次なる目的地は、二階の書斎兼寝室。床材剥き出しの木製階段を上る乱暴な足取りが、必要以上に周囲の壁を震わせた。

 上り終えた正面の板扉を開け、書斎に入る。さほど広くはないが、三方の壁沿いに引き戸つきスチールの本棚、机、寝台と調度が几帳面に並んでいるのでこざっぱりした印象を与え、部屋の主人の潔癖ぶりを余すところなく伝えている。

 明かりを点け、パソコンと書類だけの机上に無糖の缶コーヒーを置くと、教授は浅く腰かけたオフィスチェアにぐったり凭れ込んだ。

 〈ガダラ・マダラ〉レギュラー陣の相次ぐ変死。被害者二人は、いずれも特殊能力の持ち主であると吹聴していた。煽情的なマスコミは、異能力者狩りの名を冠して一般大衆の関心を惹こうと画策していた。マスコミの方法論は熟知しているつもりだったが、この事件に関してはバカバカしすぎて怒る気にもなれない。

 ふん、異能力者狩りだと。笑わせおる。理屈弁士の塞の神もアイドル気取りの筧も、化けの皮を剥がせばただのペテン師ではないか。あんな輩ども、儂に言わせりゃ狩る価値すらない。

 塞の神の死後、大学教授は〈ガダラ・マダラ〉の次回分収録が滞っているという話を小耳に挟んだ。第一部の討論会は隔週放送なので、未だ参加要請は受けていない。しかし、収録の難航は自粛の意も考慮すれば当然であるにしても、あれだけの不祥事を起こしながら番組自体は存続することに、彼は驚きを隠せなかった。

 どうにも理解が及ばんな。こんな甘すぎる措置でスタッフをのさばらせておくのは。プロダクション側に、果たして制裁らしい制裁は加えられたのか?

 机の先にあるレースの白カーテンをじっと眺めていると、複雑な網目模様の一部が次第に色づき始め、二人の人間の顔に形を変えた。

 毛先だけ外巻きにカールした黒い髪。綺麗だが険のある相。特に睫毛の乏しい一重の両眼には、捕らえた獲物を決して放さぬ猛々しい獣の光がちらついている。

 もう一人。こちらには頭部に一本の毛髪もない。完全な禿頭。顔立ち自体は穏やかだが心持ち眦の垂れた一見柔和そうな瞳に浮かぶ、油断のならない邪な影。

 〈ガダラ・マダラ〉プロデューサーとチーフディレクター。つまりこの二人こそが、教授も出演している例の番組制作に最も深く関わる人物であり、番組内容を総括・指揮する大元締めでもあるのだ。

「くそっ」

 顰めた眉をそのままに、教授は缶コーヒーのタブを無造作に開け、中身を一気に飲み干した。

 番組の打ち合わせや収録本番において、彼は自分だけが除け者にされている思いを捨てきれずにいた。〈ガダラ・マダラ〉制作の主要メンバーであるその二人が、揃って自分を蔑ろにしているのではないか。

 討論内容が教授の了承もなく突然変更されることも、最近では珍しくなくなった。打ち合わせ時はそんな兆候もないのに、いざ収録が始まるや塞の神と筧が突拍子もない提案をし、それを綿密な相談もせず制作サイドが受け容れる。その事例の多さが、舞台セットでの椅子の座り心地を益々悪いものにしていた。前もって企画の変更を告げられたことは、一度としてなかった。今では、異能力紛いの奇術師と制作側の意向で第一部の討論会は成り立っているのだと、そう考えるようになっていた。

 番組制作の総指揮権が、プロデューサーたる南枳実みなみきじつの掌中にあることは間違いない。その彼女が、超常現象肯定派の塞の神と筧に活躍の場をより多く与えているのだ。チーフディレクター渕崎柾騎ふちざきまさきの実権はもっと小さかろうが、彼女の片腕として何らかの助言を提供してはいるはずだ。時には司会の我王区でさえも番組の急激な変化に泡を喰うことがあり、彼も進行に関してさほど強い立場にないことが判る。進行役ですら無視されるのだ。況んや自分をや。

 制作側は、単に討論を面白おかしくするためだけに、大学教授や超自然学研究家を出演させている。その上、否定派の意見を圧殺した形で、同じ番組内の別コーナーでは異能力者を人為的に創り出そうとしているのだ。番組構成そのものが、否定論者をバカにしているとしか言いようがない。漠然とした予感などではない、確乎たる実感が教授にはあった。

 番組がなくならないということは、討論会も続くのか。あの番組に出るのも、もう潮時かもしれんな。

 臓物を吐き出すように腹の底から息を搾り出す。コーヒー豆の香りが鼻先に僅かにたゆたう。

 教授は姿勢を正し、机上のパソコンを立ち上げた。少しずつ書き溜めておいた冬頃出版予定の評論を、そろそろ完全な形に仕上げる必要がある。古くは作家アーサー・コナン・ドイルに心理学者カール・グスタフ・ユング、博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス、本邦では透視術の御船千鶴子、物理霊媒の亀井三郎など、一級の知識人をも巻き込んで隆盛を極めたスピリチュアリズム、心霊主義を皮切りに、オカルトと科学の系譜を辿り、名だたる超常現象のイカサマを徹底的に暴露する試み。世に蔓延る超常現象信奉者を一網打尽にしてやろうという意図の許執筆された原稿は、遅いながらも着々と完成形に近づきつつあった。が、この数日来、書く意欲はあるのに肝腎の思考があらぬ方向を経巡り、端末上に置かれた十本の指は吸いついたように各キーから離れず、視線はディスプレイに表示された作成中文章の、更に先にある不可視の空間に注がれていた。

 筧要の葬儀に出席したことを思い出す。突然の不幸に打ちひしがれた喪主の悲痛に満ちた涙声は、けれども教授にはいかなる感情の起伏をもたらすこともなかった。思いたくはないが、忌々しい宿敵がこの世から去ったことを喜ぶ悪魔的思考が、少しは働いていたのかもしれない。

 死を想え、か。ふふ、古人は乙なことを言ったものだ。ショーケースに陳列された現代的な死の皮相化を、暗黒の中世から既に警告していたのかもしれんな。黒死病もメディアの発する情報も、伝播の速さには凄まじいものがある。これだから流行は恐ろしい。蔓延する流行の恐怖、その歴史的推察。論文の新しいテーマに使えそうだな。もっとも儂には専門外のことだが。

 教授は瞼を開け、ぐいと頭を持ち上げた。徒然なる思いに身を任せているうちに、いつの間にやら自分が組んだ腕の上に顔を乗せ、机に突っ伏していた。疲弊した脳が活動をやめようとしない無防備の意識に対し、それとなく眠気を催させたのだろう。こんな冷たくて硬い机に伏したまま寝入る気は毛頭ない。しかし一瞬でも眠気を意識すると、今度は体のほうが思うように動かなくなる。耳の後ろが異様に熱い。指先もだ。身体の疲労は精神力で多少カバーできるが、蓄積された心労となるとそうもいかない。

 誰かが言っとったな。睡眠は死の体験の先取りだと。回復と死を同時に司る契機としての睡眠。ふん、下らん。儂の書いている論文と、何の関係もないことばかり頭に浮かんできおる。いや、下らんのは儂の頭か。

 頭脳の興奮状態を持続させるには、カフェインの量が今少し足りなかったようだ。一つの欠伸さえ発することなく、現状に疲れ切った大学教授は死の先取りへ落ち込んでいった。

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