「何よ急に」

 朱良は胡乱な眼で、いきなり声を張り上げた男を睨みつけた。

「ああ、いやちょっと思い出したんだ。今度将門と一緒に番組観覧のバイトに行くんだが、その番組が確かそんな名前だった」

「観覧のアルバイト? そんなのあるの」朱良は眉を顰めたまま、「スタジオ観覧って視聴者が応募するんでしょ普通。番組観てるだけでお金貰えるなんて虫が良すぎるんじゃない」

「俺はあいつから聞いただけだ。詳しいことは知らん」

「エキストラのバイトじゃなくて?」

「似たようなもんじゃないのか。たまに笑ったり、驚いたり拍手したりとかだろ。実際はどうだか知らんが」

「で、幾ら貰えるの」頬にかかった横髪をうざったそうに掻き上げ、朱良は興味なげに尋ねた。

「スタジオまで電車賃かかるから、それ抜かしたら二、三千ってとこかな」

「日本円に換算してよ」

「日本円だよ」

 嘲笑混じりの溜め息が彼女の唇から洩れた。

「そんな端金、バイト以下でしょ。近頃の小学生だってもっと稼ぐわ」

「そりゃモデルが本業のお前には敵わないさ。スタジオ観覧のバイトなんて、どれもそんな程度なんじゃないのか。暇潰しで小銭が入ると思えば、金額の大小は大した問題じゃない」

「ふーん、どうでもいいけど。収録日はいつなの」

 日にちは聞いてないとだけ答えた。もちろん嘘だ。

「何それ」

 朱良もそれ以上訊いてこなかった。どうやら番組観覧についてくる気はないようだ。壱八は心底安堵した。

 番組観覧について話している最中に、男性キャスターは被害者筧要の現在に至るまでの経歴を説明し終えたようで、映像は被害者と親交の深かった著名芸能人のインタビュー風景に切り替わっていた。

「地上波にも結構出てたのか」

「そうね。民放のバラエティにゲスト出演して、霊能見せたり」

「念視がどうとか言ってたな」

「そうそう。このスタジオには邪悪な霊が漂ってるとか言って、あと体の具合の悪い人にセラピューティック・タッチ施したりね」

「セラピュー、タッチ? 何だそりゃ」

「インドの聖者の映像とか観たことない? 掌を患部に翳して、霊力とか気を送って治療するやつ。とにかくかなり胡散臭い芸風だったね」

 セーターに付着した埃を取り除きながら、朱良は軽い口調で言った。

「芸風ねえ」

「信じろってほうがどうかしてるわ」

 テレビの前に低く積まれた文庫本を足先で払い除け、朱良は両脚を畳の上にだらしなく伸ばした。そのまま胡座でも組みかねない風情に、壱八は複雑な表情を浮かべて唇を歪めた。

『今日はゲストコメンテーターとして、犯罪心理学の権威でもある帝都大学心理学教授の神谷等志先生にお越しいただいております。どうぞよろしくお願いします』

『よろしくお願いします』

 キャスター二人とゲストコメンテーターの挨拶の声が、僅かな時差と共に気持ち悪く重なって聞こえた。

『そういえば、先生は〈ガダラ・マダラ〉の十条じゅうじょう教授と同じ大学ですよね』

『え、あ、はい』

『学内でそういった話をしたりは?』

『いえ、話したことないです』

『そうですか、失礼しました』独り苦笑する女性キャスター。『では、先生にお尋ねしたいのですが、今回の筧さんの殺害、首を切断されたご遺体について、犯罪心理学の観点から一体どのような考察が可能なのでしょうか?』

『ええ、計画的な殺人にしろ短絡的な衝動殺人にしろ、殺害行為における首切り行為というのはですね……』

 大学教授の言葉がそこで途絶えた。

 不意に静まり返った室内。柔らかい陽光に包まれたアパートの外も、室内に負けぬほど静かだった。風音一つ聞こえない。遠くの道路で、自転車のベルらしき高い音が短く鳴った。

「人ん家のテレビ占領しといて、勝手な奴だな。今のニュースに興味あったんじゃないのかよ」

 不機嫌を装った口調で言い、壱八はテレビを消した相手に視線を向けた。

「権威だか何だか知らないけど、犯罪心理学の講義に興味なんてない。あんた犯罪心理について何か知りたいわけ」

「他人の家で好き放題する人間心理の、次ぐらいには知りたいね」

「いいこと教えたげるわ。専門書買えばいいのよ。殺人犯の心理もうちの心理も、大抵のことは載ってるから」

「それに見合う収入があればな。俺には少々荷が重い。ネットで調べるよ」

 横向きになった壱八の腕に何か硬い物が当たった。朱良が放り投げたテレビのリモコンだった。

 ニュースへの関心を失ったらしい彼女は、退屈を克服するように両手で自分の脚をバシバシ叩いたり、腕を左右に振ってストレッチじみた動作に入ったりと落ち着きがない。破壊活動の準備運動でも始めたのかと、壱八は気が気でなかった。

