二、三回瞬いたのち、天井に備え付けられた四本の蛍光灯が同時に光を取り戻し、ダイニングの有様を部屋の主人に伝えた。見たところ、コンロ以外の箇所はどこも異常はなさそうだ。テーブルや椅子の位置も流し台の様子も、外出前のそこと全然変わりがない。

 問題は二つのバーナーを備えたグリル付きのガスコンロ一点に絞られた。未だに燃焼を続けている左側のコンロ。その上の寸胴鍋は長時間の燃焼でかなり熱くなっているようだ。コンロの周辺だけ、ほんのりと明るい。

 サングラスとニットキャップをテーブルに置き、流し台に近づいていった彼は、鍋の中身を見て呆気に取られた。

 蓋の開いた鍋の中には、容量の三分の二ほど入った熱湯と、金属の徳利が一本。湯の沸騰は小康状態を保っているようで、時偶鍋の内面に付着した気泡がモコモコと浮上し、ボコッと間の抜けた音を発して湯の表面で弾けて消える。眼に見えない暖気が顔を撫で、ただでさえ細い男の両眼を刃物で創った切れ込みのように細めさせた。仄かに酒の匂いがした。

「熱燗じゃねえか」

 部屋に入る直前、熱燗が飲みたくなったのは事実だ。いざ帰宅してみたら、無人のキッチンに何故か熱燗の準備が整っていた。これも紛れのない事実だ。彼はさっぱり訳が判らなくなった。

 慌てて膝を突き、流し台下の戸棚を開ける。食用油やら袋入りの調味料やらでごっちゃになった戸棚の一番手前に、日本酒の一升瓶が置いてあった。ラベルに〈南部美人〉とある。彼の実家と同じ、東北地方の地酒だ。が、彼の記憶とは瓶の位置が微妙に異なっている。

「やっぱりか」

 瓶を手に取って中身を確認する。思った通り、少し減っている。

 ニットキャップのせいで頭皮に張りついた癖毛を爪で掻き回しつつ、彼は大急ぎで現状の把握に頭を働かせた。誰かがこの部屋に侵入し、無断で湯を沸かし燗を付けた。あるいは飲もうとした。何者かの仕業であるのは間違いない。熱燗を飲みたいという自分の欲求が超常的な形で具現化したなどという他愛もない迷妄を、鵜呑みになど出来ない。職業柄、それは彼にとって大いなる皮肉でもあった。

 親父が来たのか? 何の連絡もなしに? まさかな、それにしちゃあ部屋の様子が変だ。物の配置がちっとも変わってねえってのは、親父の場合逆におかしい。じゃあ泥棒か? 荒らされた形跡はねえけど、何か盗られたのかも。いや、そんなはずはねえな。ご丁寧に盗み行った先の住人のためにお燗までして、手も付けずに帰っちまうような物取りなんて聞いたことがねえ。一体こいつはどういうことなんだ?

 俯き加減になり、彼はあれこれ思いを巡らせていたが、コンロの火がずっと点けっ放しであるのを思い出し、立ち上がって火を止めた。鍋もトッププレートもかなり熱くなっている。燗の温度も通常の熱燗に比べると相当熱い。アルコールもだいぶ抜けてしまっただろう。

 何はともあれ、冷え切った躰を温めるのが先決だ、という結論に至った彼は、壁際の食器棚からお猪口を取り出し、表面の湯を拭った太い銀の徳利と一緒にテーブルに置いた。

 まさか、毒とか入ってないだろうな。

 椅子に腰掛ける。お猪口の縁一杯にまで酒を注ぎ、湯気諸共クイッと一呑みで空にする。思ったほどアルコールは抜けていなかった。体内で酒の通過した器官がじわじわ熱くなり、寒風で冷たく濡れた鼻腔に特有の芳ばしい香りが広がった。

「あーウマ。毒もアルコールも取り越し苦労だったか」

 取り敢えず酒が空いたら寝室を調べてみるか。盗まれて困る物は皆あそこに置いてあるからな。けど、有名になりすぎるのも考えもんだな。これからも何かと物騒な目に遭うかもしれねえ。戸締まり用心火の用心ってな。そういや戸締まりちゃんとしたっけか……あれ?

