15

 不安のどよめきがスタジオを取り巻く。仰臥したきりの塞の神の許に慌てて詰め寄るスタッフたち。座席から離れぬよう観客に指示を出すサブディレクター。スタジオ後方の関係者らも騒動の規模を測りかねているらしく、突然の中断に訝しげな声を上げている。格子状のフレームに取りつけられた天井の照明器具が、出演者の聖域を侵犯するスタッフ連中の背中をあかあかと照らし出す。

 壱八を苛んでいた陰湿な睡魔は、今やどこか遠い世界に飛び去っていた。眠気の度合いはそのまま興奮のそれに置き換わり、悪性の風邪の如き火照りが全身を気怠く包み込んでいた。

 客席を立つ者は一人としていなかったが、随所で立ち上るざわざわした騒音は、いかに優秀な番組スタッフとて収拾のつけようがない。上階の調整室にいる彼らの上役はどうなのか。問題だらけのテレビ番組とはいえ、さすがに高みの見物とはいかないだろう。

 舞台セットに視線を移す。塞の神の倒れた場所には十人を超える人集りができていた。すぐ近くの床に蹲り、顔を覆って嗚咽する超野茉茶をマネージャーらしき壮年の男性が赤子をあやす要領で宥めている。残る二人の出演者は長らく喪心状態にあり、立ち位置こそ違えど似通った恰好で凝然と立ち尽くすばかりだ。

 白衣をまとった二人の男を引き連れた中年女性が、円舞台に姿を見せた。女性はタオルを、後ろの男性はAEDセットらしき赤いバッグと救急箱を提げ持っていた。テレビ局に常駐する救護班のようだ。続いて、スキンヘッドの男や険しい顔つきの女性など、四、五人ほどが焦燥した様子で新たにスタジオに入ってきた。調整室にいた番組収録の主要スタッフだろうか。何となくだが、壱八は一行の立ち居振る舞いから、そうに違いないと半ば確信していた。

 男たちは担架を舞台後方の書割りに立てかけ、すぐに看護に取りかかった。黒衣に群がる白衣のコントラストが、妙に印象的だった。いずれにせよ、これで塞の神の身に異変が起きたことは確定した。単なる貧血どころではない、命に関わるもっと重大な異変がだ。

「あの男、神威ってのに失敗したわけじゃなかったのか」

「失敗するたび昏倒してたら身が持ちませんよ。何より、彼は神威の発現に失敗したことなんて一度もないはずです」

「その神威がインチキでなければの話だけど」朱良が口を挟む。

「ですね。ともあれ、あの苦しみ方は異常です。胸を押さえていましたし、心臓発作かも」冷徹な声で将門が言った。

「心臓発作」

 動かぬ黒衣を取り囲む人々の輪。そこから少し距離を置いて立つ飛駆青年の横に、第二部の出身というあの制服の少女、春霧空がいた。だらりと力なく垂れ下がった青年の腕を両手で握り、とても悲しそうな顔で彼を見上げている。薄幸のカップルか。壱八はそんな率直な感想を抱いた。

 彼女の存在に気づいていないのか、青年は何かに取り憑かれたようにテーブル上の一点を凝視している。烏龍茶の入った、ストローつきの細長いグラスだ。テーブルの片隅には、塞の神の使った純白のストローが転がっていた。

 思うに、飛駆青年は休憩時に新しい烏龍茶が用意されてからも、中身を一口も飲んでいなかった。最初に長テーブルに置かれていたグラスに関しても同様だった。

 塞の神のグラスは床に砕け散ったまま、進んで掃除しようとするスタッフもいない。彼の命運を暗示するかのようで、見ていて寒々しかった。

 担架まで準備されているにも拘らず、黒衣が運び出される様子は依然としてなかった。最早手遅れなのかもしれない。

「毒でも飲まされたのでは」と将門。

「まさか」

 壱八は否定的に応じたものの、内心は同じ考えだった。収録中、怪僧は烏龍茶を幾度も飲んでいた。身体に異変を来す直前にも、水分がどうのと宣いつつがぶ飲みしていた。

 救護班の傍らに控えていた女性と禿頭の男が、弱り果てた様子で何事か言い合っている。未だ現場に近寄れない我王区の強張った形相は、絶望的なまでに白かった。

 背を丸くし、観客の視線を遮るようにして塞の神の容態を窺う人々の頭上で、一足早く落命した霊能者が写真の中から笑顔を振りまいている。それは何かにつけて騒々しい下々の世界を、せせら笑っているかのようだ。

 もしや、これは連続殺人なのか?

