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「この服装なら大抵の男は口を割るんですが、あの渕崎って男、一筋縄じゃいかないですね」
急降下する狭いエレベーターの中、壱八に名刺の入ったポーチを再び預けると、将門は小さな溜め息に声を乗せてそう洩らした。
少なからず勝算があったのだろうが、自慢の美貌も肉体美も禿頭のチーフディレクターには通用しなかった。女も男も裸同然と公言する一方、どうもこの占い師は男という生き物を軽視する傾向にある。今日の短い会見は、半陰陽の惨敗だった。
「お前が自信過剰なだけだ、一筋縄どうこうじゃなくて」
「あら、言ってくれますね」
体全体を擦り寄せ、甘え気味に胸許に撓垂れかかってきた。壱八の脚を押さえつけるように自分の脚を絡め、誘惑の眼差しで上目に仰ぎ見る。大胆に開かれた胸刳りの間で、肢体に相応しい盛り上がりを見せる双つの膨らみの柔らかい感触に、壱八は慄然と総毛立った。
「ねえ壱八君。わちきの美しさがあんな茹で卵みたいな男に通じないなんて、絶対に許されません。ありえないことです。君はどう思いまして? 磨きに磨き抜かれたこの体」
恐怖に顔を歪める壱八の鼻面に、艶めかしく息を吹きかける将門。淡いミントの香りが、爽快な風となって濁った意識を洗い流した。
「離れろおい、鬱陶しいぞ」
「無理しないでいいんですよ。誰もいませんし」
背後に回った細い手が背中を這い上がり、擽るように項を撫で回した。快い掌の冷たさが、より一層悪寒を感じさせた。
「あらら、女難の相が出てますね、君の顔」
「人相見はやめろ。それにお前女じゃないだろ」
荒っぽい動作で接触を断ち切ると、壱八は将門の眼前に一本指を突きつけた。
「将門、図に乗るのも程々にしろよ。お前は単にストレス発散のつもりだろうが、そんな誘惑に乗るほどこっちは悪趣味じゃないんだ」
逆セクハラされて怒るなんて珍しいですね、と将門は澄まし顔で口許を綻ばせた。今のはやはり苛立ちを紛らわせるための演技なのだ。
「逆セクハラじゃないだろ。二分の一逆セクハラとか、いやただの変態行為……」
言い切らないうちに鉄扉が開き、おかげでエレベーターの到着を待っていた若い女性社員に変な眼で見られた。
なるべく距離を空け、一階出入り口のロビーへ。そのまま社屋を出るかと思いきや、将門は再び出口と反対側の受付スペースに足を向けた。早く外の新鮮な空気を吸いたかった壱八は、玄関先で将門が来るのを待とうと考え、そのままロビーを通り過ぎようとしたが、名指しで呼ばれたのですごすごと引き返した。
「壱八君、名刺を」
困惑を露わにした受付の青年を前に、将門にそう言われて手早くポーチを開けると、大量の名刺が乱雑に放り込まれているのが見えた。名刺入れ使えよと心の中で毒づき、一枚だけ持ち主に返す。
「南さんが戻られたら、この名刺を渡してほしいんです。あと、直にお会いしたいので時間が空いたら名刺の連絡先にご一報下さるようお伝えください」
はあ、と気のない返事をし、青年は本日二枚目の名刺を受け取った。
夜鳥プロダクションを辞した二人は、陽光の眩い歩道を連れ立ってバス停まで歩いた。強引にチーフディレクター渕崎と面会し、意気揚々と質問を放ったまでは良かったが、すげなくあしらわれて収穫は事実上無に等しかった。
「受付の坊や、ちゃんと渡してくれるでしょうか」
「期待できそうにないな」
「直接彼女に会えれば問題ないんですが」
「それも期待できないな」
外気は依然として穏やかで、数週間前に全土を襲った寒波は次なる季節の予期せぬフライングに過ぎなかったようだ。
バス停脇の屋根つきベンチに腰を下ろし、時刻表を確認した将門は、壱八に近場のレストランか食堂を探すよう命じてきた。
人遣いが荒いな、とスマホで調べながら愚痴ると、奢ってあげるんですからおあいこです、と返された。
「ちょっと遠いな。コンビニならあるけど」
「コンビニご飯はよして、駅に着いたらどこかで食事しましょ」
壱八の置いたポーチを挟むようにして隣に腰かけた将門は、スチャッと音の聞こえてきそうな機敏さで脚を組み、ワンピースの裾からはみ出した腿に両手を互い違いに乗せた。
「あのディレクターの様子、君にはどう見えまして?」
しがない荷物持ちの洞察力を試して、一体どうしようというのか。答える壱八の口調も、我知らずぶっきらぼうなものになっていた。