「ところでさ、本気でテレビ買い替える気ないの。もっと大画面で観たいんだけど」

 当たり前のように言われたが、買い替えなど以ての外だ。総務省の有識者会議で、放送の将来として国営・民放いずれも維持は困難である旨の発表があったと最近知った壱八に、年老いた泥船に乗る気は更々なかった。

「お前しか観ないのに、何で俺が買うんだ。大体、テレビの将来なんてお先真っ暗だぞ」

「オワコンって言いたいの?」

「その言い方が既にオワコンな気が」

 それを聞いて、彼女はさもおかしそうに破顔した。だが妙だ。眼だけは笑っていない。むしろその黒一色の瞳に宿っているのは、殺意に近い。

 朱良は膝を伸ばして仰向けになり、何を思ったか自分の両脚をスッと上に持ち上げた。畳に対する角度はおよそ六十度。太腿の鍛錬にしては脚全体が上がり過ぎだ。

 重力に従い、暗色のロングスカートがずるずる下がってストッキングを穿いていない二つの向こう脛が露になった。スカートの裾は膝頭に引っかかり、そこで止まった。

 鈍い、大きな打撃音が狭い室内に響いた。彼女の、美しい曲線を描く素足の片方が、渾身の力でもって振り下ろされたのだ。その下には、さっきまで彼女を虜にしていた、黒い小型テレビがあった。

 テコンドーもかくやの、見事な踵落としだった。

「何でだよ」

 滑らかな脚線美に秘められた圧倒的脚力を前に、壱八はそれしか言えなかった。

「どのみちテレビは終わりなんでしょ。なら早めに引導渡しとこうと思ってね。うち優しー」

 仕事を片づけた後のような清々しい表情でペロリと舌を出し、彼女はやっとテレビから脚を離した。

 その姿に、何かの本で見たインド神話の図像が重なった。シヴァ神を踏みつけ、長い舌を伸ばしたカーリー女神の容姿。

 炬燵をただのテーブルに変え、玄関扉の蝶番をも破壊した現代のカーリー女神の凶暴なる踵が、テレビの脳天に亀裂と小さな窪みを創った。使用頻度の低さとヒビ割れ程度の被害で済んだのが不幸中の幸いだった。たかが踵落とし一発で、テレビ内部にまで損傷を与えるとはとても考えられなかったのだ。このときの壱八には。

 今頃になって反発を始めたのか、カーボン製の天板がミシリと音を立てた。壱八には確かに聞こえたが、危害を加えた本人の耳に入ったかは定かでない。膝上まで捲れたスカート裾を足首まで引き下ろした破壊の女神は、可愛らしい欠伸をしながら、

「あーねむ、ちょい寝てくわ。蒲団出して」

「うちは民宿じゃないぞ」

「そりゃそうでしょ。民宿にしちゃ汚すぎるし、キッチン変な臭いするし」

「氷どうするんだよ」

「烏龍茶もう飽きた。いいから蒲団出してよ。三十秒以内。一秒でも遅れたら、次は何蹴ろうかな」

 壱八は今日何度目かの嘆息を洩らした。かつての平穏な日々は、苔むすほど遠い以前に駆け去った。そう思えてならなかった。

「何だよ、脅しのつもりか。テレビが使い物にならなくなったら、困るのはお前だろ」

「別に」左腕を手枕に寝仏の姿勢のまま、朱良はちょいちょいとキッチンを指差した。「蹴るものは他にもあるからね。冷蔵庫とか蹴り甲斐ありそう」

「キックボクサーかよ」

「窓の下、ゴミ捨て場でしょ。テレビ壊れたら、そのまま投げ捨てればいいじゃん。窓から」

「海外アーティストの面白エピソードかよ」

「何それ……」

 壱八は以前観た洋楽ロックドラマーの逸話紹介動画を話し聞かせようとしたが、半分眠っているような不明瞭な相手の返事に、これ以上の会話は無駄だと悟った。

 テレビの方向から今度はバキッと乾いた音がしたが、これも微睡の縁に佇む破壊の女神の耳には届いていないようだった。

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