何かの物音で眼を醒まし、重い頭を再び机から持ち上げたのは、それから四時間ほど後のことだった。他の部屋で音がしたようだが、ともすると自分が無意識に動いた折の椅子の軋みを、浅い眠りの中で聞き取ったのだろうか。

「むう」

 無理な姿勢での睡眠が首や肩に負担をかけ、年齢相応の痛みとなって彼の顔を歪ませた。曲げたまま凝り固まった両腕を、力任せに前方に押し伸ばす。肘の関節がコキッと小さく鳴った。

 続いてディスプレイの陰に隠れていた置き時計を、見やすい位置に移動させた。時刻はあと数分で午後十一時になろうというところ。カーテンの隙間の向こうは、初めからそうであったかの如く、全き闇に塗り込められている。直線だけで構成されたディスプレイ前面部は、無言で文書作成画面を白々と表示するのみ。本体手前に据えられた平たいキーボードが、ユーザーによる次の入力をひたすら待ち続けていた。

 保存を済ませパソコン本体の電源を落とし、教授はふらふらと立ち上がった。寝床に入る前に、渇いた喉を飲み物で潤そうというのだ。

 今日は何もする気が起きん。執筆は明日にしよう。飯も明日だ。風呂も明日、明日明日……。

 自分でそう決めつけると、何だか身体が急に軽くなった。凡てを後回しにしただけなのに、人間の心理は判りやすいものだ。自嘲を含んだ笑みが唇の端に浮かんだ。

 書斎兼寝室を離れ、明かりも灯さず階下へ向かう。階段の冷ややかな感触が足裏を刺激し、一歩踏み降りるごとに寝起き状態の意識を鮮明なものにしていった。

 一階廊下は光に乏しく、しかも相変わらず静かだ。人気のない寂しい廊下を、暗がりのほうへ進んだ。

 そこで書斎の机に置きっ放しのコーヒー缶を思い出し、教授は廊下の途中で足を止めた。二階の書斎から洩れ出る光明は階下を照らすには甚だ頼りなく、ここまで来ると周囲の壁や床は最早闇の濃淡として眼に映るだけだ。

 迂闊だった。どうせ台所に行くのだから、序でにあの缶も持ってくればよかった。そうすれば書斎にゴミを溜めずに済んだものを。

 独り廊下の暗闇に立ち尽くし、更に考える。

 かといって、今更書斎に引き返して空き缶を手にまた降りるのもバカらしいな。一晩寝かせて缶の中身が元に戻ってくれるなら、喜んで書斎に放置しておくところだが。

 いつにない子供じみた発想はさて置き、台所で何か飲んだら結局寝室に戻るのだから、ここで書斎に引き返すのはやはり効率が悪い。一度でも気にかかったゴミに対する病的な拘泥ぶりは、しかし効率を金科玉条とする合理主義精神を揺るがすには至らなかった。

 やれやれ、ゴミ捨ても明日か。まあ一晩放っておいたところで、何も変わるわけでもなし。

 必ずやって来るとは限らない、何とも不確かな明日という概念に凡てを託し、教授は今できること、喉に潤いを与えることだけに意識を集中させた。再度踵を返し、台所のある廊下奥に足を向ける。

 闇に埋もれながら、その闇よりも濃い漆黒の見慣れぬ影が、暗い視界に飛び込んできた。人の形をした黒すぎる影。眼の錯覚、ではない。光のない廊下の前方に、誰かが立っている。

 教授は息を呑んだ。音もなく現れた侵入者が、実は思ったよりずっと近い場所に立っていることに気づいたのだ。空き缶の処理をあれこれ思案していたとき、そいつはすぐ背後に潜んでいた。

 眼の前にいると判った教授が誰何の声を上げるより早く、影は動いた。驚きのあまり身動きのできぬ教授の懐に、黒き侵入者が体重を乗せてぶつかってくる。

 瞬間、腹部に言いようのない激痛が走った。

 刺された。そう思ったときには、もう手遅れだった。腹の内側で、傷口を抉り出すように凶器がぐぐっと捩じれた。腹部は炎を浴びたように熱くなり、その熱さを凌駕する痛みで気が遠くなりそうだった。

 容赦なく刃を臓腑に捩じ込む侵入者。激痛に上下の歯を喰い縛りながら、教授は侵入者から離れようと懸命にもがき、後退りする。震える両腕で憎き侵入者の肩を掴むが、腕に力が入らない。傷口から、血と一緒に膂力も抜け出ていた。呆気なく腕を振り解かれ、教授はドシンと壁に背を合わせた。

 大学の講義で鍛えた怒声も、ここでは何の役にも立たなかった。凶器が腹部から引き抜かれた際、やっとの思いで低く呻くことができた程度だった。間髪を容れず、侵入者の第二撃が腹部を襲った。刃渡りのさほど長くない凶器をまたもや腹に受け、教授はずるずると壁を滑り落ち、床に尻餅を突いた。

 抵抗する力はもう残っていない。とにかく逃げなくては。

 靄のかかる意識をどうにか奮い立たせ、凶器を手にした侵入者の腕を引き離そうと身をよじったが、衰えた腕力や止めどない流血に、その努力も報われそうになかった。

 自分を殺そうとしている人物が眼の前にいるのに、這って逃げ出すことも叶わず、周りが暗すぎて相手の容貌すらはっきりしない。人を殺めんとする以上、向こうも相当な体力を消費して然るべきだが、息を切らした様子もなく、凶器に込める力も一切弱まらない。

 相手の肩や腕に触れてみても、思ったほど頑強な体格でないことくらいしか判らない。個人の識別など到底できそうにない。顔見知りである決定的証拠も掴めず、さりとて物盗りや通り魔にしてはタイミングが良すぎる。〈ガダラ・マダラ〉の常連メンバー筧・塞の神が相次いで殺害された後、同番組の出演者である教授の家に、今度は単なる通り魔が侵入する。

 いや、そんなバカなことがあるか。合理的に考えるなら、こいつは、三番目の犠牲者に、儂を選んだのだ。そうに決まっとる。

 得意の合理的思考でそこまで考え、教授は眼前の忌まわしい影を、生涯で最も険しい眼つきで睨みやった。

 その凶悪な視線を受けた謎の侵入者は、教授の腹部から苦もなく凶器を引き抜いた。息も絶え絶えに腕を震わせる相手の首筋に、二度腹を穿った血塗れのナイフをぴたりと押し当てた。

 首の皮膚を撫でる鋭利な感触は、自身の生き血に濡れていて妙に生暖かく感じられた。

 く、首はいかん。そこは頸動脈だ、動脈血が流れとるじゃないか。切られようものなら、死ぬぞ。本当に死んでしまうぞ?

 動顚が過ぎたのか、教授は己が身に起きていることを冷静に分析していた。

 直後、首筋を襲った最大級の激痛に、教授は悲鳴を上げる間もなく気を失った。


 結局、不幸なる大学教授は、侵入者の顔を見ることはおろか喉の渇きを癒すことも、書きかけの原稿を仕上げることも、食事も、風呂に入ることも、書斎の空き缶を処分することすら不可能となった。

 十条照護が失った気を取り戻す機会は、もう二度とやって来なかった。

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