、怪訝な眼つき以上に疑念の籠った口振りで、

「何よあんた。人のことジロジロ見て」

「犯人は、君なんですか」

 驚いて眼を瞠る超野茉茶に、壱八は重ねて、

「君が殺人犯なのか」

 不気味なほど冷静な声と、尋常でない眼光が華奢な体を俄かに竦ませ、彼女は後退ることもできない。

「な、何よ、何言ってんの」

 壱八の容姿を映す瞳のカラコンが、怯えの涙に濡れ光っていた。

「余計なことは言わなくていい。犯人は君か?」

 心を抉り取るような低くて暗い声音に、彼女はブルッと肩を震わせ、

「違う、違う。あーし、犯人じゃないし」

 強張った声を絞り出すと、糸の切れた操り人形の如く、へなへなとその場にへたり込んだ。

「君が犯人なんだろう。もう君しかいないんだよ」

「だから違うって言ってるでしょ!」

「君だけなんだよ。犯人なのは」

「何よ、何なのよあんた。頭おかしいんじゃないの」

「そうかもしれない」怒るでもなく、淡々と応えた。「そんなことより、君なんだろう? 犯人は」

「違う、違う、違う!」

 耳を覆いたくなる罵声と怒号の飛び交う中、自らの肩を掻き抱いて身を屈める超野茉茶の姿を、壱八は鏡の向こうの出来事のようにぼんやり見下ろした。

「何なのよもう、何なの」

 今や感覚中枢に訴えかける額の疼痛だけが、辛うじて自己を現実世界に繋ぎ止めていた。が、脳裏に浮かび出た対象の心理に、否定を表す亀裂は一つとして生じなかった。

 超野茉茶も違ったのだ。じゃあ、犯人は一体……。

 現実感が、瞬きのたびごとに薄れつつある。地に足がつかない感じ。朧に霞み始める視界。残響ばかり目立つ喧騒。身体と外界の間に、意思の疎通を困難にさせる薄膜がかかっていく。関係が稀薄になっていく。奇妙な感覚だが、不安はそんなにない。

 周囲との接触を断たれ、将門や他の人々と同じ室内にいながら、壱八は完全なる孤立を余儀なくされた。周りの人間に犯人を問うこともできず、後は己自身に問いかけるしかない。

 要するに、俺が狂っていただけなのかと。


 夜になった。

 疲労の極致にあった壱八は、長いこと干していない湿った蒲団に深々と体を埋め、それでも眠れずにいた。

 四肢は脱力しきっているのに、頭だけが嘘みたいに冴え渡り、次から次へ思考の綱渡りを続ける。肉体の虚脱感は増進する一方だ。

 チーフディレクター兼プロデューサーの渕崎柾騎も、異能力者大賀飛駆も春霧空も、メイン司会の我王区民明も、たまたま近くにいただけの超野茉茶も、連続殺人の犯人であることを心理的に否定した。

 考えられる可能性は三つに一つ。あの似非占い師が絞り込んだ容疑者圏に誤りがあったのか。一連の殺人が無自覚の犯行、占い師の言うディオニュソス的犯罪に属するものなのか。壱八の読心自体が、単なる一個人の妄想に過ぎなかったのか。

 第一の可能性は、必然的に容疑者の範囲を押し広げることが不可欠となり、そうすることで多少なりとも収獲はあるかもしれないが、第二第三の可能性に従うなら、どれだけ容疑者の輪を広げても何の進展にもならない。

 後の二つの可能性は、今までの調査を徒労に終わらせ、読心結果も敢えなく崩壊させる恐ろしいものだ。自身の犯行を忘れられては降参する以外ないし、読心能力が思い込みの所産だったとするなら、尚のことだ。

 どの可能性が妥当だとしても、現時点で壱八の犯罪捜査が袋小路に陥ったことは、揺るぎない事実だった。犯人が眼の届かぬ場所に潜んだまま、容疑者の特定に手を焼く捜査員一同の腑甲斐ない有様を、冷笑を浮かべ透き見している。そんな被害妄想じみた思いに幾度となく囚われた。

 そもそも、容疑者の輪を広げると一口に言っても、どこまで広げれば犯人が網にかかってくれるのか。〈ガダラ・マダラ〉の制作スタッフに始まり、筧や塞の神、十条教授ら被害者の関係者に至るまで。一片のコネもない壱八が独力で調べ上げるとなると、費やされる時間と労力は今までの比ではないだろう。占い師にしつこく頭を下げ、助力の懇願でもしない限り。

 だが、その要求を先方が受け容れるとは到底思えない。

「わちきが必要とする聞き込み調査は、これにて終わりました。今後は犯行現場の検討段階に入りますので」

 我王区民明との面会を終えた後、将門はそう言っていた。全くもって納得のいかない台詞だった。アリバイを大雑把に聞き出しただけで、一体何が判ったというのか。その上現場を検討することで、新たに何が判るのか。壱八にはさっぱり見当がつかなかった。

 将門には、もう犯人の目星がついているのか。渕崎、飛駆、空、我王区のいずれかが犯人であると、今でも確信しているのか。でなければ、こんな中途半端な状態で聞き込みを切り上げたりしないだろう。

 何かが違う。漠然とした予感だが、自信満々の占い師に対する僻み以上の、もっと根本的な意見の相違が、将門を真相から遠ざけているように思えてならなかった。

 せめて〈犯人はあなたなのか?〉だけでなく、〈あなたは犯人を知っているのか?〉くらいの質問は用意しておくべきだった。将門の絞り込みを過大評価していた。読心能力なる最強の武器を手にしながら、いや、その最強ぶりを過信していたが故の現状か。

 後悔は尽きなかった。

 そんな懊悩の間隙を突いて、壱八の脳裏を何かが掠め去ったが、気づいたときにはもう、跡形もなく消えていた。

 違う。脳裏から消えたのではない。それは今も意識の奥にある。意識の奥の更に奥、意識を超えた手の届かないところに、それは言語化以前の不定形の思念として、気ままに漂い浮いていた。

 何かが喉許に出かかっていた。〈ガダラ・マダラ〉の事件に関わる、重大な何かであることは間違いなかった。もう少しで思い出せそうなその何かが、意識の奥底から表層部分に信号を送り続けている。声なき声で訴えかけている。

 どうしても思い出すことのできないもどかしさに、壱八は蒲団の中で身を捩らせ、寝返りを打った。

 何かを思い出そうと必死な人間には、およそ三つの結末が待っている。その場で思い出すか、しばらく経った後でふと思い出すか、懸命の努力も虚しく二度と思い出せないか。

 この場合は、きっと二番目のパターンだ。薄弱極まりない根拠からそう断じ、少々埃臭い毛布を頭から被り直す。眠ろうと躍起になれば、逆に眼は冴える。それと同じで、思い出そうと努力するから思い出せない。なら、何も考えずに眠るのが一番だ。

 それにしても、秋の夜は本当に長い。思いとは裏腹に、壱八は当分寝つけそうになかった。

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