 彼はぎくりと眼を剥き、それから己の思いつきを追認するかのように、今や物音の完全に途絶えた静寂の中で、深く瞼を閉じた。

 不法侵入した奴がそこを抜け出すとき、普通鍵なんて掛けるか? 万一そいつがこの部屋の合鍵を持ってたとしても、わざわざ戸締まりしてから部屋を出るなんてことがあるだろうか。そうだ、もっといい考えがほかにあるじゃねえか。そいつは玄関じゃなくて寝室の窓から入り込んだんだ。そうに決まってる。部屋毎に分かれたヴェランダをどうにかして伝ってきて、俺んとこの窓から忍び込む。そういう寸法か。ったくご苦労なこった。おし、なら寝室の窓はまだきっと開いてるはずだ。見に行くとするか。部屋の点検はその後だ。

 不気味に静まり返ったダイニング。彼は眼を見開いた。歪んだ凸面鏡のように周囲の風景をぐにゃりと曲げて映す太めの徳利が、細く開けた視界の焦点にぴたりと合った。

「その前に、もう一杯っと」

 熱燗についての謎はこの際考慮に入れないことにした。熱を帯びた徳利の首を抓み上げ、顔の前に持ってくる。銀色の表面に映る、縦に異様に伸びた自分の丸い顔。凸面鏡が自身の背景を収縮させて過剰に映し出すのと同じように、徳利にも彼の顔以外にダイニング中の様々な物体が映っていた。

 蛍光灯のカヴァー、板張りの壁、食器戸棚、カレンダー、冷蔵庫、電子レンジ、テーブル等々。それら凡てが徳利の表側に、丸みを帯びて張りついている。彼の真後ろにある、闇に閉ざされた小廊下も同様だった。

 引き戸の脇に、誰かが立っている。

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が襲った。その衝撃はすぐさま恐怖に転じた。彼の眼は、徳利に映ったその人物に釘付けになった。

 恐ろしさのあまり、鼓動の音が直に聞こえてきそうだった。幸か不幸か、闖入者の存在を諾々と受け容れたり、もしくは酒の肴にするほどにはまだ酔いが回っていなかった。アルコールの摂取量も少なすぎた。

 いつの間にか彼の背後に立っていたその人物は、真っ黒の服に身を包んでいた。鏡面の歪みのせいで形状は明確でなかったが、どうやら丈の長い外套のようだ。顔は、良く判らない。髪型も定かでない。何か帽子みたいな物を被っているようだ。顔の下半分がいやに白い。肌の白さではない。口にマスクを嵌めているのだろうか。当然、性別も確認できない。

 なんだ? なんなんだ? 誰なんだよ、お前誰だ? どうしてそんな所にいる? 誰だお前は?

 彼はもう一つの可能性、お誂え向きに熱燗を拵えてくれた風変わりな侵入者が、まだこの部屋のどこかに潜んでいるという可能性をすっかり失念していた。

 なんでそんな所にいるんだ? お前泥棒だろ? だったら俺が帰ってくる前にトンズラするのが普通だろ? 何故逃げない? 何で俺の後ろに阿呆みたいに突っ立ってんだ? お前見つかってんだぞ? 俺にはお前がそこにいるのが判ってんだぞ? どうして逃げようとしない?俺の視線に気づいてないのか? どうして俺の後ろにいる? どうしてだ?

 彼の頬を幾筋もの汗が伝い落ちた。胃を灼くアルコールの熱気のせいではない。

 どうして声が出せない? どうして俺は、後ろを振り向くことが出来ない?

 恐怖は膨れ上がる一方だ。物言う生物が皆死に絶えたかのような、室内の果てのない静けさが、その感情に拍車を掛けた。

 漆黒のコートを纏った謎の人物が、無言のままゆるりと片手を上げた。単に手を上げたのではなく、何かを振り翳したのだということに気づいたとき、彼は極限まで見開かれた瞳を漸く徳利から逸らし、ありったけの勢いをつけて躰毎後ろに振り向いた。

 彼の時間はそこで停止した。


 ダイニングの床に倒れ落ちた徳利は、口から洩らした芳醇な透明の液体を床材にトプトプ浸しつつ、かつて部屋の主であった者が謎の侵入者になぶられ蹂躙される様を、ただその銀に輝く身に映し出すのみだった。

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