事件の真相3

 その日の講義を終え、第一の職場であるキャンパスを後にした大学教授の肩書きを持つ男は、地下鉄を降り、下校中の高校生の団体を幾つも足早に抜き去り、買い物客で大いに賑わう商店街のぶつかり合う喚声を意識にも留めず、閑静な裏通りを自宅へと向かって歩いていた。

 茜色に染まった綿雲が眼の奥をピリピリと刺激し、連なる建物が辺り構わず濃い影を落とし始める、そんな夕暮れ刻の優柔で曖昧な雰囲気を、年配の物理学教授はどうも好きになれなかった。

 後ろ髪を逆立てる突風に乗って、あっという間に彼を追い越した学生らしき自転車軍団。愛用の籠付き自転車が二日前、両のタイヤをぼろぼろに破られ、サドルを抜かれたむごたらしい姿で駅前駐車場に横たわっていたのを発見した教授は、危なげに蛇行しつつ視界から遠ざかる彼らの後ろ姿にその忌まわしい出来事を重ね合わせ、夜郎自大な若造どもを無性に怒鳴り散らしたくなった。

 明日にでも新しい自転車を買うか。当たり前に使っていた物がなくなると、不便やら腹立たしいやらで冷静な考えもできん。

 宿痾ともいえる高血圧は、さっぱり落ち着く気配がない。主治医に言われた通り、肉類も酒も徹底して控えているのに、精神的な興奮に身体が引っ張られるのか、体調の優れぬ日々を何年にも亘り送っていた。

 世の中には気に入らんことが多すぎる。とかく彼には不満が多かった。毎日こんなに立腹していては、たとえ敬虔なる托鉢修道士だろうと血の気は多くなる一方だ。教授会での扱い、受講生の態度、テレビ局やプロダクション側のやり口、世情や身辺の瑣事まで、眼に映るもの大抵が業腹の種となった。

 癇症甚だしい大学教授は、下水路のブロックの把手に挟み込まれた紙屑をも、心労のあまり隈を湛えた不気味な三白眼で睨めつけ、例の如く怒りの対象に変化させていたのだった。

 そうこうしているうちに、自宅の門扉の前に来ていた。〈ガダラ・マダラ〉第一部にレギュラー出演するようになってから、煉瓦塀の表札は長らく外したままだ。己の出ているインターネットテレビ番組が高視聴数を誇る局の看板番組となったため、世間一般にもその名が過分に知れ渡り、テレビでの発言に対する匿名の批判文が玄関口に投げ込まれたりなど、有名人故の苦労も少なからず体験した。地上波放送ならずとも、テレビ媒体による伝播力は想像を絶する弊害を併せ持つことを痛感せざるをえない。

 片側の塀の上に烏龍茶の空き缶を見つけ、教授はギリッと奥歯を軋らせた。出勤時には置かれていなかった。指の腹が白く変色するほど鞄の柄を強く握り締め、眉尻を釣り上げた。

 何という有様だ。屑籠と塀の区別もつかぬうつけ者にまで、儂は馬鹿にされとるのか。

 赤土色の煉瓦を蹴りつけたい衝動に駆られ、どうにか怺え、教授は荒い手つきで塀の上のアルミ缶をもぎ取った。缶の中に、液体とは違う何かが入っている手応え。

 隣の黒い建物から数人の若い女性が出てきた。彼女らは著名な物理学教授を見知っているらしく、皆口を押さえてクスクス嗤っている。

 怒りよりも羞恥の念で、その縦長の顔と長く垂れた耳朶を夕焼け色に染めた教授は、空き缶を手にしたまま逃げ入るように格子門の内側へ身を滑らせた。

 何故この儂が、こんなふうにこそこそ隠れたりせねばならんのだ。不愉快な。

 邸宅の隣家が占いの店であることは以前から知っていたが、店の主人とは一度も面識もなく、一面黒塗りのいかがわしい建造物が塀の向こうで幅を利かせているのを、決して快く思ってはいなかった。

 巷の人間は、どうして占いや心霊現象や異能力といったきな臭いオカルト如きに、ああも熱を上げることができるのだ。統計学の奴隷に過ぎぬ超心理学なぞ、学会ではまともに取り上げられるほうが稀だのに。学問として理解できるのは、精々心身医学サイコ・ソマティクスまでだ。オカルトなぞ早く滅んでしまえばいい。