 トンデモ系の急先鋒たるテレビプログラムの収録において、本当にとんでもない事態に出くわし、壱八は頭を抱えたい気分だった。

 身を屈めたスタッフの誰かがテーブルの脚に背中を打ちつけ、その反動で塞の神のストローがコロコロとテーブルを転がっていくのが見えた。テーブルの縁ぎりぎりのところで、それは止まったか見えた。

 が、最終的に床に落ちるのは避けられなかった。グラスの破片と烏龍茶のぶちまけられた、鮮やかな濃紅色の床に。眼に見えぬ抗えない力に、まるで吸い寄せられるようにして。


 塞の神紀世の容態さえあやふやなまま、観客一同はスタジオから少し離れた、別の広い部屋に移動させられた。気分を悪くして座り込んでいる女性も少なからずいた。消沈した顔のサブディレクターが程なく現れ、収録の続行が不可能になったことを報せた。第二部の収録も当然中止となった。塞の神の安否は最後まで明かされなかった。

 命に別状がなければその旨を伝えそうなものだし、残ったレギュラーで撮影を再開しそうなものだが、実際はそうはならなかった。ということは、かなり危険な状態なのではないか。壱八に他の観客の思いは知る由もないが、似たり寄ったりの感想だろうなとは容易に推測できた。

 バイト代は予定通り振り込んでおきますという引率者の念押しを最後に、観客一同はその場で解散となった。警察が来るまで待機を命じられてもおかしくなかったが、そこまでの事件性はないと判断したのか。差し当たり全員の氏名と連絡先は雇い主が押さえているので、後々呼び出されることは充分考えられたが。

 仕事を終えたとはいえ、胸に蟠る靄みたいな感情は、テレビ局の敷地を後にしても晴れることはなかった。

「何だったんだ、あの騒ぎは」

 駅までの道すがら、壱八は足早に前を歩く二人に声をかけた。並木道を駅へと進む他の人々も、最前の怪事について様々な議論を交わしていた。

「騒ぎも何も、収録中に黒装束の男が一人死んだだけでしょ」朱良は呆れるほど素っ気なく応えた。

「いやまだ死んでないだろ」

「決めつけるのは時期尚早、と言いたいところですけど、あの症状は恐らく心臓発作。予断は許しませんね。毒でも盛られたんでしょうか」

「やっぱりか。あの飲み物だな」

「ストローも怪しい」

 烏龍茶の中か、あるいはストローに仕込まれた毒物を口にした塞の神が、発作を起こして昏倒した。即効性の毒なら、効果はすぐに現れるだろう。超自然的な解釈に頼るまでもない、最も妥当な説。塞の神は何者かの手にかかり、筧要と同じ道を辿ろうとしているのだ。

「取り敢えず、次あんたの家行くときはマイストロー持参するわ。あと未開封の飲み物用事しといて」

「おい」寝不足も後押ししてか、頭が痛くなってきた。「お前は相変わらずだな。殺人未遂の事件に巻き込まれたかもしれないってのに。何とも思わないのかお前」

 朱良は振り返りもせずに、

「うちら客席で観てただけじゃん。あんたみたいに退屈しのぎで興味もない話題を口に出したりしないってだけ」

「朱良ちゃんは極論ですけどね」波打つ長髪を風にそよがせながら、将門は言った。「自宅の近所で殺されたら少しは興味も湧くでしょうけど、偶々出くわした服毒事件に関心を向けるほど物好きではありませんので。ここから先は警察の領分です」

「そうそう。バイト代はちゃんと貰えるんだし、あんたは黙って新しいシェーバーでも買ってりゃいいの」

 肩越しに振り向いた朱良の鋭利な眼光は、汚らしいものを見るときの蔑んだ色合いが強かった。

「犯罪者を見る眼で俺を見るな。俺は何もしてないぞ」

「せめて無精髭は剃れ。犯罪者面でこっち見んな」

 あからさまなルッキズムを非難しようかとも思ったが、分が悪いのでやめておいた。

 会話はそこまでだった。

 壱八はスタジオでの愉快でない出来事を思い返し、歩を進めながら背後を振り返った。局ビルの壮大な景観は、来たときと全く変わらない。中で何が起ころうとも、堅牢な外壁は一切洩らさず、ただそこに聳え立つのみ。逞しくも冷たい巨躯に、ふと寂しさを覚えた瞬間。

「いてっ」

 何かに躓いてよろけたのを、どういうわけか朱良に見られていた。今度は憐憫に満ちた眼を向けられ、

「チャリ移動ばっかで歩くのに慣れてないのね。可哀想に。人間こうなっちゃおしまいだわ」

 罵られるのよりもずっと堪えた。

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