6
純白の綿雲が点在する青空を背景にずっしり居を構える、やや古びた角柱形の駅ビル。その底辺に控え目に穿たれた出入り口から、ぞろぞろと不規則な速さで吐き出されていく大勢の人々を、壱八は何ということもなく眺めていた。気温は平年並みだが、風がないため涼しさも気にならない。壱八のいる広々とした円形公園も、薄着の人がちらほら見受けられ、気紛れな雲の動きに合わせて見え隠れする太陽の長閑な光を浴びて、全体が淡い色彩を滲ませていた。
円に沿って並んだ多数のベンチには、待ち合わせや明らかに暇を持て余しているだけの人々によって疎らに占められ、その脇に巡らされた緑の樹々はどれも時折思い出したように細い枝先を静かに揺らすのみだった。燻んだ木の葉は全体の半分が枝にはなく、青い上下を着た老いた清掃員が、樹の下でせっせと落ち葉を掃き集めていた。
外はどこも眩しすぎる。壱八はそう思い、手にしたスマホの輝度を上げた。樹木の緑でさえ、睡眠不足の眼を休めるには充分でなかった。ベンチの座り心地も決していいとは言えない。壱八は早くも幾許かの疲労を感じていた。周囲の喧騒を掻き消すワイヤレスイヤホンだけが、刺激の強すぎる外界を遮断してくれるせめてもの癒しだった。
多数の鉄道路線と連絡するターミナル駅のロビーは、人の往来の途絶える気配がない。目頭を指で抓んでいる間にも、さして広くない出入り口に、取り取りの服装をした統一感のない集団が吸い込まれた。
ベンチの背凭れに肘を乗せ、無精髭の伸びた顎の先を小さく撫でながら、スマホに眼を落とす。
タイミング良く通知が来て、そそくさと立ち上がった壱八は、そこでふと疑問に思った。
通知? あいつスマホもガラケーも持ってなかったはずじゃ。とうとう買ったのか。
改めて通知に眼を通し、愕然とした。
駅の通行口を一望出来る広大な公園の入り口から、颯爽とベンチに近づいてくる二つの人影。一人は確かに壱八の待っていた人物だった。まだ距離があるので顔ははっきりしないが、もう一人の正体も服装で判った。何より壱八のスマホにメッセージを送ってきたのは、彼女のほうだった。
壱八は軽い眩暈に襲われた。
どうして、あいつまでここに?
空気穴の開いた風船のように、体の力がどんどん抜けていった。またもベンチに腰かけ、壱八はふて腐れた表情で二人が来るのを待った。
三十歳に達するにはかなり間があるであろう容色の二人のうち、一人はあろうことか壱八の天敵、吉岡朱良その人だった。
「随分早いのね。どうせ遅刻すると思ってゆっくり来たんだけど、その必要なかったか」
前に立ち、図々しくもそう言ってのけた朱良に、チャリで来た、とネットスラングで返そうとした壱八だったが、言っても通じないかと思い直し、その横に立つ長身の人物に眼を向けた。
栗色の長い髪をウェービーヘアにし、鮮血で染めたような真紅のスリーピースに身を包み、両腕を組んで艶然と壱八を見下ろしている。地中海の雰囲気を湛える彫りの深い相貌は、パーツの一つ一つが非の打ち所のない正確さを誇り、全体として美のエネルギーを一点に集約させたような、少々鬱陶しく感じられる甘美な光輝に満ちていた。薄めのアイシャドーと濃い睫毛に縁取られた大きな眼が特に印象的で、真っ赤な口紅で艶めかしく濡れた唇が本来の性的魅力をここぞとばかりに倍増させていた。
日本人離れした美貌に加え、その肢体もまた肉感的な魅力を結集させた西欧の彫刻作品を思わせるものだった。腰から腿にかけての引き締まったライン。タイトスカートから覗く黒ストッキングに包まれた長い脚の匂い立つような官能美。組んだ腕の上で窮屈そうにベストの合わせ目を掻き分ける、双つの隆起。足許を飾るエナメルのパンプスも、はち切れんばかりの容姿にはむしろ地味に見えた。服の上からでもその豊満な肉体は充分に想像可能で、紅一色の衣装にも何やら淫靡な揺らめきが仄見えた。
だが、人を見かけで判断してはいけないのだ。この場合は特に。
並んで立つ七分袖ジャケットにジーンズ姿の朱良は、隣の娼婦じみた淫猥さは皆無だが、ファッション雑誌の現役モデルだけあって、そのスレンダーな姿はすらりと伸びた健康的な四肢と程良く釣り合っている。どちらかというと華奢なほうに分類される彼女の佇まいは、先入観に塗り固められた壱八にはとてもそうは見えない。黒のミディアムボブスタイルは、頬の辺りだけ緩く波打っている。頭の形が良いせいか、短めの髪型もなかなか様になっていた。取り分け首から肩口に至る曲線が、芸術的と呼んでも過言でない造形美ではあった。小振りな顔に切れ長の眉と眼。鼻も口も小さく、客観的に見れば横の麗人とは正反対の可愛らしさを全身に花咲かせているようだった。