「どのスタッフに訊いてもあんなもんだろ」
「もう少し具体的に」
「具体的にって言われてもな。とにかく迷惑そうだったぞ。出演者が殺されたのにも関心なさげだし」
「関心がないというか、事件との関わりを必死に否定しているように見えました」
「かもな。それがどうかしたのかよ」
「あの男、事件について何か重大な秘密を隠しているんじゃないでしょうか。他人に知られてはまずい、重大な何か」
将門はそう言うが、秘密を隠していようがいまいが、あるいは事件に何らかの関係があろうとなかろうと、渕崎の対応はさほど変わらないのではないか。見知らぬ人物に突然質問をぶつけられ、嬉々として応じるほうがよほど珍しい。加えて今回の調査は、警察の事情聴取でもなければテレビ局の取材でもない、単なる一個人の聞き込みだ。渕崎の木で鼻を括ったような態度は確かに鼻持ちならないが、それも仕方のないことだろう。
「その重大な何かってのは、じゃあ一体なんなんだよ。お前の前に立てば、皆丸裸も同然なんだろう。見当ぐらいついてるんだろうな」
「あんな短時間のやり取りで、見当も何もありませんよ。読心術の達人じゃないんですから。犯行時刻のアリバイとまではいかなくても、せめて出演者の人間関係ぐらいは聞いておきたかったですね」
捗らない調査に対する心からの溜め息が、水蒸気と共に将門の顔の前を過ぎ去っていった。
似非占い師が調子に乗るからだ。壱八は眼を逸らして遠方のビル群を眺めやった。吹き渡る風もなく、車と通行人の他はどれ一つとして身動きすることのない、遠近感に欠ける風景画の如き眺望。
理想を振り回して風車に突進するのは本人の自由だが、そんな茶番に付き合わされる従者の身にもなってほしいものだ。
「あの様子じゃ、正式な面会も取りつけられそうにないですね。ボールドヘッドとのリターンマッチは当分先になりそう」
将門はよく判らない言い回しで渕崎に言及したが、最早訊き返す気も起きなかった。
「また後回しか。調子いいこと言ってた割に、調査はちっとも進まない」
「言ってくれますね。代わりに君がやってみます?」
「誰がやったって同じさ」
駅行きのバスが到着した。この停留場で乗り込んだのは壱八と将門の二人だけだ。車内に乗客は数えるほどで、座席もほとんどが空席。初めに将門が座り、壱八はその一つ前に着席した。半陰陽の姿を視界に収めたくない、そんな細やかな抵抗を含んだ席次だった。
窓外の過ぎ行く景色を虚ろに眺めていると、いきなり背中を叩かれた。
「何だよ」面倒そうに首を巡らせる。
将門は無言で、バスの入り口を小さく指差している。何を見つけたのだろう。
入り口付近にいる乗客といえば、雑誌に読み耽っている二十歳前後の女性くらいだ。デニム柄のバケットハットを被った相貌は、少なくとも壱八の記憶には存在しなかった。
「誰だ。あの人がどうかしたのか」
声を潜めて言うと、将門は違う違うと手を振って、
「人じゃなくて雑誌のほう」
女性が読んでいる雑誌は一般週刊誌程度の厚さに見えるが、表紙に記されているはずの雑誌名は手の甲に遮られてよく見えない。
「あれ、朱良ちゃんがモデルやってるファッション雑誌ですよ」
「へえ、そうなのか」壱八は聞こえよがしに鼻を鳴らした。「いや、あいつの話題はよしてくれ」
「随分嫌ってますね。可愛いじゃないですか、あの娘」
「どこがだ。あと向こうはお前を嫌ってるぞ」
「わちきの容姿に嫉妬してるんですよ。可愛いですね」
凄まじい自信の顕れに、壱八は開いた口が塞がらなかった。
「きっと雑誌の中から君を見張ってるんですよ」
「おいやめろ」
窓外の移り行く風景に強引に眼を向けたが、将門の愚にもつかない妄言は壱八に深々と刺さっていた。忌々しい朱良が脳裏から消えず、少しも気分が上がらない。
「前門の朱良に後門の将門か」
「ハーレムじゃありませんか」
朱良が掲載されているファッション雑誌。壱八は一度も眼を通したことがないが、もしどこかの書店で偶然見かけたら、必ずや彼女の頁だけ破り取り、丸めて屑籠に投げ入れたい衝動に駆られるだろう。
「まだお前のほうがまともだけどな。この後のご馳走が楽しみだ」
「現金ですね。まだまだ働いてもらいますよ」
「明日以降でな。今日はもういい」
初の聞き込み調査は空振りに終わり、溜まった心労は一度の食事では癒えそうになかった。
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