 玄関前で鍵を取り出す段になり、ようやく彼は空き缶を持ったままであることに気がついた。顔を顰め、飲み口を覗き込む。

「……!」

 缶の内部に無理矢理折り込まれた白いストローが、教授の眼に入った。

 咄嗟に空き缶を後方の石畳に叩きつけた。カィンと軽い音がして、胴体の一部がひしゃげたアルミ缶は塀の下まで飛び跳ね、雑草の生えている辺りで動きを止めた。

 のっぺりした顔を冷たく伝う一筋の汗。

 あの日。塞の神紀世とスタッフ連中のやり方に業を煮やしスタジオを出た後、その塞の神が発作を起こして死んだことを楽屋にて渕崎チーフディレクターから聞かされた。塞の神がストローで飲んだ烏龍茶にトリカブトの毒が混じっていたことも、その後取り調べに来た刑事が正直に明かした。状況から判断するに、犯人として最も疑わしいのが他ならぬ自分であることは、刑事に言われるまでもなく充分承知していた。彼が何かにつけ黒衣の山師と意見を異にし、およそ敵対関係にあった事実の前では、否定材料を探し出すほうが困難だろう。

 彼は身の潔白を証明するため、捜査陣が納得するか否かはともかく、とにかく無実を主張し続けるしかなかった。

 キャンパスの物理実験室にアコニチン系アルカロイドが置いてあったか。化学実験室や倉庫から同様の薬品が盗まれていないか。警察は校舎内にまで立ち入り、全く調査の手を緩めることがなかった。

 番組や被害者と無関係でない彼には、警察の介入を喰い止めるなどできるはずもなかったが、ただでさえ彼のテレビ出演に難色を示していた大学側が、塞の神の事件を機に態度を硬化させ、大学の面汚しか何かのように彼を腫れ物扱いするのには辟易した。教授会においても彼の発言権は日増しに弱くなり、物理学教授たる権威は失墜の一途を辿っていた。犯人が捕まりでもしない限り、汚名を返上する見込みはありそうになかった。

 更に困ったことに、世間の眼は学校以上にシビアだった。彼の許に届く投書の内容は、番組上の言いがかりに近い批判から殺人への糾弾に替わり、どこでアドレスを入手したのか、電子メールによる攻撃も格段に増えた。

 たった今、塀に投げ捨てた烏龍茶の空き缶もそうだ。特番収録中、塞の神がストローで飲んだ毒入りの烏龍茶。コップや紙パックなら判るが、缶ジュースをストローで飲むのは珍しい。塀の上の空き缶と、その空洞に収められたストロー。教授はそこに名も知らぬ他人の、浅からぬ悪意を感じ取った。

 表の通りを窺いながら後ろ向きに屋内に入り、錠とチェーンキーで二重に施錠する。薄手のスーツをハンガーにかけ、整頓された薄暗い洋間の長椅子に腰を落ち着けてからも、赫然たる憤怒の奔流は弱まるところがなかった。

 固定電話の留守録を再生すると、来月催される素粒子論学会に関するものが一件で、後は凡て無言電話だった。これはもう本気で番号の変更か、あるいはメールへの一元化を考えるべきかもしれない。家に入る際、郵便受けを確認し忘れたのを思い出したが、どうせ大した届け物もなかろうと思い直し、渋面で電話の前を離れ、玄関には引き返さず廊下を横切ると、そのまま台所へ足を進めた。

 顔を拭き、鼻をかんだティッシュをゴミ袋に投げ入れ、冷蔵庫の扉を開ける。惣菜やキムチ漬けのパックなど、およそ三日分ほどの食材が、下のコーナーの奥まった所でぎゅう詰めに押し固められていた。

 明日は家政婦さんが来る日か。そろそろ新しい食料を調達してもらわねば。

 独身生活に孤独を感じたことは一度もないが、不便な思いをしたことは数え切れない。食材を上のコーナーに移し、缶コーヒーを一本取り出して扉を閉めた。僅かな間顔面を覆っていた冷気も、精神の沸騰を冷ますには至らなかった。

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