こうして並んで立つと、両者の体現する美が際立った対照をなしているのが判る。外見だけで判断すれば、二人とも俗に言う美人であることは疑う余地がない。
しかし、実際はどちらも一癖も二癖もある難物なのだ。ジーンズのポケットに指をかけ、挑戦的な態度で壱八を見下ろす朱良はいかにも狡猾そうな油断のならない眼つきをしているし、長身の美人に至っては男を狂気に陥れる危険なオーラを発散していた。
朱良の鋭すぎる視線を意図的に避け、麗しい紅衣を恨めしげに見やる。当の相手は、不思議そうに見つめ返すのみだ。一瞬だけ、蠱惑的な紅茶色の瞳が悪戯っぽく煌めいた。
その名は
壱八が駅前公園のベンチで時たま眺めていたターミナル駅は、とある私鉄の路線に連絡しており、それに乗って二つ先の駅を降りたところに、将門が独りで経営している店舗を兼ねた住居があった。店舗名は〈占い処マサカド〉。占い処の名に違わず、将門は人の運勢や吉凶を占って報酬を得る占い稼業を営んでいた。円筒将門なる珍奇な名前は、占者としての別称なのだった。
「何ボケっとしてんの。うちら来たんだからさっさと耳のそれ外せ」
「おい将門。何で朱良がお前と一緒にいるんだ」小言は無視して、壱八は憤りの混じった声を飛ばした。「偶然電車で会っただけだよな。まさか一緒に連れていくのか?」
「あら、別にいいじゃないですか。人数多いほうが楽しいですよ」
鼻にかかった甘ったるい敬語で、美貌の占い師は悪びれたふうもなく簡潔に答えた。
「何不服そうな顔してんのよ」
朱良も横から声を上げ、憤然と胸を張る壱八を覗き込むように、くいっと腰を折り曲げる。
「お前が観覧の日にちを教えたんだな」
壱八はなおも無視し、腕組みのまま仁王立ちする将門を憎らしげに見た。二人をここに残して独り帰ろうかとも思った。そんな壱八の額を朱良は綺麗な長い指でツンと弾くと、
「おいこら壱八。うちがいちゃ悪いっての? あーん? そんなに心配しなくても、今日は部屋荒らしたりしないって」
「いや、だって聞いてないぞ。お前、こいつも来るなんて電話じゃ一言も言ってなかったろうが。話が違う」
「口止めしといたのよ」占い師を指差してあっさりと告げ、朱良は更に続けて、「あんたスタジオ観覧の日付黙ってたでしょ。だから直接こっちに聞いてさ。ちょうどスケジュール空いてたし、あんたらについてくことにしたわけよ。うちの言い分は以上」
後を引き取る形で将門が口を開く。
「朱良ちゃんが同行するって知ったら、君多分ここに来なかったでしょう」
「多分じゃない、絶対だ」
「でも今更帰ってもらうのもあれでしょう。二人が三人に増えるだけですもの、わちきは全然構いませんよ」
「そうそう。旅は道連れ世は情け」
朱良は不満を隠そうともしない壱八の隣に腰を下ろすと、厚かましく壱八の肩に肘を乗せた。
「お前の言い分は終わりだろ。それと馴れ馴れしい真似はよせ」腕を払いのけるのさえ煩わしそうに、壱八は腹の底から声を絞って言った。
その程度の威嚇に朱良が動じるはずもなく、迷惑顔の壱八を細目に見ながら無精髭が汚いだの髪を整えろだの、挙げ句その服は何時代の衣装だとまさしく放言の嵐。将門は二人の諍いには素知らぬ顔で、通常型スティックタイプの電子タバコを真紅の両唇に咥えた。
いちいち難癖をつけてくる朱良に、壱八もとうとう荒っぽく腕を振りほどいて舌打ちした。
「これだからお前と一緒は嫌なんだよ」
「なら宅配のバイト行けば。どうせチャリで来てんでしょ」
「バイトじゃない、個人事業主だ」
「日銭稼ぐ程度の仕事でしょ。バイト感覚じゃん」
「あのなあ、いや、まあいい。お前とこんな無駄話してても始まらん。将門、そろそろ電車に乗ったほうが良くないか」
朱良に見切りをつけ、壱八は勢いよくベンチから立ち上がった。途端に視野が暗くなる。
「うっ」
寝不足と立ち眩みの複合技でフラリとよろめいたのを見た将門が、素早く電子タバコを口から離して爆煙を吹きつけた。
「やめろ、おい」
煙とは違うメンソール系の水蒸気だが、いきなり顔面にかけられては毒霧と大差ない。
「眼は覚めましたか?」
「……ああ」
一頻り咳き込んだ後で、ようやく人心地ついた壱八の臀部に、隙ありの声と共に今度は朱良のミドルキックが飛んだ。本気にしてはやや力不足だが、冗談だとしたらもう少し手加減すべきではないか。
「やめろっての、俺の尻はサンドバッグじゃないんだぞ」
「サンドバッグほどの価値もない、でしょ」
「もういい、行こうぜ将門」
一行は駅へと向かった。
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